人々から存在を忘れ去られたが如き郊外の廃墟の一室で、蔦に絡みつかれる格好で囚われた少女は、瞼を腫らした目でぼうっと虚空を眺めていた。
「どうしてミユばっかり、こんな……他の子なんてもっと、ずっと」
静けさを厭うよう無理に口を動かしてみれば、零れたのは疲労に掠れた怨嗟。殆ど無意識だったのか、半ばで彼女ははっとして、留めた声の代わりに涙を流した。頬の埃が僅かに洗われ跡を残して行く。細く鮮明になった肌色はしかし、どこかに強くぶつけたかのように青黒い。薄汚れた寝間着から覗く肌にも、幾つか同じような痣が見えた。
「──解るわ」
不意の声に少女は体をびくつかせた。部屋の扉を開き現れた声の主に、彼女は脅えた目を向ける。が、見上げた顔は柔らかく口の端を上げていて、少女は怪訝そうに目を瞬いた。珍しい、と言いたげな風でもある。
そうして戸惑う少女の傍に身を屈めたのは、長い暗色の髪を結い上げた女。このような場には不似合いにも見える、髪も肌も花で飾られた出で立ちをしていた──それらが本当に、ただの飾りでありさえすれば。花にまみれた細い手がすっと上がると、少女はびくりと身を竦ませる。
だがその手は、きつく目を瞑る少女の縺れた髪を撫でるよう、そっと添えられた。
「『どうして自分ばかりが辛いの』『幸せな他人が妬ましい』……でしょう? 解るわ、私も同じだもの」
「え……」
「だからあなたに、この花をあげる」
優しい色をして綴られる言葉。驚いて目を開けた少女を縛る蔦を、女の指が辿る。その動きを追うようふわり、蔦に黄色の花が咲いた。荒れた室内に慣れた目には眩しい色なのか、少女が目を細める。
「──だから、私のお願い、聞いてくれるわよね?」
少女の心が揺れた様が幼い瞳に過ぎった、その隙を逃す事無く声は問うて。蔦は少女の肉に馴染みきり、ぶわりと黄花は彼女を苗床に幾つもの花を開かせた。
満開となる頃には既に女の姿は無く、ヒトの少女であったものは一人、自由に動く幼い手を伸ばして外へと続く扉を押し開けた。
「近頃攻性植物が動いている、という話なのだけれど。一つ対処を頼みたい件があるの」
そこそこ都会のとある住宅街周辺の地図を広げた篠前・仁那(オラトリオのヘリオライダー・en0053)は、郊外の空き家から街へ至る手前にある、田畑から川までのエリアを示し、攻性植物の迎撃と撃破を依頼した。
その際は、畑または河川敷が比較的戦い易い地形だろうからケルベロス達で選んで欲しいと仁那は続ける。より郊外寄りの畑は、広く見通しが良い為想定外の事態にも対応し易いと思われるが、足元が悪い上、作物に少なくない被害が出る事。街近くの河川敷では、堤防が壁となる為もあり万一近くに第三者が居ても被害が抑え易いであろう事、対岸まで含めれば広さは十分だが川に入った場合は、深さはそれほどでも無いもののかなり動きにくくなる事に注意が必要だろう。
「敵の見た目については……、この街で少し前に捜索願が出された六歳の女の子が居るのだけど、その子の全身に黄色い薔薇がびっしり生えたような状態、というのが近いと思う。完全に取り込まれているようで、彼女自身を助ける事は、出来なさそうね」
少女は年齢相応を超えた『出来た子』だと近所では評判で、行方不明となって彼女を知る人々は大変心を痛めているのだという。その彼女を配下にした別の攻性植物が居るのだと考えられるが、現状その足取りは掴めずにいた──ケルベロス達の手を借りられれば、とヘリオライダーは思考するが、そちらは事が済んでから持ち掛けるべきだろうと頭を切り換える。
「あと敵に川沿いの、街側の堤防を越えられないようにして欲しい。そうなると人が殺されたり、建物に被害が出たりするでしょうし……彼女の保護者や知人の耳にも入るかも、しれないし」
どのみち悲劇は避けられないが、せめて、という事なのだろう。最後は迷いつつ言い終えて、仁那はそっと息を吐いた。
敵の狙いはグラビティ・チェインの獲得と見られている。市街地に入る事を許せば被害は拡大し、更なる事件を呼び起こしかねない。最終的に街全体が攻性植物の支配下に置かれる事もあり得る。
また、敵は己が姿を不特定多数に見られる事は避けたいらしく、夜の出来事になる為、人通りは無いか、あったとしてもごく僅か。ケルベロス側が余程劣勢になりでもしなければ、第三者が犠牲になる事は避けられると思われた。告げて仁那はケルベロス達を見つめる。
「既に出た被害から人を救うことは、出来ないけれど……あなた達の力があれば、起こる前の事件は回避出来るもの。今回の彼女の『主』についてはわたしの方でももう少し調べてみるので、今は、彼女を止める事に集中して貰えると嬉しいわ」
参加者 | |
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花凪・颯音(欺花の竜医・e00599) |
シグリッド・エクレフ(虹見る小鳥・e02274) |
罪咎・憂女(捧げる者・e03355) |
神宮時・あお(散リ逝ク桜・e04014) |
志藤・巌(壊し屋・e10136) |
終夢・美海(虚愛フレイム・e11396) |
グレッグ・ロックハート(泡沫無幻・e23784) |
西城・静馬(極微界の統率者・e31364) |
●
雲色に煙る夜空の下。川沿いは街灯の明かりすら届かぬまま闇色に沈んでおり、密かに待ち伏せるのには好都合と言えた。
猶予は未だ少しある。ケルベロス達は周囲の確認を終えて後、各々照明を消した。この場において点けたままではひどく目立ち、敵の警戒を誘いかねない。
郊外側の堤防に沿ったその足元は、上から川を望む者には死角になり易いと考えられた。不意を突けるかは相手次第だが、奇襲を受ける事は避けられる、あるいは、そうなっても対応出来るだけの距離はある筈だ。
そうして可能な限りに目と耳を研ぎ澄ませて待つ。稀に無関係な人が通りすがるのを、同じく無関係な人の振りをしたケルベロスがさりげなく遠ざけたりするうちに夜は深まり、街が眠りに沈み行く頃に件の少女は現れた。
堤防の上から川を見下ろし、己の小さな体を顧み、そっと斜面を下りる事にした彼女には、未だケルベロス達に気付いた様子は無い。しかし仕掛ける機をはかる緊張を察したのか、彼女は斜面の半ばで足を止める。警戒している様子が見えて、彼女の出方を待つのは危ういと西城・静馬(極微界の統率者・e31364)が動いた。
「こんばんは。そんな沢山の花を携えて、どなたに会いに行くのですか?」
僅かの間、訝るような沈黙があった。二者の視線が交わって、見下ろす方は次いで他のケルベロス達の存在も確認して、考えつつといった風に応じる。
「お兄さん達こそ、どうしてここに?」
問い返す声は、ごく普通の少女のものに聞こえた。
「あなたは家に?」
ゆえに探る色を隠して重ねられた問いへはまず、長い沈黙が返された。彼女が此方の人数を把握したのならば暗くしておく意味も無いと、待つ間に一つ二つと照明が灯る。少女の位置は光を直接浴びるには遠いが、その輪郭が異形と化したものである事は見て取れた。
「…………うん」
更に躊躇いめいた沈黙を経て、少女が短く肯定を返した。ケルベロス達が近付きも驚きもしなかった為か、此方の意図を問う色を滲ませていた。
「──じゃ、ごめんネ?」
ケルベロス達が布陣し終えたのを確認し、終夢・美海(虚愛フレイム・e11396)が口を開いた。
「貴女をここで止めさせて頂く」
通りたければ、と罪咎・憂女(捧げる者・e03355)が告げる。前へ出た彼女はそれでも、少女を迎える為の場所を空けて。高所からとはいえ、翼でも無ければ一息に此方を越える事など出来ないであろう位置取り。
「……そう」
ケルベロス達が得物を構える様を見、少女は理解に至ったのだろう。
「お兄さん、お姉さん。皆、ミユの敵なんだね」
彼女に咲く黄薔薇が強く、光を放った。
●
薔薇が香る中、先んじて動いたのは花凪・颯音(欺花の竜医・e00599)と神宮時・あお(散リ逝ク桜・e04014)。青年が術を紡ぐ声を聞いた少女は薄紅の翼で風を捉え跳ぶ如く斜面を駆け上り、刹那目を瞠った敵との距離を詰めた。押し退けるで無く、誘い込むべく背後を狙い足技を仕掛ける彼女からミユは身を逃がし、あおより更に小さな体は土を踏めずに斜面を転がり落ちた。衝撃で千切れた花弁が黄色く撒き散らされる。
ケルベロス達が成した檻に落ちるミユを迎え撃つのはロゼ、敵のそれとは違う淡い花を舞い散らし彼女を苛む。だがそれでも彼女は止まらず、灯す光は見る者の目を灼く白に達し闇を貫く。起きあがろうとする敵の身を再度崩しに掛かった静馬の脇を過ぎて、追撃に蹴りを見舞うべく迫っていた志藤・巌(壊し屋・e10136)の肩を白光が撃ち抜いた。焼けて痛んでそれでも彼は歯を食い縛り耐えて、敵を牽制しつつ次撃の機を探す。
しかし、シグリッド・エクレフ(虹見る小鳥・e02274)が治癒の為、グレッグ・ロックハート(泡沫無幻・e23784)や出口・七緒(過渡色・en0049)らが援護の為に術を行使し、応じて自陣の態勢を整えるうちに、各々悟る。
射手達は、何としても敵を捉えねばならないと。敵は向けられる一撃ずつを丁寧に捌いている。同時に多方向から仕掛けるには、敵を逃さぬ為に選んだ正面の壁が邪魔をする形になり、隙は見出すだけでは足りず、作り出さねばならない。
盾役達は、皆を確実に護らねばならないと。敵の攻撃は鋭さには欠けれども、此方の隙を狙い的確に繰り出されていた。防御を固めて上手く凌がねば、思う以上の被害に繋がる。
此処を戦場としたのは、生物全てへの被害を極力抑える為でもあるのだから。
幸いなのは、敵の行動が比較的読み易い事だろうか。当てるだけならば不可能では無かろうに、例えば熱光を撃ち続けたりはしない。定石を踏みある種型通りに戦う敵の在り方は、元となった少女の性質を反映しているのかもしれない。
ゆえ、ケルベロス達も同様に一つ一つを積み上げて行く事で、手を届かせる。ある程度とはいえ彼女の思考を読み得るほどに打ち合って凌ぎ合ってようやっと機を引き寄せた。
動きを鈍らせた敵を捉える。グレッグが纏う銀色が流れる。獲物を喰らう為の蔦はこの時宿主の身を護る鎧となるべく絡み合い、されど鋼の力を纏う彼の一撃は緑をかわし少女の体に突き刺さる。
願うのは速やかな終わり。幼い『ミユ』にどれほどの咎があったというのか、せめてその苦痛が少しでも軽くなるようにと、グレッグは願う。
されど。
(「彼女は今も真に『彼女』だろうか?」)
少女の瞳に灯る害意を受け止め、憂女は自問する。嫉妬の花に魅入られる程の、深く同化し得るような疚しさを幼い少女が持つ事はあり得ても、少女がヒトであった以上はそればかりでは無かったろうと疑心を抱く。少なくとも憂女が知るヒトとは、そういうものだった──目を塞がれ耳を塞がれ矛盾に苛まれたとしても、悩み、迷い、それでも選び、歩み得るもの。
ゆえに少女もまたそうであったと、彼女は信じる。少女を埋め尽くすほどに隠す薔薇の呪、アレだけが少女の意義ではあり得ないと。
(「だから貴女を『貴女』ごと、此処で」)
傷刻み呪縛を研ぐ藍刃を厭い絡み来る蔦を、力で斬り払う。少女を置いて距離を取り、ふらつく敵が次をと動く前に手を伸べたのは巌。蔦の束を捉えた籠手が赤熱し薄闇を照らす。棘すら焼き切り深々拳撃を打ち込んだ。
ミユの吐息が疲労に染まる。少女の視線が宙を舞って、びゅるりと蔦が伸びる。子供の足では届かぬ距離を渡るよう茨が地を掴むのを、美海の炎が焼き払う。
「逃がさないワ!」
包囲を抜けようとしての事と見て取った。彼らが定めた戦場の終端、水際で跳ね駆けつつ彼女は周囲に目を配る。視界の端に眩い光を捉え急ぎ敵を顧みれば、此度のそれは他者を撃ち抜く熱線では無く自身の傷を塞ぐ為のものと判った──幸いそれは分を超えた異常を成さず、案じた者達は安堵した。ならばと美海はシグリッドへ己がサーヴァントを預ける。敵の攻撃が緩んだ隙にと彼女はそのまま相手の動きを注視し攻めた。
「お支え致します」
要請に頷き胸の前で手を組んだシグリッドから光が溢れ、盾を象る。仲間達を護り動くうちに癒しきれぬ傷を多く抱えた颯音へ守護を。助力を乞われたテレビウムは、敵の熱線に依る痛みが冷め切らぬまま耐えていた憂女を励ます。
「ありがとう」
憂いが解消されて颯音は杖に帯びていた雷を敵へと向ける。白を伝う力はより不穏に瞬き轟音を伴い夜を駆けた。
「攻勢に」
「無論だ」
敵が守りに入るのならば堪えている筈と、冷静に乞うたグレッグに巌が力強く応じた。グレッグの足に炎が咲いて、夜気に熱を灯す。朱が薙いで敵の蔦が散り、晒されたミユの目がケルベロス達を捉えるのと同じように巌が正面から踏み込む。彼の拳は敵の護りの上から連撃を叩き込み、ラストは天より重く腕が下ろされて、敵の身を地へと縫いつける。
常人ならば意識どころか身の平衡すら危ぶまれる衝撃を受けてしかし、デウスエクスはごく低い位置から光線を撃った。川へと伸びるそれはケルベロス達の足元をくぐり、水のすぐ手前に居たテレビウムを穿つ。小さな体が衝撃に跳ねて水に沈む。咄嗟に顧みた者達の目には、呑まれたサーヴァントがすぐに川底へぶつかり不規則に水面を揺らす様が映った。
美海が拳を握る。外から見るだけでは判り得ない水中の状態が推測出来て腑に落ちた。今川に入れば危険。子供の身長ならばなおの事。敵の左手、やや包囲の薄い方を塞ぎに動く美海を見て、ミユは逆へと走る。囲まれたままでは不利と突破口を探していた敵も、前もまた後ろ同様に道は無いと知ったのだろう。
だが敵の行く手には憂女が回り込む。翼で重心を御して地に這う緑を跳び越えた。
「行かせられない」
槍で足元を払うようにして道を塞ぐ。束の間手薄にしたそちらへ再度、攻め手達が走る。
「良いコはおやすみの時間だモノネ」
「……終わりに、しましょう」
美海の身から生じた黒流体が敵へと迫る。あおがそっと、ミユへ語り掛ける如く囁いた。声は詩を紡ぎ、討つべき相手を捉え、殻めいて未だ残る蔦を次々払って行く。
「──ナノマシン全散布」
静馬の声が短く命じる。硬質に光を弾く白腕が駆動して、闇を仄かに照らした。拡がる光はほどなく剣の形に収束し、少女の身を斬り払って後、再度散る。
闇に融けるその瞬きは、暗き黄泉へと沈み行く少女を導くかのよう。
●
骸が地へと頽れる。傍に膝をついた巌が僅かに眉をひそめた。
「遺体は駄目だな……服もか」
低い声は、同じく亡骸を調べる為に近くに屈んだ静馬にのみ届いた。少女の肉体は今なお薔薇と同化したままで、引き剥がすならば破損を覚悟せねばならない。纏う寝間着は生えた蔦に破られ最早ぼろ同然な上、布自体も汚れて変色していた。
「釦は割れていますが何とか、といったところでしょうか」
小さな足は両方共靴下に包まれていた。片方だけ汚れが酷く、少し前まで右足には靴があったのだと判る。
「この辺りに落ちているかもしれませんね」
戦ううちに、と推測した憂女が捜索の手伝いを申し出た。少女が身につけていたものは事態を究明する手掛かりであり、果ては遺族を慰める遺品となり得る。青年達は、まずは、と調査に手一杯だった。
「待て」
皆を手当していたシグリッドが近付いて来るのに気付き、巌が制止した。調査に当たる二人の手当の為もあろうが、彼女は憂うままに死したであろうミユを想い、せめて、と手を伸べる事を望んだ。だが戸惑いつつも彼女は声に従い足を止め、直後、既にほど近い場所に居た為に驚きと共に口元を押さえる。
彼女の場合、ミユの傍に寄るのはこれが初めてだった。薔薇の香りに紛れた悪臭に気付いてたじろぐ彼女に巌は、ミユが何日もの間劣悪な環境に置かれていたであろう事を説明し、その根拠となる彼女の傷や汚れを順に示した。理解してシグリッドは礼を告げ、それでも、と少女の傍に膝をついた。
「ミユさんが、お独りで辛い時を過ごされた事は変えられませんし、助けて差し上げる事も出来ませんでした。ですが、せめて」
彼女の手が、ごわつき絡まった黒髪を撫でた。労るような、懺悔のような、遠慮がちな指は祈りと、答えを失った問いを囁く。綺麗な死に顔とは行かぬ苦痛の果てに、ミユは自由になれただろうか。
(「あなたがもう、何にも囚われずにいられますよう」)
彼女が瞼を上げると、傍にグレッグが片膝をついていた。同じように目を伏せていた彼とやがて目が合い、けれど交わせる言葉も無く、悼みだけを共有する。
(「もしも彼女に『次の生』が訪れるのであれば」)
グレッグは胸中に唱えた先の祈りを反芻する。信じてもいない夢想にそれでも救いを期待した。靴を履いて『自分で家出したかのよう』に失踪した少女はデウスエクスに監禁され、結果安らかならざる死を迎えたのだ。六年と幾らかの彼女の生の内実は判らずとも、終わりはあまりに早過ぎた。理不尽を埋め合わせる夢物語があっても許されるのでは──。
「ネエ、これを見テ?」
重く静まる空気を不意に、美海の声が塗り替える。手伝った靴探しの成果がその手にあった。集めた灯りの下で調べた結果、傷んで汚れた靴の踵に記されたミユの名が見つかった。
調査の邪魔にならぬようにか仲間達から幾分離れた川の傍で、あおはミユの為に目を伏せ祈る。重ねて組まれたその手が、きつく握られ白んでいる事に颯音が気付いた。ミユの件を聞いてからこちら、彼女がどこか落ち着かぬ様子である事を察していた為もあり彼は。
「あおさん、それでは怪我をしてしまうよ」
触れるよりも手前。近づき気遣うよう手を伸べたものの、熱が空気を伝うかも定かでは無い位置から、驚かせぬよう優しく声を掛ける。目を開けた彼女は言われて初めて爪を立てるほど手を握り込んでいた事を知ったか、強張った手をぎこちなくほどく。
「……ごめん、なさい、です」
「握るなら僕の服の裾にして貰えると嬉しいな」
何なら破られても構わないとばかり勧められてあおは、表情こそ揺らがぬものの、指を伸ばす事を躊躇う。なので彼は少女の手中に布地を差し込んだ。持ち主の体温に温むそれを反射的に、縋るに似て握ってから彼女は、元々思索に沈むよう下がり気味だった視線を更に落とした。
「…………ごめん、なさい……」
瞳は思いを映す事無く、悔いる如く瞼に隠された。その様は、青年からの心配も気遣いも、彼女には重罰であるかのよう。
「こういう時は『ありがとう』で良いんだよ」
ゆえ颯音は、努めて柔らかく諭す。彼女は独りでは無いのだと伝える術を探して彼は彼女の視界の外、寄り添うに似て彼女の傍に留まるロゼへも微笑み掛けた。
田畑を越え郊外に至る。木陰に隠れるようにして、件の空き家はあった。家というよりは小屋と呼ぶのが似合いの小さなものだ。
「うん? ──わっ」
戸口を探し壁伝いに歩く最中、何かを踏んだ感触に気付き足元を照らす。トンボの胴と、千切れた羽。踏み殺したかと慌てたが、そうでは無い事はほどなく知れた。よくよく見れば、辺りには同じような虫の死骸のほか、鳥の羽毛と絞め殺されたと思しきその主がまばらに落ちていた。個体数はそれほどでも無いが、種類はそれなり。
「惨いですね」
「な」
誰が、なんて問いへの答えは、少なくともミユでは無かろう、とだけ。羽を毟られ大分禿げていた鴉などは、六歳の少女の手で縊るには大き過ぎた。蔦を使ったと仮定しても、外傷の跡が矛盾を示す。
少し悩み、羽と死骸は写真を撮るだけに留めそのままにしておく。明けてから警察に依頼する事も考え、周辺に人の立入を拒む印を巡らせた。
扉を見つけ家に入ると、まず悪臭に気が付いた。埃の匂いに交じるそれはおそらく生物の痕跡。室内に灯りを向けると、埃の状態には偏りがあると判る。空気もさほど澱んではいない。目に付いたのは壊れた農具と土嚢らしきもの程度で、すぐに奥に続く扉が見つかった。
奥の扉を開けると悪臭が酷くなる。
「綺麗好きは来ない方が良いな」
鼻と口を押さえてぼやき、悪臭の元を検める。大きめの地震の後のように荒れたこちらの部屋の一角には、ミユの体から出たと思しきもの達が床を斑に変えていた。殆どは水分が飛んでおり、そう新しいものでは無いと判る。虫の姿も見えて、調査結果を纏める筈がつい口数が減って行く。室内全体にまばらに散る花弁に心を慰められる時点で酷い。
それらの花弁を集めてみると、色は黄だけでは無く白や橙のものも少量交じっており、種類も一つだけでは無いと見て取れた。千切れた破片から今此処で種類を特定するのは厳しいが、持ち帰れば何かしらの収穫はあるだろう、と回収する。そのまま室内を探索すると、床の汚れの傍を中心に何本かの黒い毛髪らしきものと、部屋の隅に汚れきった小さな靴の左足が見つかった。
現時点で可能な調査を終えたと判断し屋外へ出ると、重さすら違って感じる空気に気付いた。だがまずは報告を、と携帯電話を取り出す。
「何か判ると良いけど」
淡く白に染まる息が、願いを連れて夜に吸い込まれた。
作者:ヒサ |
重傷:なし 死亡:なし 暴走:なし |
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種類:
公開:2016年10月17日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
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得票:格好よかった 3/感動した 0/素敵だった 0/キャラが大事にされていた 3
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