水彩

作者:藍鳶カナン

●水彩
 雪のような白を纏った白樺の木にも明るい春の緑が芽吹く。
 蒼く霞み、頂に雪を冠った山々も見えるけれど、それらの懐深くへと抱かれた水の地では雪解け水が春を唄っていた。
 芽吹きの緑に彩られた白樺の木立、明るい水色に透きとおった清水が広がる湿原。
 国立公園の一角として大切に保護されたそこでは、水鳥が遊び、消えた雪の代わりに気の早い水芭蕉が純白の花を咲かせ、暖かな春陽の輝きぎゅっと凝らせて咲いたような流金花が水のほとりに咲き溢れている。
「……よし、こんなものかな」
 葉書ほどの大きさの小さなスケッチブック、その紙面に水彩色鉛筆を踊らせていた男が、時の流れに穏やかな皺を重ねた顔を綻ばせた。先程までこの場にいた大学生は宝物だというデジタル一眼レフでこの光景を撮っていたけれど、男は水彩色鉛筆でこの地の光景を掌中に収めることを好んでいた。
 春の歓喜、夏の光輝、秋の絢爛、冬の静謐。
 この地の何もかもが愛おしい。自然保護を謳われ水鳥達に触れることも花々を摘むことも許されないけれど、光と水と緑の匂いを胸に満たし、先程の大学生のように名も知らない、けれどこの地を愛する同士と行き逢い語り合うひとときは掛け替えのないもの。
 この地でそんな優しいひとときをすごせる。それだけでいい。
 花一輪持ち帰ることもなく、ただ、水彩色鉛筆の彩を優しく広げるための、ほんの少しの水さえもらえれば、他には何も望まない。
「――バッカじゃない?」
 水辺に屈み、軸に水を入れて使う筆ペン、水筆ペンにごく僅かな水を入れようとしていた男は、不意に聴こえた声に振り返った。
 白い髪に紅い瞳、黒いコート。
 そして何より、手にした大きな鍵が印象的な少女。
「あんたの愛ってほんとバカみたい。そんなくだらない愛、自分で壊してしまいなさい」
 少女――ドリームイーター『陽影』の鍵に心臓を貫かれて、男は白と黄の花々に彩られた水辺に崩れ落ちた。

●春景色
 見返りのない愛を注ぐ者がドリームイーターに愛を奪われる事件。
 対象の命ではなく愛を奪った少女ドリームイーターの詳細は不明だが、
「奪われた愛から新たなドリームイーターが生まれ、その男性が愛している光景を破壊し、その地を訪れているひとびとを殺害しようとします。この事件を阻止するため、皆さんには奪われた愛から生まれたドリームイーターの撃破をお願いします」
 セリカ・リュミエール(シャドウエルフのヘリオライダー・en0002)はそう語り、無事に撃破できれば愛を奪われた男性も目を覚ましてくれるはずです、と続けた。

 敵は大きな水彩色鉛筆と水筆ペンを持ったデッサン人形のような姿のドリームイーター。
「このドリームイーターの狙いは男性が愛している光景の破壊――ですが、その光景には『男性と同じようにこの地を愛しく想うひとびと』も含まれていますので、この春の湿原の光景に心惹かれた方が向かってくださるなら、囮となって敵を誘き寄せることが可能です」
 一般人よりも愛の力が大きいケルベロス。
 芽吹きの緑、明るい水色に澄んだ水、水芭蕉の白に流金花の黄。それらの光景に歓びを、愛しさを感じるケルベロスがいれば、ドリームイーターは真っ先にケルベロス達のもとへと現れるはずだ。
「心惹かれたフリ――では難しいでしょうから、本当に心惹かれた方が向かってくださるとありがたいのですが……その様子なら大丈夫そうですね」
「はうあ! バレバレなのね合点承知! なの~!!」
 芽吹きの色の瞳をキラキラさせて聴いていた真白・桃花(ドラゴニアンの自宅警備員・en0142)を見たセリカが微笑めば、桃花の竜しっぽの先がぴこんと跳ねた。
 彼女だけでは心許無いが、他にもその春景色に惹かれたケルベロス達が向かうなら、より確実に敵を誘き寄せることが叶うだろう。
 戦場とするのは広々とした展望台。現地には避難勧告が出されるため一般人を気にかける必要もない。そこで無事に敵を撃破できたなら、
「春景色を間近で見てくるのもいいかもしれませんね」
「!! そうできたらすごくすごく嬉しいの~!!」
 セリカがそう勧めれば、桃花がいっそう瞳を輝かせた。
 凍てる冬から解き放たれた、春の歓喜。それを全身で感じることができれば、きっと心も解き放たれる。水彩色鉛筆の彩が、水に優しく溶かされ広がっていくように。
 そうしてまた一歩進むのだ。
 この世界を、デウスエクスの脅威より解き放たれた――真に自由な楽園にするために。


参加者
八柳・蜂(械蜂・e00563)
リラ・シュテルン(星屑の囁き・e01169)
ゼン・ヴァイシュミット(愛及屋烏・e01186)
鷹嶺・征(模倣の盾・e03639)
神宮時・あお(忘却ノ未来・e04014)
霞藤・綺葉(月歌淋兎・e04325)
アイヴォリー・ロム(ミケ・e07918)
咲宮・春乃(星芒・e22063)

■リプレイ

●七彩
 展望台に立てば春の歓喜が一望できた。
 雪のごとき白を纏う白樺の木立も芽吹きの緑で着飾って、明るい水色に透きとおる水面は光のかけらを踊らせる。薄い水広がる湿原には春に融けた雪に代わるような純白の水芭蕉の花が咲き群れて、水のほとりには輝くような流金花が咲き満ちていた。
 流れる風にも命の息吹。
 優しく唄う春風に深呼吸をすれば清らに潤う春そのものに胸を満たされた心地になれて、リラ・シュテルン(星屑の囁き・e01169)は夜色のウイングキャットを抱き寄せる。
「いとおしい、ね。ベガ」
「ただそこにいるだけで満たされた気持ちになれる――そんなところだよね」
 涼やかで、けれど春の歓びに満ちた光風に漆黒の髪を遊ばせて、ゼン・ヴァイシュミット(愛及屋烏・e01186)も口許を綻ばせた。光踊る水面に、風にそよぐ春の緑と花々、戯れる水鳥達。言葉もいらない。何も言わずとも寄り添ってくれる自然に感じるこの愛おしさは、愛を奪われた男性への共感のみならず、既にゼン自身のもの。
 ――守りたいんだ。
 愛も、居場所も。
 暁の紅瞳を細めた瞬間、視界が一気に七色の彩に塗り替えられた。
「――来ました!」
 展望台から見渡す春の湿原、そこから軽やかに駆けあがってきたデッサン人形の姿をとるドリームイーター。その手の色鉛筆から放たれた七色モザイクの波濤をゼンに代わってその身に浴びながら、八柳・蜂(械蜂・e00563)は心擽る幻惑を堪えた。
 春眠には惹かれるけれど、催眠はいただけない。
 撓やかな蜂の腕から迸るのは攻性植物の蔓、それは紙一重で色鉛筆に弾かれたが、
「序盤は任せてください! 張り切って足止めしていきますね!!」
 天使の翼と甘やかなクリーム色の巻毛が春風に踊ると同時、後衛から確実に狙いを定めたアイヴォリー・ロム(ミケ・e07918)の蹴撃が流星となって敵に落ちる。
「美しい世界とそれを愛しむ人々、どちらも傷つけさせはしません。勿論、仲間もです!」
「ベガ、も、お願い! わたし達に、力を……!」
 流星の軌跡を受けるように鷹嶺・征(模倣の盾・e03639)が星辰の剣を揮えばともに前で並び立つ皆の足元に星の聖域が光り輝き、癒しと願いを届ける謳を紡ぐリラに応えた翼猫の羽ばたきが催眠を克服する力となって前衛に吹き寄せれば、
「それじゃ、あたしは後衛に付与するね!」
 何処に星の聖域を描くか決めかねていた咲宮・春乃(星芒・e22063)の剣から溢れた光が守護星座をかたどり、春乃のウイングキャット、みーちゃんも清らかな羽ばたきを重ねた。敵の攻撃は後衛にも届くのだ。
 焔の煌きが迸ればデッサン人形は音もなく飛び退るが、ゼンは余裕の笑みひとつ。
「流石にキャスターだけあって身軽だね。けど、どう足掻いてもお前を逃がしやしない!」
「景色を慈しむ心を奪うとか許されないよねっ! って、にゃー!?」
 彼が撃ち込んだ炎の矢は跳躍した敵を追尾し稲妻のごとくその胸を穿った。だが楽譜めく魔導書の頁を風に踊らせ詠唱を重ねた霞藤・綺葉(月歌淋兎・e04325)の魔法光線は、軽い身のひとひねりで躱される。
 十分に機動力を削いでからならともかく、キャスター相手の初撃で己の手持ちのうち最も命中率の低い技を揮うのは、経験の浅い身では分の悪い賭けだ。
「……着実に、動きを落としていくのが、一番、みたい、です」
 流星の尾を引いて敵を追った神宮時・あお(忘却ノ未来・e04014)の蹴撃も人形の爪先を捕えたのみ。当たりは浅いが、今はダメージより捕縛や足止めの積み重ねが肝要だ。
 愛が何たるかはよくわからないけれど、きっと大切なものだと思うから。
 展望台から望む春景色の何処かで倒れている男性のために。
 ――絶対に、取り戻して、みせます。

●水彩
 春の陽射しと水の香を孕んだ風が吹き寄せれば、優しい清流に身を浸す心地。けれど風に乗せるよう敵が揮う七色の彩や水の斬撃は避けがたい鋭さで此方を翻弄する。
 此方からの攻撃は精鋭ぞろいの前衛陣でも命中は二回に一度ほどだが、序盤のこの状況は想定内。難があるとすれば、メディックの回復量が不足気味なことだった。
 今回のメディックは春乃とその翼猫。力を分け合う一人と一匹が揮うのが列ヒールのみとなれば、護りに長けたディフェンダーや防具の耐性で痛手を軽減できる者はともかく、他の仲間への被弾が重なった際に純然たる回復量が追いつかない。
「……!」
 混沌たるあぎとを開いて襲いかかった黒き残滓を七色モザイクで相殺し、敵はもう片手の水筆ペンで黒き残滓の主たるあおへ水の斬撃を放つ。
 冷たい水飛沫に熱い血飛沫、己が胸元で爆ぜたそれに少女は顔色ひとつ変えなかったが、傷の深さと金の双眸が催眠に揺らぐ様を瞳にして、蜂が女王蜂の慈悲で世界を満たした。
「幻惑に奪われるわけにはいきませんもの、ね」
 ――煌めき降り注げ、蜂蜜色の光雨。
 甘やかな香りを仄かに引いて、春陽よりも優しく暖かな輝きが癒しと浄化の慈雨となって前衛陣を抱擁する。光に響き合うようなリラの謳、春乃が舞わせる天使の極光も重なる様に安堵し、征は小型治療無人機ではなく鎖を手繰った。
 鞭のごとく撓ったゼンの攻性植物は避けられたが、
「逃がしませんよ!」
「あたしも、今度こそ……!」
 鋭い青の眼差しで敵を追った征が放つ猟犬縛鎖が人形の胴を絡めとり、垂れたうさみみを勇ましく揺らした綺葉の咆哮が中衛から敵を捉えてその挙動を鈍らせる。
「アイヴォリーちゃん、お願いなのー!」
「はい! ばっちり決めてみせますね!!」
 真白・桃花(ドラゴニアンの自宅警備員・en0142)の銃撃をのけぞって躱した敵めがけ、迷わずアイヴォリーが跳んだ。頭上から打ち下ろすのは光の剣、輝きの一閃は狙い過たず、大きく人形を斬り裂きその勢いを削いだ。
 少しずつ戦況が此方へ傾きつつあるのはスナイパーたるアイヴォリーが確実に敵の動きを落とし、リラが願いを見据え、望みを見通す力を周囲へ与えていっているから。
 ――如何か、如何か、この謳が、貴方に届きますように。
 星屑の囁きめいた歌声は零れるたびに並び立つ仲間を癒し、波紋となって視界を澄ませ、前へ向かう心を後押しする。翼猫と力を分け合う身だから、行き渡るのに時間がかかるのは承知の上。けれど少しずつでも、着実に。
 春の陽射しに眩く煌く水の奔流が躍れば、咄嗟に征がその射線に飛び込んだ。
「ロムさん、下がって!」
「わわ、感謝です、征!」
 盾となってくれた彼の背中越しに見た水飛沫の勢いに瞳を瞠ったのも一瞬のこと、縛霊手纏う拳をきゅっと握ったアイヴォリーが頼もしい背から飛び出し敵の横腹に見舞うと同時、一気に解き放たれた霊力の網が人形の全身を包み込む。
「さあ舞台は整いました、思いきりどうぞ!!」
「ええ、お見せしますよ、主砲の威力!!」
「了解! 畳みかけていくよ!!」
 少女の声に応えて火を噴いたのは征のアームドフォート主砲、少年の砲撃が直撃する様に破顔して、ゼンも清らな春風の中へ跳んだ。リラのくれた力が、敵の挙動だけでなく春景色の彼方まで見通せるような心地をくれる。
 ――外さない。
 確信とともに炸裂させたのは流星が落ちるがごとき蹴り、片脚を砕かれた人形が背中から倒れ込む。それでもなお軽やかに跳ね起きた敵めがけ、綺葉が歌声の魔力を織り上げた。
「戦いの中で追い風を感じる……っていうのは、こんな感じなのかな?」
「ええ、まさに」
 水香る風を力強く震わせて、響き渡るのは幻影のリコレクション。迷いを越えて愛を取り戻し、奪われたひとの許へ届けに行く。微かに瞳を細めた蜂が撃ち込んだ気の弾丸が人形の肩に喰らいつけば、真っ向から水流が迸った。――が、
「これ以上、おいたはさせません」
 纏う防具の敏捷耐性を活かして蜂は鉄塊剣を揮う。瞳と同じ色に燃え上がった地獄の炎で鋭い水流を散らして相殺し、息つく間もなく更なる攻勢に出た。
 瑞々しい春息吹を抱いて流れる風は変わらず軽やかで、けれど大きな色鉛筆と水筆ペンを揮う人形は精彩も軽快さも鈍らせていくばかり。元より然程耐久力を持たない敵となれば、ケルベロス側に傾いた戦いの天秤はもう覆らない。
 胸にモザイクを抱いた人形を見据え、あおは古の唄に言霊を乗せる。
 ――風が、紡ぐ、不可視の、刃。優しくも、鋭い、久遠の、詩。
 魂響の唄に導かれ、淡青を帯びた雪白の髪を舞い上げた風が鋭い不可視の刃となって敵へ襲いかかった。深々と胸を裂き肩の球体関節を斬り飛ばして片腕を落とし、けれど倒すには至らず、人形はあおめがけて七色の彩を迸らせる。
 だが、星屑ブーツで数歩の距離を飛んだリラが七彩をその身に引き受けた。
「――大丈夫、わたしが、護り、ます」
 色鉛筆の芯を寝かせて転がしたような柔らかで楽しげな七色の彩、こんなにも綺麗な力を紡げるなら、貴方も次は愛するこころがわかるものに生まれることができるよう。
 眼前の人形にそう願い、雷杖を握る手に力を込めれば、後方から明るい春乃の声とともに届いた極光の紗に包まれる。
「リラさんっ! だいじょうぶ!?」
「はい。おかげで、催眠も、綺麗さっぱり、晴れました」
 優しく揺れる同族の虹の彩、それに幻惑を払われれば、雷杖から星屑めいた煌きが零れ、眩い雷撃が敵めがけて迸った。
 輝く雷に打たれ、胸にモザイクを抱いた人形の姿のドリームイーターが霧散する。
 星が散るように弾けた白と黄の細やかな煌きが展望台から望む春景色に降りそそぐ様に、誰もが知らず安堵の吐息を零した。
 愛はきっと、あるべきところへ還ったのだろう。

●春彩
 水のほとりへ降りれば、春の風が変わった。
 芽吹きの緑で着飾る白樺、鮮やかな緑の中に輝く黄を咲かせる流金花、明るい水色に澄む水面がそれらを映し、水鳥が生む波紋が光のかけらに変えていく様を間近に見られる大地に立てば、髪を頬を、全身をすすいでいくような風はひときわ水と命のにおいを濃くし、眩く躍る光の粒子を孕んで流れていく。
 爛漫と咲き誇る桜、馥郁と香る梅、春にはそんな印象を抱いていたけれど。
「こういう、春芽吹く場所もあるんですね……。初めて知りました」
 水芭蕉を揺らして渡り来た水辺の風に髪も心も委ね、蜂は柔く眦を緩めた。心を得てから初めて見た、優しくも清しく靭く、撓やかな芽吹きの春。
 ――なんて、綺麗。
 水の香に混じってふわり漂ってきた食欲をそそる香りに振り返れば、丸太を半割りにした木のベンチでアイヴォリーが肉巻きたっぷりのお弁当やハーブヴルストにトマトチリソース映えるバゲットサンドなどを嬉々と広げているところ。
「豪華なランチが……! お菓子とパンもいかが?」
「さくらのラテと、春色マカロンも、あります、よっ」
「わあ、ますます賑やかに……!!」
 瞬きひとつ、微笑んで、蜂が芳醇にバターが香る三日月クロワッサンやホワイトチョコに彩られた香草クッキーを並べれば、ふふ、と微風めいた笑みを零したリラが春の彩を添え、アイヴォリーが瞳を輝かせる。
「桃花様も、ご一緒、いかが、ですか?」
「はうあ! ふにふになのメロメロになっちゃうの~!」
 翼猫のベガを抱いたリラが猫の手で頬をぽふっとすればたちまち桃花が笑み崩れ、満面に笑みを咲かせた春乃が、あたしもサンドイッチとショコララテ持ってきたよ、と四つ葉型の苺チョコ散るラテの甘い香りを風に乗せた。
「遠慮せずにみんなで食べてね? 霞藤さんも鷹嶺さんも一緒にどうぞ!」
「勿論いただくよー! あたしも景色にあわせたキャンディ作ってきたから食べてね」
「これは……本当によりどりみどりで素敵ですね。僕も遠慮なく御馳走になります」
 声もうさみみも弾ませた綺葉が甘い煌きを加え、華やぐ品揃えに征が笑みを綻ばせれば、皆で思い思いのラテを手に――乾杯!
 春の幸せに美味しい幸せ重なれば自然と心も浮き立って、
「アイヴォリーの羽がパタパタしてるの可愛いよね」
「綺葉のふわふわの耳だって御機嫌そうですよ」
 楽しげにうさみみを揺らした綺葉と自然と翼がぱたぱたしてしまうアイヴォリーが互いに悪戯っぽく顔を見合わせ破顔した。春はどうしてこんなに心浮き立つのだろう。
 春乃のお名前は今の季節にぴったりですよねとアイヴォリーが振り返れば、名を呼ばれた少女が青藍の瞳を大きく瞬かせる。
 咲いて幸せ零す蕾のような生まれたての、春。
 そう続けられた言葉に春乃は頬に桜色を昇らせ、面映ゆそうに、けれど飛びきり嬉しげに笑みを咲かせた。
「ありがと、――すっごく嬉しいよ」
 愛も優しさもいっぱい込めて母がつけてくれた、大切な、名前。
 楽しげな仲間達の様子に頬を緩めつつ、ゼンは相棒と肩を並べてのんびりそぞろあるき。
 眩い光が踊る水面を、水面に咲く水芭蕉を、遠く霞む山々を、わくわくした様子で眺める相棒が不意に言葉を途切れさせた理由はわかっているけれど、
「ほら足元見なよ、セリが生えてる。天麩羅で食うと美味いらしいぜ」
「え! ゼンは草食べるんデスカ? そんなにお腹すいてるんデス?」
「いや今食うんじゃないから! てか此処のは採っちゃダメだから!」
 わざと軽い調子で話を振れば驚いたように瞬いた彼がまた笑ってくれたから、ゼンも心を緩めて笑い返した。深呼吸しようぜと誘って、二人で水のほとりに立つ。
 胸いっぱい吸い込めば、体の芯から命が芽吹くような春息吹。
「あのさ、俺が隣にいる時は安心してよ」
「言われなくても! いつだって頼りにしてるのです相棒!」
 瞳を見交わせば弾ける笑声。
 いつだって互いが、隣で肩の力を抜いてすごせる相棒だから。
 気の置けない仲なのだろう彼らの笑声が水面を渡っていくのが何だか羨ましくて、湿原を見渡した春乃はひときわ眩く咲き群れる水芭蕉とその傍を渡る木道を見て顔を輝かせた。
「見て真白さん、すごくキレイだよ! あっちも行ってみようよ、八柳さん!」
「ふふふ~。水辺の花って瑞々しさが特別輝く感じなの~」
「蜂もです? ふふ、では御一緒に参りましょうか」
 湿原の水面に渡された木板の道を渡れば流れる光風はいっそう涼やかで、覗き込めるほど間近に見る純白の水芭蕉は裡から光り輝くよう。
「水芭蕉も流金花も、素敵な花言葉があるんですよね」
 調べてきた水芭蕉の花言葉は、美しい思い出。そして、流金花は――。
 一緒に来たかったひとの都合がつかなかったことが寂しくはあるけれど、それならと蜂は懐古的なフィルム式カメラを手にファインダーを覗く。
 ――君達が一番綺麗な姿を写真に残させてね。
 明るい水色に澄んだ水面に映る彼女達の姿が弾み、柔い波紋に揺れた水面に春の陽射しが跳ねる。きらきらと踊る水の光にアイヴォリーの瞳まで潤されたようで、
「……ロムさん? どうかされましたか?」
「何でもないです泣いてないですよ! ベガをモフモフしたいだけです!!」
 彼女の眦に滲んだ光に気づいた征が穏やかに声をかければ少女は慌ててリラとその翼猫の陰に飛び込んだ。もふもふな猫尻尾の陰からそっと振り返れば、
「――あ、ねえ、征のうしろにおひさまが咲いてます」
 今日見た中で一番鮮やかに輝き咲き誇る流金花を見つけて、その眩さに泣きそうなくらい幸せな心地で瞳を細めた。
「泣いたって大丈夫なの、心を開くことなんだもの~」
「涙の後にはきっと笑顔が来ますものね。だって――」
 戻ってきた桃花が少女の背を撫で、蜂がとっておきの秘密を明かすように紡ぐ。
 ――流金花の花言葉は、必ず来る幸福。
「ふふ、ほんとに、素敵な花言葉、です」
 柔らかに笑ってリラは翼猫を抱きしめた。
 乾いた草原なら寝転んでみたいところだけど、雪解け水に潤う湿原の周縁では何処だってきっと服を濡らしてしまう。それに、立金花とも記される、すらりと立つ茎に光を咲かせるこの花を潰してしまうから。
 水と光に潤う春を見渡せば亡きひとへ馳せる想いが寂しさを招くけど、閉じ込めなくてもいいんだと気づいて綺葉は眦を緩めた。いっとき瞳が濡れたって、この皆と一緒ならきっとまた笑える。
 けれど蜂の手元を見遣って、そうだあたしもカメラ、と綺葉は瞳を瞬かせた。
「――ねえ、良かったら皆で一緒に写真撮らない?」
 離れたところから聴こえてきた綺葉の声に、あおも大きく瞬きひとつ。
 自分の意思で皆から離れたのに、誰かが声をかけてくれるだろうと思っていた。それとも己自身がそれを望んでいたのだろうか。
 初めて出逢う、世界の、彩。
 春景色を眺めるうちに、身体の、心の芯からせりあがってきた何かが瞳の奥で熱になり、瞬いた拍子にそれが零れたけれど、少女は気づかない。
 ただ、頬を撫でる風がひんやりした気がして、そっと猫耳フードを被った。
「皆さんと一緒の写真が残せるのは嬉しいですね」
「飛びっきり! 毎晩ベッドの中で眺めちゃう気がします!」
 春は勿論、夏も秋も冬でさえも、ここの命は美しいのでしょうね――と改めて水辺の春を見渡す征の遠い記憶は瓦礫と枯れ落ちた森に彩られたもの。
 彼にも、そして初めて自らの足で世界に踏み出したアイヴォリーにも、命の息吹に満ちた春景色は眩くて、互いに瞳を細めた様子に笑い合う。
 忘れないでいられるかしら――なんて、きっと杞憂。
 春がめぐるたび必ず芽吹く命のように、幾度も幾度も胸に鮮やかに甦る。

作者:藍鳶カナン 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2016年3月29日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 5/キャラが大事にされていた 0
 あなたが購入した「複数ピンナップ(複数バトルピンナップ)」を、このシナリオの挿絵にして貰うよう、担当マスターに申請できます。
 シナリオの通常参加者は、掲載されている「自分の顔アイコン」を変更できます。