花の聲

作者:犬塚ひなこ

●花に宿る声
 可憐な金木犀の花が風に揺れる様は宛らちいさな囁きのよう。
 幾重もの花を咲かせる木犀の命は短い。開いたと思えばすぐに散ってしまう金木犀。ある街にはその花々が咲いている時期にだけ、不思議な少女が現れるという噂があった。
「金木犀の聲を死の歌にする女の子か……」
 山の奥へと歩を進め、少年はぽつりと独り言ちる。街の金木犀は殆ど散っている時期だが、山の中腹に遅咲きの花があると聞いた彼は自分が信じてやまない噂を思い返す。
 金木犀の花の傍で時折、美しい歌声が聴こえることがある。
 少女が紡ぐ其れは人に出せるような音域ではなく、聴く者を魅了して死の淵に連れて行くとささやかれていた。無論ただの噂に過ぎないが、かの少女の正体は妖怪じみたものだと語られている。
「皆は作り話だっていうけれど、僕は本当に居ると思う。だから――」
「私のモザイクは晴れないけれど、あなたの『興味』にとても興味があります」
「え?」
 少年がもう一度呟いた瞬間。背後から妖しい声が聞こえ、妙な衝撃が彼を襲った。声の主は少年が探し求めていた少女などではなく、興味を奪い夢の化け物を作り出すパッチワークの魔女、アウゲイアスだ。
 心を覗き終わった魔女は突き刺していた魔鍵を引き抜き、踵を返して去ってゆく。すると、倒れた少年の傍に金木犀の花めいた鮮やかな橙色の髪を持つ少女が現れる。
『花の聲を、うたってあげる』
 くすりと微笑んで歩き出した少女の正体は夢と興味から具現化した新たなドリームイーターだ。視界が歪んでいく最中、少年は不思議な少女とその背後に咲く金木犀の木に向けて震える手を伸ばし、そして――完全に意識を失った。
 
●噂の君
 不思議な物事に強い『興味』を持ち、それを確かめに向かった少年の心が奪われた。近頃、多発している夢喰い絡みの事件が予知されたと語り、道玄・春次(花曇り・e01044)は軽く肩を竦める。
「興味自体は悪くない。それが見つからんとしても、大事な心や」
 狐面を被った彼の表情を窺い知ることは出来ないが、落とした言葉からは事件への関心が感じられた。そして、協力してくれんかと仲間達に告げた春次はヘリオライダーから伝え聞いた情報を語ってゆく。
「夢喰いは一体。今は襲う獲物を探して周辺を彷徨っとる」
 敵の外見は一見は不思議な少女だが、そこに秘められた力は恐ろしいものだ。金木犀めいた橙の髪は緩やかなウェーブを描き、身に纏うのは白に花の文様が織り込まれた着物。
 今のところは山の中腹周辺に少年以外の一般人はいないので猶予があるが、放っておけば人里に下りて事件を起こす事になるはずだ。
「敵の正確な居場所は特定できんかったらしい。でも、誘き寄せる方法もあるんや」
 このドリームイーターは自分の事を信じていたり噂している人が居ると引き寄せられる性質がある。うまく誘き出せば有利に戦えると話し、春次は小さく頷いた。
 敵の能力は花に纏わるものばかりとなっている。
 花の唄、花の舞、花の癒しなど攻撃や回復動作を行う度に金木犀の花弁や香りが舞うので戦闘は何処か幻想的な雰囲気に包まれるだろう。
 だが、惑わされてはいけないと話した春次は戦いへの意志を固めた。
「噂は噂にしか過ぎん。それでも、単なる興味が本当に化け物になって人を襲う。そんな風になるなんて知ったら放っておける訳無いやろ?」
 なぁ、と傍らを見遣った春次の傍には匣竜の雷蔵がついていた。雷蔵はその通りだと応えるようにして尾を二、三度振る。その動作に満足した様子の春次は面を被ったままの顔をあげ、仲間達の方を見遣った。
 それに春次には気になることがあった。何故、少年が『死に導く』と噂される謎の少女に会いたがったのか。その理由は未だ窺い知れない。
「さて、と。行こか」
 依然として彼の感情の動きは見えなかったが、仲間達を誘う仕草には確りとしたケルベロスとしての意志が宿っていた。


参加者
ミケ・ドール(深灰を照らす月の華・e00283)
疎影・ヒコ(吉兆の百花魁・e00998)
道玄・春次(花曇り・e01044)
赤羽・イーシュ(ノーロックノーライフ・e04755)
メアリベル・マリス(グースハンプス・e05959)
汀・由以子(水隠る竜・e14708)
アデレード・ヴェルンシュタイン(愛と正義の告死天使・e24828)
ルシェル・オルテンシア(朽ちぬ花・e29166)

■リプレイ

●聞けぬ聲
 花は物言わぬ。そんなのは人が決めつけた嘘。
 されど人の身である以上は花の聲は聴けず、想像を巡らせる他ない。彼の少年も人には聴けぬ声に憧れたのだろうか。
「金木犀の聲……ねぇ」
 疎影・ヒコ(吉兆の百花魁・e00998)は小さく呟き、考える。仮に聞こえたとしてソレは何を伝えたいのか。死の歌だと云われても歌う。否、死の歌だから歌うのか。
 それこそ何の為に。知りたい事ばかりが巡り、ヒコは夕空を振り仰いだ。
「お花は、歌うの? 金木犀の聲って、どんなのかな……」
 ミケ・ドール(深灰を照らす月の華・e00283)も倣って木々が遮る夕暮れの景色を見遣る。近くに金木犀が咲いているらしく、甘い匂いが鼻をくすぐった。
 ミケさんも好き、と呟いた少女は花の唄を聞いてみたいとそっと願う。憑り付かれてしまいそうだけど、と零れたミケの声を聞いた道玄・春次(花曇り・e01044)は或る意味ではそれも悪くないと口にした。
 そうか、と首を傾げた赤羽・イーシュ(ノーロックノーライフ・e04755)はボクスドラゴンのロックに周囲を警戒するように告げ、敵を誘き寄せる為の噂話を始める。
「俺も聞いてみたいぜ。綺麗な聲なら尚良だ。歌も歌うってんなら、俺も一緒に歌ってみてぇけど。……流石にロックは合わないだろうなあ」
 冗談めかして語るイーシュに続き、メアリベル・マリス(グースハンプス・e05959)もそっと頷く。その傍らにはビハインドのママが控えていた。
「きっと甘やかで幻想的な歌を紡ぐのでしょうね」
 金木犀の精と会ったら歌を聴いてみたい。花の聲というだけでも夢が膨らむ。少女らしい思いを抱くメアリベルにルシェル・オルテンシア(朽ちぬ花・e29166)がくすりと笑み、自分の思いを語ってゆく。
「ドリームイーターちゃんの金木犀みたいな色の髪、きっととっても綺麗なんでしょうね」
 どんな子なのだろうか。花言葉のように気高い人なのか。
 ルシェルが想像する姿に思いを馳せ、汀・由以子(水隠る竜・e14708)も辺りを見渡しながら聲について考える。
「はたしてどんな聲を聞かせてくれるのか、ちょいと楽しみね」
 例えば、花のように小さく可憐な聲。それとも匂いと同じに甘くてくらくらするような聲。それが何であっても、相手はケルベロスとして倒すべき存在。
 アデレード・ヴェルンシュタイン(愛と正義の告死天使・e24828)はいつ敵が現れても良いように警戒を強め、掌を握り締める。
「人が何かに興味をもつごとにドリームイーターなぞ現れておったら子供の遊び場がなくなってしまうのぅ……。はよぅ、作り出した主を倒したいところじゃが……今は此奴の処理が先決かのぅ」
 そうアデレードが口にした、そのとき。
 そのとき、金木犀の揺れる音が囁くように耳元を掠めた。
 今にも歌が聴こえてきそうだと春次が考えた瞬間、暗い木々の向こう側から一人の少女が姿を現す。
『――花の聲を、うたってあげる』
 此方を見つめ、微笑んだ少女と面を被った春次の視線が一瞬、交差した気がした。
 金木犀色の髪に白い着物。妖しい声色。儚くも感じられる少女が確かな敵意を抱いている事を感じ、仲間達は身構えた。
 花の聲に歌を乗せて死の淵へ誘う。悲しい未来を招く訳にはいかないのだから。

●夕暮れ
 斜陽が戦場を照らし、薄い橙色に映える。
「出たわね。あの子の『興味』、返してもらうんだから!」
 ルシェルがしっかりと宣言した刹那、不可思議な金木犀の少女は手を差し伸べ、花弁の舞を放ってゆく。その標的が由以子だと気付いたイーシュはすぐさま駆け、魔力の奔流を受け止めた。
「そう簡単に狙わせないぜ。な、ロック」
 イーシュは自分と同じく防護を担う相棒に呼び掛け、体勢を立て直す。すかさずロックが主人の身を癒し、イーシュ自身も反撃に移った。
 春次もボクスドラゴンの雷蔵に皆を守るよう伝え、援護に入る。
 胸の前に掲げた指先で仲間を示すと、紙兵がふわりと舞って力の加護を宿した。由以子は自分を庇い、加護をくれた二人に礼を告げ、地獄の炎を武器に纏わせる。
「これを避けられるかしら」
 地を蹴った勢いのままに叩き付けたのは燃え盛る炎。焔が金木犀の少女の身を蝕んで行く様を見遣り、ミケも攻撃に入った。
「死の唄……物語にしたらバッドエンド……」
 ミケは童話にしたら素敵だと感じたが、今は誰も死人など出したくはない。アデレードと共に殺神ウイルスを放ったミケは敵の回復の手を少しでも封じようと狙った。
 更にヒコが仲間に合わせ、鋭い蹴撃を見舞ってゆく。
「先ずはその脚を止めさせてくれよ。……何、独り占めしたい性分なんでね、なんて」
 少女が現れる前に過ぎった疑問を思い返したヒコは身を翻した。彼女に直接、唄う理由を尋ねれば答えてくれるだろうか。だが、らしくない夢を見過ぎだと首を振ったヒコは問いかけることはしなかった。
 ヒコの一閃によって動きを僅かに封じられた少女はケルベロス達を睨み付ける。
 だが、そんな視線をひらりと躱したママが衝撃を与えた。敵の体勢が少し揺らいだ瞬間、メアリベルが攻撃を重ねる。
「ねえミス金木犀。あなたの聲を聴かせて頂戴。悲鳴だって立派な唄よ?」
 そして、紡がれたのは炎の一撃。更なる焔が少女を包み込んでいく様を見つめ、メアリベルは歌を待ち望む。
 そのとき、金木犀の少女がそっと唇をひらいた。
 彼女が口遊ぶのは花の唄。言葉ではない、それでいてなお強烈な音が周囲に響き渡った。これが花の聲を音にしたものなのか。
 それとも――。
 ふと考えが過ぎったが、春次は雷蔵に狙われた仲間を守るよう願った。標的とされたヒコに歌が届く前に雷蔵が割って入り、衝撃を肩代わりする。
 ルシェルは今しがた聞いた歌が何故だか綺麗だと感じた。しかし、すぐに己を律したルシェルは舞うようにして跳躍し、流星を思わせる蹴りを見舞う。
「金木犀、お花も香りも大好きよ。でも、誘われたりしないわ!」
「死にいざなっていいのは邪悪だけじゃ! 無差別な死を撒き散らす邪悪の権化め!」
 アデレードも首を振り、自分の思いを口にした。
 どれだけ歌に魅力があるとも相手はただのデウスエクスなのだと考え直し、アデレードは鎌を回転させながら投げつけた。其処へ続いたミケが縛霊の一撃を与える。
「ミケさん……容赦しない……。フィオーレを、手折るのは……とても悲しいけれど」
 夢喰いならば仕方がない。
 小さく呟いたミケは少しずつではあるが少女が弱っていると感じていた。このまま攻め続ければ悪夢は消える。由以子とヒコも同じ感覚を覚え、更なる攻勢に移ってゆく。
「金木犀の聲とやら、もっと聴かせて貰おうか」
 聴衆は自分達しか居ないが、ケルベロスならば耐えて聴き続けることが出来る。ヒコはそれが己が可能なせめてもの姿勢だと感じていた。
 そうして、ヒコが時空すら凍結させる弾を放つ。空気を切り裂きながら舞う一閃に合わせ、イーシュとロックが飛び出していった。
「ロック、畳み掛けるぞ」
 イーシュは呼び掛けと同時にバールを全力で投げ、ロックも竜の吐息を吐く。一人と一匹の連携は見事に重なって少女の力を削った。
「逢魔時、とはよくいったものかしら。金木犀の花言葉、色々と有った気がするけれど……陶酔なんてものもあるくらいだものね」
 夕焼けが滲む景色の中、由以子はぽつりと呟く。
 頭の中に染み通りそうな、あの強く甘い香りがそんな噂でも呼んだだろうか。
 由以子はこの調子で行きましょう、と仲間に声を掛け、炎の蹴りで以て敵を穿つ。由以子の声に頷いたルシェルは敵の背後に回り込んで気咬弾を解き放つ。その動きすら情熱的に舞うルシェルは、共に戦う仲間への頼もしさを覚えた。
 続く戦いの中、歌や花の舞が戦場を飛び交う。
 春次は仲間を庇うメアリベルやイーシュへと癒しを施し続け、戦線の維持を担っていった。癒しに徹するのは常に皆が万全で動けるようにしたいが為。
「……おいで。皆の背を支えてやってな」
 その意志は召喚された朱鞠狐の精霊の中にも伝わり、三匹の赤毛の子狐は懸命に仲間を癒していった。仄かにあたたかな力を感じたメアリベルはそっと笑む。
 そして、メアリベルは唄う敵に負けじと地獄化された歌声を紡いだ。
「メアリの歌は全てを灼き尽くす地獄の子守歌。デウスエクスも例外じゃないわ」
 怪物にパパとママを殺され、甦った代償は歌声。だから歌では負ける気はないと自負する少女は敵の歌声にハーモニーを重ねた。花の聲を恋い慕い、虜にされるなんてロマンチック。まるで夢物語みたいだから戦いの終わり方も歌で締め括ろう。
 間もなく終わる戦闘の最中、歌声は響き続ける。宛らフィナーレに続く旋律だと感じ、仲間達は意志を重ね合った。

●詩と歌
『――♪』
 花の唄は止まることなく、夕暮れの戦場を彩り続ける。
 舞う花弁が甘い香りを運んでくるのにも既に慣れた。少女はなおも妖しい微笑みを浮かべているが、その息遣いは徐々に荒くなりはじめている。
 イーシュとロック、雷蔵、そしてメアリベルは守護役として仲間の盾となり続ける。その為攻撃は分散し、癒し手の春次も余裕を持って補助に入ることが出来ていた。
 その間にヒコが不利益を与え、由以子とアデレードが積極攻勢に出る。命中重視で動くルシェルとミケもまた、敵の力を着実に削っていた。
 戦いお最中、ロックはぎゃおーと元気の良い鳴き声を響かせイーシュに飛び付いた。
「おいロック、お前の体当たりには愛が篭りすぎてて受け止めきれねぇんだけど……だが、分かったぞ。な、一緒に歌おうぜ!」
 イーシュは相棒竜の伝えたい金木犀の聲に合わせ、ギターを爪弾いた。
 それは終わりに近付く少女に向けての共鳴の意志。
 ふらつく敵を見据え、メアリベルはママと共に踏み出す。金木犀の花言葉は初恋と陶酔。彼女の歌はとても香り高くて綺麗だったように思える。
「貴女の歌はとっても綺麗……金木犀の花言葉にぴったり。でもね、メアリは欺かれない。どんなに綺麗で儚くても体の中は地獄なの」
 これがメアリの歌よ、とくるりと回った少女は大輪の真っ赤な薔薇が咲き乱れさせた。甘く濃密な芳香が充満する中、ヒコもまた金木犀の花言葉を思う。
 謙遜、真実、気高い人、初恋。
 歪め引き摺り出された花の仔。その聲でホントウに伝えたかった聲はどれだ。
「――なぁ、教えてくれよ」
 ヒコは問いかけ、答えが返ってこない事を承知で力を紡いだ。涅槃西風を纏った一蹴は、混濁した意識を白昼夢へ誘う。見舞えた縁に嘘は付かない。この名に誓い正しき聲を伝えてやる。
 その言葉の先は夢か現か。慕情にも似た甘き痺れは一途に敵の心身を蝕んでいく。
 アデレードも気合を込め、凛と言い放つ。
「この愛と正義の告死天使が我が寂寞の調べをレイクエムにそなたを死にいざなってくれようぞ! 覚悟せい!」
 光の翼を広げ、粒子を纏ったアデレードが敵に突撃する。その衝撃が金木犀の少女を揺らがせ、大きな隙を作った。
 ルシェルは叩くように地面を踏みしめ、流転せよ、と囁く。
「あなたが歌って誘うなら、ルシェは舞って応えるわ。『さよなら』の、舞を!」
 刹那、炎と灰が花弁のように空に舞い散り、やがて渦を成して迸った。舞踏魔術は茜色の空を焦がすように燃え上がり、終わりを呼び込む。
 春次は雷蔵に呼び掛け、自分達も攻勢に移ろうと告げた。
 面の下に苦笑を浮かべた春次が思うのは、かの噂を信じた少年のこと。彼は金木犀の花と同じなのか。残り短い命を終らせる為か、死の淵に会いたい人でもいるのか。
「花の元で死を……わからなくは無いな。俺も死ぬのなら桜の下がいい、けど」
 彼の気持ちを否定はしない。けれど、救う事が自分の役割だから取り零しはしない。春次達の一撃に合わせ、由以子も敵を見つめた。
「金木犀の香りは好きだけれど、禍の種を放っておくことはできないもの。さあ、ここで御休みなさい、よ」
 まだ、お前に導かれてやるわけにはいかない。
 心臓を成す青き炎が呼ばうは双つの王。それはひたすらに対象の心臓を追い求め、夢喰いを穿たんと迸った。
 周囲には金木犀の香りが充満し、ミケはなんだか匂いに酔ってしまいそうだと呟く。美しい花と香りに包まれた物語はとても素敵。
 されど、首を横に振ったミケは黄金の光を宿した刃を召喚した。
「Buona notte、フィオーレ。素敵な時間を…Grazie.」
 物語は終わるもの。だから、この手で――。
 そして、最後の審判はミケの手によって下される。迸る眩い程の光は巨大な十字を描き、金木犀の少女を貫いた。次の瞬間、それまで響いていた歌が途切れて聲が止む。
 その静けさこそが戦いの終わりを飾るものだった。

●此の先
 夢から生まれた存在は霧散し、無へと還る。
 満ちていた敵意と気配が消えたことを確認し、アデレードは胸を撫で下ろした。
「これで一件落着じゃのぅ……」
 頷いたイーシュと由以子は周囲に荒れた場所がないかを確認して回り、必要な箇所に癒しの力を施していく。
「ヒールは完了。これで元通りだ」
「元々そんなに荒れてもいなかったから良かったわ」
 二人が作業を完了させたことを見守り、ミケもこくんと頷く。その間にメアリベルとルシェルが興味を奪われた少年の介抱に当たった。
「ううん……あれ?」
「無茶しちゃだめよミスタ」
 意識を取り戻した少年に、メアリベルは事情を説明してやった。少年はありがとう、ごめんなさい、とケルベロス達に告げて俯く。落ち込んでいるのだと気付いたルシェルは彼の背を軽く叩き、慰めの言葉を掛けた。
「帰ることのできる場所があるというのは、それだけで幸せなことよ」
「…………」
 しかし、少年は複雑そうな表情をしていた。
 ヒコはまだ周囲に漂う金木犀の薫をゆるりと吸い、彼にも事情があったのだろうと考えた。かの花が好きだ。故に悲しい設定の元で具現化させられた存在を憐れむと同時に、その噂話に縋るしかなかった少年への興味が募る。
 そう考えているヒコと同様に、春次も彼の傍へと近寄った。
「如何して、そんなにあの噂を求めたん?」
 穏やかに問いかけた春次の声に、少年はおずおずと答える。
「たくさん、辛い事があって……死の歌に全部終わらせて貰いたかった。でも――」
「……でも?」
 ヒコが続きを促すと、少年は顔をあげた。
「皆さんに助けて貰って、思ったんだ。まだ死にたくないって……!」
「そっか、そんなら良かった」
 きっと彼にも様々な思いがあったのだろう。何があったかを聞くのは今は無粋。春次は立ち上がり、少年へと手を差し伸べた。往こう、と告げた言葉に込められたのは優しさ。そして、歩き出すその先には日常へと帰る為の道が続いていた。
 花の聲は聴こえない。されど、辺りを包む花の薫は不思議と心地良いものだった。

作者:犬塚ひなこ 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2016年11月24日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 5/キャラが大事にされていた 0
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