●月の夜
深い、暗い森の中。
空の月と虫の声、時折に梟が鳴くばかりの人が立ち入らぬ筈の場所。
佇むのは、一人の老女だ。
膝をついて覗き込んでいるのは、磨かれた鏡のような湖で。
月の光をきらきらと反射しているその水面を、一心に老女は覗き込んでいる。
「…過去が、見えるんでしょう? どうか見せて下さいまし、私に過去を。そして、連れて行って」
懸命に枯れた声が涙混じりに言い募るが、水面は風に揺らぐばかり。
「お願い、お願いだからどうか。――こうふくな水底の国へ」
水面を覗き込むのに必死な老婆は、背後に立つ黒い魔女の姿には気づかない。
胸を突き刺す、大きな鍵の存在にも、――貫かれるまで気づかなかった。
「私のモザイクは晴れないけれど、あなたの『興味』にとても興味があります」
第五の魔女・アウゲイアスは意識を失い崩れゆく老婆を一瞥する。
傍らに生まれたのは、深い水底の藍色を瞳に映した白い女の姿だ。
魔女は立ち去り、残されたドリームイーターは身を翻し湖へと身を沈めていく。
そうして凪いだ水面から、するりと伸びるは真っ白な女の手。
夜目にも目立つ異様に白いその手首は、手招くように優雅に揺れて。
「おいで、おいで。――わたしはだあれ?」
水底へと――招くモノ。
●幸福な時の欠片
「今日もお疲れさま。――じゃあ、始めようか」
招集に応じてくれた皆へと一礼すると、トワイライト・トロイメライ(ヴァルキュリアのヘリオライダー・en0204)は資料を手に口を開く。今回彼が説明するのは、第五の魔女・アウゲイアスが引き起こしたドリームイーターの事件だ。
「不思議な物事に強い『興味』を持って実際に調査に赴いた人間が、ドリームイーターに襲われ『興味』を奪われた。
この『興味』を元にして現実化したドリームイーターが、事件を起こそうとしている。
ドリームイーターが一般人を襲う前に、どうか撃破してほしい。
そうすれば、『興味』を奪われてしまった被害者もまた、目を覚ますことだろう」
静かな口調でトワイライトはケルベロス達に説明をしていく。
敵のドリームイーターは一体。
出現したのは、深い森の奥地にある湖だという。
『月の夜、湖を覗き込むと幸福だった過去が映る。そこで湖の女王が招いてくれる手を取れば、水底の国へと行ける。水底の国は、永遠に幸せな過去に浸れる場所だ』という都市伝説が最近流行っていた。
興味を奪われた老婆も、都市伝説を信じていたのだ。
これを元にして生まれたドリームイーターは湖の奥底に沈んでおり、手だけを見せて手招きをする。正面から挑むのであれば、水中での戦闘を余儀なくされる。ただ、とトロイメライは言葉を足す。
「ドリームイーターはその存在を信じられたり、噂している相手には引き寄せられるという性質がある。湖を覗き込み、そこに映された過去に連れて行ってと願えば――連れていく為に、ドリームイーターは姿を現すだろう。そうすれば、陸上での戦闘も可能となる」
ドリームイーターが映す『幸福な過去』とはあくまで、当人の持つ記憶を引き出すだけの事。だから、当人は確かに湖に過去を見るだろうが、他人にはただの湖にしか見えない。
幸福な過去を持たなかったとしても、何も映らない湖を見て連れて行ってと願えばドリームイーターは現れるかもしれない。
また、ドリームイーターは姿を現した時、『自分が何者であるか問う』真似をして、正しく対応できなければ殺してしまうという性質を持ち、逆に正しく答えられれば襲わないとのことだが、どちらにしても戦闘を行う必要があるので正答の有無は戦闘には影響しないだろう。
このドリームイーターはトラウマを見せたり、毒を使ったりしてくるようで搦め手に長けているようだ。
「興味――、人に迷惑をかけなければその感情自体否定して良いものではないだろうに。時に縋るような思いで興味を抱くことだってある。
どうか、悲しい事件を起こさないように。それから、君達も無事で――いってらっしゃい」
トワイライトは最後に皆の顔を一人ずつ見渡して、穏やかな笑みでケルベロス達を見送る。
参加者 | |
---|---|
十夜・泉(地球人のミュージックファイター・e00031) |
ゼレフ・スティガル(雲・e00179) |
鬼屋敷・ハクア(雪やこんこ・e00632) |
橘・芍薬(アイアンメイデン・e01125) |
三刀谷・千尋(トリニティブレイド・e04259) |
イルヴァ・セリアン(あけいろの葬雪花・e04389) |
紗神・炯介(白き獣・e09948) |
相摸・一(刺突・e14086) |
●水底にて
湖面へ向かう仲間達を見遣り、控えるのは三人。
「湖を覗き込むと過去が見えるなんてね、――アタシに過去はない、けれど」
月の光を冴え冴えと浴びる黒髪の女――三刀谷・千尋(トリニティブレイド・e04259)は嘯く。
けれどその実、分かること、教わったこと――全て確かなことだ。だからこそ、軽口に交えることが叶うのだから。
灯の設置をしながら、いつだって彼女は前を見据えている。
「見えた過去に願うんだったね。『幸福だった過去へ――』」
相槌じみた言葉は、紗神・炯介(白き獣・e09948)の口の中で音にならずに消えていく。
嘘だとしても。そんな風に願う自分を考えるのは、随分と難しかった。
「皆、囮は頼んだよ」
敢えて穏やかな響きに紛れさせて、目を伏せる。
もしも、もしも望むのだとしたら『彼』が――だった、頃に。
束の間、暗闇にLEDの光が瞬く。草むらを照らすことを確かめた相摸・一(刺突・e14086)は、直ぐに光を掻き消す。
照らされた一瞬、目に入った景色へと微かに息を飲むが、表情に動揺は浮かばない。彼には付き従う存在があり、辿り着いた今があり、還りたい場所は――水底ではないから。
それでも、招く気配を直視はせずに代わりに空を仰いだ。
「其方へは、行かない」
声に出して、強く。
湖面に映るは、幻の過去。
ゼレフ・スティガル(雲・e00179)の飄々とした浮雲の佇まいは、過去を覗いても揺らぎはしない。
ただ、――琥珀の色硝子に透かす先にはやはり、懐かしい色合い。
「……大丈夫、わかっているよ」
身を乗り出しも、乞いもせず、ただ在るが侭に束の間気紛れが映すを心に刻む。
温かな場所だと、イルヴァ・セリアン(あけいろの葬雪花・e04389)は真っ先に思った。
それは例えば暖炉の炎、手縫いの刺繍が刻まれた衣装、優しい微笑み。
小さなあの時と変わらぬ紅玉の瞳は、一心に見入る。
胸に満ちた郷愁の色、――けれど、強く目を瞑る。
浮かんだのは違う幾つかで、罪悪感にも迷いにも似た繊細な感情がイルヴァの面差しを揺らす。
十夜・泉(地球人のミュージックファイター・e00031)は音楽を聴いていた。彼の耳にだけ届く二重奏は温もりに満ちて甘く響くのに、何処か足りない。
待っている、呼んでいる。三重奏になるのを、ずっと。
泉の指先が、勝手に動く。欠けたパートを、足りない音を自分だけは知っている。
「一緒にやってくれるなら……頑張るよ」
気恥ずかしげに、けれど愛おしげに無防備な笑みが零れる。家族に向ける、笑い方。
草むらに手をついて、懸命に湖の揺らぎに意識を澄ます鬼屋敷・ハクア(雪やこんこ・e00632)はまるで一輪の白い花が水辺に咲くが如く。
さらさら頬を流れる白の髪に似て、なお白い世界が夢見る青の瞳にだけ映っている。
微かに唇の端が上がる。ふわりと軽やかな羽が舞うような笑み。
息すら殺して、音を立てずに。音も何もかも吸い込まれていく真っ白な世界を、壊さないようそうっと、そうっと。
初めての世界は白くて、眩しくて。
橘・芍薬(アイアンメイデン・e01125)は、静かに水面を眺めていた。
唇が、微かに動く。
ごく当たり前に水の向こうにいる人を呼ぼうとしたのか、それとも。
音は形を成さないで、何処か遠いところに一瞬で行って戻ってきたような、そんな透明な色に橙の眼差しは澄んでいた。
過去なんて何が映るのか、想像もつかぬと思った彼女が見たのは、遠い遠い『日常』で。
ふっと断ち切るよう己を見れば、愛用の銃がある。大事な、リポルバー。
微かな笑いが、唇に浮かぶ。センチメンタルの欠片をその吐息で洗い流して。
「私は前に進むわ。前進あるのみよ! ――私を、水底の国へ連れて行って」
おいで、
おいで、
泉に、ハクアに、芍薬に。
囁きかけるは、水底の誘い。
泉が白の手を強く掴んで――湖面へと女の姿が現れる。
●私は誰?
「行きませんよ」
重みを感じさせない腕は執拗に泉を促そうとする。ゆっくりと悼むように首を振る拒絶に、女の指が腕に食い込み始める。
「ああ、行かせない」
ぱしりと小気味良い音を立てて、一が腕を横から弾き上げる。女の指は彼の方へと逸れぎりぎりと異様な力を籠めていく。指が外れた後も、その肩が動かぬ程。
それでも、彼が微かに動かした指から舞うは紙兵達。皆の成果で、視界は良好。戦いに支障はないことも確かめて。
いつしか、紙兵には薔薇の花弁が混じっている。味方に向かう紙兵と逆に、敵へと流れていく紅の風。
一と目だけを見交わして進み出た炯介は短く呟く。
「逃がさないよ」
声と共に花弁はふわりと溶けて無数の槍へと姿を変える。
降り注ぐその威容に女の足が止まれば、すかさず両手に斬霊刀を抜き払った千尋が横合いから回り込んで、勢いを殺さず突っ込む!
「ようこそおいでなすったね。この先は一方通行だよ」
弾き飛ばす勢いで背後から突き上げれば、剥き出しの肌へと罅が入る。
構わず、女は口を開いた。
「わたしはだあれ?」
「あなたは夢にまで見る幸せな過去に興味を抱くもの」
泉が紡ぎながら、庇う手に合わせて身を低く。
両手に握ったナイフは自ら意志を持つかの如く、女の腹を切り刻む。肉をその手で裂く感触が返る指先に、繊細に楽器を紡いだ名残は消え失せて。
「あなたは『興味』のなれの果て」
しんとした響きでもう一つ返す声は、ハクアのもの。
透き通る肌を持つ女は、その色合いだけでいえば雪白の少女に似ていた。歪んだ鏡を見るように、虚無の藍を薄氷の青が見返したかと思えば、ハクアの姿は影に沈む。
翻弄する闇の刃は、味方の作った傷を的確に切り開いていき。
「いいものを見せてくれてありがとね」
誘導に従って女が陸の方へと近づくなら、駄目押しのよう背中側に身を滑り込ませるのはゼレフだ。
かの夢を救いと願う者が、いないとは思えない。それでも、真白の穂先に纏うはけして消えぬ地獄の灯火。
戦場を愉しむよう眼差しが踊り、片腕で軽々と薙ぎ払う大ぶりの所作は、女を更に岸へと追いやる。
殺界を張り巡らせていたイルヴァは、いいもの、と聞こえた音を繰り返す。戻りたい場所だった、同時に――。
思考はゼレフの炎が過れば、かぶりを振って切り替える。彼が引いた間隙を埋めるのが、攻撃手たる彼女の仕事だ。
「はい、わたしは、大丈夫です!」
懐に飛び込む形で敵の可動範囲を狭めながら指は葬り去る為の刃の行く末を辿っている。刻み込まれた知識と経験は、女の喉を自然に断ち切ろうと掠めて。
人の血に似た朱を正面から浴びれば、氷のように冷たかった。イルヴァが持つ刃と、同じくらい。
剣戟に紛れて一が引くと、寄ってたかって属性を分け与えられたり、焼き立てスコーン動画を見せられたりと癒される。
「大丈夫なの? あらそう」
任せろと言わんばかりのテレビウムに、芍薬はくるり、銃を回して。
細い手首は何の支えも必要なく照準を女の頭から逸らさず、ノータイムで引き金を引く。
「冥土の土産よ、水底の国ならあんた一人で帰りなさい!」
水際立った早撃ちに重ね、振り向かない強い声が夜を往く。
●夢の浮橋
攻防の中ケルベロス達を苛むのは――トラウマ。
「――……ぁ、」
泉が呻いて耳を片手で覆う。
ひどく、痛い音を聴いてしまったかのように。
迷った挙句差し伸ばすのは、虚空へと。
傷ついた誰か、壊れていく音、幸福の終わりを押し留めたがって。
「……だれ、か」
ハクアが小さく唇を動かすその声さえも凍えて潰えてしまいそう。細い両腕を懸命に自分で掻き抱くのに、ほんの少しも温かさはない。だって、独りだから。
幾つかの声が響く中、千尋は呼吸を整える。攻撃の痛みはあれど、心までを引きずられるものじゃあないと理性は判断するのに。どうしてか、刀の柄を握り締める指先が揺らぐ。意識に、妙なノイズが走る。
過去の再現の筈だった、だから何も感じない筈だった。
けれど心は、上手く御せない。堕ちていく、壊れて消える、昔はたったそれだけのことが今は――こんなにも。
「アタシは、帰るのさね」
微かに揺れる声を無理やり吐き出して、思い出した姿を灯火に薬液の雨を打ち出す。自分にではなく背後に。
「そうね。皆で、帰るわ」
芍薬が差し伸べるのは、銃ではなく己の手。心を得たレプリカント達は、既に機械ではなく。
だからこそ植え付けられた本能ではなく、自らの意志で帰路を辿る。その為に打ち払う、力を。
編み上げた気力を手渡して千尋が受けるトラウマごと払っていく。
「おいで、おいで、おいで、おいで――」
呼ばわる声は深く遠く。無数の白い手が浮き上がり、水底に引きずり込もうと纏わりつく。
「だいじょうぶ、です」
「大丈夫でも、だよ」
イルヴァが避けきれず衝撃に備えて身を竦めるのに、覆い被さった炯介が白い手に覆われる。ひやりとつめたい指が触れると体力を奪われ、同時に悪夢を植え付けられていく。
覚悟はしていたのに、一瞬炯介の息が止まる。瞼の裏の面影を忘れたことはなく、トラウマが映す虚像は尚生々しい。く、と切れる程に唇を噛み締めて、反射で伸ばしたくなる手を握れば皮膚に爪が食い込む。けれど、――心の方が、もっと。
幸せになどなれない、背負う罪は真綿の如く首を絞める。苦痛の名を、絶望という。
「――死なない」
叫びは、血を吐くよう。死なない、死ねない、だって――。
逃げろ、死ぬなと。
細く白い腕は一の首へとかかり、喉へと巻き付いてなかなか離さない。一の武骨な面差しが上がり、眉ひとつ揺らさずに払おうとした次の瞬。
一の動きが、雷に撃ち抜かれでもしたかのように止まる。傷跡の目立つ顔が辺りを見回し、虚空の一点を見つめると、大きく目が見開かれた。その黒に描かれた色は慚愧か、躊躇か。
うつくしい幻を過去は守った手が、――刃を纏う。
唇だけ小さく音を形作って、裂帛の鋭さで縛霊手を操る腕を振るう。
その一薙ぎで、彼岸と此岸は隔てられる。
「終わらせどきっすね」
微かに息を落としたのは、ゼレフ。
染まり、漂い、溶けるは雲の性質。
闇にあれば沈み、光にあれば瞬く銀は束の間、境界すら曖昧な印象を齎す。
未だ形を成す己の手を大きく開いてまた閉じた。指の動きで探り当てるは、沈まぬ夜の愛刀。
長柄に手をかければ確かな感触、炎は未だ掻き消えない。
武器に己に、灯る熱。
だからこそ、――ゼレフの口許に風吹くような笑みは浮かぶ。
「受け取ってくれるかな」
四肢を未だ苛む傷は、味方が癒すと信じて彼はただ駆けるのみ。
抜き払った白刃に宿るは青色、煌めくは見えぬ焔。
僅かな距離を風を纏って滑るよう進み、その胸に突き立てる刀は陽炎の如く高温を立ち上らせる。
「癒すわ、いくらだって。だから、――前に」
芍薬が両手を翳すと撒き付く攻性植物が広がり、黄金の実を宿す。聖なる光は仲間を包み、その傷と苛みを拭い去っていく。
「――アタシは、生きる」
降り注いだ光を合図のよう、千尋が強く声を張る。
レーザーブレードユニットを起動させた右腕を翳し。鳥の囀りに似た起動音を引き連れて、高速機動で女を切り裂き、穿っていく。影の霊力が白を侵食し、糧として。
尚も、白い手は降り注ぐ。異様な程の量が、後衛にまで到達しようとする。
九十九が芍薬に傷一つつけぬと軌道に飛び込み、一が白い手に自ら捕らわれに行きながらその背で泉を庇う。寒さに息を飲むハクアの代わりに炯介は再度、幻の彼を見て。
一は身を沈めてからの電光石火の蹴りで女の腹を跳ね飛ばし、炯介が鋼を己に纏い装甲を砕く。痺れにか身動きを止めた一瞬を、誰もが見逃さない。
「――参ります」
仲間達へ向けるのは、それだけでいい。全身を刃物の如く研ぎ澄ませて泉が身を走らせる。庇われたその裏側から死角を突いて、細く細く針の穴を穿つような正確さでたった一撃を通す。深く肩を切り裂くまで、止まらない。
「砕け散れ、花よ舞え」
ハクアの声は鈴の音の如く。
その傍らに寄り添う灰の竜は懸命に彼女を温めようと治療を繰り返す。どれ程に寒くても、確かなひとつ。
氷で出来た鹿が、その後へと追い縋る。透明な彫刻じみて、ただ春を乞うるが如く角を飾る桜だけが彩りの。儚くも美しい氷の鹿は逆側から体を揺らがせる女へと素早く、自身を庇わぬ速度で駆け抜ける。
確かに体を貫きながら、薄い玻璃が砕けるように消えゆくまでの。
「――弥終を踏み越えて先へ」
破片を悼むように、冷気が満ちる。イルヴァの詠唱はその声までも温度をなくしたかのような冷え冷えとした口ぶりで。
吹き荒れる嵐、雪、氷。
切り裂き、熱を奪い、吹きすさぶばかりの嵐が過ぎれば――しん、と物音の全てを吸い込む静寂ばかりが残る。
白い女はその血の一滴すら凍りつかせて、やがて砕け消えていく。
夢の、終わり。
●還らずの湖
皆のヒールを受けて老婆はやがて目を開ける。茫洋としながらも記憶はあるのだろう。
「水の…底は?」
掠れた声で問うのに芍薬が背を撫でて柔らかく笑う。
「さあ、夢だったんじゃない。幸せな夢を見たなら、――起きて」
明日に向かうのだという彼女に、噛み締めるよう老婆は頷く。
「こんなところで寝ると風邪引くよ、お嬢さん」
「夜の水面は危ないですよ。大事なものを奪われないように――しっかり、抱えておきましょう」
炯介や泉も告げるに至って、得心したのかふっと息を吐いた。
既に焦がれる色はなく、ただ惜別が彼女にはあるのみで。
背筋を正して礼を皆に告げた。
「ああ、それだけ矍鑠してたら大丈夫だろうさね」
体も、それから心も。そう千尋は敢えて軽口じみた言葉を口にする。
「夢からおかえり、お婆さん。途中まで送ろうか」
「うん、それが良い」
ゼレフと炯介の誘い、その好意に甘えて老婆は立ち上がる。
「……良い夢でございましたよ。偶には悪くありません」
何処か晴れ晴れとした調子の老婆は、どんな夢を見たのだろうか。
「思い出は今と未来を楽土に変えるものであって帰るべきものではない…なんて、ね」
見送る千尋の声は、やはり軽口に紛れて。
過去を持たぬ女は、先へ向かって歩き出す。
ブルースハープの音色が聴こえる。
泉が奏でるは、流麗で静謐な夜の音。
イルヴァは知らず耳を傾け、迷子のよう湖を見る。
「わたしには、わからないです」
過去を取らず、皆と先を望むこと。
何かを選ばぬことは、捨てたことになるのなら――それは、とても、とても。
惜別、遺棄、忘却、別離。
人の心は言葉の数より、尚多く。
ただ、水底に沈まぬを選んだ以上、誰にも平等に今は訪れ過去へと変わり。
明日は手を伸ばして、待っている。
哀切と後悔が満ちていたとして、歩みはけして止まらない。
楽土は還らず、ひとは――生きる。
心の意味を、探しながら。
作者:螺子式銃 |
重傷:なし 死亡:なし 暴走:なし |
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種類:
公開:2016年8月5日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
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得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 6/キャラが大事にされていた 0
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