形影相弔う

作者:東公彦

 西日が橙に街を染めるなか、伏見・勇名(鯨鯢の滓・e00099)は少し早足ぎみに、とある街の2丁目4番地3号室を目指していた。日中は汗のでるほど暑いくせ陽が落ちれば途端に冷たい風がびゅうと音を立てて吹く、その日もそんな天邪鬼な日よりであった。
 雨だれのシミをつくる老いたコンクリートビルに挟まれた三つ角の路地を折れれば、後は一直線だ。そこへ足を踏み出したその時、勇名はハッとして立ち止まった。
 斜光をうけて煌めくショウ・ウインドーの中にもう一人の自分が立っている。最初は自分の姿がガラスに映し出されただけと思っていた。だが光の悪戯ではない。それは決して虚像ではなく、手を伸ばせば触れそうなほど近く、一枚のガラス窓を隔てた向こう側に確かに存在していた。
 だれ? 声にださず問いかけた勇名にまるで応じるように、もう一人の勇名はまぶたをあけた。その瞳もまた勇名と同様、西日のなかで金色の光を放っていた。
 突然側頭に衝撃がはしって、勇名はたたらを踏んだ。ショウ・ウインドーが砕け散る音が遅れて集音センサーに届く。自分が攻撃を受けたことに気づいた勇名は素早くその場から飛び退いた。
「ちっ――」
 舌打ちの声と共に、真紅の刀刃その切っ先が勇名の胸を僅かに削いで抜けた。
「抵抗すんな失敗作。壊れちゃえ」
 もう一人の勇名――243-137βは口をへの字にひん曲げて、勇名に蔑むような眼差しをおくった。


「少し、マズイ状況かもしれないよ」
 説明は不吉な前置きを枕詞にして始まった。
「勇名さんを襲うダモクレスを予知したんだけど……この辺りは道も入り組んでいて複雑でね、早くとも勇名さんの元に辿り着くまで2分はかかりそうなんだ。その間、彼女には一人で戦ってもらうことになる」
 唇を噛んで、正太郎は言った。たったの2分がもたらすかもしれない結末が、誰しもの頭をかすめる。
「皆には戦闘区域に到着次第、降下して戦闘にうつってもらいたいんだ。用意は万端で、任せたよ」
 言わずもがな、だろうけどね。正太郎は呟いて一綴りの資料をめくった。
「えーっと、戦闘区域は問題なく戦えるくらいには拓けているよ。敵が邪魔とみなしたのかな、周辺はあらかじめ人払いがしてあるみたいだから、こちらで避難対応する必要はなさそう。街への被害も今回は気にしないでいいと思うよ」
 言い終えて正太郎は頭を掻いた。どうも彼自身、自分の情報が取るに足らないものだとわかっているようだ。
「敵は一体、個体名は……243-137β? 姿は勇名さんとそっくりだけど名前は似ても似つかないね。ええと、武装は刀が二本。それと手首の根元辺りに小型のパイルバンカーのような武器を仕込んでいるみたいだね。距離を詰めての戦いを得意とするのかなぁ? っとと、釈迦に説法ってやつかな。僕なんかの当て推量より、皆の経験の方がよっぽど役に立ちそうだ」
 243-137βの簡単な特徴を説明すると、正太郎は資料を閉じた。
「しかし自分にそっくりなデウスエクスかぁ。僕なら目の前に出てくるだけでゾッとしちゃうなぁ。……っと、一人で一体のデウスエクスと戦うのは至難の業のはずだ。一刻もはやく勇名さんを助けにいこう!」
 強張った顔を少しだけ緩めて、正太郎は親指を立てた。


参加者
伏見・勇名(鯨鯢の滓・e00099)
セレスティン・ウィンディア(墓場のヘカテ・e00184)
新条・あかり(点灯夫・e04291)
玉榮・陣内(双頭の豹・e05753)
フローネ・グラネット(紫水晶の盾・e09983)
君乃・眸(ブリキノ心臓・e22801)
ユグゴト・ツァン(パンの大神・e23397)

■リプレイ

 灼けつくような茜色に包まれるなか、伏見・勇名(鯨鯢の滓・e00099)は咄嗟に身をかがめた。ひりつくような殺気が頭上を駆け抜ける。流れるように突きだされた前蹴りが肩にめり込んで、ぎしり、体が軋む音が聞こえた。
 地面に接触する寸前、うまく回転して勢いを殺すと勇名はすかさず各部からミサイルを射出した。が、既に敵の姿はない。
「はずれ」
 真横からの声に反応してナイフを掲げると目の前で火花が散った。視界いっぱいにもう一つ、自分の顔が広がる。
「しぶといよ。失敗作」
「……」
 上空をしばし漂っていたミサイルが間の抜けた破裂音をあげた。夜空に咲けば美しいだろう極彩色の火花は血のような茜に塗りつぶされている。
「――んっ!」
 勇名は渾身の力で敵を押し返すと、退くとみせて不意をつき更に距離を詰めた。大身の二刀では細かな取り回しがきかないことを狙った拳ひとつの距離。上手く紅刃をかいくぐり、243-137βの胸へ拳を叩きこむ。
 確かな手応えが拳に伝わった。だが脳裏をよぎったのは不吉な予感である。これほどまでに容易い相手だろうか、と。
「――ぅぁ」
 背に強い衝撃を感じて勇名はうめいた「あんたが考えることを、あたしが考えないとでも思った?」
 体が上手く動かなかった。頭が二つのことを同時に命令し、身体が無理にこなそうとしているようにちぐはぐだ。嘲笑がどこか遠くで聞こえた。
 真紅の刃が茜色よりもなお赤く獰猛に閃いた。朦朧とした意識のなかで勇名が見たのは、アメジストを散らしたように彩られた女の後姿であった。


「……あんた、なに?」
「そうですね、伏見さんの戦友とでも言わせて頂きましょう」
 引き締まった口元から放たれた声も、いずまいと同じ凛とした響きを含んでいた。フローネ・グラネット(紫水晶の盾・e09983)が展開させた『紅紫防壁陣』は刀刃の力のみならず引きつれた炎までをも弾き散らしていた。
「あっそ」
 舌打ちと共に再び刀刃が防護壁に激突した。途方もない衝撃がフローネに襲いかかるも、彼女は足を広げて踏ん張り、衝撃を真っ向から受け止めた。
 敵は小刻みに体を捌きつつ、刃を己が腕のようにしなやかに振るう。簡単に捉えられる動きではない。なればこそフローネは敵の目を引きつけるべく頑迷なまでにその眼前に立ちはだかった。紫水晶の障壁がひび割れ炎が手を伸ばそうと、決して揺らぐことなく。
 と、137βは追撃の手を止め、やおら跳ね飛んだ。間一髪、足元に突き立った黒影弾が口惜しそうに炸裂する。あがる黒煙の彼方で闇が口を開いた。
「ようやく追いついたわ」
 茜色の空間に異質の黒衣が翻る。温い空気を切るように笏丈を振るい、セレスティン・ウィンディア(墓場のヘカテ・e00184)は次々に魔術を顕現させた。
「ああ、聞かれる前に名乗っておくわね。私はいわゆるお節介さん、というやつよ」
 刃のような熱波動は、唯々冷たく、触れたものをバターのように切り落としてゆく。
 家屋の窓枠を蹴って波動をかわす。と、思いがけぬ死角から襲いくる貫手を見てとって137βは身をよじった。指先は脇腹を掠めて過ぎる。しかし刃物のような眼光は137βを射竦めんばかりに貫いていた。
 見た目ヲ似せてはいるが……伏見とは全く違う個体ダ。
「貴様には、こちらの相手ヲしてもらう」
 君乃・眸(ブリキノ心臓・e22801)は告げて、再び拳を引いた。

 蹲る少女の腰に手を回し抱き起すと、レフィナード・ルナティーク(黒翼・e39365)は黒翼をはためかせて飛びずさった。その身体は熱病に侵されたように熱い。
「勇名殿、無事ですか」
 問いかけに勇名はこくりと首を振った。普段から少女らしい快活さとは疎遠だが、あまりに弱々しい仕草である。
「んぅ。みんな、きてくれた……」目をうっすらとあけて言うので「大きな花火があがっていましたからね」彼女を元気づけるべく、レフィナードは少しお道化た調子で返す。
「ほんとに……間に合って良かった」
 よほど心配していたのだろう、ジェミ・ニアは祈りを捧げるように勇名の手をとり声を震わせる。そんな彼を慈しむようにエトヴァ・ヒンメルブラウエが細い肩に優しく手を添えていた。
 駆けつけた新条・あかり(点灯夫・e04291)の胸にも、彼らの想いが、熱が直接伝わってくるようであった。
 ピンと耳を張って気を引き締めて、あかりは心中ひとりごちた。こんなにも大事にされている勇名さんを決して壊させる訳にはいかない。
「勇名殿を、どうか」
「任せて」
 秘めた決意を表に出すことなく、小さな癒し手は言葉少なに答えてグラビティを編んだ。


 鋼の暴風が吹き荒れる。それは街に破壊の爪痕を残しながら徐々に勢いを増してゆく。
「面倒――だよ!」
 137βは間合いから飛び退かんとしたが「なぜ厭う? 母が抱擁してやろうというに、愛おしい仔よ」追ってユグゴト・ツァン(パンの大神・e23397)は身の丈を凌ぐ巨大な鉄塊を叩きつけた。多少の手傷を顧みる素振りすらない。
「ふざ、けんなっ!」
「巫山戯てなど。母の愛情を嘲笑するか? 赦し難い。少しばかり、お仕置きだ」
 舗装された道路が砕け、電柱がへし折れる。動作は緩慢であり虚動の一切を含んでいないが触れれば忽ちに破壊される脅威を秘めていた。敵を自由に動かさないためには最適の攻撃だろう。粉砕された瓦礫やガラス片はそのままビハインド『キリノ』の武器と化しているから尚更に効果的であった。
 ひとりでに鉄柱が動き出したのを見計らい、玉榮・陣内(双頭の豹・e05753)は前線に躍り出た。敵にそのまま駆け寄ることはしない。息を殺して狙うは未来の残影だ。
 しかして、137βはビルの壁を蹴って飛び退く。――今だ。最短距離で着地点に回り込んだ陣内は拳を振り抜いた。
 こめかみを突き抜けた衝撃に137βの膝が崩れる。弔いの花が散りゆく幻想が垣間見え、記憶は生々しく息を吹き返した。研究室、創造主、唾棄すべきβの名。
 ほんの刹那に巡る記憶の数々。しかし猛禽のごとく相手の隙をさぐっていたレフィナードにとっては絶好機であった。音もなく壁を駆けあがり、跳躍して脚を肩口に撃ちこむ。足元から小さな嗚咽がもれた。
「揃いも揃って、そこの失敗作のお友達ってわけ? 笑える!」
 137βも負けじと双刀を振り回した。刀身から噴出した炎にいちはやく反応したあかりは、素早く一丈の杖を振るう。
 太刀から迸った業火はケルベロス達を一息に呑みこんだ。辺りには異臭が立ち込め、肉薄していた者ほど身を焼き尽くすような炎にまかれる。ジェミが描いた星座の加護が残り火を茜色の空に溶かしてゆく。そも、あかりが咄嗟に生み出した雷壁の檻がなければこの程度の傷では済まなかったろう。
「あなたが何をもって彼女を失敗作っていうのか知らないけどさ、僕たちにとって勇名さんはかけがえのない人だよ」
 あかりは思い浮かべた、朴訥とした彼女の雰囲気に訪れる微かな変化を。それは花がほころび少しずつ色鮮やかになっていく様に似ていて、なぜか無性に心をくすぐる。
「ええ、失敗作などではありまセン。『イサナ』はこの星に愛された名、大切な子デス」
 エトヴァの声に一瞬137βは色を失ったが、直後、生々しい憎悪の炎を宿して勇名を睨みつけた。
 フローネは反射的に悟った。敵はただの排除命令で動いているのではない、底には澱のように鬱積した執着心があると。
「なら奪ってやる。『イサナ』の名前もなにもかも、出来損ないのあいつから!」
 137β――イサナの侮蔑に眸は一瞬眉をひそめた。しかし彼に並び立つ尾方・広喜は力強く笑顔をつくった。
「なあ眸、教えてやろうぜ。失敗作なんてもん、ここにはいねえってな」
 ああ……そうだな。僅かに口元をほころばせ視線を見交わすと眸は動き出した。
 剣を引き抜けば、駆動を始めた鋸歯が眸の気概を代弁するかのように空気をつんざいた。巨大な刀身の重量はいかほどだろうか、さしもの眸も諸手で構えた剣を振るうたびに四肢が流されそうになる。自然その動きは大振りにならざるを得ない。
 しかし背を護る頼もしい存在がいればこそ、多少の隙など憂慮に値しなかった。
 眸が剣を振るえば、続けざま絶妙な間合いで拳が降り抜かれる。それはうち返す波のように止むことなく、生半な反撃を許すことはない。
 拳をかわして側面に回り込もうとする敵の目前に、眸は刃を突きだした。鋸歯の切っ先が胸を裂く。
「伏見はもう、ワタシ達の仲間ダ。仲間に手出しはさせなイ」
 見えずとも眸は広喜の姿をありありと思い浮かべることが出来た。いま何を考え、どのような行動を取ろうとしているのかも。故に重心をかけ、身体を屈めるようにして前進する。広喜は眸の頭上を飛び越えて拳を振りかざした。
 イサナは空を仰いだ。大振りの一撃だ、避けられる。ついで地面を蹴ろうとして――頼るべき地表がないことに気づいた。
 上空に気を取られた一瞬が眸の足払いを完璧なものにした。防ぐ手立てのない、まったく無防備な状態で鉄拳が炸裂した。
 鞠のように地面を跳ねてイサナが吹き飛ぶ。苦悶に喘ぎつつ立ち上がった彼女の顔に、ふと怯えに似た光がよぎった。
「なんで壊れてないのよ……だって、あのプログラムは――」
 震える声音を受けながら勇名は一歩ずつ距離を詰めてゆく。視線を逸らさず、イサナのみを凝視めて。
「名前は、あげる。んう、ぼくたちはイサナだから」
「だまれぇ!」
 頭部ユニットが駆動をはじめ、血のように禍々しい光が回路に流れこんだ。イサナが太刀を手に飛び出した。見紛うほどに疾く、強靭に。だが切っ先が勇名に触れることはなかった。太刀はユグゴトの肉を裂いたものの骨を断つには至らず、一方もミミック『エイクリィ』によって受け止められていた。
「ゆぐごとちゃん……」
「破滅的なまでに素敵な台詞ではないか伏見様。HAHAHA、実に愉快だ最高だ!」
 哄笑をあげながらユグゴトは踏み込み、大きな動作で腕ごと叩きつけるような拳を放った。身を退こうとしたイサナの足を血だまりがすくった。ガードごと吹き飛ばされそうな一撃に加えて、ユグゴトは大きく体を回転させて脇腹に踵を叩きつけた。小さな悲鳴が遠ざかってゆく。
「己の思惟こそが己を真実と化す。なるほど名を譲ろうと伏見殿は伏見殿。世界の在り方をそこまで純粋に調伏させるとは!」
 押し寄せる眩暈に体を揺らしながらもユグゴトは上機嫌に叫んだ「さあ伏見様。往くがいい!」勇名の頭を撫で、背を力いっぱいに押す。小さく頷いて少女は走りだした。と、脳が酷い酩酊を引き起こし身体が傾いだ。イッパイアッテナ・ルドルフが体を支えて、どうにか転倒を免れる。
「傷はすぐに塞ぎます」
「任せた」
 酒浸りの翌朝よろしく、気だるげにユグゴトは答えた。

 疼くような痛みのなかイサナは幾度も呪詛をはいた「失敗作のくせに、失敗作のくせに!」中空で四肢を丸めてしなやかに着地し、迫る敵に素早く太刀を合わせる。
 衝撃は同時に訪れた。
「失敗作ね。そんな相手に、なんだってそこまで拘るわけだ。我こそがと信じるのなら、贋作なんぞに構わず堂々と居座るべきだろう?」
 ぱっくりを裂けた胸から滴る血がコートを濡らす。陣内は痛苦の相を押しとどめて、くつと唇をめくりあげて自嘲した。イサナの顔が歪む。蹴撃による痛打よりも、その態度こそが恥辱的であった。
「なにが可笑しい!」
 怒りに任せた太刀筋は単調だ。身体を倒すだけで刃は遠ざかってゆく。
 真作は己を証明などしない、傲慢で残酷だ。いかに上回る贋作があったとしても、それが贋作であるという理由だけで存在価値を奪う。それに潰された人間は数多いるのだ。件の如し。
「いや、なんでもないさ」
 それを相手が信じる謂れはなかったろう。再び刃が煌めくも陣内は避けることさえしない。しかして、紅刃は鈍い音をたてて動きを止めた。
 陣内はようやくふっと安堵の息をもらした――実はめちゃくちゃ痛いんだ、こういう傷は。
 薄く朱に色づいた花の蕾のような光盾は、ほのかに梅の香りをかもしていた。よくよく目を凝らせばそれを視認も出来たし、目の醒めるような澄んだ香りを感じることが出来たろう。しかし煮え立つ怒りを慰みえないイサナにその余裕はなかった。
「誰かに大切にされたことのないお前には……愛されたことのないお前には、それが分からないんだろうね」
 つぶやきは同時に、死臭に満ちた過去の針として、あかり自身の胸を刺した。その死臭は今でも胸の奥底に蹲って時に這い出ようとしてくる。だが今紡ぐ言葉に偽りはなかった。
「――失敗作はどちらだろうね」
 押し殺したような平淡な声が響いた。


 敵の注意が逸れている間にレフィナードは大きく側面からイサナに迫った。逆方からはウイングキャット『猫』が先行し、小さな翼を動かして懸命に攻撃をしかけている。上手い具合に敵の注意は分散していた。
「私達とあなたの見解は交わることはないのだと思います。さながら平行線、といったところでしょうか」
 懐にもぐり込む直前囁いて、瞬時に体を振って逆方へ回り込む。太刀が幾分か遅れて虚しく空気を薙ぐ。
「こちらです」
 レフィナードはその背後をとるべく姿勢を低くして大地を蹴った。イサナは声に導かれるように大きく体を旋回させたが、振り向いた先、視界の内からレフィナードは忽然と姿を消していた。
 遅まきながらイサナは理解した――やられた、陽動だ。
「んう」
 勇名は這うような姿勢から一転、跳ね起きてイサナの拳にナイフを突き刺した。切っ先が太刀もろともに手を縫い付ける。イサナは感覚のなくなった腕をしゃにむに叩きつけようとしたが、迫る影に気づき咄嗟に上腕をあげた。
「はっ!」
 気勢をあげてフローネが腕を跳ね上げる。紫心棍が鞭のようにしなり、したたかにイサナの腕を打ち砕いた。
 ぱらぱらと降る装甲片が怨嗟の眼差しと共に勇名の顔をたたいた。決して目を背けず、勇名は真っ向からその眼差しを受け止めた。なんとなしイサナの思考が流れ込んでくるような気がした。
「どうして博士は――」
 イサナの引き攣った顔が突如轟音と共に掻き消えた。眼前を飛び交う黒いカラスの群れは氾濫した濁流さながらに一筋の流れを作ってイサナを暗渠へと誘う。
 黄昏と変わった空に馴染みだした黒衣を見上げて勇名は問いかけた「むー、こわいとは、ちがう。なんかざわざわ。ぼく、どうすればいい?」セレスティンは困ったような顔で苦笑ともつかない笑いをかえした。
「私も答えはわからないわ。きっと、伏見さんが考えて、決めるしかないのね。チョコレートを作った時みたいに、自分で心から思ったことをするしか」
「……こころ」
 勇名は戸惑いをおぼえた。自分にそんなものが本当にあるのだろうか。あったとしても、それはどう使うのだろうか、と。
 勇名の呟きを耳にしたレフィナードは膝を折って、その顔を覗きこんだ。
「勇名殿。もし出来ないようなら、私がそれを成しましょう」
 ゆっくり噛んで含めるような、しかし真剣な声音であった。意味は伝わったのだろう、勇名は少しだけ瞳を泳がせて、すぐさま首を振った。
「ふるふる……それはぼくがする」
 イサナが太刀を片手に向かってくる。応じて少女は駆けだした。
 違和感は未だ残っていた。足元が覚束ない。だが動ける、ならば成すべきことがある。
「むぃ、ぼくが失敗作でも。ぼくはたぶん、いまのぼくでよかった。ぼくがしったこと、きっと失敗じゃないから」
 勇名は力を振り絞り太刀を受け止める。心や意志と呼べるものがあるのならば、いま勇名の体を支えているものこそが、まさにそれであったかもしれない。
「だから、こわされるわけに、いかないし。ぼくは、あげられない」
「うるさいうるさいいい!!」
 黄昏の街に痛々しい叫びがこだました。
 セレスティンは思った――きっと彼女は見てしまったのだろう、勇名に瞳に反射する自分の姿を。もうイサナは自分を保てはしない。悲しいかな彼女の周りには誰もいなかったのだから。その存在を肯定してくれる誰も。
 イサナは激情に任せて無茶苦茶に太刀を振るった。だが怯えきった刃は何一つ断ち切ることなど出来ない。勇名は最後の一歩で彼女の胸に飛び込んだ。握りしめた小さな拳が胸を貫いた。
 何故だろうセレスティンの目に二人の姿は、孤独な定めのなかで身を預け合う姉妹のように映った。
「あめだ」崩れ落ちたイサナの亡骸を見やりながら勇名がぽつりとつぶやいた。
「あめがふってるみたいに、ざぁざぁ、だ」
 ぼくがしってるいろんなほわほわを。それにはもやもやも、カラコロも、あったけど。イサナにも、おしえてあげたかった。ぼくがおしえてもらったみたいに――。
 だが勇名はあえて口にはしなかった。それを伝えても、救いどころか呪いの末期を演出しかねないことを、どこかで理解していたのかもしれない。
 勇名に涙はなかった。彼女にとって涙はいわゆる機能不全でしかなく、感情によって流すことは難しい。
 しかしケルベロス達には、ざぁざぁ雨が降ると呟く彼女の瞳に大粒の涙が見えるようであった。それを拭う術を持たないため、勇名の胸のみを打つ冷たい雨を黙って見ているしかなかった。
 少女は形影相弔う雨のなかで暫く佇んでいた。

作者:東公彦 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2020年4月4日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 6/キャラが大事にされていた 3
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