ケルベロス大運動会~菩提樹通りで昼食を

作者:月夜野サクラ

 二〇十六年、夏。
 母なる地球はデウスエクス達による容赦のない侵略攻勢に晒されながらも、壊れることなく新たな季節を迎えていた。全ては日夜終わらぬ戦いに身を投じる、ケルベロス達の奮闘の賜物である。
 しかし平和を享受するその一方、人類が何の代償も払わなかったかと言えばそうではない。相次ぐ全世界決戦体制(ケルベロス・ウォー)の発動は、世界経済を大きく疲弊させていた。もしこのまま大きな戦いが続けば、世界は凡そ持ち堪えることが出来ないであろう。次なる戦いを勝ち抜く為には、落ち込んだ経済状況を打破しなければならない。
 そこで――偉い人達は考えた。
 おもしろイベントをぶち上げて、一発当てればいいんじゃね? と。
 普通の人間にとっては危険極まりないエンターテインメントでも、グラビティ以外でダメージを受けることのないケルベロスならば安心して挑戦することが出来る。そこで注目されたのが、最高のプロモーター達が手掛けながらも、その危険さ故に今日まで封印されてきた『ハイパーエクストリームスポーツ・アトラクション』だ。巨大で危険なスポーツ要塞を造り上げ――この時点で物凄い金が動いている気がするけれども――世界の英雄ケルベロスを餌、もとい目玉にして、世界経済を盛り上げようという試み! それこそが、第一回『ケルベロス大運動会』なのである!
 栄えある開催地はインド共和国。
 八月十一日(木)、決戦の時はもう間近に迫っている――。

●陽炎の揺れる街
「……と、いうことだそうだ」
 淡々と、これといった動揺もせず淡々と、ゾルバ・ザマラーディ(ドラゴニアンの刀剣士・en0052)が言った。その隣で、レーヴィス・アイゼナッハ(オラトリオのヘリオライダー・en0060)はげんなりと白い翼の先を下げる。
「よりによってこの暑い時期に暑いとこで、しかも運動会とか……」
「嫌なら来なければいいだろう」
「だっ、誰も行かないなんて言ってないでしょ!」
 貸して、と男の手からチラシを奪って、レーヴィスは紙面を覗き込んだ。何ともチープ……否、味のあるチラシからはそれが具体的にどんな催しなのかさっぱり解らないが、その訳の分からなさが反って見る者の興味を掻き立てる。
「まあ、運動するかしないかはともかく……遥々インドまで行くんだから、ご飯くらいは美味しいのが食べたいよね」
 地図をなぞる指先が停まったのは、競技会場にほど近い一角。道沿いに菩提樹が日陰を作るダウンタウンには飲食店も多く、食事を取る場所には事欠かないだろう。地元住民達も多く訪れるレストランはいずれも本場のインド料理を供する店ばかりで、カレーはもちろん東西南北の郷土料理を楽しむことが出来る。
 一理ある、と肯いて、ゾルバは言った。
「腹が減っては、ということもあるからな」
 昼時にはしっかりと体を休め、水分と栄養を補給して次の競技に備える――炎天下の運動会を最後まで戦い抜くには、オフの時間を楽しむことも肝要だ。暑い夏には辛い食べ物が付き物、ランチタイムには会場外まで足を延ばしてみるのもよいかもしれない。


■リプレイ


 八月十一日、インド某所。
 土肌の目立つダウンタウンは昼下りの熱気に燃えていた。しかし煮え滾るような熱風すら、汗を掻いた体には涼やかに感じられる。
「本場のインド料理、堪能しますわよ~」
 蒼海のサリーを翻し、レーンが言った。花に青、白に赤、色鮮やかな民族衣装を纏って、レプリカント達が街を行く。
「片っ端から食べるしかありませんね」
「くぁ~美味ぇ~のオチね~♪」
 タンドリーチキンを齧って琥珀が頷けば、ヒナタが至福の声を上げる。一方ユーリエルは、口腔を満たす旨味の分析に忙しい。
「このスパイスの組合せでこういう味になるのですね……」
「う、う!」
 突然、天音が苦悶の声を上げた。ナンで掬ったテイクアウトのカレーは、想像以上に辛かったようで。
「大丈夫か? ほら、慌てないで」
 すかさず水を差し出して、覇漠が言った。その横では澄香が、黙々とチキンを咀嚼している。
「唐辛子はダメであります……でもこれなら大丈夫なのであります」
 ヨーグルト漬けのマライチキンは、辛味が苦手な者にも優しい味わいだ。はしゃぐ仲間達の姿に苦笑しつつも、ティーシャは小さく肩を竦めた。
「ま、楽しめる時に楽しまないとな」
 明日も何が起きるかも知れない、この時勢だからこそ。
 今日はケルベロス大運動会――時はお待ちかねのランチタイムである。
「これがインドの焼き鳥……!」
 道路に面したスタンドの一角。立ち昇る芳醇な鶏の香に、シロガネは瞳を輝かせた。表情豊かに揺れる尾は見飽きるということがなく、いつきは思わず頬を緩める。
「美味いか?」
「うん! 父さんも食べて!」
 ほらと差し出すチキンは、炭火のタンドールで焼き上げた本場の味。受け取ればそれがまた嬉しいのか、緋い尾がぶんぶんと振れて止まらない。
「サモサとチャパティ、それとカレーを」
「お~い早く持ってきて~!」
 注文を遮る声にぎょっとして、シヲンは振り返った。見れば食卓を囲んで、ルアと箱竜のポラリスがじゃれている。
「は・や・く!」
「……」
 道行く人々の視線から逃れるべく、シヲンはさっと顔を背けた。尤もあの様子なら、少々頼み過ぎた所で困ることはなさそうだが。
「後学の為にも、本場のチャイの淹れ方を間近で見たいものですね」
 カフェの片隅に席を取り、アレフガルドが言った。廉価な茶葉を砂糖とミルクで煮出したチャイは甘く、スパイスの香が身体を内側から熱くする。
「温かいのは流石に暑いな」
「大丈夫?」
 ばたばたと忙しなく団扇を動かす冬也に、倒れたりしないでねとすみれは微笑った。行過ぎる風は香辛料の匂いをはらんで、異国の風情を思わせる。
「本場のチャイを飲む夢、まさか叶うなんて思っていなかったのだぁ♪」
 唇に残った雫をぺろりと舐めて、ブランクは満面の笑みを浮かべた。さて次はと立ち上がって、道の向うに見た顔を見つける。
「ゾルバ殿、どこか辛すぎない食事処は知らないのだ?」
 声を掛けると、竜人は悪いと首を横に振った。
「俺も初めて来る場所だ。よくは知らん」
「でしたら、宜しければご一緒させて頂いても?」
 一人で食べるのも味気なくてと、リルミアが歩み寄る。詳しいのかと問うブランクに、にこりと笑って娘は応じる。
「東はご飯にマスタードオイルの魚カレー、西はご飯かパンに菜食料理……他にも色々あるそうですよ」
 辛い物が苦手な者もそうでない者も、楽しみ方は千差万別。折角ならば美味しい昼食にありつかんと、ケルベロス達は評判の店を訪ね歩く。
「おーい! ブラックちゃーん!」
 呼ぶ声に足を止めて、ブラックは振り返った。見れば大きく手を振って、リーズレットが駆けて来る。一緒に食べないかと誘う言葉に、黒髪の少女は諾と応じた。
「こういう料理は初めてで……何かお勧めがあると良いのだけれど」
「バターチキンカレーなんかオススメだぞ!」
 行こう行こうと背を押して、向かうは地元の人々で賑わう食堂街。建物の陰からひょこりと街並を覗いて、実麻は手帳を取り出した。
「まずはカレーの美味しいお店から行ってみようっ!」
 いつかまた訪れる日の為に、調査と記録は念入りに。通り過ぎるレストランのテラスでは、信吾とフェイが頼んだ料理を待ち侘びている。
「フェイは何を頼んだんだ?」
「オレはオーソドックスにカレーと、あと、マンゴーラッシー」
「あ、ラッシーいいな!」
 追加しようとメニューを開くと、店員がやって来た。腕の皿にはキーマカレーにミントソースのサモサ、その他色々のインド料理が載せられている。悪戯っぽく笑って、信吾は言った。
「沢山あるから一緒に食べようぜ」
「食べる食べる!」
 美味しいものは人を幸せにする。今は心と体にしっかりと栄養補給して、午後の競技に備えるのだ。


「おお地元の皆様、世話になる! ケルベロスが大挙して来てすまんな」
 やあやあと食堂の入口を潜り、鬱金は鷹揚とした口振りで告げる。しかし、何が美味いと問う声の答えを待たず、メリーナがメニューを指差した。
「メニューのここからここまでぜーんぶ下さいっ!」
 食事時のレストラン内は、訪れたケルベロス達と地元の住民とでごった返していた。煌びやかなサリーの裾を摘んで、由以子は少し照れ臭そうに口にする。
「普段着なれないものを着るのも新鮮で楽しいし、ドキドキしちゃうわね」
「ええ、でもやっぱり暑いですね」
 苦笑気味に頬を掻いて、たしぎはターバンを外した。刺すような陽射しこそないが、料理の熱と人々の熱で室内の冷房は殆ど効いていないも同然だ。しかしクルタ・パジャマ姿のエイトは涼しげな顔で、手書きのメニューを捲っていく。
「俺はビリヤーニというのを頼んでみよう。他の料理もあれこれ食べてみたいな」
「ふふふ、食べるものはリサーチ済みだ! ノーマルラッシー、桃入りラッシー、ミターイ、ミティチャワル……甘味どんと来い!」
 事前に調べておいたインディアン・スイーツを並べ立て、創は意気込む。運ばれてくる料理をわくわくと待つこの時間も、旅先の楽しみの一つである。
「字が読めぬ……」
 開いたメニューをまじまじと見詰めて、桜歌は眉間に皺を寄せた。しかし苦戦する彼女を横目に、夏輝は慣れた手付きでスマホを操作する。
「こういうのも社会見学ね~」
 科学の進歩とは斯くも偉大なものか――例え文字が読めなくても、辞書や写真でいくらでもコミュニケーションを取ることが出来る。ふふ、と堪えきれない笑みを零し、シルクが言った。
「インド料理って初めてなんです。皆さんは何を頼まれるんですか?」
「そうだな……郷に入っては郷に従う」
 写真つきのメニューを捲って、パトリックは思案する。鶏肉のキーマカレーもよいが、野菜炒めや豆のサモサなどのベジタリアン料理にトライするのも悪くない。色々分けて楽しみましょと笑う夏輝に肯いて、零司は先に頼んだアイスチャイを傾ける。
「初めて飲みましたが、なかなか美味しいですね。ひとつ持ち帰れないものでしょうか?」
 或いは淹れ方を学べば、日本に帰ってから再現できるかもしれない。談笑するその背中では、大皿を抱えた店員達が忙しなく行き来している。
「折角だから美味いもんいっぱい食ってかないとな! とりあえずビール!」
「君らこの真っ昼間から酒を飲むのかい……?」
 圧巻の肉率を誇る食卓を前に、イェロははしゃいだ声を上げた。訛った英語は解り難かったがどうにか通じたようで、リーアは次々と運ばれてくる大量の皿を並べ替える。酒類に対して保守的なお国柄ではあるが、近年は国際化の影響もあって都市部、特に外国人の多い街では比較的気軽に酒を嗜むことが出来るらしい。
「リーア、お召し上がりにならないのであれば私が頂きましょうか」
「ボルド、いらないのなら寄越しなさい」
 山盛りのタンドリーチキンから種々のカレーへ代わる代わる手を延ばし、ギヨチネとリリは食べ続ける。殆ど肉食獣のような二人の前に食べかけの皿を置き、ルースはビアグラスを手に取った。しかし熱気のせいだろうか、汗を掻いた瓶の中身は既に少し温まっている。
「温いな」
「インド風味って思えば呑めるだろ。呑まないなら頂戴」
 くつりと笑って褐色の手からグラスを奪い、雨祈はフィッシュティカを齧る。肉だけではなく、海老も魚もインド料理には欠かせないアクセントだ。全くと嘆息して、ルースは揚餃子らしき料理を摘むのだが。
「……甘いんだが?」
「ああ、それ。ココナッツ入りの揚げパイで、グジヤって言うんだと」
 カルダモンの香るパイをハイペース且つ無表情に口へ運びながら、やはり美味いとアルベルトは独りごちる。俺にも取って! と手を挙げるイェロの背中には、菩提樹茂るテラス席が覗いている。
「正に五感で楽しめる料理、ですわね」
 緑の影が涼しげなテーブルで、千鶴夜は瑠璃の瞳を細めた。チキンと挽肉、二種類のカレーに合せるのは、ナンと長粒のバスマティ・ライス。夏野菜の色鮮やかなカチュンバルは見目にも美しく、景臣は頬を緩め、頂きますと手を合せた。千切ったナンでカレーを掬えば、想像よりもまろやかな旨味が口一杯に広がって行く。
「いやはや、美味しい物の力は偉大ですね」
「ああ、このスープを飲むとなんとなく落ち着くよ」
 艶めくスープを一匙掬って、ローレンスは笑った。トマトベースのラッサムは辛味と酸味が特徴だが、香るスパイスが一層食欲を掻き立てる。
 隣合う卓で一切れのクルチャを掲げ、智親が言った。
「この味を覚えて、今度作ってみましょうかね」
 向いの席に座す人へ、微笑み傾ける杯は火酒。秘めた想いを飲み込めば、雫が甘く喉を灼く。


「インドではスプーンじゃなく素手で食べるんだよね」
「へぇ……」
 友人の言に感心したように相槌を打ち、エリオットはカレーの器に視線を落とした。実態は地域によっても異なるようだが、ライスも手で食べるとなると馴染みのない者も多いだろう。恐る恐る指先をカレーに沈めてみると、あっつい、と短い悲鳴が上がる。
「あ。リーオ、カレーついてる」
 しょうがないなと笑って、レスターはエリオットの頬を拭った。無意識に世話を焼いてしまうのは、同い年の友人がまるで弟のように近しく感じられるからだろうか。
「右手オンリーってのは意外と落ち着かないな」
 ぺろりと指先のカレーを舐めて、悠は言った。大きな丸盆に小皿料理とナンを載せた料理はインド風の定食、ターリーだ。手掴みでの食事は思いの外に難しかったが、慣れればそれも楽しくなってくる。
「ん、でも、これはアタリだな」
「うん、スパイスが効いてる。だいぶ辛いけどうまいな!」
 ぴこぴこと動く耳に笑って、ハインツが応じた。楽しげに交わす声にじっと手元のカレーを見詰め、ロイは主君に向き直る。
「ガルソ様、一口如何ですか」
「頼んだなら己で平らげろ」
 しかしあっさりとあしらわれ、狼はしゅんとして耳を垂れた。その背後では、コッペリウスらが賑やかに食卓を囲んでいる。
「っひゃ~、からいぃ!」
「み、見るからに辛そうなんだけども……」
 特注のタンドリーチキンは火を噴くほどに辛く、少年は笑いながら灰色の翼をばたつかせた。恐る恐る後に続いたクローネも、結果は然り――口を抑えて悶絶する姿にあらあらと苦笑して、レイラはアイスチャイを差し出した。冷たい紅茶はその甘味で、口内の熱を優しく冷ましてくれる。
「さくらおねーさん、こ、これ、おいひいからたべてみて」
「どれどれ……んっ。これはビールに合いそう!」
 辛さに目を回したシルの手から豆の煮物を受け取って、上機嫌にさくらは言った。彼女にとっては本場インドの香辛料も、程よい酒の肴らしい。流石はスパイスの国――タンドリーチキンに舌鼓を打ち、ヴァルカンは感心したように呟く。
「素晴らしい香だが、辛さもまた一級だな。カレーも、他の物も興味深い」
 凡そ食べ尽くせない種類の料理達も、分け合えば楽しみは倍になる。あれこれと食べ比べが出来るのは、大勢で囲む食卓ならではだ。
「本場のカレーには違いないんだけど……」
「これがホンバのホンキでしょうか……?」
 真っ赤なカレー皿を前に、ミリアとアイギスは首を捻った。おかしい。確かにさっき、甘口を頼んだ筈なのだが。
「なあ、甘口って頼んだよな。な」
「はーなますてなますて(棒読み)」
「ミリア、辛口カレー食べたいって張り切ってたからね」
 程よい辛味のカレーをぱくつきながら、ペルフェクティとヴィルフレッドが応じた。何、別に難しいことはしていない。激辛カレーを運んできた店員に、たった一言囁いただけだ――このカレーは、彼女にと。
 ぴきりと額に青筋を立てて、ミリアはスプーンを振り翳した。
「みんなもこのくるしみをあじわうべきだ!」
「! 待て、話せばわかギャ――!」
 見た目に違わぬ凶悪なカレーに、悲痛な叫びが響いた。しかし祭の熱気は、そんな喧騒さえも呑み込んで行く。
「人と来るとよく頼むのは相変わらずだな……」
「? そうか?」
 じっとりと見詰めるアッシュの視線に、瞳李が応じた。これでも控えめに頼んだ心算だというテーブルの上にはホウレン草とチキンのカレー、そして山のようなナンが店を開いている。
「累音は食べ物足りてるか?」
「足りている……というより、増えている気がするんだが」
 ただでさえ巨大なナンが瞳李の手でもりもりと積まれて行くのを眺めて、累音は言った。他愛ないやりとりにくすくすと笑み零して、宿利はカレーを掬い上げる。
「おじさま、かさねも、一口交換する?」
「おっさんが乙女の間接キス奪うとかまずいだろ」
 にやりと笑ったアッシュの言に、累音が小さく吹き出した。冗談ですよと苦笑して、宿利はテーブルの下に足を遊ばせる。
「それにしてもこんなに遠い所まで、皆で来たのは初めてだね」
 見上げれば抜けるような青空に、白い夏雲が眩しい。
 ナッツとカルダモンのクルフィを一匙掬って、ラウルは満面の笑みを浮かべた。
「んー、おいし!」
 卵を使わない氷菓子は香ばしく濃厚で、それでいてさっぱりとした味わいだ。じっと見詰める視線に気付いて顔を上げると、向いの席でシズネがあーんと口を開ける。
「しょうがないなあ」
 じゃあと摘み上げたのは、橙色に艶めくジュレビ。口の中でさくりと崩れる揚げ菓子は、甘い幸せを運んでくる。
「ニアは何か得意な競技はある?」
 緑のカレーをナンで掬って、市邨が言った。問われたオルニティアはきょとんとして、空に視線を廻らせる。
「ん、とね……ボールを使うのは、苦手、なの。駆けっことかは、好き、よ」
 遅いけれどと気恥ずかしげに、天使ははにかむ。かけっこ、と繰り返し、市邨は少し考えてから続けた。
「ねえ、ニア。食べ終わったら、菩提樹通りを駆けっこしようか」
 思い起こせば運動会など、まるで縁がなかったけれど。楽しそう、と微笑んで、オルニティアは肯いた。午後の競技に戻る前に、腹ごなしというのも一興だろう。


 時計の針は十二時半を回り、街は一層の賑わいに包まれていた。道沿いのテラスの一席に座り、ジェミは向いの席に微笑い掛ける。
「どう、海咲さん。おいしい?」
「う……」
 口を抑えた海咲の顔色が、見る見る内に赤くなる。一口貰ったカレーの辛さは、彼女の想定を遥かに超えていたのである。
「み、水! ラッシーでも、いえラッシーがいいです!」
「あら、そんなに辛かった?」
 辛くして欲しいと言えば、どこまでも辛く出切るのがインド料理だ。割れるような物音に驚いてチキンの串を落としかけ、狼無は慌てて周囲を見回した。すると隣の席に座っていた雪乃が、椅子ごと引っ繰り返っている。
「狼無……今までありがとう。私、辛いの全く駄目だったわ……」
「雪乃!? し、しっかりしろ、ゆきのぉお!」
 そんな訳で一部が阿鼻叫喚の様相を呈してはいるものの、昼食の時間は総じて恙無く進んでいた。切り分けたドーサの一欠を口に運んで、リヴカーはきらりと瞳を輝かせる。
「マスター、このクレープは実に美味い。ぜひ食べてみてくれ」
「お前さんらに甲斐甲斐しくされると、なんだかくすぐってぇな!」
 カッカッと豪快に笑って、思江は勧められるままドーサを齧った。鼻先を撫でる熱風はそれ自体が、スパイシーに薫り立つようだ。バナナの葉を皿にカレーをつつきながら、レッドレークが言った。
「そうだ、後で市場でも覗いて行かないか?」
「おぉ、楽しそう! 日本に持って帰って、美味しく料理してもらうのでござー!」
 スプーンを持つ手を思わず振り上げて、ユタカが同調した。日本では中々手に入らない珍しいスパイスも、この国の市場でならば手に入るかもしれない。
「んー、いい匂い。スパイスの香っていいよな」
 マトンの煮物から昇る匂いに、シルヴィアは鼻をひくつかせる。どろりと濃いホウレン草カレーをつけるチャパティは、全粒粉の生地を窯を使わずに焼き上げたパンの一種だ。
「そうだね。命が濃い感じがして」
 また一緒に食べたいなと、標は少し恥ずかしそうに笑った。誤魔化すように傾けたラッシーを、テレビウムのカルピィがじっと見詰めている。
「へっへーチキン一個もーらい♪」
「あっ! どうして私のを~」
 悪びれた風もなくチキンを掠める手に、舞花はぷうっと頬を膨らせる。その様子が可笑しくて、虎次郎は思わず吹き出した。
「怒んなって! 俺のも分けてやるからさ」
 あーんしな、と促すと、膨れながらも口を開ける所が彼女らしい。鶏挽肉を乗せたナンを千切ってやれば口に合ったのか、白い頬が紅潮する。
「いっひひ……頼みすぎちゃった」
 照れ臭そうに頬を掻き、慧は眉を下げて笑った。しかし一見、女三人で分け合うには多過ぎる料理も、彼女にとっては日常の範疇だ。その一角を摘みながら、ヒメが言った。
「運動会の都合とかもあるけど、時間に余裕があるなら観光もしてみたいわね。シフィルはどう?」
「どちらでもいいけど……二人が行きたいなら、付き合ってもいいわ」
 誘う言葉に顔を背けて、シフィルはベネチアン・マスクの目元を染めた。インド経験のある慧が一緒なら、少し遠くへ足を延ばすのもよいかもしれない。
「これ大半を一人で消費か……」
 丸揚げしたジャガイモをスパイスで煮たダム・アールーに、ささげ豆のカレー。聞き慣れない名も食べる食べると肯く内に、テーブルの上は皿で溢れていた。乾いた笑いを零すウーリの心中を他所に、エトヴィンは悪びれた風もなくせがむ。
「とりあえず一口ずつください!」
「はは。一口ずつ」
 いい気なものだと思いつつ、お望み通り一匙ずつ。熱い熱いと騒ぐ姿は雛鳥に似て、咎める気持ちも失せてしまう。
「うう、辛……どうかしました?」
「いや、なんでも」
 くるくると表情を変える恋人を見詰めて、緋雨は笑った。可愛いと思っただけだ――後に続く言葉を知らず鞠緒は首を傾げたが、興味はすぐに一匙掬ったカレーへと移る。
「お家に帰ったら、試してみたいですね。難しいかもしれませんけれど」
 もしこの味を家でも再現することが出来たなら、食べる度に今日を思い出せるから。
 微笑み見やる道の両端には、菩提樹の影が揺れている。
「はい、あーん」
 葉陰のベンチに身を寄せ合い、孝太郎はスプーンに掬ったカレーをシャインの口元へ差し出した。弾む鼓動を感じながら、ぱくりと一口含んでみると。
「……?! か、辛いっ!」
 見る間に顔を赤くして、シャインはアイスチャイを飲み干した。スパイシーだが甘い紅茶と木々の枝葉を縫う風は、痛烈な辛さをほんの少し和らげてくれる。
「こうやってのんびり過ごすのも、良いものですね」
 道行く人の流れを眺めながら、ラインハルトが言った。
 戦いを忘れ、緩やかな流れに身を任せる時間――それは、束の間の安らぎに過ぎないのかもしれないけれど。
 ええと小さく肯いて、イピナはアイスチャイに唇を寄せた。
「こんな時間が、ずっと続いたらいいな」
 殺伐とした日々だからこそ、せめて今日だけは優しい時を。
 祈るような呟きを、微風が空へと攫って行く。


「ん?」
 ひよこ豆のカレーを一口含み、いちるは瞳を瞬かせた。折角なら辛めにと頼んだのだが、思ったよりも辛くない。しかし。
「んん゛っ!」
「いちるさん!?」
 身悶えし始めた友人に驚いて、イルヴァは反射的に立ち上がった。そうだと手元のバナナラッシーを差し出すと、いちるはごくごくと喉を鳴らして飲み干して行く。油断大敵――辛さというものは大体後からやって来るのだ。
「あっ、こらソル!」
 揚げたてのサモサを欲しがって、夕陽色の小竜が鳴いた。これは俺のと憤慨しつつも、タルパは千切った欠片を手に載せる。くすりと漏れた笑みに視線を向けると、向かいの席ではネフィリムが優雅にカレーを食している。
(「やっぱり、電気仕掛けなのかな」)
 いつも手袋で覆われた手は、食べ物を直接掴むのには適さないのかもしれない。取りとめもなく考えていると、おやと戯けた声がした。
「タルパ君」
 ここ、と口元を示す指が、何を意味しているかは考えるまでもなく。慌てて口元を拭うと、剥がれたサモサの欠片を風が散らした。菩提樹の枝葉を揺らす音色は、誰かの奏でるシタールだ。
「リリア、ほら。あーん?」
「も、もう、ラハティエルったら!」
 皆の前なのに、と頬を染めつつ、リリアは差し出されたナンの欠片を受け取った。尤もそんなやり取りにも慣れたもので、ゼロアリエは気にした風もなくタンドリーチキンにかぶりつく。
「んーシアワセ! 肉にガブッと行くのはオトコのロマンだよ~」
「緑色の、カレー……この、おっきな、パンに、つけるの?」
 見たことのない料理を前にして、十輪子はどきどきとナンを千切る。コク深いマトンカレーは辛いが美味で、エスタンテは満足げにラッシーの杯を置いた。
「ラッシーも一緒だと、口の中が楽になるね」
「本当、ヨーグルトの風味が爽やかで……さーちゃんも飲む?」
 同意と共に苦笑して、ベルティーナは沙慈へコップを差し出す。すると辛い物が苦手な竜派の少女は、深緑の瞳に涙を浮かべ肯いた。
「本場のカレーがこんなに辛いなんて……!」
 受け取ったラッシーを懸命に嚥下すれば、舌に残る辛味が幾らか和らぐ。けれどいつか振り返る時、この辛さは今日の日を鮮明に思い出させてくれるだろう。
「あつい……とけそう」
 テーブルの上に突っ伏して、ジルカは言った。毒を持って毒を制すとはよく言うが、真夏のインドに大運動会はやはり暑すぎる。
「全く毒制してねーや……お?」
 へばった篝の鼻先を、芳しい匂いが擽った。運ばれてきた器を掲げて、朝希はほらと笑い掛ける。
「美味しい食事が一番の元気の素ですよ」
 やった、と軽やかに、ジルカが卓から跳ね起きた。手に取るのは角切り野菜の色鮮やかなコールマーだ。
「んーおいしっ! 味見してみる?」
「いいね。こっちもどうだ?」
 篝が勧めるのは、酸味の利いたタマリンドスープ。並ぶカレーは選り取りみどりで、思わず目移りしてしまう。
「辛いけれど美味しい、ってこういうのよね」
 口腔を満たす程よい辛味と旨味に、千歳は落ちそうな頬へ手を添えた。その傍ら真っ赤なマトンカレーを掻き混ぜて、ゼレフは口角を上げる。
「さて、激辛挑戦者は居るかな?」
「激辛? 大げさな……っ!?」
 好奇心から一匙を口へ運んで、ルビークは声を失った。喉を焼き舌を痺れさせる辛さは、流石本場と言うべきか。
「食も人も、刺激ばかりじゃ飽きるわよ」
 柘榴の光るライタを掬い、オルテンシアは言った。カレーの辛味を抑えるのに、ヨーグルトサラダはもってこいだ。
「このジュレビっておやつも美味しそうですよ」
「ジュレビ! 食べ終わったら注文していいかしら?」
 草臥れたガイドブックを朝希がなぞると、甘い物好きのアデリーナが食いついた。何度目かの乾杯に桃色のカシミーリー・チャイを傾け、ゼレフはぽつりと口を開く。
「やっぱり、特効薬だねえ」
 仲間達の笑い声は、吹き付ける風の熱さも忘れさせてくれる。道の果てに揺れる陽炎はまるで、今日までの足跡を見せるかのようだ。
「……からい」
 ぼそりと言って、ティアンは灰色の眉をひそめた。ナンで掬ったカレーは思ったよりも辛く、アイスチャイで誤魔化してもまだ少し舌がひりひりする。
「ロー、たべるのてつだってくれ」
「あ? んだよ、苦手なら最初に言えよな――ちゃんと食えよ? お前細っこいんだし」
 残りも貸せ、と皿を引き寄せてその代わり、ローデッドはサモサを一つティアンの皿に置く。からくないのか、と瞳を瞬かせて齧ってみれば、さくさくとした歯応えが小気味良い。
 家族を知らない自分と、家族を忘れた少女。満ちる空気の不思議な優しさは、二人にどこかしら通じる所があるからなのかもしれない。


「すこし辛い気もするけど、これくら……うっ」
「辛そ……俺はナンだけでいいぞ」
 辛口タンドリーチキンに噎せる梅太を横目に、ネルは千切ったナンのひとかけを口に放り込んだ。仕上げはと取り出したフルーツは見たことのない色と形をしていたが、一口齧れば甘酸っぱい味と香が美味である。
「あ、ネル、フルーツわけて」
「こら、何してる」
 食べきれないチキンを皿に乗せ換えてくる梅太に、唯覇は咎めるような声を上げた。とはいえ残すには忍びない味を突き返す訳にも行かず、結局全て平らげることになるのだが。
「ふう、美味しかった!」
 空の器に匙を置き、メリルディは満足げに息をついた。あどけない笑顔は年齢よりも幼く見え、リラはくすりと笑みを零す。
「ねえ。メリルは、大切なひとのことを、いつ、好きだな、と、思った、の?」
「!?」
 此処でそれを訊くのか――不意打ちの質問に内心目を白黒させつつ、メリルディは平気な風で笑った。
「今はインドを楽しもうよ、ね?」
 誤魔化すように掬ったココナッツアイスが、口の中で優しく溶ける。本場のカレーで胃を満たした後は、お楽しみのデザートの時間だ。
「ほらオルネラ、あーんして!」
「あら、食べさせてくれるの? じゃあ私からもはい、あーん」
 摘んだジュレビとカジュロールをお互いの口に放り込み、ロゼとオルネラは笑い合う。とにかく甘いことで有名なインドの甘味はいずれも、甘党なら一度は挑戦してみたいものばかりである。
「デザートどうしよっか? ナッツ入りのバルフィと、飲み物は……」
 辛い物を食べた後に甘い物が欲しくなるのは、人の性。もう一度とメニューを貰って、凪はうきうきと頁を捲る。その向いで同じくメニューを開きながら、アヤメは唸っていた。
「アイスマサラチャイかマンゴーラッシー……くっ……悩む!」
「あ、じゃあ! 私はチャイにするからアヤメちゃんはラッシーにしない?」
 甘いお菓子に甘い飲物、食事を終えてテーブルの上は一変する。泡立つインディアンコーヒーを片手に、パトリシアは言った。
「それにしても随分頼んだわね」
「ヤ、ほら……普段は男一人でスイーツ食べるのってアレだから、ね?」
 折角の機会だからとつい、頼みすぎた――そう言って、シェーラは俯いた。年頃の少年らしい悩みは可愛くて、つい揶揄いたくなってしまう。
「あ゛ま゛ぁ゛い゛……!」
 木陰のテラス席にヴィルベルのくぐもった声が渡る。
 腹拵えを済ませいざ本番のスイーツと、意気込み口にしたグラブジャムンの甘さは想像の限界を超えていた。甘党の彼がこうなるからには相当なのだろうと、頼んだナディアも狼狽する。
「甘い物好きならいけるのではと思ったんだが……うっ」
 噛む度に染み出す激甘のシロップに、ラッシーの味が消えた。流石、世界一甘いの称号は伊達ではないらしい。
「これは……想像以上だな」
 だが疲れは吹き飛ぶと、フランツはグラブジャムンを噛む。揚げ菓子のムルクに舌鼓を打ちつつ、新鮮な味だわとルトゥナは笑う。
「色んな味を堪能すれば、フランツちゃんのお菓子作りにもきっと参考になるわね」
「ああ、そうだな」
 異国の地の慣れない甘さも、いつか創り上げる極上の菓子のエッセンスに。笑い合えば楽しい時は、まるで矢の如く過ぎて行く。
「え? もう時間ですか?」
 じゃあ後一杯だけ、と、奏過は笑顔でグラスを傾ける。もう! と憤慨したように声を上げて、リアが言った。
「それ、さっきも言ってましたよっ! 今度こそ帰りますよぉ~!」
「あれ、そうでしたっけ?」
 肩を怒らせる姿に苦笑して、奏過は席を立った。午後の競技に出るのなら、そろそろ発っても良い頃だ。
「いい店見つけてくれてありがとうな、スプーキー!」
「大したことじゃないよ」
 腹も膨れ、木陰を抜ける風は涼やか。満ち足りた表情の雄介に応じて、気に入ってくれたなら幸いとスプーキーは笑う。それにしてもよく食べたなと見渡すと、トレイシスが涼しい顔で言った。
「今からまた体を動かすのだ、沢山食べても差し支えあるまい」
 種々のカレーも山盛りのマサラフィッシュフライも綺麗に消えて、空になった食卓へ運ばれるデザートはクルフィ。ありがとう、とスプーキーが流暢なヒンディー語で店員に礼を述べれば、まあと真尋が感嘆の声を上げる。
「此処の言葉も堪能でいらっしゃるのね」
「取引先があるんでね。それより、この前話したクルフィ――インドの氷菓子だよ」
「おお、サウナの後の水風呂の原理だな!」
 ありがたいと豪快に笑って、雄介はクルフィの器を取る。ナッツとミルクが主体の氷菓子には卵を使ったアイスクリームのような滑らかさこそないが、濃厚で、それでいてさっぱりとした風味はなかなかの一品である。楽しみにしていたその味に頬を緩めて、ダニエラは言った。
「これなら午後からも頑張れそうだな」
 照りつける日差しは、まだまだ弱まる兆しもない。
 冷たい甘さで乾いた喉を潤したなら、もう一度出掛けよう――世界を巻き込む大運動会は、ここからが正念場なのだから。

作者:月夜野サクラ 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2016年8月11日
難度:易しい
参加:135人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 20/キャラが大事にされていた 7
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