氷姫

作者:藍鳶カナン

●氷姫
 冴ゆる風に冬の息吹が混じった。
 雪だ、と待ちかねたように少年は呟いたけれど、夕暮れ時に僅かな間だけちらついたのはみぞれや氷雨だったろう。だが、その凍てる煌きだけで少年には十分だった。
 ――氷の息吹が降ったあとに、滝の傍で氷姫が待っている。
 ――心を凍りつかせて、苦しみや哀しみの疼きをとめてくれるんだ。
 子供達の間で囁かれている噂、その氷姫に今なら逢えるはず、と彼は駆けだした。
 少年が知っている滝と言えば、近くの緑地公園にある人工滝だけ。
 暖かな照柿色の空が冴える桔梗色へ澄んでいく中、薔薇色に紅葉した桜並木を駆け抜け、滝に辿りついた頃には空に月が輝いていた。
 薔薇色の紅葉の合間に一気に開けた光景。
 黒々とした石の階段を滑るよう、きらきらと輝く水が絶え間なく流れ落ちる。
 氷粒の如く冷たい飛沫を振り撒く滝は艶やかな黒御影石を階段状に組み上げ、その頂から水を流したもの。滔々と流れ落ちる水は月あかりに照らされ光を流したように煌き、濡れた黒御影石はいっそう深い漆黒に艶めいて。
「……あの子の髪みたいだ」
 知らず言の葉が零れた途端、涙も零れ落ちた。
「ねえ、ここにいるんだよね氷姫! 君に心を凍らせて欲しいんだ!」
 滝音に負けないように、涙声をごまかすように、少年は声を張りあげる。
 ふと背後に誰かの足音が聴こえれば、振り返らぬまま、崩れるように笑った。
「――痛いんだ、氷姫。あの日からこころがぱっくり裂けて、ずっとじくじく痛むんだ」
 意識するほど疼き、口にするだけで傷が広がる心地なのだろう。
 それが窺える声音でそう洩らした彼が意を決したように振り返れば、
「だからお願い氷姫、心を凍らせ――」
 少年の心臓に大きな鍵が突き立てられた。
 鍵の主が少年の願いに興味を持つことはなかったろう。
 だが、ある意味、パッチワーク第五の魔女・アウゲイアスは彼の願いを叶えたのだった。
「私のモザイクは晴れないけれど、あなたの『興味』にとても興味があります」
 意識を失って崩れ落ちた彼はもう、心の痛みさえも感じないはず。
 彼の傍らに、流れるような艶を纏って透きとおる、氷の乙女が現れた。

●凍り姫
 ――みんなは、心を凍らせたいって思ったことはありますか?
「さあ、どうだろうねぃ」
 予知を語った笹島・ねむ(ウェアライダーのヘリオライダー・en0003)が零した言葉に、ヴィルト・クノッヘン(骨唄葬花・e29598)は灰白の髪の奥に地獄の白炎燻る右目を隠したまま、軽く肩をすくめてみせた。
 心を凍らせる氷の乙女――氷姫の噂を聴いた時、胸を掠めたものは秘めたまま。
 だが抱いた危惧だけはヘリオライダーに伝えておいた。ゆえにこの、氷姫に逢いにいった少年がドリームイーターに『興味』を奪われる事件が予知されたのだ。
 魔女は既に姿を消しているが、少年の『興味』から現実化したドリームイーター、氷姫をこのままにはしておけない。ねむは拳を握ってケルベロス達に願った。
「この氷姫が誰かを凍らせちゃう前に、みんなで撃破しちゃってください!」
 氷の乙女を倒せば少年も目を覚ます。彼がそれを望まないとしても、それでも。

 月が輝く空から、薔薇色に紅葉する桜並木に降り立つことになる。
「ねむが全力でヘリオンをかっ飛ばしますので、氷姫が滝の傍から桜並木に入る辺りで捕捉できると思います! 避難勧告は出してますからひとが来ることはありません。思いっきり戦っちゃってください!」
 氷姫は相手を凍らせる幾つもの術を操るだろう。
 確実に凍らせるため、立ち位置も術の効果を重視したものになるはず。
「物理的な氷を与えてくる術と、心を凍らせてしまいたいって強く願っちゃうような催眠をかけてくる術があるみたいです。十分気をつけてください!」
「ああ、そりゃ心に痛みを抱えてる奴にゃあ強烈な誘惑になりそうだねぃ」
 癒えぬ傷を心に抱えている者などいくらでもいるだろう。
 絶えず血を滲ませ、脈打つように疼き、ふとしたきっかけで更に広がってしまうような。
 微かに竜の翼を揺らしてヴィルトが頷けば、わたしも連れて行って欲しいの~、と真白・桃花(めざめ・en0142)が手を挙げた。
「なんでぃ、真白の嬢ちゃんも心を凍らせたくなったことがあるのかい?」
 重くならぬよう冗談めかしてヴィルトが訊けば、それは秘密なの~、と尾の先を揺らした同族の娘が、けれど、と言を継ぐ。
「もし誰かが心を凍らせたくなって、でもやっぱり氷からめざめたい、解き放たれたいって思うなら、そのとき傍にいたいなって思ったの~」
 そう思うひと、他にもいるんじゃないかな――と続けた娘に笑って、ヴィルトは仲間達を見回した。
「成程な。そんじゃ、皆で逢いに行こうぜぃ。氷の姫さんにさ」
 心を凍りつかせて、苦しみや哀しみの疼きをとめてくれる、氷の乙女に。


参加者
朽葉・斑鳩(太陽に拒されし翼・e00081)
ルディ・アルベルト(フリードゥルフ・e02615)
八上・真介(徒花に実は生らぬ・e09128)
ガロンド・エクシャメル(愚者の黄金・e09925)
メドラウテ・マッカーサー(雷鳴の憤怒・e13102)
小鞠・景(冱てる霄・e15332)
クラレット・エミュー(凍ゆゆび・e27106)
ヴィルト・クノッヘン(骨唄葬花・e29598)

■リプレイ

●氷姫
 ――心を凍らせたいと思うのって、どういう気持ちかしら?
 状況は把握済み。
 けれど複雑な心の機微まではいまだメドラウテ・マッカーサー(雷鳴の憤怒・e13102)の理解は及ばず、それでも嘗てダモクレスの指揮官機として製造された娘は凍てる月輝く空へ迷わず跳ぶ。
 大地から吹きあげる風は氷の息吹そのもの、冷たい夜風を突き抜ければ灰白の髪が凍気に煽られたけれど、なおも消えぬ白炎の右目でヴィルト・クノッヘン(骨唄葬花・e29598)は月光を透かす氷の乙女を捉えて笑んだ。
「よう。逢いに来たぜ、氷の姫さん」
 濡れた黒御影石を流れ落ちる滝、氷粒の如く煌いて散る水飛沫。それらを背にした氷姫は薔薇色に紅葉した桜並木へ降り立った彼らへ微笑みかけると同時、荒ぶ吹雪を解き放った。
 猛然と押し寄せ視界すべてを白銀で埋める吹雪。
 標的は前衛陣、なのに中衛の小鞠・景(冱てる霄・e15332)まで極寒の風に呑み込まれる心地になったのは、その胸に雪と冱てる風舞う地を旅していた日々が甦ったから。
 何もかも閉ざす氷。だが彼の地の永久凍土とて溶けてしまうもの。
「さて、貴方の氷はどうでしょうか」
「俺達が凍るかそっちが溶けるか、勝負といこうか!」
 吹雪を越えて舞った景の脚が風を裂く。刃の如き蹴撃が氷姫に三重の痺れを刻んだ刹那、武装白衣の助けで吹雪を躱した瞬間に意識を戦闘へ切り替えた朽葉・斑鳩(太陽に拒されし翼・e00081)の指先が艶めく氷の肌を穿った。
 流麗な艶が鈍る様に柘榴の瞳を細め、ルディ・アルベルト(フリードゥルフ・e02615)が打ち込むのは降魔の一撃。ガロンド・エクシャメル(愚者の黄金・e09925)に庇われた彼もまた無傷、ゆえに力を喰らう必要はなかったが、氷が流れ込むような感覚に薄く笑む。
「ああ、なるほど。キミはその魂まで凍ってるわけだ」
「欠けた熱を求めてでもいるのかねぇ。ま、たとえどうあれ――行け、アドウィクス!」
 心を凍らせて夢を奪うのか、単に氷姫の逸話をなぞっているだけなのか。
 何れにせよ見逃す気など端からなく、ガロンドが眼前に光の盾を顕すと同時、金の指輪が証す契約のまま彼のミミックが蒼きエクトプラズムの武器で氷姫へ襲いかかった。
 蒼き衝撃に氷のかけらが散れば、地から一気に噴き上がった雷光が更に氷を煌かせる。
「心を凍らせる、ね。随分と医者泣かせの処方じゃあないか」
「痛みも疼きもとめて、ついでにそれ以上傷つかねぇようにしてくれるわけだしねぃ」
 前衛へと雷壁を展開したクラレット・エミュー(凍ゆゆび・e27106)が凍てる指で雷杖を握ったまま氷姫を見据えれば、彼女達癒し手を含む後衛を護るべくヴィルトが紙兵を放つ。
 三重の加護を齎す紙兵の紙吹雪、それ越しに八上・真介(徒花に実は生らぬ・e09128)が狙いを研ぎ澄ませ、
「楽にはなるだろうな。だがそれは、現状から何も『変わらない』ことではないだろうか」
「ああ、確かにそうね。なら、彼女ごとその現状も打ち砕いてしまおうかしら」
 明けの東雲と暮れの黄昏、世界の美しき変容宿す二弓を束ねて神殺しの矢を射ち込めば、氷の胸を貫いた漆黒の矢に追随するようメドラウテの竜槌が咆哮、たとえ敵が見切ったとて躱しきれぬほどの精度で竜砲弾を叩き込んだ。
 流れるような氷の衣装の裾からたちまち腿まで翔けあがる罅。
 それにも構わず氷姫は力を揮わんとしたが、景や真介が刻んだ麻痺ゆえか氷雨は降らず、ただ凍てる風が薔薇に色づく桜の葉をはらはらと舞わせたのみ。好機を逃さず撃ち込まれる炎に氷、月光と流星の煌き。
 罅さえも煌く氷姫に注がれた輝きはその身体を駆け巡り、氷の胸奥に揺らめくモザイクと相俟って虹の遊色を秘めたオパールにも見せた。
 凛と冴ゆる夜空に舞う、オーロラのようにも。
 懐かしき北の記憶、それより遠い記憶は手繰ること叶わず、瞳に映る世界は褪せたまま。
 灰の双眸も凪がせたまま景は歪な稲妻型に変じた刃を手に馳せた。自ら刻んだ麻痺や炎の軌跡を更に深めるための斬撃、だが刃を閃かせるより先に氷姫が手を伸べる。
 氷に抱擁されると思った、その刹那。
 するりと滑り込んできた少女が代わって抱擁を受けた。
「――ありがとう、ございます」
「上出来だ、ノーレ!」
 盾となったのはクラレットのビハインド、礼を告げて跳んだ横合いから景が揮った斬撃が新たな炎を引いたのに続け、クラレットも劣らぬ眩さで雷杖の輝きを解き放つ。命を震わす電圧、癒し手の浄化と雷壁の加護で抱擁から逃れ、ふつりと掻き消えた少女は氷姫の背後に忽然と現れその背を斬り裂いた。
 間髪を容れず翻された斑鳩の銃口から撃ち込まれたのは時空をも凍らす弾丸、けれど氷を重ねられた乙女の衣装をヴィルトの刺突が貫けば、幾重にも奔った雷の霊力が護りを砕いて氷を破片に変える。
 ――そら、すべてが氷でできているお前ですら変わらずにはいられない。
 あの日に凍りついた真介の心も融けだしたように。
「永遠に咲く花などないだろう。永遠に融けない氷も、な」
 懐で鼓動を刻む金の懐中時計、心を凍てつかせる感情はすべて残照宿す時計を通し魔力へ変換し、真介が放つのは鮮烈な散華を生む矢。
 氷姫の左肘から先が砕け、凍てる散華となる。荒ぶ吹雪が後衛へ襲いかかるが護り手達がその殆どを遮り吹雪をも散華として世界に散らす。
 純粋な威力が脅威となるのは恐らく氷の抱擁のみ、そして禍を克服するための加護もほぼ皆へ行き渡っているが、それでもなお侮れぬ敵だと理解するから、誰もが手を緩めず誰もが意識を研ぎ澄ましていく。
 薔薇色の桜の紅葉を震わす冷たい風に真っ先に気づいたのはルディ、
「今度こそ降るよ、氷雨が」
「来るか……!」
 黄金の鱗をガロンドが震わせたのは寒気ゆえか高揚ゆえか。
 真っ向から挑む心地で黄金竜は笑んだ。自分の弱さには辟易していたところ。優しさなど手に余る。傲慢で無慈悲な番人にして盗人たる己には凍てつく心こそ相応しい。
 ――さあ、凍てつかせてみろ!

●氷葬
 氷雨が降り注いだ。
 凍てる滴はたちまち服から肌へ、肌から心へ沁みて、絶対の凍気で魂を握り込む。それが催眠の齎す感覚だと識りながら、ルディは柔い笑みに淡い恍惚すら滲ませた。
 誰にも明かさぬ秘密を氷の奥へ押し込める。
 冷たくも静謐な平穏。心を凍らせ何も感じずにいられる空間は酷く安らかで優しくて――このまま氷に閉ざされる誘惑に呑まれかけた、そのとき。
 ぱん、と鋭く頬が鳴った。
「平手で済んだこと、喜びなさいよ!」
「凍らせたいとか知ったこっちゃねーよ、辛くたって無理矢理にでも笑わせてやるからな」
 熱を持った頬が笑みに緩んだ。ティアリス・ヴァレンティナ(プティエット・e01266)と花骨牌・旭(春告花・e00213)の声が一気にルディの心を融かす。
「大丈夫だよ、まだ大丈夫」
 今はまだ死にたいなんて思ってはいないから、再び駆けだせる。
 魂の芯までぞくりと震わす寒気に手を握り込めば、斑鳩は氷雨にすっかり体温を奪われた己が掌に、氷みたいに冷たくなった妹の遺体に触れた感触を思い起こした。
 何も考えるな時を進めるな。
 でなければ戦禍の中で妹の手を離してしまった瞬間を思いだしてしまう。それゆえに母が心を閉ざしてしまったことに思い至ればまた心の傷が口を開ける。
 魂に忍び寄る、否、己が招き寄せる凍気。
 悍ましくも何処か甘美な冷たさに歯を食いしばれば、不意に温かな手に両頬を包まれた。心臓に燈る炎の熱を伝えるように温かなそれにぐにぐにされる。
 我に返ればロイ・メイ(荒城の月・e06031)が、嘆きたければ嘆いていいと囁いた。
「だが、今は――今だけは前を向け、斑鳩」
「ありがとう……君の炎は、心の氷も溶かしてしまうんだね」
 笑み返す。即座に氷姫に意識を向ける。
 ――月よりの矢羽、貫け、眠れ。闇夜を纏え!
 銃声と迸ったのは夜風を貫き氷の肢体をも貫いて闇夜へ誘う斑鳩の金箭、氷姫の左肩から先が砕けて夜に呑まれれば、冷気とは無縁の右手を揮ってクラレットが前衛陣へ薬液の雨を降らしめた。二重の浄化で禍も痛手も一気に癒しあげる慈雨。
 幾多の仲間を癒すがゆえに浄化が届ききらぬところへは、
「ガロンドの旦那を頼むぜぇ、真白の嬢ちゃん!」
「合点承知! 解き放ちますなのー!」
 神速の稲妻を手に馳せたヴィルトが敵を牽制する隙に、真白・桃花(めざめ・en0142)が光を注いだ。
「真白さん――……そうか」
 氷の夢から醒めたようにガロンドが瞬いた。彼の指示どおりメディックとして戦場に立つ彼女の自由なる光は癒し手の浄化も孕む。心蝕む凍気から解き放たれ、振り向かずまっすぐ敵の懐へ飛び込んだガロンドの表情を見た者は氷姫ただひとり。
 弱さも優しさも抱えたまま、黄金竜は高速演算で導きだした一点、氷姫の鳩尾へ、鮮烈な痛撃を叩き込んだ。
 輝きが咲くように、氷の肢体に幾多の罅が花開いた。
 ――心の熱暴走を防ぐ冷却装置にはなるのかしら?
「だけど、私を凍らすにはそんな攻撃じゃ足りないわね!」
「ふふ、頼もしいな。傷の疼きが再燃したとて、受け入れてみせようじゃないか」
 荒ぶ吹雪、銀の波濤が襲いきても戦いの高揚が沸かせる熱は尽きず、メドラウテは勝気な笑みとともにバスターライフルの銃口で氷姫を捉えて眩い輝きを撃ち返す。凍気を中和するそれはきっと熱、メドラウテを機械としてでなくヒトとして生かす熱。
 彼女の熱に重ねるようクラレットが招く煌きの驟雨、癒しの雨が雪の嵐を押し返す勢いで降る。氷を融かして剥がして熱い血潮を通わせる。
 医の道は誰かを救い、救えなかった誰かを見送る繰り返し。
 救えなかった命を思えば胸は疼くけれど、その疼きさえも、私のものだ。
 吹雪に氷雨に抗い克服し、凍てつかず立ち止まらずに戦いの終焉へ向けて駆ける。澱まぬ攻勢のまま肉迫すれば、氷の両腕がヴィルトの背に回された。身体に、竜翼に感じる凍気。その冷たさが心にまで届けばきっともう傷つかずにいられる。
 だけど、風の音が心に響くこともないだろう。
 振り仰ぐ空は冬の曇り空のように、灰の色に覆われそれが流れゆくこともないのだろう。
「だから、姫さん、ごめんな」
 たとえ抱きしめてくれたって、抱きしめ返してはあげられねェ。
 眉を、眦を下げて、困ったように笑む。途端に燃え上がる地獄の白炎を宿した槍で氷姫を振り払う。氷の抱擁を相殺する。
 輝きが爆ぜた瞬間、光を漆黒が貫いた。
 明けと暮れの弓から放たれた、神殺しの矢。
 望みは変容と刹那。凍てつく停滞を厭うのはかつて真介の心が凍っていたから。哀しみも苦しみも乗り越えられるのだと、今の彼はもう識っているから。
「そうやって先に進むのも、やっぱり痛くはあるんだがな」
「ええ。ですが、痛みを感じる心は、それをも凌駕する幸せを感じることが出来ますから」
 暖かな襟元の奥に秘めた真鍮を強く意識しながら景が馳せた。痛みが薄れれば幸せも情も世界も、何もかもが褪せてしまうと識っている。蹴り上げた地から舞い上がる薔薇色の葉、それよりも鮮やかに暖かに燃え上がった炎を氷姫に燈す。
 最早全身を覆い尽くすような炎。
 凍てる夜を煌々と照らす輝きの中から氷姫が伸ばす手を、慈しむようにルディが笑んだ。心を閉ざすのは酷く簡単で、楽なことだと肌身で識るけれど。
 彼ももう識っていた。
 ――痛みも、案外悪いもんじゃない。
「おいで、氷姫」
 何もかもを凍らせるキミを、この地獄の炎で溶かし尽くしてあげる。
 華やかな円を描く炎の軌跡から散る火の粉が、蠅の姿の炎と化して氷の乙女に群がった。甘美なる氷を舐め尽くし喰らい尽くして、溶けて滴る雫の最後の一滴までも呑み尽くす。

●氷解
 氷姫は何も残さず世界に還った。
 凍気は儚い夢の如く消え失せたはずなのに、黄金竜の胸には薄寒さがこびりついたまま。何処か虚ろなそれを抱えて歩きだせば、薔薇色に紅葉した桜並木の中で、誇らかにはためく赤い海賊旗が視界に翻った。
 その旗の許によく識った人影を見つけて瞳を瞠る。
「よっす、ガロンド。寒かったろ?」
「おかえりなさい、ガロンドさん!」
 彼の無事なる帰還をひとかけらも疑っていなかったと一目で識れる、黒須・レイン(海賊船長見習い・e15710)の強気な笑み。ふうわりと湯気が昇るお茶を差し出してくれるリサ・ギャラッハ(密やかにえっち・e18759)の柔らかな笑み。
 ――折角心を凍らせに来たというのに。
 けれどその言葉は手渡されたお茶と、二人の笑顔の暖かさに溶けた。微かな決まり悪さも不思議な安堵も覚えつつぎこちなく笑み返す。この旗を裏切るわけにはいかないから。
「……ただいま」
 振り仰げば視界一面の桜の紅葉。
 暖かな彩に抱きすくめられ、包まれる心地になれば、自然と斑鳩の顔に笑みが浮かんだ。甦るのは勿論、戦いの最中に頬を包んでくれた友の手のあたたかさ。
 傍らの彼女を見遣れば、その胸に燈る炎。
「君の炎と同じ、暖かい色だね」
 薔薇色の紅葉を指してそう言えば、乾いた紫の瞳を緩め、ロイが再び斑鳩の頬に触れた。
「――頑張ったな」
「頑張れたのは、ロイのおかげだよ」
 泣いていい、嘆いていいと言ってくれた彼女に、今は、何よりも感謝の言葉を。
 面倒くさがっては見せても、その実構われるのが嬉しいだなんて、もしかすると二人にもお見通しなのかもしれない。だけど取りあえずルディは二人の攻撃に抗ってみた。
「お疲れルディ、ほらココア! これで心も体もポカポカだな!」
「ココアって旭、僕は子供じゃないんだから……ってかティアリス何その黒い塊やめて」
「見た目じゃないわ。いいから食べてちょうだい」
 お前の捻くれた笑顔嫌いじゃねーぞと破顔する旭のココアは兎も角、ティアリスが勧める謎物体がフォンダンショコラだって本当デスカ。
 けれど嫌がって見せてもぐいぐい迫る彼女には確実にばれているのだろう。
 真正面から向き合ってくれる二人が大切で、それが泣きたくなる程嬉しいだなんて。
 ――死んだって、口にはしないけど。
 色褪せて映る世界に、暖かな彩が射した。
 何気なくめぐらせた視界に入った、仲間が紡ぐあたたかな絆、触れあい。ふふ、と零れた笑みの吐息で悴む手を温めれば、景の胸の中にまでぬくもりが触れた気がした。
 記憶を喪って色褪せてしまったものはそのままだけれど、ひとと触れあえば、時折褪せた景の視界にも暖かな色が映る。だからいつかのように心を凍らせたいとは、もう思わない。
 微笑して、スキットルの酒を一口。
 酒精はまだ慣れないけれど、今宵はそれが身体の芯に燈してくれる熱が、ひときわ優しく温かい心地がした。
 華やかな紅葉は暖かな熱を孕んで燃え立つよう。
 だが木々が葉を落とし、世界が眠りにつくのはもうじきのこと。艶やかな黒御影石を流れ落ちて輝く滝、氷粒にも似たあの飛沫にも雪が混じるだろう。桜も葉を散らして身を縮め、凍てる風に震えるのだろう。
 けれどメドラウテは瞳を細めて笑んだ。凍てる冬の眠りは来るけれど。
「でもまた目覚めるのよね?」
「めざめるの~。眠るのは目覚めるためだもの~」
 それが生きるってことだもの、と桃花が小さく尾の先を弾ませる。
 春の目覚めか、とぽつり呟いて、クラレットは傍らの少女ビハインドを見遣った。春花の花冠で隠された少女の瞳、見送った者はすべて覚えているはずなのに、彼女の瞳は、彼女が誰なのかは、一向に思いだすことができない。
 もしも記憶が凍りついているのなら。
「なあノーレ、いつか春がくるように、めざめて思い出せるようになるだろうか」
 ネモフィラで目元を隠す少女は、微かな笑みを湛えて首を傾げるのみ。
 けれど、あの少年にも春は来るだろうか、と零れた声には、大丈夫さ、と笑うヴィルトの声が返った。言葉は交わさなかったが、きっと。
 氷姫に逢えなかった少年。
 彼と同じくヴィルトも、今宵は胸に住む姫君と逢えぬまま。
 舞い降りた薔薇色の葉を掌に受け、しょんぼり垂れた竜翼を誤魔化すよう戯けてみせる。
「ったく、俺の姫さんはすっげェつれなくてさ」
「ふふふ~。わたしは気を付けていってらっしゃいって言ってもらったの~」
「それでも此処にゃあ来ねェってか! やっぱり意地っ張りだねぃ、あの姫さんは」
 悪戯な笑みで明かす桃花にヴィルトも姫君との秘密をこっそり明かした。
 ――それは、ずっとずっと昔の話。
 白薔薇のピンを取って広げられたのは紅葉めいた色合いの大きなストール。
 お疲れ様ね、と片白・芙蓉(兎頂天・e02798)がそれを纏わせてくれたなら、真介の懐で濃青の鳥が囀った気がした。己の裡で地獄の炎が熱を増す。親愛なる友や仲間を想うたび、炎が強くなる。
 凍てついた心は彼女達のおかげで融けはじめた。
 氷の永遠は望まない。雪や氷が融けて春が来るよう、若葉が紅葉し凍てる風に散るよう、美しい変化の中に在り続けたい。
「ありがとう、芙蓉。来てくれて」
「ええ。冬も冷たさも必要なものだけど、お前が凍えているのは嫌だもの」
 花咲くためのものならば、めぐりの中に氷があってもいい。
 言葉少なく、花の如く声なく変わっていく彼の変化を瞳に映し、芙蓉も笑みを咲かせた。
 ――凍てる冬がやってくるけれど、その先に必ず春も、めぐり来る。

作者:藍鳶カナン 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2016年12月2日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 1/素敵だった 7/キャラが大事にされていた 1
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