咎人の挽歌

作者:東公彦

 人は無意識のうちに多数の情報を処理している。意識の表層に顔を出さずとも強く焼き付いたイメージを無視することは出来ない。
「ここは……」
 朱藤・環(飼い猫の爪・e22414)が雑踏のなかでその人物を見つけたことも、彼女の無意識の意識がなした業であろう。それだけその人物は環の記憶に深く根を張っていた。目の前に広がる風景と共に。
 環の視界に広がるのは倒壊したモールだ。地面に深く頭を垂れて蹲る、過日と変わらない、引き伸ばした写真のように平坦な過去の景色。
 そこに一切の人気はなく――いや、当然か。人々の記憶や時間に忘れ去られたこの場所を余人が知りえるわけがない。憶えているとすれば当事者だ、環や彼のような。
「こんにちわ」
 男は剥きだしになった鉄骨に腰かけて環を見下ろしていた。
 ふと環は思った。これは自分の頭がこねくりだした幻なのかもしれない、と。ならばあの日と変わらぬ風景も、焼きついて離れぬあの姿も、そこに変わらず在るのは何ら不思議ではない。
「生きて、いたんですね……」
「まだどうにか息をしていられるよ」
「わたし……私、ケルベロスになったんです。あの日から必死に強くなりました。もうあんなことが繰り返されないように、今度は助けられるように。だから!」
「君は本当にケルベロスなのかい?」
「――え」
 喉の奥から絞りだすような懺悔の言葉に比べれば、男の声はあまりにも冷ややかだった。
「シャイターンというデウスエクスは他者を犠牲にしてでも助かろうという心の醜い者を同胞に迎え入れるという。キミはあの時、既に朱藤環というデウスエクスとなっていたのではないかな。だって」
 僕を見殺しにしただろ?
 男の声が届くと同時、灼けるような痛みが腕にはしった。餓えた死神達は黒い輪を成して空を遊泳し、僅かに千切りとった血肉を競って貪りくらう。
「キミに殺された僕がキミを殺すのなら道理が通っていると思うけれど……どうかな」
 自分の古傷が見せた幻? 私は本当に馬鹿だ、そんな感傷で許されるはずもないのに。
 環は唇を噛みしめた。この人は生きている、いや生き返ったのかもしれない。人非ざる者となって、咎人に審判を下すために。


 でんと空に広がっていた鈍雲が久しぶりに晴れて、ヘリポートには琥珀色の陽がそそいでいた。長雨の後の、独特の空気が垂れこめている。
「朱藤・環さんを襲撃することが予知されたよ。けれどね…」
 正太郎は沈鬱な面持ちで告げた。
「この青年は、もう死んでいるはずなんだ。一般人で、遺体も埋葬されていて…死神がわざわざ使役する価値があるとは思えない」
 どんよりと漂う湿気は彼の口をも重くしているようである。肌を舐めるような熱気がじっとりと体にまとわりつく、嫌な空気だ。
「それで調べてみたところ『罪暴き』という死神がいるみたいなんだ。相手の罪の意識や記憶を覗き、姿形を複製する……つまりはこの姿は環さんの罪の意識や記憶から作りだした可能性がある」
 まぁ、それも定かではないのだけれどね。正太郎は小さく付け加えた。
「真偽が何であれ環さん自身がそれをどう思うか。当人からすれば堪ったものじゃないだろうけどさ……。えっと、罪暴きと環さんの遭遇箇所は街の一角にある、倒壊したまま手つかずのショッピングモール前だよ。倒壊した当時の瓦礫片なんかがあるかもしれないけど、障害というほどのものじゃないと思う。人気もないから避難の必要もない、つまり戦う舞台は整ってるわけだね」
 広げた地図に示された一角を指で叩きながら正太郎は続ける。
「個体の戦闘方法については、僕よりも詳しく説明できそうなものが届いてるよ。『ふざけた手紙』だけれど、僕が下手に説明するより、みんなが読んだ方が早いかもしれないから後程提示しておくよ」
 話し終えた途端、背広を脱いで、正太郎は重苦しい空気を入れ替えるようにそれをふるった。大きく息を吸いこみ、ようやく愁眉を開いた。
「みんなにとってはつらい戦いになるかもしれないけど、過去に囚われたままの仲間を救いに行こう。未来は変えられるんだから!」


参加者
エニーケ・スコルーク(黒馬の騎婦人・e00486)
朱藤・環(飼い猫の爪・e22414)
ベルベット・フロー(紅蓮嬢・e29652)
中条・竜矢(蒼き悠久の幻影竜・e32186)
瀬入・右院(夕照の騎士・e34690)
アンセルム・ビドー(蔦に鎖す・e34762)
九十九屋・幻(紅雷の戦鬼・e50360)
副島・二郎(不屈の破片・e56537)

■リプレイ

 朱藤・環(飼い猫の爪・e22414)は呆然と定まらぬ視界のなか罪暴きを見ていた。この人の言うことを否定は出来ない、なにより自分が思い続けてきた。私なんか死んだ方がよかったのだと。
 死神が歯を鳴らして迫りくる。武器を投げ出し、死を覚悟して目を閉じる。だのに怖くて、恐ろしくて足が震えだす。そんな浅ましさも嫌になる。
 はやく、終わらせて。唇を引き絞って願った。しかし、
「そんな顔…しないでください」
 訪れたのは甘美な死ではなかった。中条・竜矢(蒼き悠久の幻影竜・e32186)は喰らいつく死神達を振り払った。突き立った牙を無理矢理に引き抜く、竜鱗は剥がれ血が滲んだ。だが苦痛はおくびにも出さず、安堵の息をつく。よかった、間に合った。
「環さんが生きているからこそ、助けられた人もたくさんいるんですよ。私だってその一人なんです。だから……自分を責めすぎないでください」
「やいこらそこのフツメンっ、うちの環ちゃんに手ぇ出そうとはいい度胸してんじゃん! おぉん?」
「おやおや、お仲間のご登場かな?」
「まぁ、相棒の窮地に不在とあっては、後悔してもしきれないからね」
 伝法なベルベット・フロー(紅蓮嬢・e29652)の口調にあわせて『ビースト』が喉を鳴らす。九十九屋・幻(紅雷の戦鬼・e50360)の声はあくまで鷹揚であったが、目は剣呑で隙がなく手は柄にかけたままだ。
 彼らの言葉に不意に瞼が熱くなる。が同時に戸惑いも覚えてしまう。白日に晒された罪と本当の自分の姿を彼らはどう思うだろう?
「でも、私は――」
「……環の昔の事とか、ボクは興味ないよ。でも死神の言い分も、それこそ知らないし興味ない。生きて頑張っている今を『罪』だと断じて未来を消してしまう奴の事なんか、ね」
 呆けたように立ち尽くす環にアンセルム・ビドー(蔦に鎖す・e34762)は語り掛けた。
「目の前にいる者をしっかりとみなさい。そして考えて、貴女にとって、どうすべきか」
 エニーケ・スコルーク(黒馬の騎婦人・e00486)が巨槌を拾い上げた。受け取った鈍色の友は、ずしりと重かった。何かを語り掛けているかのように。
「だが、これは君の戦いだ。私達がどんなに言葉を並べ立てても、君が選び取らねばならない。さぁ、君はどうしたい?」
 環は奥歯を噛みしめて、目を開いた。私は死ぬべきなのか、生き続けるべきなのか。わからない。けれど今ここでは死ねない。ずるくても、みっともなくても、手放したくないものがあるから!
「皆さん……私に力をかしてください」
「承知したよ」
 言い置いて素早く幻が駆けだした。途端、一斉にケルベロス達が動き始める。
「さて、俺達もはじめましょうか」
 瀬入・右院(夕照の騎士・e34690)が数珠つなぎになった紙兵で円を描いた。その空間のなか、アンセルムが黄金の果実を作りだす。副島・二郎(不屈の破片・e56537)の指先が訥々と中空にオリオンをなぞった。
「ルーンの霊力、星の加護、超進化の光か……大掛かりだな」
「ですが多少なり効果はあるはずです」
「ああ、善処はしよう」
 紙兵が回転し、幾重にも円環を描く。二つの光が交差してより膨大な一己の輝きとなる。「いきます!」右院が叫んだ瞬間、戦場を一条の光が駆け巡った。大地に刻みこまれた光の線は、絶えず光を放ち、光はオーロラのような波をうって溢れる。
「ふぅん、グラビティの結界みたいなものかな。でも、それで僕の魔眼が封じられると思ったら大間違いだよ」
 罪暴きは色をなさずひとりごちた。多少のケルベロスが集まろうが、それは脅威などではない、彼にとっては食指をくすぐられる対象が増えたにすぎない。
「とはいえ僕もそう健啖家ではないからなぁ」
 罪暴きがあげた腕に連動して空に黒雲が持ちあがった。いや、独りでに蠢く雲などあるものか。ケルベロスの誰もが理解した。あれは夥しいほどの死神の群れだ。
「お腹を減らしてる可哀想な子たちさ、恵んであげてほしい」
 次の瞬間、戦場一帯を黒雲が呑みこんだ。


 ぎちゅり、ぎちゅり。不気味な歯鳴りが四方八方から反響する。むせ返る血の臭いが戦場を支配している。餓えた死神は生ける者はもとより、同胞の死骸さえも貪欲に喰らった。
 女がいた。胸に背に子供達を抱き、小さな命を守ろうと身を縮めている。他の誰にも見えぬ幻想、だがことベルベットにとっては、かつて戦う意味そのものであった。
 女の体を死神が貫く。皮膚を喰い破り肉を千切り、流れた血にすら群がる。何度も繰り返される悍ましい光景。
「ふざけ、んなぁ!」
 叫び声は業火を伴い、黒雲を打った。ベルベットの拳から噴きだす業火と衝撃波が炸裂するたび多くの死神が焼け落ちる。
 続けざま飛び込んだ幻が黒雲を真っ二つに切り裂いた。刃杭に纏わせた紅雷は一瞬で黒雲を駆け巡り、死神達の体内を焼き尽くした。が、切り開かれたかに見えた血道はすぐに塞がれ、その一角をも崩せはしない。
「物量作戦は愚だと言われるけれど……常道ゆえの凄みがあるね。一度でいいから、こう贅沢に駒を使ってみたいものだよ」
「感心している場合ではありませんわよ」
 エニーケは声にするや否や、身を投げ出した。即座に上体を起こし『地裂竜鱗砲槌』の基桿をたぐると轟竜砲を浴びせかける。竜砲弾が爆ぜて熱風が吹き荒れると黒塊から肉片や骨片が降り注いだ。血に染まった髪を振り乱しながらエニーケは動き続ける、砲火が煌めくたび耳を劈く轟音が大地を揺らす。
「まったくしつこいね」
 往来で挨拶をするような気楽さで罪暴きがもらした。きらり、瞳が妖しく輝きを放つと瞬く間に有る筈のない虚像が浮かび上がる。いや、誰かから映しとった過去の記憶が含まれる以上、それは紛れもない真実の形だろうか。
 竜矢は悪寒に身を震わせた。開かれた腹部をえぐるように鉗子が引き抜かれる。己に刻み込まれた改造の記憶。まやかしだ! 吐き出しそうな嫌悪感を堪えながら砲撃を続ける。
「相当性質の悪いやつですね」
「ええ、人のトラウマを抉り捻じって……。癪に障りますわね」
 幾度も繰り返される悪夢。それは毒のようにゆっくりと彼らの心を蝕んで行く。一瞬の判断を誤らせ、しいてはそれが死に繋がるのだから。しかし、罪暴きは満足ではない。
「引き換えキミ達は退屈だよ。ソレが恐ろしくないのかい?」
「絶望か……見飽きたものだ」
 二郎が押し寄せる死神を一蹴する。その眼は光なく、死した者のような暗渠が広がっていた。
「ふぅん…。それに、そっちのキミは同類かぁ」
 ぴくり。右院の頬が引きつった。それも一瞬のこと、黙々とオウガ粒子を散布し味方の回復につとめる。
 くつ、罪暴きの喉から嘲笑が湧いて……それはうめき声にかわった。
 蔦が針に糸を通すように罪暴きの肩に喰らいついていた。
「油断をしているからだよ」
「貴様……」
 罪暴きが唇が震わせた。ほんの些細なものでも傷をつけられたことが屈辱だと、彼の全身が物語っていた。次の瞬間、死神が鳩尾にめりこんで、アンセルムは膝をついた。
「キミも罰してあげよう。彼女と同じように」
 声と共に黒い波頭が頭をもたげ押し寄せた。肉を削ぎ、血飛沫を啜る、獰猛な嵐。視界さえままならないなかで悲鳴がこだまし、血の臭いだけが充満してゆく。
「このままじゃ――」
 環が声にしかけたその時、轟音を伴う雷撃が降り注ぎ波頭を打ち据えた。
「なら、今まであなたが犯してきた罪は誰が裁くのかしら?」
「あなたの言う彼女の過去なんか知る必要すらない…。今の彼女が僕の知る全て、それで十分なんです」
 静かに怒りをたたえる七星・さくらの隣で、エルム・ウィスタリアが紫水晶で飾られた堅木の杖を振るった。
 ちる、ちるらんと降りだした白雪が黒雲に抗う。すぐに果ててしまう儚い存在。しかし決して立ち止まることはない無垢の結晶。
 頬に落ちる、その温もりを秘めた冷たさに、二郎はぽつりもらした。
「朱藤、それとの縁を切ってくるといい」
「――はい!」
「させると思ってるのかい?」
 動きだそうとしたケルベロス達を魔眼が捉える。炎が口を開くよりも早く、ベルベットは飛び出した。魔眼の業火が肌を無残に灼き、うずくような痛みが全身に広がる。だが、
「ぬるいぬるいっ、地獄の炎ってのはこんなものじゃないよ!」
 ベルベットは炎に捲かれてなお、太陽のような笑顔を作った。黒雲に腕を突き入れてがむしゃらに引き裂き――踏ん張れずよろめく。すかさず二郎が抱きとめた。
「無茶をする」
「守護天使猫タマキエルを救うんだから、これくらいの無茶しなきゃつり合いが取れないって。ほら、二郎さんも笑って笑って、笑顔は強いんだから!」
「そうか」
 少しの笑みも浮かべずに二郎は思った。この強さを持っていたなら、俺はあの日、違った決断をすることが出来たろうかと。
 いや、先の言葉といい、こんな考えといい、『ただの武力』には相応しくないだろう。二郎は小さく首を振った。
「さぁ、どいてもらおうか慮外者ども!」
 刀杭を振りかぶり、逆手にナイフを握りしめ、幻はステップを踏むように刃を重ねた。加えた傷痕を切り広げ、鋼刃は軌道を描くたび死神を断ち切り、疾く々、激しさを増す。
 大きく踏み込み、体と双剣を一回転させると、押し寄せていた死神達は一様に地に落ちた。
「御供させて頂きますわよ、九十九屋さん」
 エニーケは大地を蹴って跳ねあがった。その間も彼女の行く手から馴染みのある声が語り掛けてくる。娘よ、なぜだ――なぜ私を殺した?
「まだ気づきませんの。その手は私の怒りに油を注ぐだけですわよ」
 落下の慣性をのせた『馬脚蹴撃衝』が黒雲に突きたつ。出来た綻びに環が身をくぐらせて過ぎてゆく。
「私のかわりにキツイ一発を……というのは蛇足ですわね」
「ああ。僕らは僕らの成すべきことをしようじゃないか」
 駆け抜ける環の決意に呼応するかのように、中空から銃弾の嵐が降り注いだ。立花・恵は跳躍し再び銃を構えて叫ぶ。
「そうだ、環! 環はいままで生きてきて、たくさんの人を救ったじゃないか!」
「これからも色んな人を救っていくんすよ。だから絶対死んじゃダメっすよ」
「生きておればこそ罪と向き合い、いつかは清算も出来るだろう」
 朧・遊鬼の剣から放たれた鬼火が死神達を燃やし、ルフ・ソヘイルの魔弾によって召喚された白蛇が黒雲の一塊に激突した。
 現実感のない視界を頼りに、環は走る。一足ごとに心が挫けて、膝が砕けてしまいそうになる。それでも必死に走る。死神達はうぞうぞと蠢きながら襲いくる。しかし、
「ここは絶対に通しません」「ここは絶対に通さねぇぞ」
 水瀬・和奏と水瀬・翼が身を挺し、押し寄せる黒い波の前に立った。死線のなかにあっても似た者の姉弟は顔を見合わせてにやりとした。
「朱籐、少しくらいの時間は作ってやる。年長者からのお節介だ」
 相馬・竜人が打ちつけた炎が波を揺るがす。同時、一之瀬・白が拳を叩きつけると、双竜の前に黒い波が割れる。
「往け、朱藤・環。君が戦う為に拳を握るなら、僕達はそれに全力で応えよう!!」
「ぼくも環のいのちとこころを助けるお手伝いをするのです! だから見守っていてください兄様……」
 仁江・かりんには確かに見えた。未来へと進む彼女を守るように風のなか舞い散るピンク色の花弁を。環がよろけ、つまずくたびに地表から呼び出された白骨の手が、体を支え、背を押し出す。何よりも仲間達の言葉が、己を顧みずに戦う姿が体を支えていた。
「こんな――こんなものぉぉぉ!!」
 頑なに行く手を塞ぐ黒雲に、環は握りしめた巨槌を叩きつけた。力任せに、感情を吐露するように。環は叫び続けた。皮がむけて血が滲み、痺れるような痛みが掌を襲っても巨槌を振るった。この向こうにあの人がいる、私が行かなくちゃ――。
「たとえこの身が変わってしまっても……辿り着かせてみせる!」
 飛翔していた体を錐揉みに急降下させながら、竜矢の腕が禍々しく変化してゆく。忌むべき力、改造の証。しかし大切な人のために奮える力なら……今だけは感謝をしなくてはならないのかもしれない。
 息を合わせた一撃に黒雲が大きくたわんだ。その拍子、血に手が滑り、巨槌が転げ落ちる。だが黒雲のなかに青空が覗いた。咄嗟、環はそこへ飛びこんだ。そして――紅蓮の炎に包まれた。
 まるで時が止まったように、誰もが視ていることしか出来なかった。魔眼が活き々と輝き、朱藤環という形が崩れ意味を成さぬ灰となる。
「死んだ、死んだよ、ほらっ! あはははははっ――――は?」
 見開かれた目が驚愕の色に染まる。そこには変わらぬ環の姿があった。
 環にとっても不可思議な出来事だった。自分の生き写しとも思える幻影が吸い込まれるように隙間に飛び込み炎の餌食になったのだから。だが理由はどうでもいい。十数年の月日をようやく埋められたいまとなっては!
 環が視界から消える。逃げろっ。思い、罪暴きは咄嗟に飛びずさろうとしたが背後に立つ男と目が合った。
「ああ、あれは俺がやったわけじゃないですよ。みなさんと違って驚かなかったのは……耐性がついたからかもしれない」
 右院は腿に突き立てた剣を一閃させた。
「運のない人ですね。環さんは強いんです、あなたが思っているより、よほど」
 筋を断たれ痙攣を起こしながら罪暴きが膝をついた。それは赦しを乞う罪人に似ていた。
 爪先に一瞬重い手応えを感じ、環は渾身の力で腕を振り抜いた。
 罪暴きは軽々と宙を舞った。周囲の光景が吹き飛ぶように流れ、目まぐるしく上下する。体が消し飛んだかのような錯覚と共に背が壁に打ちつけられ、遅れて激痛が押し寄せた。
「ぐぁ……あ、あいつらを殺せっ。今すぐ殺せぇぇ」
 尊大な口吻はどこへやら、子供のような叫び声でわめきたてる。だが暗雲の如く夏空を覆い隠していた死神達は一様に姿を消していた。
「お前らぁ……」
「奴らが祀ろっていたのはお前の力だったのだろうな、お前自身ではなく」
 罪暴きの手がだらり力なく垂れた、その時だった。遥か頭上から一塊の瓦礫が落ちてきたのは。地響きに似た音を立てて過去の象徴が崩壊をはじめる。
 かろうじて保っていた均衡が一度崩れてしまえば止めようがない。一際巨大な石塊が剥がれ落ちる。と、無意識に環は駆けだしていた。
「環さん!」
 強い声はその背中を掴むことは出来なかった。
 体を青年の前に滑り込ませ、背と肩で瓦礫を支えあげる。骨の悲鳴がぎしぎしと耳の奥から響いた。目の前にあるのはあの日の光景だ。
 全く学ばない、なんて馬鹿なんだ私は。一度は倒すと決めたのにこの敵を生かそうとしている。けれど瓦礫の下に呑まれるこの人を見過ごすことはできない。
「強く…なったんだねキミは。引き換え僕は弱いなぁ」
 罪暴きは――青年はふっと笑った。憑き物が落ちたような顔には慈しみさえ浮かんでいる。
「あなたは…」
「もう、いいんだ。キミが巻き添えをくうことはないよ。どいてくれ、僕を死なせてくれ」
 言うと青年は貌を伏せて――その蔭でくつくつと嗤った。こいつ本物の馬鹿だ、無手で飛び込んできて、あまつさえ姿を映しただけの俺を助けるだと? 本当に人間は――心ってのは壊し甲斐がある!
「っ嫌だ、今度こそ絶対に助けてみせるっ!」
 荒く息をつく少女の傍ら、罪暴きは静かに力を溜めた。瞼の裏には炎に焼かれて泣き叫ぶ少女の姿が浮かぶ、言葉の刃で心臓を抉られた絶望の表情まで鮮明に。
 こみ上げてくる愉悦感に浸りながら口を開こうとして、罪暴きは気づいた。指の一本、舌の根すら動かせないことに。
『その先はさせない。彼女は、本当にキミを助けようとしている。でもボクは……キミを微塵も信用してはいない』
 どういうことだ、なぜ動けない!?
『攻性植物の種をいれた。キミを攻撃したあの時に。さほどの力はないけれど、力を失いつつある今の君くらいならね』
 俺を殺していいのか、生かそうとするコイツの前で!
『ああ、これはボクのわがままだ。まだ環とやりたい事がたくさんあるからね。キミみたいな人にはあげられない』
 待ってくれ!
『さようなら』
 思念は無情に打ち切られた。アンセルムが冷たく言い放つ。腕に抱える人形が小さく喉を動したように見えた。
 魔眼が光を失う。罪暴きの体は渇いた骨のように白く朽ちて、淡く空気に溶けた。


「強くなんて……ない。私は、あの頃と変わってない、弱っちいままで…。あなたになら、殺されてもよかったはずなのに。ごめんなさい…本当に、ごめんなさい」
 堰を切ったように涙は溢れ出て、アスファルトに丸いしみをつくる。嗚咽まじりの声は、やがて言葉にならない慟哭とかわった。
 声をあげて泣き続ける震える背中を、アンセルムは優しく撫でやった。十数年間、彼女の裡に抱えられてきた悲しみを吐きだすには、この場所ほど相応しい所はないだろう。青年と環が最初で最後の邂逅を遂げたこの場所ほど。
 今日、咎人の棺は挽かれたのだ。彼女自身の手によって。
「いつでも環さんの力になります。ですから……一緒に、帰りましょう?」
 竜矢が差しだした手を、不安げに潤む双眸が見上げた。躊躇いがちにおずおずと、しかしたしかに力強く、贖人は握り返した。枯れ果てぬ涙を流し、重い体を引きずってでも、少女は進むことを決めた。変わらぬ過去ではなく、変えられる未来へと。

作者:東公彦 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2020年6月30日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 2/感動した 2/素敵だった 12/キャラが大事にされていた 0
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