終の雪路

作者:五月町

●逝く雪の呪い
「君がいなくなるまでは、信じてなんかいなかったよ。子供の好きそうな御伽噺だと思ってたんだ。雪の精の呪い、なんて」
 ひたひたと重たく降り掛かる雪は、すぐに溶けて青年を外から冷やしていく。けれど、そんなことにはお構いなしに、彼は語りかけるような独白を紡ぎ続ける。
「冬に留まりたいと願いながら溶けてしまった雪の精は、流れ込んだ水源を訪れる人を連れ去ってしまうんだっけ。……常冬の、死の国へ。ねえ、そんなものがいるならいっそ連れ去られたいなんて言ったら、君は情けないって怒るかい? でも僕は……もう、限界なんだ」
 絞り出した声は、思いのほか強かった。泉を覗き込めば、嗚咽と零れる滴に揺らされた水面で、自分の笑顔が悲しげに歪む。
「何者でもいい……幽霊だって、魔物だっていいんだ。君のいるところへ僕を連れて行ってくれるなら」
 だから、どうか。震えながら、冷えきった水面に触れる。
「居るなら出てきてくれないか、雪の精──この命を、喜んで君に差し出すよ」

 けれど、青年の意識を絶ったのは、噂の魔物などではなかった。
 水際に倒れ込んだ体から魔鍵を引き抜き、第五の魔女、アウゲイアスは笑う。
「私のモザイクは晴れないけれど──あなたの『興味』にとても興味があります」
 奪われた夢が、ドリームイーターによって形を成す。青白い頬、長く地に垂れた流水のような髪、仄白く濁った悲しげな瞳。
 濡れた雪が叩きつけるように降る。裸足の足に滴を纏い、『雪の精』は幽鬼のように漂いはじめた。くしゃり、くしゃりと雪を踏んで。
『ねえ、おしえて──私は、だれ?』
 答えられぬ者を、悠久の冬へと堕とす為に。

●終の雪路
 命を捨てに行こうとした青年が、ドリームイーターに命を奪われようとしている。グアン・エケベリア(霜鱗のヘリオライダー・en0181)が齎した案件は、そんな穏やかならざる話だった。
「口ぶりからすると、不慮の事故で奥さんを亡くしたようだ。思い詰めて、人を死に引き込む『雪の精』とやらの噂に縋ったところを、件の魔女に目をつけられた」
 人の『興味』を奪う第五の魔女、アウゲイアス。度々事件を引き起こしてきたドリームイーターの名は、ケルベロス達には既知のものだ。
 場所は長野県の山中。雪解け水が流れ込み湧き出でる、幾つもの名もなき小さな水源のうちのひとつだ。
 とはいえ、子供の噂になる程度には知られた場所。森の外から水源までを繋ぐ道ならぬ道は、昼間であれば先を見失うこともないという。
 危惧すべきグラビティは二つ。重い雪水の奔流で敵を押し流し、武器を弾き飛ばすもの。人の心を浚い、幻術によって心を死に引き寄せるもの。
 どちらも強力なものではあるが、攻撃範囲は限られている。また、敵には自身を『正しく』認識しない者を狙う特性もある。上手く生かせば、十分に渡り合える相手だろう。
 情報を委ね、ヘリオライダーはもう一度仲間達を見渡した。
「自ら命を放り投げるのも、夢喰いに殺されるのも結果は同じ──じゃあ、ないよな。躊躇う暇も思い直す暇もあるべきだろう。『雪の精』の討伐、頼んだぞ。兄さんにその時間が与えられるように」
 青年は震えていたのだと、グアンは噛み締めるように付け足した。
 死を思い詰めるほど苦しんでいるのは事実だとしても、そこにはまだ死への恐れも見えた。自分の手でなく、殺してくれる誰かを求めたのもその表れなのだろう。
「死を選ぶのも勝手と言やぁそれまでだが、その理屈なら止めるのはこっちの勝手だな。もし叶うなら、あんた方の手で引き戻してやってくれ」
 目覚めて事情を知れば、なぜ助けたと詰られるかもしれない。けれどそれを恐れずに、躊躇わずに、手を差し出す覚悟を持ってくれるのなら。
「こんな季節だ。人の温かさは、冷えきった心にゃ余計に沁みるだろうよ」
 グアンは目を細め、仲間の肩を叩いた。自身の温もりも僅かな足しにと預けるように。


参加者
藤守・景臣(ウィスタリア・e00069)
アウィス・ノクテ(ノクトゥルナムーシカ・e03311)
花筐・ユル(メロウマインド・e03772)
百鬼・澪(癒しの御手・e03871)
レンカ・ブライトナー(黒き森のウェネーフィカ・e09465)
エルピス・メリィメロウ(がうがう・e16084)
藍染・夜(蒼風聲・e20064)
宵華・季由(華猫協奏曲・e20803)

■リプレイ


 レンカ・ブライトナー(黒き森のウェネーフィカ・e09465)の放った結界のただならぬ気配に、沈黙する冬の森。水源の畔に飛び込んできた闖入者達を、夢喰いは虚ろな瞳で見つめ返した。
「おしえて──私は、だれ?」
 倒れ伏す青年の姿に燃え立つ心を、熱持つ蝶の群れに変え、盾として配して。藤色に燃え輝く瞳を晒し、藤守・景臣(ウィスタリア・e00069)ははて、と挑発的に微笑んだ。
「長野と云えば有名なのは雪女ですが──そんなに男を喰い殺したくて仕方がないと?」
 望まぬ答えに、夢喰いは心を浚いに手を伸ばす。今です、と走る眼差しに頷いて、藍染・夜(蒼風聲・e20064)は青年を軽々と抱き起こし、機敏に後方へ退いた。名のままの瞳は瞬時にひとつの木を見出し、自身の外套ごと青年を預ける。せめてもと纏っていた熱をそこに残して。
 鮮やかに塗られた指先でアウィス・ノクテ(ノクトゥルナムーシカ・e03311)が奏でる夜の音色、乗せる歌声の守りが中衛を包み込んだ。景臣から敵の視線を剥がすように、百鬼・澪(癒しの御手・e03871)が声を上げる。冬に留まれず、命を連れ去る雪の精──いや、
「違います。あなたは虚ろなる者。誰かの言葉の残滓」
 敵の眼差しを静かに受け止め、霙の中に咲かせゆくのは白い花々。戦い抜くための勇気と力、折れぬ刃を──白苑の花に願えば自身に、そして並び立つ後衛にも力が行き渡る。
 咲き乱れる花の中から飛び出すは、ボクスドラゴンの花嵐。鮮やかな炎が振り撒かれると、常より僅かに険しい眼差しでレンカが喚んだ幻術の竜が、並べる炎で深森を煌々と照らす。
(「消させたりしねーからな……生きた証、無かったことになんかさせねー」)
 熱の輝きが消え去る前に、空を舞う踵に新たな炎を連れて飛びかかる狼少女はエルピス・メリィメロウ(がうがう・e16084)。
「ふふふのふー、もうすぐ春が来るの。寒いままにはさせないのよー」
 衝撃に咲く火花の合間には、ちりん、と歌う鈴の音が前衛の体に響き渡る。
「宵の風鳴り、猫の声──狙った獲物は逃がさない……!」
 宵華・季由(華猫協奏曲・e20803)の声に宵色の猫は踊り、鈴が歌う。透き通る響きに仲間の狙いが研ぎ澄まされる中、喚ばれるのは澄みわたる風。添い立つウイングキャットが景臣へ齎した加護に、季由は頷いた。
「その調子だ、一緒に凌ぐぞ、ミコト! ──春の陽射しに溶けて消える、只の化け物なんかにやられはしない!」
 歪む敵の眼差しを、眩い雷光が染め抜いた。黄昏の空を映した花筐・ユル(メロウマインド・e03772)の髪がふわりと駆け抜け、連なる紫電のひと突きは相反する苛烈さで敵を貫く。
「さぁ、貴方も一緒にね」
 忠実な従者、シャーマンズゴーストの助手が長く鋭い爪先を伸ばした。魂の一端までも掻き裂く一撃に、敵は目の色を変える。
「私を──しらないのね」
 冷えた眼差しを長身で遮り、景臣が一撃を懐に叩きつけた。巧みな打撃が氷の棘を生み、敵の白肌を深々と侵す。
 それでも、誘い広げた腕から放たれる水の勢いは揺るがない。凍てつく奔流から季由を庇い、シャーマンズゴーストが身を擲った。体勢が崩れたとみるや、夢喰いは追撃で心の深淵までも侵そうとする。
「おや──傀儡に名などあるのかい?」
 その頭上に閃く刀。流れるように斬り払う夜の一閃は、戦さ場に戻り来たことを、そしてこの場の誰もが易くは倒されぬことを知らしめる。
「今の内に、澪」
「お任せください」
 その備えならば十分だ。結んで、紡いで──身の裡から仲間へと、溢れ出す気力を受け渡す澪。援護に徹する相棒の代わりに、花嵐が敵の足許に飛びかかる。敵の意識が逸れた隙に、アウィスは届いた澪の視線に応えた。
「誰も連れていかせない。皆に、貴方に、想いよ、歌よ──届いて」
 強く弱く、遠く近く。爪弾く弦の淡い祈りの響きは、波のように織り重なり包み込み、助手を癒していく。
「冬は……死の季節ではない。知らないのなら、俺達が教えてやろう」
「Eben!」
 盾となった助手に目礼を残し、季由はその背に色鮮やかな発破を咲かせた。増幅された力を振りかぶるバールに乗せ、放つレンカ。
「オレ達からの餞だぜ──儚げな『雪の精』さんよ!」


 重なる拘束、破られる守りに、夢喰いの姿は僅かずつ溶けてゆく。
「冬の悪魔さん、そろそろ眠りにつく時期ではない?」
 艶やかな唇で微かに弧を描き、ユルは指を彩る環を迸る光に変え、刃と化して掴み取る。
「寝つけないのなら、手伝ってあげるわ」
 金色の斬撃が、華奢な体にひとすじ走った。エルピスは湿った大地を力強く踏み締め、獣の性そのままに咆哮する。鋭い威嚇に空気は乢み、吹き飛ばされた敵はすぐに反撃の雪水を喚び寄せ──ようとする。けれど、
「……効いているようね」
 微笑むユルの云うとおり、与えた数多のしがらみが夢喰いを縫い止め、一撃を許さない。動かない手を震わせる敵を前に、澪の心は少しだけ揺れた。
 彼女と同じ往き先を、望んだことがない訳ではない。その頃の自分ならば、青年と同じ思いを抱いたかもしれない。
「……いえ、今は目の前のことに集中、ですね」
「ギャウッ」
 掌に浮かぶ気力の珠を眼前に居並ぶ仲間へと繋げば、励ますように一声上げた花嵐が、弾丸のように突進していく。続いて駆け抜けた涼やかな風に、雪間に咲くアウィスの花がふわりと薫った。
「本物だったら興味あるけど。これは、にせもの。あなたはまぼろし。絶望のかたち」
 流れ落ちる流星の蹴りを、敵の虚ろな瞳が映す。その眼差しが翻る前に、景臣は一瞬で間隙を詰めた。迫る刃に抗う術のない敵へ、空の霊力を降ろした刃を振り下ろす。
「死の先には何もありません。その先の世界へ導く冬精などと──安易に騙るものではありませんよ」
「亡くしたものの還る先は冬の国ではない……心の中だわ」
 残された者の──とユルは言わなかったが、一瞬重なった景臣の藤の眸の和らぎに、意を得たと知る。
 アスガルドの槍と共に敵へと駆ければ、弾む鼓動が胸にある存在を語る。生きる限りここに息衝いているのだと。
 長い爪先を振り上げる助手と呼吸を合わせ、爆ぜる光を散らした突きで敵を穿った。その眩い一撃の影から素早く回り込み、夜は噴き出す竜気で威力を増した鎚を、敵の体に叩き込む。
 魔女の手で、擲たれようとした直近の死のひとつが食い止められたと言うべきか。けれどそれでは、死を先延ばしにしただけだ。
「だが、お陰で俺達は関わる手を得た。かの魔女がより多くの不幸を生み出す前に──雪解けを以て春を呼ぼう」
「ああ。厳しく辛い冬を越えて、命は芽吹くんだ!」
 青年の心も、いつか再び陽光へ手を伸ばす時がくる。どうかそれまで、生きて欲しい。鎧をも砕く痛烈な一撃に願いを乗せ、季由が迫る。追随するミコトの爪を紙一重で躱し、見上げた敵の頭上に巨影が迫る。
「悪いが、オレ達は死出の旅に付き添う気はねーからな。勿論、アイツも連れて行かせねー!」
 幻影の竜の肩を借りるのはレンカ。偉大なる小さな魔女の宣告に、巨竜は煉獄の炎を以て標的を溶かしてゆく。
「あつ、い──」
「ヤベ……!」
 竜の吐く熱の中で、唐突に冷気が膨れ上がった。冷たく冴えた雪水がごうと奔り、至る筈の衝撃に耐えようと武器を握り直すレンカ。けれど、
「……っ、景臣!」
「大丈夫、倒れませんよ」
 心の痛みが、時に体の傷に勝るものとなることを知っている。死へ引きずり込むような強烈な一撃を、景臣は顔色一つ揺らがせず引き受けた。エルピスの瞳に熱が差し、即座に大鎌の牙を剥く。
「仲間から離れるのよ! ううう、たべちゃうぞー!」
「回復は任せろ。守り切ってみせる!」
 虚空を舞う斬撃が敵を切り刻む間に、景臣の動きを察した季由は頼もしく宣言する。頷きに微笑を添えた景臣は、招こうとした回復の炎に代え、刀を構え直した。
 斬り込む一閃が敵を氷の気に鎖すうちに、季由は素早く気を練り上げ、景臣に贈った。ミコトも小さな翼を震わせ、さらなる癒しで追い上げる。
 雪水の如く崩れゆく敵の姿が、銀の瞳に鏡のように映った。戦況を冷静に見定める夜の眼差しは、終わりを見て微かに凪ぐ。
 融け行く雪は大地を潤し、緑萌える春を支える。芽吹く命の底に雪は生き続けるのだから──、
「誰を道連れずとも寂しくないよ。心安く逝きなさい」
 鞘を離れた刃はたちどころに白光を翻し、虚空から襲いかかる白鷹のように、鋭く慈悲なく敵を斬り刻んだ。
「誰も連れていかせない。かなしい、まぼろしの子──夢におかえり」
 送り雪のように舞う白羽の残像の中を、アウィスが束ねた竜気の帯が貫いてゆく。
「もう少し、です。花嵐、お願いしますね」
 喉を鳴らし応えた花嵐が、炎を吹きつける。散る炎を裂いて飛んだ熟練の一矢は、心なき夢喰いの胸へ深々と突き刺さった。
 レンカの手を離れ、戦場に大きく弧を描いたバールが死角から襲いかかった。掬われた敵の足がくしゃり、霙と化して崩れ落ちる。
 魔を降ろした腕──前脚を振りかぶり、叩きつけたエルピスの一撃でまた体は溶け零れ、地に這った夢喰いはまだ手を伸ばす。纏う雪水の渦でひとりでも、語られた噂のままに連れ去ろうと。
「今だ、ユル!」
 その水流が届くことなく散った瞬間、レンカが叫び、エルピスは吠えた。唇だけで笑んだユルは、敵前にふわり舞い降りる。
「ごめんなさいね。彼はアナタとは往けないの」
 されどその道行きに、白薔薇を捧げよう。舞い踊る儚い花弁に、夢の冬精が手を伸ばす。くちづけのように触れた指先から溶けかけた全身を侵食していく白茨は、朽ちゆく夢喰いのただひとつの供となる。
「──大丈夫、痛みは一瞬だから。……Traeume suess」
 おやすみなさいの囁きに、気配は棘とともに掻き消える。
 終の雪路へか誰かの興味の夢の中へか──ともかくそんなふうに、かの夢喰いは旅立ったのだ。


 夢から覚め、現の顛末を知った青年の顔に苦悩と絶望が浮かぶ。
「なぜ……何故、助けたんですか」
 妻のいない現も、彼にとっては同じ悪夢なのだろう。顔を覆い悲嘆に暮れる青年の背に掌の熱を添え、夜はただ激情に心を傾ける。
 震えていながらエルピスの毛布を拒み、放つ言葉は悉くケルベロス達を貫いた。
「僕は──助かりたくなんてなかったのに」
(「ああ、これは……まるで」)
 昔の自分を見ているようだと振り返る景臣の傍らで、レンカはきつく拳を握り締めていた。理不尽に奪われた大切な人──青年の苦悩は、似通った思い出を持つ二人に、今に至る痛みを思い出させる。
(「唯一無二の存在が突然この世から去ったってんなら、そりゃあ辛いだろ。……そりゃあな」)
 けれど──だけど。立ち上がる気力もない青年の前に、レンカは汚れるのも構わず膝をつき、その顔を覗き込んだ。
「死ねば楽になるさ。大事な奴を失った悲しみ、辛さから解放される。でも、本当にいいのか? 全部、消えてなくなるんだぞ」
 慈しんだ姿、大切な記憶。そのひとから与えられた、大切なものの全て。
 年若い少女の問いにはっと上げた瞳は、隣に屈み込んだ季由の真摯な眼差しに逢う。
「そうだ。お前が死んだら、お前の中にある大切な存在も永遠に喪われる」
 歪んだ顔を伏せ、青年は涙を溢した。
 現の愛は、幸せな結末を結ぶとは限らない。想いの深さ故にこんなにも心に爪立てることもあるのだと、ユルは青年の裡に刻まれた計り知れない傷の深度を思う。──ヒールでは癒えない傷の為にできる唯一が、ただ聞くことと信じて。
「大好きなひとがいなくなったのに、生きるのはつらい。……ね」
 凍えきった手に触れて、アウィスは共感を示した。揺れる眼差しに見返され、娘は頷く。景臣も静かに顎を引いた。
「その通りです。でも、死の先には何もありません。愛する者の思い出は貴方の中にしか残っていない……どうか、それを大切になさって下さい」
 愛した人を、この世界から消さない為に。彼よりも少し早く悟ったそれを、景臣は惜しまず伝える。心まで凍えるような苦しみが、どうか少しでも癒えるようにと願いながら。
「そうだぜ。大事な奴と『この現世で共に生きた』事を、自ら無かった事になんてしたくないから。そんなの嫌だから──ソレを守るって……守って生きていくって、オレは決めたんだ」
 お前はどーする、そう問いかけるレンカに、ユルもそっと心を並べる。識った悲しみごと呑み込んだ微笑みは強く、美しかった。
「私は──私も、そうして此処まで来たわ。貴方が逃げてしまったら、誰がその方を想ってあげるの?」
 ああ、と零れた嗚咽から、頑ななものが消えた。
「僕は……僕には、彼女を殺せない。──生きなければ、いけないんですね……」
「ええ、……生きましょう?」
 決壊する感情を受け止めて、澪は頷いた。
「どうか忘れないでください。貴方がいなくなるその時、誰かが何処かで涙すること。……大切な方がいなくなって、こんなふうに涙した貴方だから」
 うん、とアウィスも声を和らげる。
「貴方は、生きてる。よかった。──アウィス達は貴方を助けたかった」
 寒かったでしょう、と触れる手から熱が移るように力を込める。背に預かってきたドラゴニアンの温もりも一緒に。ひとりじゃない、誰かが傍にいる、自分達も──そう伝えるように。
「生きてたら、奥さんの思い出、大切に誰かにつなげるから。いつか、奥さんにいっぱいの思い出、話せるように。……長生きしなくちゃ」
 声にならない頷きに目を細め、エルピスはそっと毛布を広げた。今度は拒まれることはなかった。温もりの中に包まれた青年を、安堵で見つめる。
 その人との思い出が暖かなものなら、いつかきっと、抱いたまま一緒に春を迎えられる日がくる筈だ。
「そうじゃない?」
「……ああ、そうだな」
 懐に潜り込んでくるミコトの重さと温もりに生を感じながら、季由は穏やかに目を伏せる。
 この手では救えなかった命、死にたくないのに奪われた命。彼の妻もまたそのひとり。だけど──だからこそ、
「綺麗事だろうが、俺はお前に生きてほしい」
 厳しく辛い冬を越えた先には、きっと春が待っているから。呟きに同意を示し、夜はそっと青年を助け起こした。
 足許を冷たく濡らす霙が、ゆるゆると溶けて水源へ流れ込む。雪が水となり、流れ込む先は冬ではない。大地を潤し、芽吹きを誘い、海へ還ってだれかの命を──彼の命さえも育む道往きなのだ。
 夜更けのように落ち着いた声は、陽溜まりのような暖かなものを含む。
「ほら──春が」
 見上げる枝先に綻ぶものは希望。見上げる横顔に零れたひとしずくが、溶け流れる雪とひとつになる。
 残雪の白が消える頃にはきっと、青年の前には新たな路が開かれるだろう。冬の底から救い得た命も心も、少しだけ、前に進むための春の光を取り戻したのだ。

作者:五月町 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2017年3月28日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 7/素敵だった 0/キャラが大事にされていた 0
 あなたが購入した「複数ピンナップ(複数バトルピンナップ)」を、このシナリオの挿絵にして貰うよう、担当マスターに申請できます。
 シナリオの通常参加者は、掲載されている「自分の顔アイコン」を変更できます。