ケルベロスハロウィン~ジョワ・ド・ヴィーヴル

作者:藍鳶カナン

●ジュ・ム・スヴィアン
 ――忘れない。
 外宇宙への旅立ちの時が近づいている。
 新型ピラーの開発は恙なく進行中、宇宙に異常を齎すコギトエルゴスム化を無くすべく、まだ見ぬデウスエクスが住まう惑星へ新型ピラーを広める旅へと向かうマキナクロスにも、この途方もない旅への同行を望むケルベロス達の居住区が建造されている。
 戦いの日々の終幕の、本当の最後を迎えても。
 この星で生きる者と、遥か星の彼方へ旅立つ者とが、別離のときを迎えても。
 ――これまでの日々を、忘れない。

 旅立ちの準備をマキナクロスが着々と整えつつある秋。この時季最大の祭典といえば勿論ハロウィンで、今年のハロウィンに是非ともケルベロスを招きたいと世界各地で熱望の声があがっているのは、きっと誰もが知るところ。
「この先の話ももう聴いた? 世界のひとびとの要望に応えるべく、今年はマキナクロスで地球をまるっとめぐって、世界各地のハロウィンに参加しようって話になったんだよね」
 狼耳をぴんと立て、天堂・遥夏(ブルーヘリオライダー・en0232)が楽しげに語る。
 試運転も兼ねて世界をめぐるマキナクロスは地球の軌道上を高速で移動できる上に、更に急ぐ場合には魔空回廊も使用可能。万能戦艦をも凌ぐ移動能力をもってケルベロス達を世界各地のハロウィンへ連れていってくれるから、梯子だって思いのままだ。
 様々な国へ、様々な地へ、さあ、行こうか。
「僕から案内するのは、北米の古都にして北米屈指のロマンティックな都市。カナダ南東で今もヌーヴェル・フランスの香りを息づかせる――ケベックシティ」
 Je me souviens、私は忘れないという言葉を抱く街。
 ケベック州の紋章にも車のナンバープレートにも刻まれているこのフレーズはこう続く。
 ――私は忘れない、百合の元に生まれ、薔薇の元に育つことを。
 百合はフランスを、薔薇はイギリスを象徴する花。フランスの入植者達が築いたこの街が植民地戦争によってイギリスの統治下に置かれることになった苦難と、嘗てのヌーヴェル・フランスの栄光を忘れない、との解釈が主立ったものだけれど。
「こんな解釈もある。『この美しい街並みを護ってきたことを、忘れない』ってね」
 多くのケルベロスの心に響く言葉だろう。
 この美しい星を護ってきたことを、忘れない――そう言いかえたなら、なおのこと。

●ジョワ・ド・ヴィーヴル
 紅葉の美しさで名高いメープル街道の東端。
 古き良き時代の香りが息づき、今も馬車が行き交う、北米屈指のロマンティックな都市。
 北米の古都ケベックシティの高台に街のシンボルとして聳える御伽噺めいた美しさの古城はその実19世紀に建てられたホテルだけれども、それでも120年を超える伝統と格式を誇る壮麗さで、城が見下ろす旧市街には17世紀や18世紀のフランス文化の息吹を確かに残す、麗しきヌーヴェル・フランスの香り息づく街並みが広がっている。
 そのケベックシティで、
「っていうか、ケベック州で愛されてるもうひとつのフレーズがあるんだけど」
「ああん聴いたことありますなの、『生きる歓び』って言葉なのー!!」
 遥夏の言葉に真白・桃花(めざめ・en0142)の竜尻尾がぴこぴこぴっこーんと跳ねた。
 Joie de Vivre、生きる歓び。
 誰もが今年はいっそう強く感じているだろう言葉を抱いて、この街が迎えるハロウィンの夜は飛びきりの歓喜と幸福に満ちた祭典になるはずだ。
 お隣のアメリカ同様、派手にハロウィンを楽しむのがカナダのお国柄。
 麗しきヌーヴェル・フランスの香り息づくケベックシティも同じこと、しかも今年は世界最大の冬の祭典たるケベック・ウィンター・カーニバルにも劣らぬ盛大なハロウィンを、と街のひとびとが気勢をあげているのだとか。
 秋の美しさは格別だというこの街は夜を迎えるたびロマンティックな夜景を見せるけど、ハロウィンの夜には世界遺産たる旧市街も新市街もひときわ幻想的にライトアップされて、雰囲気たっぷりなハロウィンのデコレーションに彩られる。
 華やかに街をゆくパレードは皆の様々な仮装で見物客を楽しませるはず。このパレードに加わるのも、陽気なフィドルの音色が流れるダンスパーティー会場へと変わるダルム広場やロワイヤル広場に跳び込んでダンスを楽しむのも間違いなく心を躍らせて、たっぷり笑えばきっと美味しいものが恋しくなってくる。
 街のあちこちに設えられた氷のテーブルには濃く煮詰めたメープルシロップが垂らされ、冷えて柔らかな飴のごとく固まるそれをスティックでくるくる巻き取るメープルタフィーが楽しめて、数多のカフェやスタンドではメープルクッキーやメープルタルトなどの菓子や、温かいカフェオレやミルクティーにメープルシロップを落とした杯が振舞われる。あなたが恋しいのが塩気なら、チーズとグレイビーソースがフライドポテトを彩るプーティーンや、バゲットサンドをどうぞ。味わい濃厚なスモークサーモンのサンドも、豚肉に楓蜜と麦酒を塗って焼き上げたメープルハムのサンドも、きっと飛びきり魅力的。
 これらを食べ歩きしながらハロウィンの夜を楽しむのもいいけれど。
 屋外の飲酒は基本的に禁じられているから、お酒を楽しむなら酒精をテラスで提供できるライセンスを持つカフェやパブのテラス席で。
 冬に自然凍結する葡萄から造られるアイスワイン、あるいはメープルの樹液とシロップで造られるメープルワインで、もしくはメープルシロップを熟成させた樽で仕込んだメープルウイスキーで、久々に逢った仲間と乾杯し、近況を語らい旧交を温めるひとときも掛け替えないものになるはずだ。
 新たな門出を迎えた者も、故国で責任ある立場に就いた者もいるだろうから。
 北米最古の石造教会である勝利のノートルダム教会、バロック建築の傑作と謳われているノートルダム聖堂、この夜には一晩中開放されている教会や聖堂に婚礼衣裳を纏って馬車で向かう者達の中には仮装に見えて仮装でない者達もいるというから倣ってみるのもいいし、ゆったりと流れる時間を楽しみたいのなら、セント・ローレンス川沿いの遊歩道、テラス・デュフランをゆうるり散策するのもいいだろう。
 この夜には、宿縁によって邂逅し、和解や降伏を経た、己に縁のあるデウスエクスを祭に招くことさえ叶う。別の星への旅立ちを選びマキナクロスで出立を待つデウスエクスにも、この星のひとびとが紡ぐ文化に触れてもらうのは無意味なことではないはずだ。
 みんなみんな、きっと。
「飛びきり楽しくて幸せで、歓びの涙が溢れてきそうな夜になるんじゃないかしら~」
 そんな予感がするの~と桃花が尻尾を弾ませる。
 真に自由なる楽園への扉は解き放たれた。
 だからまたひとつ重ねにいこう。
 ――忘れえぬ想い出を、そして、生きる歓びを。


■リプレイ

●Je me souviens
 華やかな秋の夜に、夢幻への扉が開かれる。
 艶やかな夜闇に燈された蜂蜜色の灯りに浮かびあがるのは世界一美しい議事堂と謳われるフレンチ・クラシック様式のケベック州議事堂、威風堂々たる姿を左手にグランダレ通りを進むパレードが青い尖塔が印象的なサン・ルイ門を潜り、城郭に抱かれた旧市街へ至れば、沿道の観客達から爆ぜるような歓声で迎えられた。
 華麗な音色を奏でる天使と悪魔の楽隊に魔女達のダンスが続き、輝くような白馬と純白の馬車が現れれば車上で手を振る少女騎士と妖精の姫君の姿にひときわ盛大な歓声が咲いて、
「可愛いでしょう、世界で一番の私のパートナーですっ!」
「ひゃあああ! 琴のかっこよさだって世界一だからっ!」
 深紅の礼装と騎士の威厳を纏う鳳琴が誇らしげに応えれば、白薔薇のティアラとドレスで装うシルは頬から尖り耳までほんのり紅薔薇色。是非にと請われて乗った屋根なしの馬車が終着すれば手に手を取って、絵本の世界みたいな街の祭の夜へ!
 狼男の売り子が振舞うバゲットサンドを頬張れば其々濃厚なスモークサーモンと香ばしいメープルハムの旨味に舌鼓、尻尾ぴこぴこ娘から受け取ったカードを読めば二人揃って笑み咲かせ、楓の葉を模る生地にメープルバタークリームを挟むクッキーとメープルシロップに胡桃が溺れるタルトを互いの口許へ運んだなら、分けあった菓子より甘い口づけを。
 遥かな旅路の涯までも、貴女とともに――重ねた唇で鳳琴が誓いを伝えたなら、終わらぬ幸福で応えるよう、シルの腕がその背へと回される。
 この星で楽しむお祭りは、これが最後になるかもしれないけれど。
 この世界を皆と護ったことを。
 幾多の涙を流し、挫けそうになっても仲間達と支え合い、立ち上がってきたことを。
 Je me souviens――私は、忘れない。
 十七世紀の西洋浪漫、ヌーヴェル・フランスの香り息づく街を、まだまだ果ての見えないパレードがゆく。雪結晶のクリスタルに彩られた馬車に乗った雪の女王が現れたそのとき、カフェのテラス席で華やぎを眺める遊鬼達のもとへ吸血鬼の給仕が運んできたのは血の如き赤葡萄酒ならぬ、美しい金色に透きとおるアイスワイン。
 氷点下の世界で収穫された葡萄から造られる極上の甘露を迎え、
「素敵なタイミングね、早速乾杯したいわ」
「では、この巡り合わせに、皆で勝ち得た平和に、そして――二人の未来に」
 嬉しげに瞳を輝かせたセルショが硝子杯を掲げたから、彼も穏やかに微笑み返し、二人で軽やかに硝子の音色を響かせる。何処までも芳醇に蕩ける奇跡の甘味を、こころにからだに染み渡らせ、語り合うのは未来の話。この星が真に自由なる楽園となった今、婚姻の約束を結んだ二人の時間を阻むものは何もないから。
 一緒に見て回ろう。この素晴らしき世界を。
 ――メープル超うめぇ……!
 焼きたてカリカリふわふわメープルワッフルを頬張れば、贅沢な香ばしさとでも呼ぶべき独特な風味にたちまちチロは陥落し、
「だから人は紅葉狩りするのか、だから鹿さんは楓の樹皮を剥がして舐めるのか……!」
「だから自分もって楓剥いだら、その辺の木に名前つけてる誰かさんが激怒するんだよ」
 紅葉狩りって、ほんとはね――なんてルルが知的なツッコミ入れればチロちゃんは衝撃のあまりあそこからダイブしちゃうかも、と急勾配で知られる首折り階段をちらりと見つつ、帰った後の忠告完了! と切り替えたちびっこは意気揚々とスタンドへ馳せた。
 ――これって名前がプリンそっくりだし、超絶おいしいスイーツに違いないんだよ!
 愛嬌たっぷりなゴーストから受け取ったプーティーンのテイクアウトボックスを開けば、温かなカスタード色に濃厚なカラメル色がとろりとかかった、
「違う! 配色は完全に一致してるのに、これスイーツじゃないんだよ……!!」
「ヘリオライダーの話はちゃんと聴こうなルルたん……って、これも超うめぇ!」
 この国のソウルフードが御登場。ちびっこにワッフルを分けつつチロが摘み食いしてみたそれは、揚げたてポテトを彩る熱々のグレイビーソースにチーズもたっぷりの、飛びっきりジャンクな禁断の美味。
 十八世紀の西欧に迷い込んだかのごとき石畳の路地に煉瓦造りのカフェも、夜闇を暖かに蕩かすジャック・オー・ランタンに彩られたなら、異邦の妖怪を装う優も違和感なく夢幻の世界に溶け込めた。
 琥珀色のメープルシロップをパンケーキへと落とした天狗が振り仰けば、絵本の街並みに縁取られた星空に、硬質に煌くマキナクロス。旅立ちを望むのは見知らぬデウスエクスとの間にも平和を築くためだが、家出気分なのも否めない。
 死者の魂が訪ねてくるというこの夜に、忘れえぬ面影を探すけれど。
「アマリリス……」
 君を、取り戻せやしないから。
 夜闇に映えるのは幻想的にライトアップされた壮麗な古城、シャトー・フロンテナック。御伽噺めいた麗しきお城の姿のホテルの背には、星空に浮かぶ二人の故郷の姿。
「こんなの絶対、一生に一度きりの絶景よね! 確り心に焼きつけておかなきゃ!」
「お姉ちゃんとこうして、こんな景色を一緒に眺められるなんて……」
 夢幻の浪漫に華やぐ街と機械文明を極めた星の競演も、尻尾ぴこぴこ娘に貰ったカードに綴られた事柄も胸に刻み、猫耳と猫尻尾で装うジェミはお揃いの仮装を望んでくれたレラの姿に笑みを咲かす。この愛らしさは一度きりでなく、この先の旅路でも見られるかも!
 この街と対岸の街あかりを映して煌くセント・ローレンス川、水面を渡りくる風は冷たいけれど、寄り添い合ってテラス・デュフランを歩み、熱々の焼き林檎とメープルクリームが溢れそうなクレープを分け合えば、幸せな涙が込み上げてくるほど暖かい。
 レプリカント化したジェミをなお、姉と呼んでくれるレラ。
 彼女と繋ぐ手に感じるぬくもりは、ともに生きる歓び、新たなみちしるべ。
 けれど遥か星の彼方へ旅立っても、この星のひとびとのあたたかさを、忘れない。

●On n'a qu'une vie
 ロワイヤル広場のルイ14世像にきりりと剣を捧げたのは、猫耳ぴこり、猫尻尾ふるりと揺らす愛らしくも凛々しい猫の騎士。足元は勿論長靴で決めたキカは、お揃いの猫耳で装う玩具ロボのキキを連れ、童話の世界さながらの街の通りへ跳び込んでいく。
 温かにメープルが香るミルクティーも、甘いゴールデンビーツと香ばしいメープルハムを合わせたバゲットサンドも美味で、
「わ、桃花! スプーキーもバレエの登場人物なの? すっごく素敵!」
「そう、桃花に合わせてみたんだ。キカとキキはお揃いなんだね、とても格好いいよ」
「ああん、これはぜひ! 一緒に写真撮りたいところなの~♪」
 氷のテーブルで出逢ったバルセロナの宿屋の娘と床屋の息子と一緒に甘い煌きをくるくる巻きとった、メープルタフィーも飛びきりの美味。パブへ向かう二人と手を振り合い、次はパレードの煌きを求めて駆けていく。
 あの煌きみたいな生きる歓びに護られてきたことを、忘れない。
 甘い琥珀色を煌かせ、硝子の音を響かせた。
 先程のタフィーと彩りは良く似ているのに、硝子杯に揺れる蒸留酒を傾ければ趣の異なる味わいがスプーキーの口中で花開く。華やぐメープルの甘さに歳月の豊かな重みを添える、ウイスキーならではの渋み。どちらが良いと比べはしない。生きる歓びを、輝かしいと想うすべてを、愛する君とともに謳歌したいから。
 僕らも教会へ向かおうかと柔く笑んだなら、返るほっぺちゅーが限りなく甘い。
「君のパ・ド・ドゥの相手を務めさせてくれるかい?」
「合点承知、もちろん歓んで! 祭壇より帆船に誓う感じかしら~?」
 この街の二つのノートルダムの片割れ、勝利のノートルダム教会は、十七世紀の帆船ル・プレーゼ号の模型が飾られていることでも知られている。
 帆船に航路を誓う、宿屋の娘と床屋の息子のパ・ド・ドゥは――。
 冬の朝の陽射しめいた、金色のメープルワインは想像通りの甘さ。
 なれど、琥珀色がかるメープルワインは焼き入れ樽で熟成されたがゆえのスモーキーさに芳醇な甘さを融け合わせ、クセの控えめなウォッシュチーズを合わせたスモークサーモンのバゲットサンドとともに味わったなら、
「想像よりも……っていうか、想像を絶する美味さだな」
「うう、お酒もフードもお祭りの空気も最高すぎて、このまま根っこが生えそう……!」
 これぞお宝だ、キャプテン。と今夜は甲板員たる雨祈が御機嫌に笑って杯を掲げ、至福のあまり倒れっぱなしな兎耳をぷるぷるさせる海賊船長ミレッタも改めて杯を掲げて、生きる歓び溢れる夜に乾杯を。
 次はメープルウイスキーを楽しみたいし、尻尾ぴこぴこ娘からのカードに綴られた事柄も気になるところ。いっそマキナクロスは見送って、復路は自力でお酒の旅をとそわそわする彼女の様子に雨祈は楽しげに双眸を細め、
「戦いがあるわけでもないし、足りないなら足りるまでお付き合いしますとも」
 何にせよ、キャプテンのお気持ちのままに――そう続ければ、ぴんと立つ船長の兎耳。
 それならと今度はメープルウイスキーの杯を掲げ、キャプテン・ミレッタは高らかに。
「お祭りが明け次第、まずはカナディアンウイスキー巡りに出港!」
 On n'a qu'une vie――人生は一度きり。だから思いきり楽しまなきゃ!
 夢幻の祭典の夜には死体の花嫁の鼓動だって高鳴っていく。
 陽気なフィドルの音色唄うダルム広場から数多の画家の作品に彩られたトレゾール小路に至ればシエルの心も足取りも更に浮き立って、
「折角のドレスが台無しになっちゃいますよ!」
「そう言われても、この気持ちを抑えるのってちょっと難しいかな!」
 吸血鬼リクラテルの呼びかけに満開の笑顔で振り返った彼女の花嫁衣装の裾を彼の箱竜が心得た様子で軽く抱えれば、夜闇に輝くかのごときノートルダム聖堂が見えてきた。
 こんな楽しさも、こんな祭の光景も、
 ――りっくんに誘われなければ、知らなかったよ。
 所変われば法も変わる。街歩きしつつのお酒は法に触れるから、アイスワインでの乾杯はカフェのテラス席で。華やかに透きとおる金色に聖堂を映すけれど、互いの眼差しがそっと傍らの相手を窺うのはともに知らぬまま、親愛より深い想いを胸に燈す。
 ――せめて、離別の時までは。
 ――どうか、最後の時までは。
 黒の魔王と白の聖女として踊れば鼓動が跳ねて。
 左右で塔の形が異なるアシンメトリー、バロック建築の傑作と名高いノートルダム聖堂を瞳に映せば、カフェでほっと一息ついたはずのアリシスフェイルの胸が再び弾んだ。温かいミルクティーの杯を両手で包みつつ眼差しで追うのは、婚礼衣裳を纏う人々の姿。
「もうすぐ自分でも着るのに?」
「……そうよ。でも幸せな他人の姿はまた別、自己満足でも護れたひとつの証だもの」
 椅子の要らぬハイテーブルに片肘ついたルクスが苦笑しつつ覗き込めば、頑張って生きて来られて良かったと咲く笑顔が何処か儚げで、堪らず己が星を抱き寄せた。夜の帳の裡へと攫うように。
 ひとびとの幸福を遠目に歓ぶ様子に、
「そこに自分も入れろ、アリス。俺の想いはまだ足りないか?」
「大丈夫、ルクスのお陰で今の私は自分の幸せを願えてるもの」
 熱で満たすような抱擁と言の葉で彼がこころとからだ全てに温もりを伝えてくれるから、聖女は魔王の腕のなかで蕩けるように笑む。尻尾ぴこぴこ娘に貰ったカードも心にとめて、大切なものは何ひとつ取り零さずに。
 ――メープルタフィーが気になるの。
 次の小さな約束と幸せを積み重ね、ともに生きていく。

●Joie de Vivre
 夢幻の華やぎ溢れる広場に流れる陽気なフィドルの音色、それらに傍らのレスターの頬が微かに緩む様子と尻尾ぴこぴこ娘からのカードの内容にティアンも眦を緩め、祭の光と夜の影が交錯するダンスパーティーの流儀を掴めば彼の手を引いて、
「レスター、一緒に踊りたい」
「っと、仕方ねえな」
 光と影踊る広場へ連れ込んだ。華奢な娘が精悍な男を引き込めたこと自体が強引ではなく合意の証、見様見真似に自己流を重ねれば、故郷での祈りのための踊りからティアンの心も身体も解き放たれていく。自分達がここにいること、感じていることの発露と思える彼女の踊りに合わせるうち、己が感じる侭でいいのかと得心したレスターからぎこちなさや照れが消えていく。
 生き延びた果ての先に、限りある今をともに歩むこと。
 言の葉にならずとも今たしかに体中をめぐるものが、Joie de Vivre――生きる歓び。
 けれどティアンのゆびさきに寂しさが滲む。記憶は褪せるものと識るから、歓喜には常に影のごとき寂寥が添って離れない。忘れたくないなと呟けば、察したレスターが彼女の手を取って、影から引き離すよう軽やかに一回転。
「どうだ、これで忘れねえか」
「……うん、これで忘れないといい」
 ――今日の歓びが、君の寂しさに裏返らぬよう。
 嘗ては軍の儀式や訓練の場であった歴史を、ダルムという名が今に伝える広場。
 銀の甲冑の背に赤い外套を翻し、片膝をついた騎士が姫君の手の甲へ恭しく口づければ、濃紺のヴェールの裡で花の瞳と唇が笑む。同じ彩のドレスに幾つもの真珠を煌かせ、姫君は騎士の手を取って、今夜は生きる歓び満ちる踊りの場となった広場へ足を踏み入れた。
 戦士の家系という出自に抗いながらも戦士たる矜持を捨てられないヨハン、救えなかった命を前に絶望と己への怒りに呑まれた嘗てのクラリス、己が裡の嵐を仮装という形で互いに露わにして、フィドルの音色に乗るまま素の心を寄り添わせていく。
 夜闇のごとき姫君のヴェールをそっと騎士が上げれば、
 出逢うのは互いの心を照らす花色と焔色の瞳。
「自分の心と向き合って、妥協せず答えを探し続けた貴方は立派な戦士だと思う」
「……絶望の涙を笑顔の花に変えた貴女もまた立派な戦士で、とても綺麗ですよ」
 暖かな重低音が返れば、あれ、とクラリスは瞬いて、胸で想うだけのつもりだったのにと跳ねた彼女の声にヨハンが破顔した。尻尾ぴこぴこ娘からのカードを懐に仕舞ったように、
 過去の哀しみもともに抱きしめて、愛し合い笑い合える、眩い未来へ往こう。
 ――今、何か思いだしてた?
 ――ええ、初めて君に手を引かれタ、四年前の聖夜ヲ。
 冷えた外気から暖かな外套で身を護り、心を温め合うように手を繋いで光満ちる祭の夜を歩めば、互いの胸には二人で辿りきた軌跡が燈る。
 重厚に聳えるノートルダム聖堂へと足を踏み入れれば、荘厳な祈りの空間に迎えられた。黄金の王冠のごとき天蓋を戴く祭壇にも宗教画めいたステンドグラスにも息を呑むけれど、何よりジェミとエトヴァの胸を打ったのは――美しい青空を映す、天井画。
「僕らは参列者かな? それとも……式を挙げる側?」
「今夜ハ、どちらとも経験できるのかもしれませんネ」
 婚礼衣裳の人々の姿と尻尾ぴこぴこ娘からのカードを思い起こしながら、悪戯に、真摯に笑みを交わし、外套を脱いだタキシード姿で祭壇へと進む。信仰に馴染みは無くとも自然と胸には祈りが満ちていく。改めて結び合うのは、家族の絆。
 ――ああ、神様。
「僕に家族を下さって、ありがとうございます」
「この星で廻りあった奇跡ニ、感謝いたしマス」
 悲しみに凍える心を温め続けてくれたひとの手を取りエトヴァが口づけるのは指の煌き。白銀の環に寄り添い輝く黄緑と空色の宝石、同じ煌きを指に燈したひととの絆をいつまでも大切にすると誓って、ジェミは掛け替えない家族と微笑みを交わす。
 粉雪降る聖夜も、藤の花の帳も、花散る湖も、月夜の薄野原も。
 二人で手を取り合って、どこまでも。
 喪われた記憶を取り戻してみれば、胸に燈ったのはこの街の郊外で暮らした日々。
 思わぬ帰郷にカルナの胸には万感迫り、彼を育んだ大地の息吹で胸を満たせば灯も感慨に心を震わせ、一生に一度の晴れ姿でノートルダム聖堂へ連れ立ったなら、そこには見届けてほしいとお願いした桃花だけでなく、
「みなさん――!!」
「どうして……!?」
「だって、同じ夜に同じ街にいるんだもの~!」
 尻尾ぴこぴこ娘がカードに綴った、カルナにゃんと灯にゃんが聖堂で、という言葉で全て察した、二人と心を繋ぐ仲間達の姿。瞳の奥に熱を燈す幸せを噛みしめながら、今夜二人は手を取り合って、ヴァージンロードを歩む。双翼の指輪が、結婚指輪となる。
 銀青の髪色に合わせたタキシードを纏うカルナの隣には、純白がプリンセスラインを描くウエディングドレスに身を包んだ灯。翼猫と白梟がベールガールとベールボーイを務めて、二人は祭壇で生涯を誓う。唱和する。
 ――永遠の愛に、誓って。
 ヴェールを上げれば、互いの愛おしさが堰を切って溢れだした。
 これ以上ないほど美しい灯を映すカルナの瞳が最上の至福を湛えるから、人前では絶対に泣かなかった花嫁の瞳に涙が浮かぶ。
「えへへ、今日は幸せすぎて、泣いちゃうのです」
 ……ありがとう。
「君と出会えて、笑って、愛して、今日この日を迎えられて」
 生涯を共に歩むひとが、君で良かった。
 惹かれ合うよう抱き寄せ身をゆだね、重ね合う誓いと、唇。
 ――愛してる、灯。
 ――私も、愛してます、カルナ。

作者:藍鳶カナン 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2021年10月31日
難度:易しい
参加:24人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 6/キャラが大事にされていた 0
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