病魔根絶計画~後退コンプレックス

作者:五月町

●毎朝、計っていました
「……出せ……ここから、出してくれ」
 隔離病棟の一室。外から施錠された部屋の扉をどん、どん、と内から叩く音は、次第に強く響きはじめる。
「血が、要るんだ……未来永劫生え際の後退の心配なんてしなくていい、豊かな髪を持った奴の血が、今すぐ欲しいんだよぉ!」
 叫ぶ青年の額は、確かにちょっと──いや、実際かなり──頭の頂へ向かって退き始めているような。
 青年は血走った眼で扉に縋りつく。
「お前らには分からないんだ……初対面の女の子たちの視線が顔より先にデコに行く男の気持ちがー! 仲良くなって告っても『ごめんね、ちょっと……』ってデコをチラ見されてフラれる俺の気持ちなんて、分からないんだぁ──!」
 どんどんどんどん。
 狂おしい音、哀切な声に、扉の向こうに立つ弟は痛々しそうに顔を歪めた。
「兄貴っ……すぐ助けてやるからな。もうすぐケルベロスが来て、病気を治してくれる。そうすればここから出られるから……」
「うるさいうるさい、弟のくせにお前だけフサフサの髪しやがって……! お前の血から啜ってやる! そうすれば俺は生まれ変われるんだぁ──!」
「ごめん、ごめんな兄貴っ……!」
 ──額が狭く豊かな髪を持つ優しい弟は、涙ながらにその場に崩れ落ちたのだった。

●ひとごとじゃない
「わぁ、なんか……わかる……。男には切実な問題だよね……!」
「そ、そうか。頼もしい反応だな」
 思いがけず力強い茅森・幹(紅玉・en0226)の共感に、グアン・エケベリア(霜鱗のヘリオライダー・en0181)は眼を丸くした。
「おデコはネタにされやすいし、体のコンプレックスを笑われるのって辛いよ。俺も将来どうなるのかなぁ……」
 掌で額をガードし、どこか遠くへ視線を投げる幹の背をぽんと叩き、グアンは各々思うところありげなケルベロスたちを見渡した。
「何にしても、共感してくれる奴が多いってのは患者にとっては救いになるかもしれんな。先にもあったが、今回は病魔の討伐依頼になる。行ってくれるか?」
 医師たちや病院勤めのウィッチドクターの努力により、体毛が失われることへの恐怖を病的に駆り立てる病『ハゲロフォビア』に罹患した患者たちが今、ある大病院に集められているのだという。
 ケルベロスに委ねられたのは、その中でも特に症状の重い患者の病魔だ。これらを一体残らず倒すことができれば、病は根絶され、罹患していた患者たちは全快する。今後新たな患者が現れる事もなくなるだろう。
「病魔の戦闘能力だが、頭部から放たれる二種類の光を使い分ける。それと、消耗が激しくなると踊って回復するようだ」
「……頭部から、っていうのがなんか色々と傷を抉りそうな仕様だね」
「必要そうならフォローを頼むな」
 グアンの顔は神妙だ。
「それともう一つ。到着したら、討伐前に患者たちを訪ねてくれ」
 看病や慰問などを行い、彼らを元気づけることで、一時的にこの病魔への『個別耐性』を得ることができるのだという。
「患者たちの話を聞いて、恐怖を和らげてやってくれ。ハゲても大丈夫だと思わせることができれば、あんた方の戦いにも患者たちの今後にもプラスになるだろうさ」
 病魔はデウスエクスではない。与える被害は遥かに軽度であり、緊急性の高いものでもない。それでも、とグアンは同志たちを見渡した。
「苦しんでる患者を見捨ててはおけんからな。心の持ちよう一つで変わる未来もある。兄さんらが今後に希望を持てるよう、よろしく頼むな」


参加者
真柴・勲(空蝉・e00162)
フェクト・シュローダー(レッツゴッド・e00357)
花凪・颯音(欺花の竜医・e00599)
閑谷・レンカ(アバランチリリー・e00856)
鮫洲・蓮華(ぽかちゃん先生の助手・e09420)
月井・未明(彼誰時・e30287)
レティ・エレミータ(彩花・e37824)
龍道寺・麟華(絶対正義のメガセレブお嬢・e41604)

■リプレイ


 鬱々と沈んだりさめざめ涙に暮れたり。
 比較的軽症の患者たちの集められた大部屋を覗き込み、月井・未明(彼誰時・e30287)は思わずぽつり、
「……これは、難敵だ」
「難敵だね……」
 花凪・颯音(欺花の竜医・e00599)も痛ましげに顔を歪める。病を絶やすは医師の本懐とは言えど、なんとも表現し難い悲哀をばら蒔く病魔である。
「……薄毛なァ。別段気にした事はなかったが」
「勲くん、漢だね……」
「しっかりしろ幹、呑まれるな。まぁ、三十過ぎの俺も他人事じゃねえか」
 額を押さえたままの茅森・幹(紅玉・en0226)の傍ら、真柴・勲(空蝉・e00162)は普段は下ろしている後ろ髪を括った。なんとなくだ。他意はない。ありませんとも。
「いやー……これ正直ね、しんどいと思うのよ。誰だってなりたくてああなったわけじゃないでしょ」
「やけに共感するな」
 しんどいわ、とまるで自身のことのように繰り返す閑谷・レンカ(アバランチリリー・e00856)は、知己の問いに頬に手を当てる。
「これって、女性で言うところの肌荒れみたいなもんでしょ」
 覚えがある。他の身嗜みにどんなに気を配ろうと、美しい肌でないだけで台無しと見做す眼差し。本人には責任がないとしてもだ。
「本当しんどいわ……」
 眼差しが少しばかり遠くなるのも仕方ない。ご容赦頂きたい。
 颯音は声を潜め、
「因みにはげ……こほん、もとい患部の後退は遺伝も関わるらしいけれど、幹くん、三親等以内の頭部は無事かい?」
 患者たちに深い共感を送りながら、それなんだよね、と幹は頷いた。
「じさまはふさふさなんだけど、残念ながら血の繋がりないんだよね。俺もああなりたい……!」
「……そうか。強くイキテ」
 叩かれる肩、くっと顔を背ける幹。その傍ら、
「ともかく、励ませばよろしいのですわね?」
「よしっ、思いっきり明るくいってみよー!」
 一片の迷いもない足取りで病室に突撃するは龍道寺・麟華(絶対正義のメガセレブお嬢・e41604)とフェクト・シュローダー(レッツゴッド・e00357)。なんだなんだと顔を上げた患者たちの前に、つやつやと麗しい額を堂々と晒した麟華が仁王立ちする。
「よろしいですか、おデコを笑う者はおデコに泣きますわ! そんな者たちの言うことを気にするものではありません!」
 ぽかんとする患者たちに、滔々と語り聞かせるのは堂々たる額──おデコを馬鹿にされた過去の話。
「き、君もそんな思いを……それなのにそんなに堂々として」
 感じ入る若者たちの傍ら、どんより俯く中年男性を覗き込むフェクト。
「ひっ、み、見ないで……」
「どうして? 私はつるつるの人って好きだよ神様っぽくて!」
「へ……? か、神様……?」
「神様って大体白髪だったりつるつるだったりしないかな? その方が偉そうでいいと思うっ!」
 疑心暗鬼に苛まれる男にも、きらきら輝くフェクトの瞳に嘘はないことは知れる。神様に焦がれて止まぬ見習い少女の笑顔が眩い。
「見て見て、今日はこんなのを持ってきたよ~!」
「……猫のマスコット?」
 鮫洲・蓮華(ぽかちゃん先生の助手・e09420)がにっこりと差し出したのは、フェルトの猫。
「これ、ぽかちゃん先生をブラッシングした時の毛玉で作ったんだよ。こんなに抜けるの、すごいでしょ?」
 頭上にハテナマークを並べる男性に、ウイングキャットを抱き寄せてみせる。
 夏毛が抜け、ふわふわの冬毛に包まれたぽかちゃん先生のように、抜け毛は季節でも起こることだ。つまり、
「今はその季節なんだよ! まだ望みはある! きっと!」
「お、おお……?」
 曇りのない笑顔に押され、なんとなく同調する男性。
「そ、そんな気休め信じない! 俺は……このままハゲて、人に蔑まれながら生きていくんだ……!」
 わっと泣き出す別の男の手に、そっと触れたのはレンカ。
「──お辛かったでしょう……」
「は……」
 未だかつて自身に向くことなどなかった(と、思っていた)美しく誠実な眼差しが男を混乱させる。一体何が起きているのか。
「ありのままを認めて、そんなこと気にしない、って笑ってくれる人がいたら、貴方も辛くなかったでしょう。馬鹿にされたり蔑まれたり、……辛い思いをしてこられたのよね」
 その言葉にもやはり冷やかしの色はない。これまでの憂き目の方が嘘のようで、毒気を抜かれる患者たち。
「……お、お前らみたいな髪に悩んだことなさそうな奴らに、何が」
「うーん、そうだなぁ……まぁ、俺は無精者だから」
 頭を掻く勲。身嗜みに然程拘らない自分と違い、見え方や見せ方に気を遣える者ほど劣等感は強いのだろう。顔のパーツや身長や、レンカの言う肌もそうだ。
 けど、と強くも優しい手が患者の背を叩く。
「上手く行かない事を全部そいつの所為にしてたらキリがねえだろ。それも個性だと受け止めてくれるイイ女ってのは、必ずいるからよ」
 もう覚えがあるんじゃねえか、と並べた視線の先には、偏見なき眼差しの女性たち。こくり頷き、未明は一人の患者の傍らに屈み込んだ。
 頭頂の淋しさは、未明には別段気になるところではない。過去にあったことも事実は事実として、彼らはきっと自身が気になって仕方がないのだろう。
 そうだねと相槌を打ち、レティ・エレミータ(彩花・e37824)は穏やかな眼差しを添わせる。
「でも、気にしすぎるからこそ目立ってしまう事もあるし……自信の無さが、君の魅力を隠してしまっているんだと思う」
 未明はしみじみと顎を引いた。
「まあ、気にするなとは言わんよ。然し、気の持ちようというものはある。いまのきみを好いてくれるひとを大切にできないのは、勿体ない」
「今の自分を……?」
 穏やかに諭す未明とレティの肩に手を置き、颯音が柔らかな頷きを並べる。
「こんな風に、気にせず貴方の本質を見てくれる人も必ずいるよ。貴方を今も心配する人だって──ほら」
 ケルベロスだけではなく、病室の外からおろおろと見守る家族たちを示す。患者たちの表情がほんのり晴れた頃には、ケルベロスたちは自分たちを守る何かが身に宿ったのを感じていた。
 ここはもう大丈夫だろう。残るは──、
「病魔だけだね。準備は万端だよ!」
 ぽかちゃん先生とハイタッチする蓮華。肩に飛び乗ったボクスドラゴンのロゼの喉をくすぐって、颯音も誓いを口にする。
「ああ。哀しい病は必ずや、僕らの手で根絶しよう」
 ──元凶そのものが消えるものではないにしても。うん。
 眼差しを引き締めて、ケルベロスたちはその部屋へと向かった。


「ケルベロスの皆さん……! 来てくださったんですね!」
 どうか兄を、と懇願する弟の背を次々と叩き、ケルベロスたちは病室に飛び込んだ。
「広いおデコでも輝けるところをお見せしますわ!」
 動揺する患者の前に立ち塞がる麟華の艶やかな額から、カッ、と閃光が走った。
「ゴージャス! プレシャス!! アンビシャス!!! 額に輝くサンシャイン──おデコプリンセス龍道寺麟華ですわ!!」
 煌めくエフェクトを纏った華麗な変身は眩しかった。あらゆる意味で。
「今だ! 出でよ病魔──その人から離れてもらうんだよ!」
 蓮華の声が患者を縛り上げた瞬間、それはぶわりと分離する。電球の如き頭部にテカテカと光を笑わせて。
「蓮華ちゃん、患者さんをお願いっ!」
「うん、任せて!」
 倒れかける患者を抱き止め、蓮華が逃れる。その間に、フェクトはぽかちゃん先生に続き、身軽に敵へ飛びかかった。
「今までたくさんの人を苦しめてきたんだ。その人たちの分まで、沢山殴る!」
 杖の扱いは手慣れたもの。熟達の一撃が早々に頭部にヒビを入れると、ぐるりと巡った颯音の竜鎚が気を撃ち出す。
「頼むね、ロゼ……あ、あれっ?」
 花の香の癒しをふわりと伸ばした小竜は、颯音の足にしがみついて隠れている。勇敢なる獣もハゲはちょっと怖いお年頃らしい。
「大丈夫、ロゼ! 病魔は接触感染はしないから! 恐れる君も可愛いけど!」
 そこへ容赦なく襲いかかる眩い閃光。患者から得た耐性のお陰でさほど痛くはないが、
「うっ、頭ではただの攻撃と分かっていても受けたくない……!」
「……ち、ナメた技使いやがって」
「そうだな。だけど、こちらは遊ばないぞ」
 未明の淡い眼差しが残像になる。地を蹴る足に閃いた熱が敵の上で爆ぜると、理の力で練られた星のオーラを蹴り込むのは勲。
(「──待っていて。必ず、なんとかしてあげるから」)
 眩しさに細めたレティの眼差しは、初依頼ながら慎重に仲間と敵の様子を推し量っている。掌に光り輝く果実を作り出すと、視線重ねたレンカも同じ煌めきを手中にひらいた。
「さあ、どーんとやっちゃって!」
 二人の連携が受けた傷を拭い、仲間を守る術をより広域に施した。加護を得た麟華は高らかに笑う。
「オーッホッホッホ!! ハゲフラッシュなど恐るるに足りませんわ! 病魔もおデコを馬鹿にする者も、己の矮小さを思い知りなさい!」
 溢れる自信は高貴なる光輝を生み、麟華の額から一直線に放たれる。
「……つ、強い」
 何がってそのメンタルが。感じ入った幹にレンカの声が飛ぶ。
「頼むわよ、幹! 油断禁物!」
「了解っ」
 猛き神の矢でそれに応えると、患者を逃がし復帰した蓮華の白衣が前線に翻る。
「お待たせ! よーし、凍っちゃえ!」
 青く冴えた光線が、ゆらゆらと揺れる敵を貫いた。ぽかちゃん先生の飛ばすリングの軌道を追って、フェクトは敵の頭上に二本の杖を振り下ろした。触れた先から先へ迸る苛烈な電流。
 不意に敵の足が歌い出した。妙にキレの良いタップダンスは回復を呼び込むものであるらしいが、
「……何かナメられてる様で腹立つなオイ」
「……っぷ」
「レンカ、お前今……」
「いいえ、至って真面目よ!」
 笑いを押し殺すレンカを横目に、勲は叩きつける鋸刃で力強く傷を抉る。壁に足場を借り、天井すれすれから落ちる颯音の流星の蹴りが頭部の傷を広げた。
 ダイジョウブ、傷で曇ればそんなに眩しくない。……たぶん。
「……なんでタップダンスなんだ」
 あまり深く気にしてはいけないのだろう。自分をそう説き伏せ、レティは備えてきたグラビティから一つを選び取る。足許に編み上げたオーラの星は、華やかな軌道を描き戦場を駆け抜けた。
「患者の彼はきっと随分、思い悩んでいたんだろうね」
「そうだな。これで一つ、病が消えるなら──おれは諦めない」
 思いを並べるのは未明。目の前に病があるのなら、未熟な身なれど全力を尽くす。
 梅太郎、と呼ぶ名にひと声応えて風吹かすウイングキャット。癒しを委ね、未明は杖を小さな友へと変じた。駆け抜ける小獣が未明の思いを敵にぶつける。
 続き紡がれる二人の技は、攻撃の形をとった優しさだ。目を細めた幹が、弓構えた肘でちょいっとレンカを突つく。
「おねーさん、震えてるよ」
 凛と据わった姐御肌、決して恐怖からでないことは明白である。笑う幹に自棄のように叫び返す。
「ああもう、真面目に戦ってるのに何かしらねこれ! あいつがシュールすぎるのよ!」
 七色に咲く煙幕が前衛の力を高める。戦場は不馴れな麟華は轟音にびくりと身を竦めるも、両腕に確りとバスターライフルを抱え込んだ。
「ええと……こう、ですわねっ! きゃあ!?」
 強く鮮やかに敵へと駆け抜ける二本の光線。その反動でころんと後方へ転がった麟華を庇うように、蓮華たち前衛が射線を塞ぐ。
「もう一息だね! ぽかちゃん先生、キャットリングだ!」
 厳しい鍛練のもと生み出された気魄の一撃。蓮華の力を借りたキャットリングはくるくると不思議な軌道を描き、病魔を追い詰める。
「人は誰にだって大事なものがあるんだ。それを奪っちゃうなんて、許されないことだよ!」
 不条理な不幸なんて見過ごせない。心優しい神様見習いは、天罰のような苛烈な一撃を振り下ろす。
 対抗するように放たれた光線は、テカテカとどこまでも煩く眩く、弱まることを知らない。未明に庇われた颯音は、咄嗟にロゼと抱き合ってしまう。
「なんで二種類も頭から!? 悪意すら感じるよね……!」
 けれど、攻撃に転じるのもまた早く。構える刃の切っ先は揺れることなく正確に、竜を思わせる紋章を刻みつける。
「慈恵たるか、災禍たるか、審判下すは貴き汝が御剣──聖断せよ!」
 その禍々しい輝きに、勲は右腕に渦巻く重力の鎖、そこに集約する密度ある雷で続く。
「黙って擲らせろ。……あの兄弟にも他の奴らにも、これ以上手出しはさせねえ」
「お終いよ。病魔は根底から、根っこから! 根絶してやるんだからね!」
 爆ぜる衝撃に詠唱を重ねたレンカも、強気に言い放つ。──背より顕れる火竜の、全てを灰と化すかのような焔とともに。
「レンカ、根っこ根っこってお前……」
「いいえ、ただ強調してるだけよ!」
 漫才のような遣り取りに瞳だけ緩め、未明は地に焔を滑らせた。受けた傷なら、駆ける間にも梅太郎が癒してくれる。
 鮮やかな蹴撃が敵を突き倒した瞬間、レティは振り向く未明の眼差しに呼ばれた。きみで終わり、そう動いた口許に頷いて、地を蹴る。
「大人しく退陣願うよ、ハ……──もとい、病魔さん」
 魔力は星に。鋭く蹴り出したフェアリーブーツの爪先から、力は伝う。
 渾身のシュートに穿たれた途端、眩い頭部から崩れるように病魔は消え去ったのだった。


 そして、全てが片付いた後。
「症状が出た事で、様々な憂き目に遭われたと思う。心中お察しするよ。だけど、もう大丈夫だ」
 優しく語りかける颯音の声にも、弟の傍らにへたりこんだ青年はなかなか顔を上げようとしなかった。
「患者さん、よければ名前を聞いてもいいかな」
 控えめなレティの問いにびくり、肩が揺れる。
「……たか」
「え?」
「ゆたか……」
 訪れた沈黙は蚊のなくような声を拾う為だったのだが、
「……ちくしょ──! 笑え、いっそ殺せぇぇ!」
「兄さん!」
「ま、待って。落ち着いて、気にしてるのは貴方だけよ……!」
 何かを勘違いして唐突に錯乱する患者を、レンカが慌てて宥めにかかる。落ち着いたところで、レティはそっと豊の顔を覗き込んだ。
「私は、君が気にしているようなことは気にならない。でも君にとっては、とても重大なことなんだね」
「つるつるもいいと思うんだけどなぁ」
 容赦も遠慮も屈託もなく、だからこそ本気と知れる調子でフェクトは言った。そうだなぁと腕組みした勲は、
「髪がなくても格好良い男なんて、世の中ごまんといるぜ? 好きな洋画の男優なんて、大抵短髪かスキンヘッドだしよ」
 いずれ頭髪が気になる時がくれば、いっそ潔く男らしくああしてしまおうかと笑う。幹の尊敬の眼差しには苦笑い。
「ああ、髪に清潔感があるのは好感度高いと思う。最近の坊主は格好いいぞ」
 こくりと頷き、未明は豊を見つめた。
「髪があった方がいいと言うのなら、かつらもあるな。女性が化粧をするのを恥ずかしいと思うか?」
「そんな、ことは」
「だろう? 身嗜みの一環だからな。男性のかつらだってそれと同じだよ」
 髪型ひとつで気が晴れるのなら、人生を楽しむ為に、何を憚ることがあるだろう。
 ペテス・アイティオ(また笑顔を取り戻すといいな・e01194)は心からの同意を示した。今までの人生、そしてこれから笑って過ごす人生の重みに比べたら、多少の髪の増減など些細なこと。
 未明はごく淡い笑みを湛え、
「失った物を数えるばかりではなく、これから出来る事に目を向けるのもひとつの手だろう」
「そうだね! 見た目も努力も、自分から否定はしない方がいいよ、きっと。その方が好きって人もいるんだから!」
 ねっ、と笑うフェクトと頷く未明とを見比べて、豊はぽつり、
「て、天使か……」
「えっへへー、天使じゃなくて神様なんだけどねっ!」
 増毛祈願の『ゴマモリ』ことゴッド・お守りを握らされ、豊の表情は少しだけ上を向いた。レティはほっと胸を撫で下ろし、目を細める。
「うん。外見だけで君の魅力は決まらないよ」
 女性からの視線も、気にしているからそう感じるだけかもしれない。──そも、外見だけで人を判断する子なんて君に相応しくない。
「それもそうよね」
 目を瞠るレンカに微笑んで、
「私も色々な人を見てきたけど、自分らしく堂々と生きている人は、外見なんて関係なく格好良いと感じたよ」
「こ、こっちにも天使が……」
「ふふ、そんな素敵なものじゃないけれど。ほら、顔を上げて笑って。──うん、素敵な顔だ」
 俯いてしまうのは勿体ないと肩に触れ、視線を促した先には弟の姿。
「家族思いの優しい弟じゃねえか。外目しか見れない輩より、ずっとお前の良さを分かってる。お前の味方だ」
 大事にしてやれよ、と勲が叩いた背は震えていた。ごめん、と繰り返す兄を抱いて、弟も泣いていた。
「ありがとうございました……!」
 晴れやかな笑顔は今は一つしか見えない。けれどこれからは、きっと並んで歩める筈だ。
 深い絆すら乱す病魔は、もう二度と現れないのだから。

作者:五月町 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2017年11月28日
難度:やや易
参加:8人
結果:成功!
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