葬り雪

作者:月夜野サクラ

 街灯の光を背に受けて、青い夜風が街を往く。
 寝静まった都心で身を寄せ合うように聳える摩天楼は、色のない森のようだった。昼は絶え間なく流れる車の姿も今はなく、代わりに冷えた静寂がビルの谷間に澱んでいる。
 そこを泳ぐ、影が在った。
 ボロボロの鰭を引き摺るように泳ぐのは、黒き異形の魚達。それは季節外れの蛍にも似た青い燐光を散らしながら、人気の失せた街の底に褪めた光の円環を描く。そして一際強く輝いた――瞬間。
「……アァ、ア」
 回遊する魚達の中心に、それはいつの間にか存在していた。
 赤く濁った瞳に、ぱさつき乾いた長い毛並み。地球人でもない。しかし獣そのものでもない。かつて神造デウスエクスとして生み出され、そして死んだ人狼の姿がそこに在った。
「ガアァ、アアアア!」
 月に欠けた牙を剥き、汚れた爪を振り上げて、黒い狼は歩き出した。
 意味を成さないその声はまるで何かを嘆くように、深夜の街を震わせる。
●涙、涸れても
「都心のオフィス街に、死神が現れるみたいだよ」
 居並ぶケルベロス達を見渡して、レーヴィス・アイゼナッハ(en0060)は淡々と言った。雨曝しのヘリポートに吹き付ける風は冷たく、少年はコートの前を掻き合わせる。
「尤も今夜現れるのは、最下級の連中みたいだけどね」
 黒い怪魚の姿をした下級の死神達はこれまでも、第二次侵略期以前に地球上で死亡したデウスエクス達をサルベージし、死神の尖兵に作り変えていた。そして今宵も例に漏れず、彼らは亡者を呼び覚まそうとしているのである。
「死神の出現ポイントはさっきも言った通り、都内のビル街。オフィス街だけあって夜中は殆ど人気もないし、一般人の心配はしなくても大丈夫だと思う。問題は、敵の方だけど」
 一度言葉を切って走り書きのメモをなぞり、少年は僅かに眉を寄せた。細めたサファイアには微かに、憐れむような色が滲む。
「敵は魚型の死神が三体と、サルベージされた狼のウェアライダーが一体。錆びた日本刀を持ってるけど、記憶や知性は完全に飛んじゃってるみたいだね」
「……哀れな話だな」
 ふいと夜景に視線を流して、ゾルバ・ザマラーディ(ドラゴニアンの刀剣士・en0052)が呟くように言った。死者には善も悪もない――それだけに、魂への冒涜としか呼べない死神の行いは、看過できるものではない。
「死んだ後に身体を良いように使われるなんて、僕なら真っ平御免だね。……だから、さ」
 彷徨う獣は、嘗て誰かを傷つけたのかもしれない。けれど彼はその死を以って、既に罰を受けた筈だ。
 眠らせてあげてよ、と囁いて、レーヴィスは言葉少なに本を閉じた。
 月の見えない冬の夜。吹く風にはちらちらと、白い欠片が舞い始めていた。


参加者
守矢・鈴(夢寐・e00619)
インレ・アライヴ(ルナティックトリガー・e02246)
木戸・ケイ(流浪のキッド・e02634)
隠・キカ(輝る翳・e03014)
瀬戸口・灰(泰然自若な菩提樹・e04992)
ローレンス・グランヴィル(アンゲルスの追憶・e08039)
ファロ・ジンガロ(医の篝火・e11533)
クロード・リガルディ(行雲流水・e13438)

■リプレイ

●或る、雪の夜に
 音もなく降り出した雪は、一向に止む気配が無い。
 夜が更けるに連れて密度を増す白は、夜半の街を耳の痛くなるような静寂に沈めていた。時計の針が示す時刻は午前零時――どこにでもある都会のビル街は、淡雪に蒼白く煌めいて見える。
「雪が、きれい」
 季節外れの夏空の瞳に踊る雪の礫を映して、隠・キカ(輝る翳・e03014)は夢見るように言った。でも、と続けた唇は、どこか寂しげな形をしている。
「なんだか、かなしくなっちゃうね? ……キキ」
 星の如くに瞬いて、そして一瞬に消えてしまう雪。その光景は何故だか胸を締め付けられるようで、頼り所を求める少女は玩具のロボットを抱き締める。
 白い街並みを見下ろすビルの屋上に、ケルベロス達はいた。どこを彷徨い歩いているのか目標の姿は未だ見えず、インレ・アライヴ(ルナティックトリガー・e02246)は夜にくすんだ金髪を掻きむしる。
「ったく、死神も好き勝手しやがるぜ。死んでもタダ働きさせられるのかよ」
「ああ、たまったもんじゃないよな」
 全くと同意を示して、瀬戸口・灰(泰然自若な菩提樹・e04992)はビルの淵に並んだ。薄く笑みを浮かべる口元とは裏腹に、その双眸はちっとも笑ってはいない。
「さっさと倒して、もう一度眠ってもらうとしようや」
 人生の大半を病院という場所で過ごしてきた身だ。生きるために必死でもがく人々の姿を、男は長きに渡り見詰めてきた。それだけに、命を弄ぶ死神の行いを見過ごすことはできない。
 俯けた視線をゆっくりと上げて、ファロ・ジンガロ(医の篝火・e11533)はぽつりと言った。
「どんな悪人でも最期はみんなおなじだと、昔お爺ちゃんがいってました」
 死は誰にしも平等にやってきて、善も、悪をも奪っていく――そう、医師の大先輩でもあった祖父は言っていた。遺された器には徳もなければ、また罪もない。折れ耳を垂れるその声は、静かな憤りに震えていた。
「だからどんな者であろうと、骸は丁寧に扱うんだ……って」
 死した身体を悪戯に酷使するなど、もっての外。絶対に止めてみせる――キッと睨み据える瞳には、確固たる決意が燃えている。
「……サルベージされたウェアライダー、か」
 吐息混じりに呟いて、クロード・リガルディ(行雲流水・e13438)は暗い空を仰いだ。今日に至るまでの間に『彼』の身に何が起きたのかは知る由もないが、なんとも胸の悪くなる話だ。死神の狙いを挫くためにも、今宵の任務は確実に遂行しなければなるまい。
 一点の異常も見逃すまいと眼下の街並を観察していると、木戸・ケイ(流浪のキッド・e02634)がほう、と声を弾ませた。
「あちらさんも、刀を持った狼ってワケか」
 男の視線が示すのは、雪風吹き散るビルの狭間。お世辞にも綺麗とは言えない片刃の剣を引き摺って、ゆっくりと歩む黒い影がそこには在った。
 腕前の方まで錆び付いてなきゃいいが――好戦的な笑みを滲ませて、男は刀の鯉口を切る。
「夜が明ける前に終わらせてやろう」
 相手にとって、不足はなし。
 どるん、と小気味よくライドキャリバーのエンジンを吹かせて、守矢・鈴(夢寐・e00619)は親愛なる『グラナート』のハンドルを握り締める。
「Ready――Go」
 短く告げる声が合図であるように、ライドキャリバーが動き出した。眠れぬ獣に今一度の眠りを与うため、そして何よりもこのような蛮行を、二度とは繰り返させぬために――死神達を、蹴散らすのだ。
「舞う雪の中で葬られるか」
 仲間達の姿が次々と暗がりへ消えて行くのを見送って、ローレンス・グランヴィル(アンゲルスの追憶・e08039)は言った。垣間見えた影に手向ける憐憫は間も無く、卑劣なる死神への静かな怒りに変わってゆく。
「お誂え向きな程の浪漫だ」
 無造作に屋上の縁を蹴れば既に、体は渦巻く雪の中。彷徨う獣の四方を塞ぐように、ケルベロス達は夜の底へと降下する。

●慟哭
 眼前で何が起きているのかを正確に把握できるほどの思考能力は、恐らく戻っては居ないのだろう。
 飽きもせずぐるぐると円を描いて回遊する魚達の中心で、黒い狼は立ち尽くしていた。大きく裂けた口吻からだらりと垂れた赤黒い舌、濁った瞳に艶の無い毛並は一見してそれが生者ではないことを知らしめるが、かといって全くの死体と呼ぶことも出来ない。千切れかかった大きな耳は、迫り来るモーター音をはっきりと捉えていた。
「グラナート」
 ビルの側面を落ちるように駆け下りながら、鈴は相棒の名を呼んだ。急加速したライドキャリバーは進路上の死神達をはね飛ばし、大きく弧を描いて停止する。四方から注ぐ蒼い光に強襲を悟ったのだろう、怪魚達は襤褸切れのような尾鰭で宙を蹴り、旋回した。しかしその行く手には、インレが立ち塞がる。
「この期に及んで、どこへ行こうってんだ?」
 問えど答えを聞くつもりも、待つつもりもなかった。間を置かず引いた引き金は掲げた小銃から弾丸を連ねて、死神の動きを牽制する。怯んだ魚達のその背には、ケイが迫っていた。
「三枚に下ろしてやるぜ!」
 軽やかな鞘走りと共に、抜き放つ刃が花になる。輝く霊気の桜吹雪は焔の如く怪魚の身体を包み込み、お供のボクスドラゴン――尚、見た目がぽよぽよとしているから、ポヨンと言う――が嬉しそうな声を上げた。わしりとその頭を撫でてやり、主は笑う。
「今日はお仲間もいることだし、良いトコ見せてやりな」
「きゅい?」
 ちらりと流した視線の先で、二匹の竜が首を傾げる。うち一体を腕に乗せて、ファロはきりりと表情を引き締めた。
「それじゃ、手筈通りにお願いします」
「解った」
 簡潔に応じて、ゾルバ・ザマラーディ(ドラゴニアンの刀剣士・en0052)は火竜を宙に解き放つ。自分はまだかと問うような視線を受けて、ファロは愛竜の背を撫でた。
「勿論、ソルもね」
「!」
 嬉しそうに口を開けて、ソルと呼ばれたボクスドラゴンが羽ばたいた。仔竜達が吐き出す息吹は二色の波となり、異形の魚群を飲み込んでゆく。
 人狼は一瞬戸惑ったようにも見えたが、死して尚残る獣の本能は戦いのやり方というものを確りと憶えているらしい。力強く地を蹴って、聳えるビルを背に狼は高々と跳躍する。その進路を阻むように躍り出たのは、ローレンスだ。
 叩き付けるように降る刀を短く束ねた鎖で受け止めて、男は探るようにまじまじと獣の瞳を覗き込む。
「名乗る名も無ければ喧嘩を愉しむ情動も無い、か? ――気の毒に」
 意志らしい意志など最早ないにも関わらず、突き動かされる身体を止めることの出来ない傀儡。哀れと思わぬわけでもないけれど、さりとて手心を加えられるほど甘くは無い。
「君には私と遊んで貰おう」
 死神達が夜の藻屑と消えるまで。錆びた刃を跳ね除けたその手で、伸ばす鎖はまるで意志を持ってでもいるように、獣の手足を縛り上げる。一人抑えに回った友人の姿を一瞥して、キカはぐっと小さな拳を握り締めた。
「きぃも、みんなも、まけないよ」
 早急にローレンスに加勢するためにも、まずは一刻も早く死神達を始末しなければならない。見開いた瞳に揺れる虹彩の蜃気楼は、心なき死神さえも惑わせる。
「………」
 のたうち回る魚達に氷の刃を重ねながら、クロードはちらりと人狼の姿を盗み見た。自我もなく、痛みすら感じないだろう屍からは、生前の姿を量ることすら出来はしない。もしも彼に心が残っていたのなら、この状況を如何に思うだろう?
「このような形で生き返っても、何も嬉しくなどないだろうな……」
「奪われて勝手に操られて、気持ちの良い筈がねえだろうさ」
 内心に秘めたつもりで、声に零れていたのだろう。重ねる灰の言葉は皮肉げであったが、同時に怒りを孕んでいた。『彼』がどこの誰であろうと凡そ灰自身には関係のないことだが、だからといって弄んでよい命などこの世に一つもありはしない。掲げた掌から撃ち出す影の弾丸は死神の一匹を捉えると、醜悪なその姿を夜の闇へと溶かして行く。

●Rest in Piece
 稲妻を纏う切っ先が、死神の最後の一体を貫いた。形を失った黒い影はぐずりと崩れて闇に消え、後には斬霊刀の輝きだけが冴え残る。黒い残滓を払うように刀を一閃して、ケイは人狼に向き直った。
「さあて……どっちの牙が鋭いか、勝負といこうぜ!」
 死者の眠りを妨げる、死神達はもういない。誰のものでもなくなったその身が単なる獣であるのなら、獣らしく衝動に身を委ねるのも良いだろう。
 挑発を理解したのか或いはただの偶然か、狼は一際大きな雄叫びを上げて屈強な腕を振り被る。しかし獣爪は狙った獲物に届く前に、ジョージ・スティーヴンスの右腕に受け止められた。おや、と僅かに瞳を見開いて、ローレンスは眼前に割り入った男に微笑い掛ける。
「有難う。礼は酒で足りるかい」
「気にするな。楽な仕事じゃないのは確かだが」
 好きでやっていることだと、男は薄い笑みを浮かべた。傷ついたその腕を見てすかさず、夜朱――灰のウイングキャットである――が背中の翼を羽ばたかせるが、それで易々と追いつかない程度には消耗していることも確かだ。息を乱すローレンスの横にライドキャリバーで乗り付けて、鈴は淡々と告げた。
「代わるわ」
「ああ、頼むよ」
 申し出を有難く受けて、ローレンスは後退する。火花を散らす瑕口を隠すことも今は忘れて、鈴は愛機の背から跳び上がる。爪先は空を掻いて焔を纏い、狼の下顎を痛烈に蹴り上げた。堪らずに大きく仰け反って、黒い狼は期せず天を仰ぐ。厚い雪雲の切れ間から月が姿を覗かせたのは、奇しくも丁度その時であった。
「グ、グォォォォ!」
 言葉にならない声を上げて、狼は咆哮する。その声は悲哀というよりも純粋な狂気を感じさせて、ファロの背筋をぞくりとした感覚が走り抜ける。
「狂月病のルーツはやはり、神造デウスエクスだった時代にあるのでしょうか……?」
 確かなことは何も解らない。しかし輝く月が、彼等ウェアライダーにとって特別な存在であることは間違いないのだろう。そして狂ったように吼え猛る『彼』が今、この場を逃れようとしていることも明白だった。ち、と不機嫌そうに舌打ちして、クロードは黒縁眼鏡を押し上げた。
「逃がすか……!」
 呼び出したるは、骨の朽ち縄。白骨の尾が強かに打ち据えると、弾き飛ばされた狼の身体が宙を舞う。逆さまに落ち行く身体に肉薄するやその瞳を覗き込んで、インレは問うた。
「おまえの求めるモノは、何だ?」
 月ならば、確かに此処にある。そっと撫でた指先が示すのは、瞳の中の細い月。息を飲むような獣の呼吸が妙に大きく耳につき、時が止まったかのような錯覚に陥る――しかしそれも、一瞬。銃口を飛び出した弾丸は獣の胸を貫いて、狼はどしゃりとその場に墜落する。足音もなくその傍らに歩み寄ると、キカはそっと魔道書を開いた。
「もう、おやすみの時間だね」
 生前の彼が何をしたのか、何故死に至ったのかは、知る由もないけれど。少なくとも骸となった今、その身に何の罪があるというのだろう。
「あなたはなんにもわるくないから、すぐにねむろうね」
 泣き出しそうな表情で微笑んで、小さな指が厚い本の頁をめくった。助けてあげられなくて、ごめんね――囁きと共に溢れ出した魔光は獣の身体を包み込み、黒い毛並を精細な彫像へと変えてゆく。溜息一つ縛霊手の腕を下ろし、灰は静かに瞳を細めた。
「結局俺は、救えないのかね」
 消え行く命を見届ける時、思い浮かぶのはいつも同じ顔。
 舞う羽が雪に見えたあの日、救えなかった友の顔は消えることなく胸に蟠り続けている。

●雪棺
 降りしきる雪は、いつの間にか止んでいた。しかし降り積もった雪が音を吸い込むせいで、静寂は一層深く夜の街を包み込む。
 白い石と化した身体が風に脆くも崩れて行き、やがて跡形もなく消えてしまうのを、ファロは複雑そうに見詰めていた。死神の手に掛かった哀れな亡者を、解放してやったのだ――何も気に病むことはない。しかし消え行く獣の姿は余りに儚くて、生き死にの無常を想わせる。
「これでもう、大丈夫ですよね……」
「ああ。戻る器ももうない」
 雪に似た白い欠片が、風に吹かれて散ってゆく。長斧の刃を無造作に雪に沈めて、ゾルバは火竜を肩に呼び寄せた。雪の止んだ夜空は一点の曇りもない氷のように澄み渡り、真冬のオリオンが冴えた輝きを放っている。
「もう目覚める事がないよう、今度こそ安らかな眠りを……」
 細めた瞳に星空を映して、祈るように鈴は紡いだ。ゆっくりと空へ昇る息の白さを視線で追えば、その先には蒼白い月が浮かんでいる。語らぬ姿に微かに嘆息して、インレは拳銃をしまい込んだ。
(「今回も記憶の手掛かりは特になし、か」)
 少年には、過去の記憶がない。それで特別不自由をしているというわけでもないが、気にならないといえば嘘になる。夢に見るあの老人は今、どこでどうしているのだろう? 或いは消えた人狼のように、死してどこかを彷徨っているのだろうか。
 取り留めのない思考に沈みかけて、少年は緩く首を振った。考えた所で詮無いことだ――彼等は与えられた任務を果たした、それだけが結果であり、今夜起こったことの全てだ。
 ひゅるりと淋しげな声を上げて、冷たい風が降り積もった雪を舞い上げる。ひえ、とおどけたように肩を竦めて、ケイは上着を掻き合わせた。
「おー、寒い寒い……こんな雪の夜に出てくるんじゃねえや」
 どっか入ってコーヒーでも飲もうぜと、努めて普段通りに男は笑う。まあ付き合わないこともない、と、クロードは言葉少なに瞼を伏せた。物思いに耽るにも、立ち尽くすには余りに冷える夜だ――折角無事に事を終えたとて、風邪を引いたのでは始末に悪い。
 じゃあ、と懐から一本の缶コーヒーを取り出して、灰は言った。
「こいつはせめてもの手向けに、置いてくよ」
 ことりと缶を置く音は、ガラスを打ったかのように冷たい。帰るぞ、と呼びかけると、夜朱はにゃあっと短く鳴いてサバトラの尻尾を男の首に絡めた。
 いいことも、悪いことも、泉のように溢れて止まらなくなる思考は、多分この雪のせい。青く輝く粒は冷たくさらさらとして、掬った掌を零れ落ちてゆく。
「雪は、きれい」
 確かめるように繰り返して、キカは言った。
「……でも、さむくてつめたいね」
 雪を零したその手は冷えて、薄っすらと赤くなっていた。けれどあのウェアライダーは、この冷たさを感じることすら出来なかっただろう。
「あたためてあげたかったな」
 ぽつりと呟くように言って、少女は白い地面に視線を落とす。赤みを増した指先を見兼ねて、ローレンスは少女の手を引いた。帰ろうと促せばこくりと頷いて、握り返す手が後をついて来る。
 振り返ったビル街は、まるで何事もなかったかのように静まり返っていた。建物の被害もさしてなく、死体の一つも残らない。朝が来ればこの淡雪と同じように、今宵の事件も忘れられてしまうだろう。
 青い街並に背を向けて、男は静かに瞳を伏せた。
「せめて私は、覚えておこう」
 名も知らぬ獣が、確かにここに在ったことを。
 おやすみと囁く声は、白く煙る吐息と共に空に溶けて消えて行った。

作者:月夜野サクラ 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2016年1月29日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 1/感動した 0/素敵だった 9/キャラが大事にされていた 0
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