月宮殿

作者:藍鳶カナン

●月宮殿
 凍てる夜風は仄かな春の萌しを孕んでいた。痛いほどに凍え、ツキンと透きとおった風にほんのり冷たくも甘い梅花の香りが滲む。
 早春の萌し。百花にさきがけて咲く梅の花。
 誰もいない深夜にも仄かに夜闇を融かす薄紅の灯籠が燈された神社の境内に、冬夜の闇に浮かび上がるように白い花を咲き零れさせる梅の古木があった。灯籠のあかりに照らされ、夜空の月を背に咲く八重の白梅。
 月宮殿。
 その花に与えられた名を知ってか知らずか、不意にその大きな古木の樹下に現れた異形は心底愉快気な声を上げた。
「やあやあ、これはなんと我ら『マサクゥルサーカス団』に相応しき舞台!」
 背に蛾の翅を持つ死神『団長』は高らかに声を響かせて、凍てる夜風を泳ぐ深海魚めいた姿の怪魚達を召喚する。深夜の闇をくるりと泳ぐ怪魚達は仄光る光跡を描き、青白い輝きで美しき円を結んだ。
「この舞台でならさぞや素敵な新入りを迎えられるに違いない。後は頼んだからね。君達が素敵な新入りを連れて来たら、我らのパーティーの始まりだ!」
 上機嫌な笑声を残し、その余韻が消えるよりも先にふつりと団長は姿を消した。
 凍てる夜風が流れ、古木に咲き零れる白梅がまるで息づくようにざわりと震える。ふわり零れた乳白の花弁が、魔法陣めいた光の円の中心に舞い降りた。
 ――そのとき。
 光の円の中心で、永遠の眠りから一頭の獣が目を醒ます。
 死の淵から引きずり出された獣は、かつて撓やかながらも強靭な、精悍たる獣人であったはずの存在。死の淵から掬いあげられる際に知性を喪い獣そのものの姿に変異させられて、意志や知性と引き換えるかのように強い力を与えられた獣。
 白とも金ともつかぬ月光めいた色の毛並みを、黒に近い灰銀色の豹紋で彩る大きな豹が、月と白梅を仰いで吼えた。

●百花のさきがけ
 ――月宮殿。
 麗しい名を持つ白梅。京都市郊外の山裾にある神社の境内、美しい灯籠が柔らかな灯りを終夜燈すそこに、その白梅の見事な古木がある。
「ここに、最近動きを見せるようになった蛾の翅を持つ姿の死神が現れます」
 予知を語るのはセリカ・リュミエール(シャドウエルフのヘリオライダー・en0002)。
 第二次侵略期以前に死亡したデウスエクスをサルベージする作戦を指揮していると思しきこの死神が、件の神社の境内、白梅の古木の傍で、己が配下たる深海魚型の下級死神に変異強化とサルベージを行わせるのだと彼女は続けた。
 今回、蛾の翅を持つ死神の捕捉や、サルベージそのものの阻止には間に合わない。
「ですが、死神の勢力強化につながるだろうこの事態を看過することはできません。今から急行すればサルベージ直後に現場へ到着できますので――」
 深海魚型の死神2体と、サルベージされた豹のウェアライダーの撃破をお願いします、とセリカは告げた。

 第二次侵略期以前に神造デウスエクスとして生き、そして死んだ豹のウェアライダー。
 撓やかながらも強靭な、精悍たる獣人であっただろうその存在は、獣の豹そのものの姿に変異させられ、自身の意志も知性も喪ってしまった。
 だが獣そのものの姿となっても撓やかさや強靭さは健在、むしろ強化されたことによってよりそれらが際立つ存在となっている。
「戦闘で揮う技は生前と同じウェアライダーのものですが、拳でなく牙を揮うなどの変化はあると思います。かなり威力が強化されたそれらで獲物を狙う獣さながらに戦いますので、相当手強いはずです」
 噛みつきや毒の怨霊弾で戦う深海魚型の死神の戦闘力はこの豹よりも劣るが、攻撃重視で襲いかかってくる彼らも軽視はできない。
 深夜の神社にひとけはなく、念のため避難勧告も行われるため、戦い以外の憂いはない。
「決して油断できる相手ではありませんから――全力でお願いします」
「みんな一緒だから、きっと、負けない。合点承知! なのー!」
 一緒に話を聴いていた頼もしいケルベロス達の顔を見回して、真白・桃花(ドラゴニアンの自宅警備員・en0142)は笑みを綻ばせた。
 死神には彼らに死をもたらす重力の鎖を。
 そして月の豹には――与えるものは同じでも、死神の軛からの解放を。
 百花のさきがけとして咲き誇る、白梅のもとで。
「けどほんとうはきっと、わたし達ケルベロスが、百花のさきがけなの」
 秘密めかして語った桃花が、そう思ったらもっともっとやる気でるの~と続ける。
 デウスエクスの侵略という猛吹雪に耐え続けた冬の終わり、真に自由な楽園の春の到来を告げるように、招くように、百花にさきがけて咲く花。
 咲きにいこう。
 そうしてまた一歩進むのだ。
 この世界を、デウスエクスの脅威より解き放たれた――真に自由な楽園にするために。


参加者
囃羽・宴(夜鳴鳥・e00114)
グレイン・シュリーフェン(ウェアライダーの降魔拳士・e02868)
夏音・陽(駄猫・e02882)
花筐・ユル(メロウマインド・e03772)
エブルス・サンブークス(ぐーたら店主代理・e05411)
マリアローザ・ストラボニウス(サキュバスのミュージックファイター・e11193)
烏柄杓・緤(トロイメライ・e21562)
ゼルダ・ローゼマイン(陽凰・e23526)

■リプレイ

●月の京
 暦が弥生を迎えてなお凍てる夜。
 皓々と輝く月下の風に舞った白梅の花弁は雪にも似て、されど凛列に透きとおった夜風に冷たくも甘い梅花の香りを確かに滲ませた。夜風を泳ぐ魚達が結んだ光の環は星屑のように崩れて消え、月光の毛並みに黒と見紛う灰銀の梅花模様を纏った獣の咆哮が神域に響く。
「良い舞台だ。――君達を葬るには、ね」
 烏柄杓・緤(トロイメライ・e21562)が銀蒼の眸を淡く細めた瞬間、夜空を背に月宮殿の花咲き零れる舞台で戦舞の幕が上がった。
 天穹をも震わすような月豹の咆哮が狂風の如く前衛陣を圧倒し、深海魚めいた死神が放つ怨霊弾がその中心で爆ぜるが、大地からは間髪いれず雷光が噴き上がり、足止めや毒に抗う護りの壁を織り上げる。
 雷光越しに紫の瞳に映すのはさながら冬眠から目覚めたばかりの獣。雷杖から解き放った力の余韻を撓やかな肢体に感じつつ、花筐・ユル(メロウマインド・e03772)は抑揚の緩い声音で紡ぐ。
「無理に起こされて、アナタもいい迷惑だったでしょう?」
 ――私達がもう一度、眠らせてあげるわ。
「まったくだよねぇ。静かに眠ってるとこ叩き起こす奴は万死に値する」
 牙を剥いて襲い来た死神の一撃をグラビティ・チェイン乗せた殴打で相殺し、錆びた緑眼剣呑に煌かせた囃羽・宴(夜鳴鳥・e00114)が流れるような所作で続けたのは、気脈を断つ指天殺。尖鋭な突きが貫いた刹那、夜の神域を月光の雫降るのにも似た音色が満たした。
 黒髪から覗く緤の猫耳型イヤーデバイス、その音響機構から溢れる楽曲は星霧めく氷霧を導き、凄絶なまでの凍気で怪魚を真白に染め上げる。凍てる霧と透明な音色の余韻が消える寸前、突如爆ぜるように世界を染め変えたのはマリアローザ・ストラボニウス(サキュバスのミュージックファイター・e11193)が紡ぎあげた歌、幻影のリコレクション。
 ――追憶も哀しみも抱いてなお、未来へと進む。
「そう、百花にさきがけて咲きにいくの。退いてもらうわ!」
 死神達を揺るがす歌声に重ね、ゼルダ・ローゼマイン(陽凰・e23526)が迷わず撃ち込むカプセルが氷と共に死神を抉った。体内に溢れだすのは神をも弑する殺神ウイルス。苦悶に身をよじる怪魚の後方から月の豹が力強くも撓やかに跳躍する。
「大っきな猫ちゃん! けどこのままじゃじゃれつけない……!!」
「夏音、猫ちゃんじゃないわ」
 焦れた声を上げる夏音・陽(駄猫・e02882)を窘め、彼女を溺愛するサキュバスが招くは前衛陣を護る甘く官能的な桜吹雪。死神達がいる限り近接攻撃は豹へ届かない。陽は戦端が開かれる前に豹と死神を分断するつもりだったが、どう立ち回れば分断できるかまでは思い至れなかった。
 猫耳と猫尻尾のデバイスを着けても豹がそれに気を惹かれた様子はなく、たとえ惹かれたとしても、神造デウスエクスの本能で戦い方を心得ている彼が死神の後ろから獲物を狙える絶好の位置を放棄する理由は何もない。
 死神達とて、主に『連れ帰れ』と命じられた豹の傍からそう簡単に離れはしまい。元より分断は困難なのだ。具体策もないとくれば、
「分断は諦めるしかねえな、陽、エブルス、このまま抑えにかかるぜ!!」
「わかりました……!」
 豹が狙い定めたのはマリアローザ、だが間一髪で割り込んだグレイン・シュリーフェン(ウェアライダーの降魔拳士・e02868)が獣撃の猛威を引き受ける。歌紡ぐ喉を深々と喰い破ったはずの一撃が咄嗟に翳した片腕の骨を噛み砕かれるだけで済んだのは、彼が護り手であり斬撃耐性を備えていたからこそ。
 分身の幻影纏ったグレインの命を更に雷撃で賦活し、エブルス・サンブークス(ぐーたら店主代理・e05411)は後衛から月豹の一撃の重さを見定めんとしたが、攻撃の威力は命中の度合いでその都度変化し、彼我のエフェクトや此方がディフェンダーか否か、そして防具の耐性によっても大きく増減する。
 加えて、同じ威力の攻撃でも、序盤に被弾するのとヒールで回復しない負傷が嵩んでくる中盤以降に被弾するのとでは危険度がまるで違ってくるのだ。一概には判断できない。
「……戦いは生き物だってことですね」
 判断基準さえ目まぐるしく変化する、一瞬たりとも気の抜けぬ場に立っているのだと肌で実感し、強く雷杖を握り直したエブルスの手首で三つの輝石が揺れた。
 確実に豹の意識を惹きつけるにはこれしかないと腹を括って、陽が歌い上げるのは絶望に抗う歌、殲剣の理。少なくとも命綱たる癒し手の被弾は減らせるはず。
 やはり月めく金眼を怒りに染め、豹の咆哮が陽達前衛陣へと襲いかかった。同時に力一杯跳ね、クラッシャー達の分まで痛手を引き受けたのはゼルダの婿たるテレビウムと棺思わすユルのミミック。
「素敵よ、お婿さん!」
「頑張ったわね、助手」
 労いながらも癒しの魔力を緩めることなくユルは鎖の魔法陣を展開する。
 厚い前衛陣、だが減衰を経てなお豹の咆哮には侮れぬ威力がある。対し、此方の列回復も減衰してしまうが、その難は列回復の担い手が増えることで霧散した。
「宴、桃花……憂いは僕が払おう。君達はどうか、目の前の敵を」
「ありがたいな。うん、頼りにさせてもらうね」
「百人力なの合点承知! なの~!」
 後衛から新たに迸ったのは釣鐘草の花弁めく黒鋼連なる鎖、淡く絡む硝煙と焦げた砂糖の香りに宴が眦緩め、頼れる知己の描いた魔法陣から跳躍、苛烈な蹴打で死神を叩き落とした次の瞬間、大地に跳ねた死神めがけて真白・桃花(ドラゴニアンの自宅警備員・en0142)の銃口が吼える。
 須臾の間も置かず古都の神域に響いたのは古代語の詠唱。
「あなた達死神の好きにはさせない。何より――この月の京には相応しくありません」
 艶やかな唇でマリアローザがそう断じた刹那、冴ゆる月より無慈悲な三重の石化の輝きが死神を貫いた。

●月の豹
 星が翔けた。
 宴に喰らいつかんとした瞬間、大きなあぎとが石化して機を逸した死神めがけ、地を蹴り宙に舞った緤がくるり一回転――と見えた時にはもう鮮烈な流星となって落ちた彼の蹴打が怪魚を光の塵と成して霧散させていた。
「次いくわ! 喰らうのは死神でなく、私達のほうよ!!」
「ん。速攻で落とそう」
「ええ。行けます、このまま止まらずに!!」
 寸秒も迷わず蜂蜜色の髪と薔薇色の天使の翼翻したゼルダのガトリングガンが捉えたのはもう一体の怪魚、瞬時に研ぎ澄まされた狙いで時をも凍らす弾丸が死神の頭蓋を撃ち抜いた途端、地の一蹴りで距離を殺した宴がグラビティ・チェインを破壊力と成した強打を横面へ叩き込み、もんどりうった処へマリアローザの簒奪者の鎌が荒ぶ旋風の如く襲いかかる。
「空を泳ぐ魚――と思えば結構可愛い気もするんだけど」
「まあでも、愛でられるものでもないですよね」
 口ではそう紡ぎながら一切の油断もなく、鋭い殴打を抉り込むように緤が突き入れたのは今宵ケルベロス側で最大火力を誇るスパイラルアーム、堪らず死神が彼の腕に喰らいつけば即座に魔術切開を施したユルが魚の牙から緤を解放した。
 隙なく心を繋ぎ合わせ、敵を侮ることなく全力で落としにかかる彼らはさながら極限まで研ぎ澄まされて鋭利な切れ味と絶大な威力を得た刃。戦いの幕開けから五分を待たずして、二体目の死神も電光石火で脳天を貫いた宴の旋刃脚で夜風の露と消えた。
 死神には苦痛ある死を。そして、美しいけものには安寧ある眠りを。
 微かに瞳を細め、息をつく間もなく、宴達は鋭利な刃の如き意識を月の豹へ向けて翻す。――そのとき。
 冴え冴えと輝く月が、撓やかな獣の影を映した。
 跳躍した豹の姿に翳る月が陽の瞳に映ったのは僅か一瞬のこと。気づけば凄まじい勢いで大地に叩きつけられていた。強靭な獣の前肢に抑えつけられた両肩が砕け、強かに背を打ち付けた大地が氷のように冷たい。
 なのに首から肩にかけてが焼けるように熱い。豹に深々と肉を喰い破られ鎖骨までも噛み砕かれ、地に広がる銀の髪がたちまち鮮血に染まった。
 正確無比なスナイパーの攻撃は確実に決まれば絶大な威力を発揮する。
 桜の護りが効力を発揮しなければ、喉笛ごと意識を喰い破られていた。
 実のところ抑えの自分達だけで豹を倒すつもりでいた陽だが、ヘリオライダーが告げた『相当手強い』とは『全員で挑んでも相当手強い』という意味なのだと思い至る。
「……っ! 鳴って奏でろ、響いて果てろ! 震えた声で私の夢を歌ってみせろ!!」
 空間そのものを震わす振動の術で獣を吹き飛ばすが、抑えつけられたプレッシャーゆえに当たりは浅い。
「桃花さん! 一緒に援護射撃を!!」
「うん、弾丸の花満開! なのー!!」
 難なく着地した豹が再び跳躍するより速く、緑柱石の瞳で機を捉えたゼルダのガトリング連射が爆ぜ、重ねて桃花も弾幕を張る。獲物を狙う獣なら弱った個体を見逃すはずがないとゼルダが猛然と攻勢をかけた隙に、エブルスが陽のもとへ飛ぶように馳せる。
 甘い相手ではないと解っていた。けれどその認識を共有できなかったことが胸に痛い。
「こんな……!」
「大丈夫です。二人がかりでなら……」
 無残に喰い破られた傷に蒼褪めながらも魔術切開を施すエブルスに手を添え、同じく魔術切開を施したユルが重ねて鼓動の共鳴を呼ぶショック打撃を打ち込んだ。更に、
「踏ん張れ、ここからが正念場だ」
「うん……!」
 黒豹の刀剣士のデコピンで気合を入れられ、活力を取り戻した陽が跳ね起きる。
 凍てる夜の月下に舞う白梅の花、負けずに輝くのは間断なく撃ち込まれるゼルダの銃撃。爆ぜて光って咲いて――そうね。私達は自身が咲くために、これから咲く花のためにも立ち止まれない、と青の瞳をあでやかに笑ませたマリアローザが奏で歌い上げるのは紅瞳覚醒。
「だって、私達が百花のさきがけなのですものね」
「ああ、先へ進むぜ。その牙、折らせてもらう!」
 護りを高めるマリアローザの歌声、凍てる夜風と舞う早春の白花。それらを狼の耳や尾で感じ取りながら、グレインは過去を生き抜いた同族の尊厳を護るため渾身の力を叩き込む。
 鮮烈な螺旋を描いた手裏剣が月の豹の胸元から口元までを裂き、鋭い牙を砕けば――月を仰いだ獣が今までとは違う声で咆哮した。
 中空に忽然と現れる満ちた月。
 満月を思わす光球が豹へ落ち、その傷を癒して凶暴性を高めた、直後。
「……眠れないのね? 大丈夫、ちゃんと手伝ってあげるから」
「誰も倒させは、しません」
 眠りの薬を処方するかのよう穏やかに紡いだユルが永遠の眠りへ導くウイルスカプセルを撃ち込み、過去の喪失を胸に決然と雷杖を翳したエブルスが眩い雷を迸らせた。
 膨れ上がった獣の凶暴性が癒し手の破魔に打ち砕かれる様、そしてカプセルが豹の口元を直撃し雷が強かに打ち据える様をあまさず双眸に捉え、一瞬でその懐へ飛び込んだ宴がその喉元を貫いた指が、確かに獣の気脈を断つ。
「理力の技を避けるのが苦手みたいだね。そして……魔法攻撃に弱い、かな?」
「そう見えたね。それなら――」
 月の豹に、星の囁きを。
 音響機構から奏でられる楽曲を理力の魔法へと変換する、世界で唯ひとつの緤の機導術。
 銀蒼の眼差しが月の豹を捉えれば月光降るような音色が星の囁き思わす旋律を奏で、命の螺旋めぐる終局へ向け翔けあがるよう魔力を増大させる。クラッシャーの威も乗せた真白な氷霧が、静かで、けれどすべてを極北に染めんばかりの凍気で豹を呑み込んだ。

●月宮殿
 ――楽園の春を迎えるために、あと何度凍える夜を過ごせばいいかしら。
 凍てる夜風が運んできた氷霧の名残にか、あるいは別の何かにか。
 誰にもわからぬほど微かに身を震わせて、凍てつく寒さには慣れっこだけれど、と胸裡に淡く自嘲めいた呟き落としたユルが放つは、心を縛りやがてすべてを呑み込む黒曜の荊。
 眠れぬ獣に、ステキな夢を、魅せてあげる。
 冷たい夜も舞い降る白梅の花弁も震わせて叩きつけられる咆哮、牙の鋭さも威力の重さも持ち合わせた獣撃。月豹の攻撃は牙を砕き護りの加護を重ね徐々に鈍ってきたが、盾となり続けたグレインの消耗もかなりのもの。
 けれど獣が陽へ躍りかかった瞬間、考えるよりも速く彼はその身で仲間を庇っていた。
「意志のない牙に倒れるわけにゃいかねえし、仲間を倒させるわけにもいかねえからな!」
 重く鋭い獣撃を真っ向から受け止め、抜き放った星辰の剣を己が牙と成し、狼たる青年は月の豹の魂を喰らう降魔の一撃を放つ。ありがとう、と声を張った陽の手で因果律をも砕く槍が輝いた。
 神速で奔った稲妻の突き。
 凍てる風の夜に仄かな梅の香、雷の閃光が月色の獣の毛並みを波打たせ。
 ――綺麗だね。本当に、綺麗だ。
 理性を剥ぎとられた様に覚える哀しみも死への冒涜に感じる憤りも真実で、なのに眼前の光景を宴が美しいと想うのもまた確か。湧きあがる感情はそのまま、けれど戦意もまっすぐ揺るがずに、両腕から紅蓮の炎を噴き上げた。
「憐れな骸へ今一度の安寧を。ひとときの痛みを、どうか許して欲しい」
「見つめていたいほどに綺麗だと思うけれど……貴方はもう、本当の貴方じゃないから」
 月光の色に黒と見紛う灰銀の梅花模様の毛並み。彼我の血に濡れ、真白な薄氷を纏っても豹は美しく、それゆえにゼルダも宴と似た想いを胸に萌す。炎を噴き上げた両手を翻す宴を炎の翼で舞う鳥のようとも感じながら、彼女が放つ炎に続けてゼルダは時も空間も凍結する弾丸を撃ち込んだ。
 百花にさきがけて、今、凛と咲きましょう。
 ――凍てる冬を越え、世界に春を告げるために。
 狂風の如く前衛陣に叩きつけられる豹の咆哮、けれどその余波が冷たくも甘い梅花の香を運んできたから、もうすぐ春よ、と微笑むゼルダに頷き、紅玉の瞳でまっすぐ前を見据えたエブルスは祈るような心地で前衛陣を癒す雷光の護りを織り上げた。戦いの終幕を、誰一人倒れることなく迎えられるよう。
 冴える月夜に月色の豹。炎に灼かれ氷に苛まれ、血に濡れてもなお戦意を煌かせ。
「中々良い物だね……って、僕も思うけれど」
 君が在るべき形は、今の姿じゃない。
 雪のようにはらはらと舞い降りてくる白梅、月宮殿の花。重ねて降るよう緤は月の豹への最強の一手となる楽曲で夜を満たし、かそけき星の煌き帯びた氷霧で、死を弄ばれた過去の神造デウスエクスを抱擁する。
 何かを希うような、豹の咆哮。
 けれど豹が満ちた月の光球を生みだすよりも先に、マリアローザの詠唱が終わる。死神を貫いた時とは異なる、解放の想いを乗せた魔法に貫かれて、月の豹は大きな古木に咲き誇る月宮殿の花越しに月を仰いだ姿で一瞬動きを止めた。
 それで、終わり。
 封じ込められていた光が解き放たれるかの如く、月の豹は無数の光の粒となって、凍てる夜風に月宮殿の花々と香り舞う世界に融ける。知らず詰めていた息を緩くほどいたゼルダが見上げれば、冴える夜空を背に高雅な八重の白梅が、自身で仄光るように咲き誇っていた。
 ――誇り高かった戦士だろう貴方、もう一度眠って。この花々のもとで。

 暫しの静寂も、ひときわ強い夜風に白梅の梢が波打つ音に途切れた。
 美しい灯籠が柔らかなあかりを燈す深夜の神社。夜空を背に浮かび上がるよう咲き溢れる八重の白梅がさざめき波打つ様は空恐ろしいくらいに美しい。けれど。
「どうしてかな、少しだけ寂しい気がするんだ」
「何となくわかる気がするわ。……これも感傷なのかしらね」
 豹への弔いを胸に夜空と月宮殿の花を仰いでいた緤がぽつりと呟けば、婿なテレビウムを抱いたゼルダが淡く眦を緩めてそう応えた。
 思えば、豹が月に啼く姿も何処か寂しげに見えていて。
 感傷、と心を得たばかりのレプリカントは年上のオラトリオの言葉を繰り返した。そしてもう一度夜空を仰ぎ見る。
 月の色をした君は月に還るのかな、それとも――。
「ほんと、怖いくらい綺麗だよね。圧倒される感じっていうのかな」
「凍てる冬を越え春を告げて咲く……この白梅はそうして何度、過ごしてきたのかしらね」
 瞳を細めて仰ぎ、写真を撮っていこうかな、と宴は口元を綻ばせた。深く息をすれば胸に満ちる、冷たく甘く透明な花の香を写真に込められないのが惜しいくらい。
 古木の幹に触れればひんやりと冷たく、けれど優しい命の息吹も感じられて、ユルは淡い吐息を夜風に融かす。凍てつく寒さを越え、解き放たれて咲き誇る、百花のさきがけ。
 樹齢はどのくらいなのかな、と呟いて、グレインも古木に触れた。
 木陰から仰ぎ見れば咲き溢れる花々が胸に迫るよう。
 過去を生き抜いた豹が此処を死に場所とした時にも、
「やっぱりこの木に見守られてたのかな。同じように花が咲く季節に」
「そうかもしれませんね。お気に入りの場所だったのかしら?」
 この地に相応しい方のように感じられましたから、と柔らかに微笑して、マリアローザはバイオレンスギターを抱く。緩やかに弾き奏でるのは鎮魂歌の音色。
 優しく、何処か郷愁を誘う音色に小さく狼耳を揺らし、穏やかに目蓋を閉じたグレインは永遠の眠りに還った同族へと呼びかけた。神造デウスエクスとケルベロス。立ち位置こそは違うけれど、源を同じくする同族。
 ――また眠って、ゆっくり眺めていてくれよ。
 百花のさきがけと、これから来る春の様子を。

作者:藍鳶カナン 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2016年3月14日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 1/感動した 0/素敵だった 8/キャラが大事にされていた 0
 あなたが購入した「複数ピンナップ(複数バトルピンナップ)」を、このシナリオの挿絵にして貰うよう、担当マスターに申請できます。
 シナリオの通常参加者は、掲載されている「自分の顔アイコン」を変更できます。