ことのはと雨の宮

作者:五月町

●雨の宮の主
「こと葉さーん、まだ残りますー?」
 階下から聞こえる同僚の声に、初老の司書は穏やかな声を張った。
「もう少しね。奥の棚の整理が終わっていないのよ」
 またですか、好きですねぇ。返る声が面白そうに笑っている。
「ええ、本もこの仕事も大好きですよ。今日みたいな雨の日は特に」
 滴の音に鎖された、水底の宮のような私設図書館。その中で、宝物のようなことのはの並びを辿る幸せといったら──。
 笑い声のギブアップが届き、司書は唇を微笑みで噤んだ。
「じゃあお先に失礼しちゃいますね、お疲れさまでしたー!」
「はい、お疲れさま。また明日ね」
 こうして夜の図書館は、司書ひとりの宮殿になった。

 棚の整理を終えた彼女は、最後に古びた一冊の本を手に取る。
 赤い表紙に、擦りきれて読めない題字。古い紙の甘く乾いたにおいと、記された言の葉の羅列。
 懐かしむようにゆっくり辿り、棚へ戻そうとしたその手を、何かが乱暴に掬い上げた。
「あっ……!?」
 取り落とした本をひと足早く受け止めた、二つの手。それは突然、司書の目の前でそれを引き裂いた。
「なんてことを……!」
 わざとらしく落とされる本の残骸を掻き集め、司書は狼藉者たちを睨み付けた。ただ人ならざる出で立ちは目に入っていたが、それどころではない。
「本に何の罪があるというのです。皆が大切に扱ってきた本なのですよ。それに、これは──……あの方と、私の」
 震える体に留まる彼女の怒りと悲しみを、二つの鍵が貫いた。
「私達のモザイクは晴れなかったねえ。けれどあなたの怒りと、」
「オマエの悲しみ、悪くナカッタ!」
 微笑む対の魔女たちの名は、ディオメデスにヒッポリュテ。
 倒れ込む司書の悪夢から本の蝶が孵り、文字を溢しながら飛び回る。
 ──たいせつなほんなの。
 ──そう、あのかたとのたいせつな。
 ──あなたに、このきもちがわかる?
 ──わからない、わかるはずない。
 無邪気な少女たちのお喋りのように、ひそひそと囁き合いながら。

●雨中一戦
「『雨宮文庫』、詩集を中心に集めた図書館だそうだ。そこで居残り仕事をしていたひとりの司書が、魔女たちに襲われるらしい」
 降り出した雨はまだ弱い。肌を掠めて落ちた雫に暖かな色の耳をぴくりと震わせて、左潟・十郎(風落ちパーシモン・e25634)は傍らのドラゴニアンに目配せをする。
 険しい口許を微かに緩め、グアン・エケベリア(霜鱗のヘリオライダー・en0181)は頷いた。
 誰かの大事なものを破壊し、生じた怒りと悲しみを奪って新たなドリームイーターを生み出す厄介者の魔女たち。グアンによれば、彼らが今回目をつけたのは、図書館の所蔵する一冊の本だという。
「個人の持ち物でもないのに何故、と思ったんだがな。十郎の調査のお陰で合点がいった」
「司書さんの姓も雨宮というそうだ。この図書館の創設者と縁続きらしいな」
 おそらくは図書館の全てが彼女の持ち物でもあるのだろう。その中の一冊、彼女にとっての『特別』が、魔女たちの嗅覚に捉えられた。
「あんた方には、二匹の夢喰いの討伐を頼みたい。本の蝶とでも言ったもんか、今は図書館の中を飛び回っているが……」
「ああ、時間が経てば外に出ていくだろうな。――これ以上好きにはさせない」
 頷く仲間たちが頼もしい。グアンは小さな目を細め、続ける。
「二匹が互いを補うような戦い方に長けていて、大きく離れることはなさそうだ。連携はあんた方も得意とするところだろうが、気をつけてくれ」
 攻撃手段は、鱗粉のように降らせる小さな文字たち。攻撃的な怒りの蝶は狼や熊といった獰猛な獣を、後方をたゆたう悲しみの蝶は小鳥や蜂を文字から作り出し、敵を襲わせる。
 戦場は古い木製の書架が整然と並ぶ図書館の中となる。広さには乏しいが、戦場に慣れたケルベロスたちにはさほど障害とはならないだろう。ただし、内部の被害を抑えるのは並みのことではないはずだ。
「どんな由縁があったのかは分からんが、大事なものだったんだろうな。壊されたものは戻らないし、司書さんはきっと胸を痛める。……だが」
 戦いを好まず平穏を愛する、心優しきウェアライダーは顔を上げた。ああ、とグアンも肯定する。
「おまえさん方の思いが救った心もあったよな」
 必ずそうなるとは限らない。けれど引き裂かれた本の中にも、希望という言の葉はまだ残されているかもしれない。
 頷いて、十郎は静かな眼に仲間たちを映した。
「皆の思いも貸して欲しい。――助けに行こう」
 還り来る感情に、慈しみ深い心が潰されることのないよう、ただ、懸命に。


参加者
ルビーク・アライブ(暁の影炎・e00512)
火岬・律(幽蝶・e05593)
レンカ・ブライトナー(黒き森のウェネーフィカ・e09465)
ザンニ・ライオネス(白夜幻燈・e18810)
左潟・十郎(風落ちパーシモン・e25634)
英桃・亮(竜却・e26826)
月井・未明(彼誰時・e30287)

■リプレイ


「──お邪魔する、わ」
 アウレリア・ドレヴァンツ(瑞花・e26848)は薄桃香る花のような姿を素早く図書館の中へ滑り込ませた。
 返事のない建物の中に、火岬・律(幽蝶・e05593)は意識を澄ませる。踏み込んだ途端、変じた空気──肌でないものに触れくるような密な気配に瞬きをひとつ、それでも潜む敵への警戒は怠らない。
「一階には居ないようです」
「二階っすね。司書さんを巻き込みたくないっすけど……!」
 顔を顰めつつ、ザンニ・ライオネス(白夜幻燈・e18810)は書架の間を駆け抜け、階段へ辿り着いた。
 吹き抜けを駆け上った先の書架に、ケルベロス達は持ち込んだ防火カーテンを片っ端から掛けていく。
「……魔法の炎に効果があるかは分からないが」
「ああ、ねーよりマシだ! 何もしないで後悔するよりずっとイイよな!」
 英桃・亮(竜却・e26826)の独白に、レンカ・ブライトナー(黒き森のウェネーフィカ・e09465)はにっと笑う。途切れず張った意識の先を、音もないはばたきが横切った。
「! お出ましだぜ!」
「ああ。これ以上は奪わせない──退く気は、ない」
 決意に背を押され、ルビーク・アライブ(暁の影炎・e00512)は踏み込む靴音で、重ね来た日々の続きをここに刻み込む。立ち上り広がりゆく風が前に立つ仲間に加護を施すと、
「テメーが『悲しみ』の蝶か。ほら、こっちだぜ!」
 逃れることなく向かってくる本の蝶を引き付け、レンカの刀が月の斬撃を刻みつける。束ねた二弓に矢を番えたアウレリアが、淡い眼差しを凛と締めた。
「一番広いのは……吹き抜け?」
「ああ、誘導するぞ」
 翻る黒羽織を潜り抜ける純白の光線で亮が引き付けるのは、『怒り』の蝶。
 貫かれたページから溢れ落ちる文字の鱗粉が狼を象り、咆哮で包囲するケルベロスたちの動きを縫い止めると、今度は悲しみの蝶が妖精を作り出し、回復と魔力を乗せていく。
「──お願いします」
「はい、抑えは任されたっす!」
 律の練り上げた気が悲しみの蝶を貫く間に、ザンニは怒りの蝶の進路を過り、刃の如き蹴撃で注意を逸らす。
 左潟・十郎(風落ちパーシモン・e25634)が杖先を引けば、銀の一線はたちまち仲間の前に盾を現した。見上げた視線を受け止めて、最後のカーテンを書架に掛けきった月井・未明(彼誰時・e30287)は壁を蹴り、白いロップイヤーを揺らして跳び降りる。
「ひとは死ななければ治せるけれど、本はそうもいかん。──どちらも守りたいから此処に来たんだ」
 金銀の水引花に数珠の石、蜜漬けの花と月夜草。幻想と薬学とを送り火で融かした魔法薬が、敵へ向ける未明の掌の先に夜藍の雫を結ぶ。
「ふれて。見えぬものこそ──」
 少年めいた薬師見習いの護りの力が、触れたルビークの身に流れ込んだ。夜の色持つウイングキャットの梅太郎も、並び立つザンニへ浄めの風を巻き起こす。
「頼む、アリア。今のうちに」
「うん──待ってて、亮。ザンニも。すぐに、行くから」
 抑えの二人を気遣うアウレリアの視線。胸許から彼方へ、何かを押し出すように翻した指の先で、悲しみの蝶が内から爆ぜる。ひゅうと口笛溢し、レンカが渾身の力で放ったバールも、ふらつく蝶を軌道に捉え叩き伏せた。
 倒れかかる蝶と書架との間に身を割り込ませ、ルビークは向ける銃口で文字を溢す蝶を捕捉する。
「守る為に此処に居る。たとえ、どんなに救いのない未来だとしても」
 重力を帯びる光線に、左腕に躍る焔が注ぎ込まれる。鋭く輝く銀の瞳が、活路を探すように激しく揺れていた。


 積もりゆくダメージが、悲しみの蝶の軌跡を揺らしていく。
 仲間から得た加護が、静かなる雷を宿した律の一閃をより力あるものにする。
 見えざる守りを斬り崩すその光が静なら、十郎がレンカへ向けた輝きは動。内から鼓舞する雷撃に打たれ、少女は元気な笑みを返す。
 溢れ出した文字たちが、ぶわりと怒りの蝶を包んだ。天井に届くほどの竜と化し、レンカを庇ったザンニに噛みつくと、その影から文字の小鳥が襲いかかる。そして、
「──梅太郎っ」
「みゃあ!」
 小鳥が融けるように蜂へ変貌する様を、未明は捉えていた。続く一撃がザンニを訪い来る前に、今度は梅太郎が庇う。
「二人とも、傷は」
「……ちょっと炎が熱いっすけど、なんのこれしきっす! これ以上本がやられるよりマシっすよ……!」
「──待ってて」
 竜の炎を負ったまま、魔の宿る拳で気力を喰らい返しにいくザンニ。未明は身の裡から込み上げる気力を胸許に束ね、その背へ贈る。清らかな水のような輝きが、苛む炎を打ち消していく。
 梅太郎が翼に呼ぶ風で自ら毒を浄化する間に、
「こんな形で本の中身が見られるとは。……だが生憎、此処は舞台じゃない。文字に還って貰おうか」
 触れた亮の指先が床を揺らし、銀光放つ刃の数々を招いた。怒りの蝶めがけ突き上がったそれらが敵の加護を削ぎ落とすと、背面ではルビークが古の言の葉を紡ぐ。体から立ち上った光を一条に集め、悲しみの蝶を貫いた。
 ──……あの……方の、……いせつな。
 囁きの残響を残して蝶が消え失せる。
「『悲しみ』は持ち主へ還った。後はお前だけだ」
 強い視線の先に舞う蝶は変わらずひらひらと、けれど敵意をより鮮やかに発露する。
「ああ、『怒り』も還してやろう。お前の在るべきところは此処じゃない」
 地を指す杖で、十郎は加護の光を喚ぶ。攻撃を担う仲間の思いが揺らがぬように、受けた傷に膝が竦まぬように──前衛を支える盾の力を一段高めれば、恐れ知らずに踏み込むレンカの足どりもより確かなものになる。
 本に、司書。夢喰いに傷つけられているのはそれだけじゃない。狂行に心痛める仲間たちだって同じことだ。だから、
「人を傷つける意地悪な奴は、灰かぶりのペットがお仕置きするぜ? 『ああ、お優しい御姉様、そんなに喜んでくださるなんて──血の涙で前が見えぬほど!』」
 紡ぐ言の葉は常の通りに。しかし『冷徹な灰かぶり』を演じるレンカが微笑めば、現れた白鳩たちが敵の意識を突つき出し、狙いを定め難くする。
 お待たせ、と恋人に微笑んだのは一瞬のこと。傷から溢れ落ちる文字から感じられる敵意に、アウレリアは哀しげに瞳を震わせ、弓取る手を強く握り締めた。
「書に記された美しい言葉を、そんなふうに利用しないで」
 恋う人の色に半身を染めた美しい弓は『真珠月』。もう一つ弓を添わせれば、引き絞る弓がきりりと歌う。
 真直ぐに駆け抜けた一矢に穿たれ、重たげな表紙の翅がぐらりと傾ぐ。未明は未だ見ぬ司書を思いながら、両手を空に翳した。
「おれは、伝えたいことがある。邪魔させないし、もう何も奪わせない」
 ──それは仲間の命も同じこと。
 外の雨からひっそりと逃れた図書館の中に、暖かな癒しの雨が染み渡っていく。


 無彩色の亮の胸に、一際鮮やかに熱が咲いた。広がる焔に視界を染め、地に触れれば、首を擡げたのは闇に染まる竜。
 白の吐息と巨翼の影から踏み込んだ『逆焔』の一閃が敵の気力を刈り取ると、目を細め狙い定めた律も命を喰らう気の弾でそれに続いた。
 わからないわ。ゆるさないわ。独り囁き続ける蝶は、くるりと天井を蹴り翻るザンニの蹴撃にもまだ墜ちない。
「粘り強いっすね……──っと、火岬さん!」
 身構えた律の前に立ち上がるのは堂々たる体躯の熊。しかしその豪腕は律を逸れ、甲斐なく床に突き刺さる。
「眠って。もう──夢も視ずに」
 アウレリアが瞳を閉じた。淡い声を合図に、傷ついた床面を包み込んだ純白の花が燃えるように咲き染まり──ひと息に散る。
 呼吸さえ奪う花吹雪の中、踏み込んだ娘の白い腕が蝶を撃ち抜いた。
「亮、ルビーク……お願い」
「ああ、任せろ」
 瞳だけを微かに緩め、亮は蝶の内側へ意識を潜らせる。ここと見定めた一点で力が爆ぜれば、頼もしげに頷いたルビークは長大な竜の鎚を自在に躍らせた。
 書架も壁も掠めはしない。ただ一つ、敵だけを除いては。
 竜気の塊が衝突する。地に叩きつけられた怒りの蝶は、弱々しくも再び舞い上がった。渾身の力を込め、生み出すのは狼。
 けれど、空気を揺らす咆哮はケルベロスを苛むことなく、輪郭をなす文字はぱらぱらと自らの声で崩壊していくようだ。
 言の葉は編み、縛り、まじなうもの。紙から現へ、声から遠くへ、文字から人へと、境を越える数多の可能性を秘めた力あるもの。その片鱗を掴み取った律が、一手を編み上げる。
「ことのはも蝶も、扱うのはお前ばかりではない。必然か、蓋然か──試してみよう」
 モノクロの姿が虹の奔流に掻き消された。気と霊力の粋として顕現した蝶の群れは自在に戦場を染め、頼りなく舞う敵を一点に据えて集束していく。
 美しくも苛烈な攻撃に、未明は息を呑んだ。律の視線に促され、杖持つ手に力を込める。
「行け──おわりへ」
 終幕を担うのは、回復を紡ぎ続けたふたつの手。七色の蝶が消えたその瞬間に、掌の中の杖はいのちへ変わる。
 思い出の手触りを失ったかなしいひとへ、残るものがあることを報せたい。未明の思いを背負って駆け抜けたいのちが、蝶を狩る。そして、
「終わりにしよう。これ以上の不条理は許さない」
 羽のように軽く得物を取り回し、十郎は告げた。風を切る竜鎚を頭上でぴたりと止めた瞬間、砲口が光を吐く。
 その熱が尽きたとき、そこには何も残されてはいなかった。紙の翅も、はばたきに散った文字の欠片さえ。

 最も近い書架にかけられたカーテンをアウレリアはそっと捲り、微笑んだ。傷ひとつ残らぬ蔵書を目にして、お疲れ、と亮の掌が頭を撫でる。
 床や天井に残された痕跡を修復し、ケルベロスたちは静かになった図書館の奥へと意識を澄ました。
 ──心を取り戻した人が、目覚めようとしていた。


 取り囲むケルベロスたちに驚いた顔が悲しみへ変わるのを、痛ましく思わない者はいなかった。
 ちぎり取られた表紙の一方を抱き、司書──こと葉は俯いている。床に残された紙片を目で辿り、記された文字をなぞる亮。そのひと欠片を拾い上げ、律は静かに口を開いた。
「どんな本であったのですか。貴女にとって」
「……本当に、本当に大切なものなのです。これはこの図書館を作った方……私の曾祖母が遺した詩集なの」
 自ら詩を編む人だった。好きが高じて詩篇を集め、ここを作った。そしてこの一冊が、生前には会えなかった曾祖母と自分を結びつけた、と。
 歳を重ねた人ゆえに、落ち着いた語りがかえって悲しかった。相槌を添わせた十郎は、微かに顔を曇らせる。
 これは『宝物』だ。この場所とこの人の在り方の一部となった、大事なもの。
「……それなのに、こんなことになるなんて」
 ザンニの視線が床を彷徨う。予知が破壊を止められぬことが惜しまれて仕方なかった。思い入れたものを敢えて壊す夢喰いたちに、ただ胸が悪くなる。
 嘆きに耳を傾けながら、この場所に感じたのはこれだったのだ──と律は思う。大事にされた本たちの、建物の、思われ人の気配。それが今、彼女の悲しみに拠り添ってさえいるようだ。
「話してくださってありがとうございます」
 吐息のような律の礼が話を区切るのを待ち、ルビークは膝をついた。ご婦人、と労わりを向ける。
「貴方の悲しみで、どれだけ大切だったのか……それだけは少し、分かる気がしています」
 隣で未明の眼差しが頷く。
 全て分かるとは思わない。ただ、籠めた思いは彼女がこの本と経た年月の分だけ深く、それだけ傷は痛むのだろうと想像できた。
 律が再び沈黙を破る。
「元の形は失われました。ですが、貴女が大切にしたもの──本が貴女に残したものまでは消えません」
「え……?」
 貴女が語ってくださったように。そう語る顔がこと葉の瞳に映る。感情の動きに乏しい、けれど優しい顔だった。
 一つずつ確かめるように亮が問いかける。
「言葉は、記憶に残るものらしいけど……あんたの中には、残ってるのか? 本の中の言葉達が」
「ええ、それは……。覚えてしまうほど読みましたもの」
「いつ出逢ったか、どう感じたかは?」
「覚えているわ。忘れたりするものですか」
 他には、と空を彷徨う亮の視線を十郎が引き継ぐ。
「価値は書かれた情報だけじゃない。頁を繰る感触や音……それから、この古い文字も」
「ええ、ええ──覚えています」
 それなら、と二人は頷いた。
「──消えてない」
 拾った欠片ふたつを手渡して、言い切る声が重なった。
「望んでいなくても終わりはくる。かたちもいのちも、いつかは失われる。でも、それを永遠にするのは──ひとのこころだよ」
 またひとつ、宝物の欠片を拾った未明の手が、優しく老いた手を包む。おれはあなたの半分も生きてはいないけれどと真摯に、
「でも、失わないよう努力するのは得意なんだ。あなたにもきっとできる。──あんなふうに大切に語れるんだから」
 まだここにあると伝えるように、強くなる手の力。
 こと葉の瞳に涙が溢れた。慌てる者はいなかった。彼女の放つ空気が温もりを帯びていくのを、誰もが交わすことのはの中に感じ取っている。
「……よし! ばーさん、一応確かめてくれ。コレで全部か? 落丁はしてねーか?」
 熱心に欠片を集めていたレンカが、こと葉の前にそれを積み上げた。ばらばらになった紙片に文字の繋がりを探しながら、朗らかな笑みがこと葉を励ます。
 元通りにはならない。手を尽くしても、不格好さはきっと免れない。けれど、
「アンタの想い一つさえあれば、この本が此処に在り続ける理由には十分だ。どんなに不格好になったって、さっき語ってたアンタの『想い』は──この本が持つ『価値』は変わらねー筈さ!」
 姿を違えても、意味はそこに、その胸に宿り続けるものだから。
 泣きそうな子どもの顔でこと葉は笑った。安堵の気配に、空気までが解けたよう。
「……そう、ね。その通りだわ、お嬢さん」
「そうと決まったらほらっ、泣いてるヒマはねーぞ。詩を繋ぎ合わせんのはアンタ頼りなんだからな!」
 悪気のないレンカの言葉に笑いながら、ルビークも幾つかの紙片を手に申し出る。
「俺達にも手伝わせて下さい」
 喪失は心痛むもの。けれど悲しみ、憤る心があってこそ、掌や心に『在る』ことの幸福を知れる。──その感情が戻ってよかったと、涙を帯びた微笑みに思わずにはいられない。
「俺も。……中の頁はテープで貼り合わせるしかなさそうだが、装丁は技術者に頼めば直せるかもしれ……ああ、いや。その、……探しても構わないでしょうか?」
 しまった、と慮り言い直す十郎を見つめ返し、こと葉は目尻に皺を刻んだ。
「……お願いしてもいいのかしら?」
 悲しみが雨のように彼女の心の奥へ遠退いていくのを感じ、十郎は口の端を上げた。
 返す言の葉は、共に在る皆が同じと知っている。
「勿論。──他にも力になれるなら、遠慮なく」

作者:五月町 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2017年10月31日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 4/素敵だった 2/キャラが大事にされていた 2
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