エテルネル・ブラン

作者:七凪臣

●サリエルの唱
 東の空から、ゆっくりと夜が明けて来る。
 人の目を灼く高さまで、あっと言う間に上がって往く太陽も、今はまだ淡い光の手を四方へ伸ばし、これから始まる一日の準備運動をしているようだ。
 ガラスの温室から姿を現した男は、東雲色に染まり始める白にうっそりと目を細め、新しい朝の寒さに鼻の頭を赤らめる。
「良い天気になりそうだな」
 靄のように感嘆を吐いた男は、そこでふと、庭園の外へ歩みかけていた足を止めた。
 美しい、誰かの歌声が聞えた気がしたのだ。
 きょろりと男は周囲を見渡し、自重めかして口の端を僅かに上げる。
「……まさか、な」
 早い時間ではあるが、新聞配達や出掛け前のジョギングなど、人々が動き出すには充分な時間だ。
「聞き違いだ、聞き違い」
 男は何をかそう結論付け、再び歩み出そうとして――また、止まる。
「――え?」
 再び男の口から転がり出たのは、不穏と疑問が入り交じったものだ。だって白薔薇の庭園の一角が、不審に蠢いていたのだ。
 異変を察した男は、温室の方へ踵を返そうとする。
 けれど男の皺枯れた手が薔薇を模ったドアノブに届くことはなかった。
「あ、あ――、きよ……え」
 誰かの名を呼びながら、男は異形と化した薔薇に絡め取られ、飲まれる。

●白薔薇のアポートル
 被害者になるのは、七十を過ぎた基晴という名の男性だ。
 現場となるのは、白薔薇の庭園。
 個人所有とは思えぬ規模のそこは、春や秋の薔薇の季節になると一般に解放されて、人々の目を楽しませる。
 その庭園の主こそ基晴であり、白薔薇たちを世話しているのも基晴だ。
 騎士と姫君のトピアリーや、迷路上に作られた垣根、薔薇で薔薇を描いた刺繍花壇に、外周をぐるりと巡るパーゴラなどを作ったのも基晴自身。
 結果、夜明け前から庭園の奥にある硝子の温室で手入れの準備を整えていた基晴は、攻性植物の餌食となってしまうことになる。
 基晴自慢の白薔薇に、何らかの胞子が憑いて、攻性植物化してしまったのだ。
 ――今ならばまだ、基晴さんを救うことができます。
 リザベッタ・オーバーロード(ヘリオライダー・en0064)から事のあらましを聞き終えたラクシュミ・プラブータ(オウガの光輪拳士・en0283)は「皆さん、急ぎましょう」と拳を握る。
 幸い、攻性植物は一体のみだ。
 とは言え、取り込まれてしまった基晴を助け出すには、ただ単純な撃破は厳禁。
 常に攻性植物そのものへヒールをかけ続けながら戦って始めて、基晴を生きたまま此の世に取り戻すことが出来る。
「力加減が難しくなると思います。皆さんは戦闘に集中してくださいね。物音を聞きつけた誰かが庭園に足を踏み入れる事のないよう、そちらは私が対処しますから」
 同道を申し出たラクシュミは、力強く請け負う。

 ――戦いの後は、優雅にお茶を。
 やがて未だ微睡みの余韻が漂う朝に、リザベッタのヘリオンデバイスを起動させる声が響く。
 いつもは鼓舞と定型句としてのそれだが、今日に限ってはもしかすると本当に優雅な一時を過ごせるかもしれない。
 基晴を無事に救い出せたなら、彼の自慢の庭園を楽しませてもらえるだろう。
 ガラスのドームの温室で、基晴お手製のオランデーズソースがたっぷりかかったエッグベネディクトを朝食に頂く――なんてことも夢ではないはずだ。
 目覚めたての朝陽を浴びた薔薇は美しい。
 ましてや白一色だ。己の裡に抱えた澱も、雪がれる心地を味わえるだろう。
 そんな朝を迎える為に、尽力を。


参加者
ティアン・バ(絶海の則・e00040)
隠・キカ(輝る翳・e03014)
アリシスフェイル・ヴェルフェイユ(彩壇メテオール・e03755)
カルナ・ロッシュ(彷徨える霧雨・e05112)
輝島・華(夢見花・e11960)
七隈・綴(断罪鉄拳・e20400)
御手塚・秋子(夏白菊・e33779)

■リプレイ

「これでも食らい、痺れてしまいなさい!」
 七隈・綴(断罪鉄拳・e20400)は蠢く影に肉薄すると、勢いの侭に蹴りを繰り出した。
 峻烈さに旋毛風が巻き、綴の金の髪を舞い上がらせる。もし此処に昼の陽光があったなら、綴の髪には無数の煌めきが落ちたはずだ。
 しかし目覚めたての暗がりに踊るのは、人の力が灯した光。
 悪しき影をぐるりと取り囲んで連なるそれは、まるで夜明けを祈るロザリオのよう。
(「誰の声だと思ったのかしら?」)
 光のひとつ――夜の名残を払う照明を腰に備え、アリシスフェイル・ヴェルフェイユ(彩壇メテオール・e03755)は闇に溶けきれない攻性植物を奥の奥まで見通そうと、気の強さが滲む双眸を眇めた。
 ケルベロス達が用意した明かりに、意に染まぬ邪に侵食された白薔薇が浮かび上がる。そしてそれらの蔓に囚われる老骨こそ、基晴。
 聞き間違いだと言った彼は、どんな歌を聞いたのだろう。
 可憐な乙女のものか、はたまた愛おしい誰かのものか。
(「……私は、幻でも良いから。また声が聞えたら良いと思うのに」)
 拗ねたように、アリシスフェイルは首から下げた金環を爪先で弾く。
 硬質な感触はアリシスフェイルの指に冷たい痛みを残した。が、肝心の金環には何も残らない。どころか、僅かな音さえ響かせない。アリシスフェイルには、求める声がもう聞こえないのと同じに。
「錫から天石に至り、その身、心を束縛せよ」
 細い棘を心臓に突き立てられた心地を味わいながら、アリシスフェイルは切なさの余韻を掻き捨てるように軽く手を振った。
「交わる荊棘、置き去りの哀哭、壊れた夢の痕で侵せ」
 途端、青と灰の光が新たに生まれ、絡まりあって棘の槍と化す。
「――柩の青痕」
 紡ぎ終わった破滅の魔女の物語の一片に槍が飛び、幾輪もの白薔薇ごと絡まる蔓を貫き裂く。
 はらはらと白い花弁が散るのを、カルナ・ロッシュ(彷徨える霧雨・e05112)は固い決意を胸に見る。
 ――白薔薇も大事に世話してくれる方を傷つけるのは本意ではない筈。
(「ばっちり助けますからね!」)
 助けたい。助けなくては。助けてみせる。
「人々に託されたヘリオンデバイスを使うということは、決して負けられないこと。そして人々を、その大切にしているものごと救ってみせよう」
 昂り、高まる想いにアンゼリカ・アーベントロート(黄金騎使・e09974)は白い天使翼を大きく広げ、その羽搏きで編んだ風に紙兵を乗せた。
 空の端が仄かに色づき始め、闇に揺れる数多の白を微かに染める。それでも掲げた明かりだけでは、まだ庭の全容は見通せない。されど隠・キカ(輝る翳・e03014)の心の目には、清らかな風景がもう映る。
(「この庭にこめられた想いは、きっととてもきれいな気持ちで」)
 どこまでも、どこまでも。白薔薇が咲いている。可愛らしく、誇り高く、美しく、瑞々しく。
(「奥さんだけじゃない。本当は、バラ達だって育ててくれた人が、傷ついてほしくないはず」)
 朝が来る前の澄んだ空気に佇む花たちも、きっと待っている。
「誰も居なくならずに、みんなで朝日を見るの」
 小さなロボットの玩具――名はキキ――を腕に抱く仕草は頼りなげ稚くとも、キカの想いは強い。
 夜明け前、時間は吐く息の白さと共に過ぎる――。


 視神経を射抜くようだったカンテラの光の強度が、少しずつまろやかに緩んでいく。
 機能が損なわれているのではない。世が、明るみだしているのだ。そして合間を渡るケルベロス達の布陣は、策を含めて盤石だった。
 四方を刺繍花壇に囲まれた空隙へ光源を餌に誘い込み、他は踏み荒らさせまいと包囲して。基晴の命を損なう事のないよう、じわりじわりとデウスエクスの命脈を削っていく。
 不意の地鳴りは、攻性植物を中心に伸びた蔓が敷き詰められた石畳を割り進んだから。
 けれど盾として立ち塞がったカルナ、輝島・華(夢見花・e11960)、華を乗せた花咲くライドキャリバーのブルームの意識が催眠に侵されることはない。
 彼ら彼女らに宿した自浄の加護の効果に、アンゼリカは得意げに胸を反らす。不浄への耐性を行き渡らせ終えたという事は、阻害因子を撒くのに長けた敵の羽根を捥いだも同義。
「三人ともすぐに回復するよ」
 ただの傷なら癒すのは容易いと、御手塚・秋子(夏白菊・e33779)はフェアリーブーツの踵を軽やかに鳴らす。
 秋子のステップに、虹色のオーラが花弁を模る。
(「二人とも、お互いに凄く好きだったんだろうな」)
 輪郭が明らかになってきた白薔薇を、自らが躍らす彩の向こうに見て秋子は思う。
 純潔、尊敬、相思相愛。互いを強く意識し合う花言葉を持つ白薔薇に埋め尽くされた園は、それだけの想いの結晶にちがいなく。
(「奥さんも自分の好きな花に旦那さんを襲われるなんて、嫌だよね」)
 伴侶を想う気持ちは、秋子にも解る。だからこそ秋子は故人にも心を寄せ、ありったけの力を振るう。
「しっかり救出して、庭園でのんびりさせてもらうぞ!」
 強めの語気とは裏腹に、秋子が齎す癒しは色も熱量も優しい。
 蔓が絡みついた足に刻まれた傷が癒えたのに、華は短く息を吐く。視線を更に落とすと、ブルームも万全の状態に戻ったようだ。
 でも微かに残ったひっかき傷の為に、華は己に緊急処置を施す。
「炎は、駄目よ」
 そして今にも飛び立ちそうなブルームにも、華はそっと釘を刺した。全ては基晴への攻撃が過剰にならない為だ。
 主の意を汲んだブルームが、軌跡に秋桜を散らして回転すると、喰らった余波に低いうめき声が聞こえる。
 歯を食いしばってなお漏れた風の苦痛に、ティアン・バ(絶海の則・e00040)は眉を寄せ、全てを抱きしめるように両手を広げる。
「星、みつかった?」
 囁く調べは、ティアンの詠唱。そして一帯は、花園から空と海へと変わった。
 星々が歌う空も、瞬きを映す水面も、全てはティアンが創り出した幻だ。けれど幻想的な景色は、白薔薇の怪を超えて基晴をも鎮める。
「征くべき?」
「もうちょっと、待って」
 ティアンに倣うか、或いは果敢に攻めるか。アリシスフェイルの刹那の逡巡を、キカの小さな声が引き止めた。
「ごめんね」
 キキをぎゅうと抱き締め、キカは払暁に戻った世界で基晴へ手を差し伸べる。
「その思い出を、きぃに貸してね」
 キカの求めに、基晴のまあるい嘆息が微かに聴こえた。幸せな思い出を癒しへ昇華できるのは、キカのみが持ち得た力。
 共有した意識が、キカに微笑み合う一組の男女の姿を視せる。白髪交じりの二人は、春の陽だまりのよう。
 ――貸してもらった思い出を、必ず生きているあなたにかえすよ。
「、あ」
 苦しみに途絶えかけていた基晴の意識は引き戻され、カルナが撃ったアームドフォートの一撃が遂に基晴の顔を蔓の狭間に顕わにする。
「必ず助けますから」
 状況が呑み込めぬ基晴の元へ、カルナは危険を承知で駆け寄った。
「もうちょっとだけ耐えて下さい」
「きみら、は?」
 瞬く基晴の眼の光に、カルナは安堵を笑む。
「ケルベロスです」
「大丈夫、必ず助けるとも。ご老人一人助けられず、なんのための私たちか!」
 不穏に動いた蔓をカルナが躱した隙間へ、快活な大音声と共にアンゼリカが目にも眩しい金色の羽を吹かせた。
 母の手に撫でられるかの如く、光の羽に痛みを攫われた基晴は悟りの息を細く吐く。
 事態が呑み込めたなら、覚悟は変る。基晴の唇が真一文字に引き結ばれたのを見止め、綴は瞼を閉じて意識を練り上げた。
(「白薔薇……ですか。優雅でとても綺麗な見た目ですよね」)
 ――でも、攻性植物となってしまったからには。
 見過ごせぬ理由を胸に、綴は目を開く。
「吹き飛んでしまいなさい!」
「、ッ」
 綴の裂帛の気合と共に、基晴の左上半身を覆っていた蔓が弾け飛び、無数の花弁が牡丹雪のように舞った。
 抗い難い劣勢に、攻性植物が光の大輪を花開かす。
 直撃を受けた華が吹き飛ぶのに、基晴の眉根が寄った。そんな彼へ、華は立ち上がりながら微笑む。
「お爺様の命も庭園も壊させはしません。必ず助けてみせます」
「こっちはこっちでばっちり治すから、気にしないでね!」
 継いだ秋子も朗らかに笑い、貫き癒す赤いレイピア状の魔力を編み始める。

 ティアンが影の斬撃を閃かせたのが、終焉の始まりだった。
「身体を巡る気よ、私の掌に集まり敵を吹き飛ばしなさい」
 碌に身動きできなくなった攻性植物を綴は気功の一撃を食らわせ、続いたアリシスフェイルの見えない爆弾の起動がデウスエクスの命へ極限状態を齎す。
 すかさずアンゼリカが枯れかけの薔薇に生気を注ぎ、かと思えばカルナは古代語を繰る。
「あと少しです」
 石化の光とは裏腹なカルナの確信の科白に、基晴は全てを信じて目を伏せた。
 もう足元を照らす明かりは必要ない。薄闇は払われ、朝の清浄さが際立ってくる。
 仲間の回復を担っていた秋子も攻勢に転じ、攻性植物を友とするキカは最後の癒しを施す。
 ――そう、最後。
「白薔薇に青薔薇を混ぜてしまうのは申し訳ないのですけど」
 ブルームに花弁の尾を引かせ華は疾駆し、基晴に絡みつく最後の蔓に手を触れる。
「奇跡は、確かにここにありますの」
 華の掌で、青薔薇が咲き綻ぶ。暁に瞬くスピカに似たそれは、歪んだ白を包み、雪ぎ、デウスエクスのみを滅し逝かせた。

(「これはこれで風情がありますが」)
 石畳が砕けた光景に綴はマニア心を疼かすも、瓦礫を拾い集めて基晴へ指示を仰ぐ。
「それは小屋の方へお願いします」
 救出された直後は暫く呆としていたが、動き出した基晴の顔色は良い。
 ラクシュミも合流し、ケルベロス達は手作業で薔薇園の修繕に尽くす。
 ヒールを用いれば一瞬だ。でも景観を変えたくないというケルベロス達の優しさは、朝の冷たさをも蕩かした。
「美味しい朝ご飯までもう一息!」
 待ち侘びた時間の到来に秋子が歓声を上げる頃には、庭園は一面に白い輝きを取り戻しているだろう。


 朝の光を取り込むガラスの温室は、白薔薇の宝石箱のようだ。
 自然と優雅な心地になる中、アンゼリカはラクシュミと並んでガーデンベンチに腰掛ける。
「ラクシュミは紅茶派なのか?」
「ええ。珈琲はまだ少し苦くて。アンゼリカさんは珈琲の方がお好きなのですか?」
 話題の種は、傾けているカップの中身。いずれも香り高く匂うそれは、基晴が淹れてくれたもの。
「苦みが強い時はミルクを多めに入れるといい。まぁ、どちらにしても素敵な薔薇に囲まれてのお茶は格別なものだ」
 甘く香る花は、生まれたての陽に一等眩く輝き。
 戦い終えた者の心の疲弊を内から雪ぎ、曇り無く澄み渡らせる。

 全身で「美味しい!」「幸せ!」と訴えるような秋子の食べっぷりを、真幸は好む。
 あっと言う間に自分の皿を空にした秋子へ、まだ半分も食べていないエッグベネディクトを分け与える事も吝かではない。
「口を開けろ」
「……え、くれるの? ありがとう!」
 差し出したフォークに、秋子が「あーん」と食らいつく。まるで愛い雛鳥だ。当の雛鳥本人は、自分より綺麗な真幸の食べ方にほんのり嫉妬していたり、珍しい甘い空気に酔い痴れていたりするのだけれど。
 だがそれら全てを知っていても、真幸は秋子を可愛いと思うだろう。感情の機微に疎い真幸だが、秋子の事は心底好いているのだ。
 この庭園の主も余程細君を愛していたのだろうとは思う。でなきゃこんな立派な薔薇園は造れない。
 ――相手の好きだったものを大切に出来るのは成熟した愛故なのだろうか。
 思い巡らす真幸の眼前に、真っ白なドライフラワーの薔薇が現れたのはその時だ。
「これ、プレゼントだよ」
 予め準備していたそれの受け取りを待っている秋子の頬が、白薔薇に映える薄紅に色付いているのに、真幸は相対して座す妻だけが見えるように微かに笑う。
「秋子が花をくれるの初めてじゃね?」
「そうかな? そうかも?」
 ――ずっと一緒にいてね。
 真幸の手に収まった白薔薇にねだる秋子の願いは、真幸自身の願い同じ。
 嫌だと言われぬ限り、一緒にいる。ずっと。

 騎士と姫君のトピアリーは、妻が終生憧れ続けた物語がモチーフだ。
 ロゼット咲きの回廊を歩む足取りは、幾つになっても夢見る少女のようだった。
 フリルの大輪を前に、基晴は華とキカへ妻との思い出をはにかみながら語る。
「お好きなのですね」
 お庭もですけれど、こんな立派な白薔薇は初めて見ました――と華が感嘆を零すと、基晴は染み一つない無名の花を両手で包み込んで笑う。
「妻にとびきり似合いの薔薇を作りたいんだ」
 庭園を一巡り終えた基晴は、二人の少女を連れてガラスの温室へ足を向ける。今は憩いの場も兼ねるが、元は新たな薔薇を生み出す研究室なそこ。朝日に煌めく扉を潜ると、細かく区画分けされた花壇と、色鮮やかな香気が出迎えてくれた。
 幾つもあるガーデニングテーブルセットの一組に二人が座すこと暫し、薔薇のエンボスに縁どられた白い皿に乗せて運ばれてきたエッグベネディクトに、キカの貌が白薔薇のように輝く。
「たまご、とろとろ。ベーコン、カリカリ!」
 レモンの爽やかさに隠し味の蜂蜜を使った特製オランデーズソースもキカを虜にしたが、「妻の好物だったんだよ」と聞いてしまうと美味しさは更に増す。
 膝に乗せたキキへも茶器に見立てた小振りなビーカーを基晴は置いてくれた。その妻もとても素敵な人だったに違いない。
「もっと、きぃ達に聞かせて? あなたと、おくさんと、バラのお話」
 ねだるキカに華も身を乗り出す。
 美味しい食事に、綺麗な薔薇、そして恋の思い出話は、最高の朝のエッセンス。

 薔薇の文様に整えられた鋳物のテーブルに肘をつき、アリシスフェイルは朝陽を浴びて水面のように目映い薔薇を見つめる。
 似た景色を覚えていた。輪郭さえ覚束ない記憶は、遠い夏の夜明けのそれ。
(「彼の気紛れ、でも」)
 討ち果たしてしまった男の横顔が、脳裏を過る。あの朝は、少しだけ心が晴れた気がしたのだ。
 思い出すと、最期の時の感触までもがまざまざと手に蘇る。
(「忘れたくない」)
 掌を握り込み、確かめて、でもアリシスフェイルは穏やかに目を細めた。
 心にかかる靄のような澱が、ほんの僅かだけれど雪げた気がする。
 今ならば、金環を爪弾いても指先は痛まない気がした――。

 真白いカップに注がれた紅茶が湯気を立ち昇らせている。
 目に鮮やかな白と赤のコントラストに、添う薔薇の香。
 ティアンとアイヴォリー、共に思い出すのは一緒に秘密を埋めた夕暮れに咲いていた赤。
 清く鮮やかな朝陽に染まる白とは、同じ薔薇でも随分と印象が異なるものだ。
 そう語り合ったのは少し前。すっかり黙り込んでしまったティアンが何を想っているか、アイヴォリーは分る気がした。
 ティアンが想う人は、変わらぬ。
(「変わらずに、いてくれたけど」)
 だからこそ、生き残ったティアンばかりが変わり往く。
(「嫌われたら、どうしよう。もう彼の愛したティアンじゃないって――」)
 今だって、そんな風に少し考えてしまう。生きたいと、幸いでありたいと、願ってしまったのに。
「――穢れない花を捧げたいと想うひとも、」
 角砂糖をそろと紅茶へ落とし、匙でくるりと混ぜるアイヴォリーの声が、ティアンを白い今へ引き戻す。
 融けて形を失くした砂糖は、紅茶を含むと舌に甘い余韻を残した。
「まるで秘密のようね」
 意味を数多潜ませ細まるアイヴォリーの瞳に、ティアンもかぶりを振る。
 ――いつまでも愛されていたい。愛された一瞬を永遠にしたい。
 でも、自分たちは否応なく生きる。決して止まれない。
「それに、どうやら空腹のお腹が許してくれないようです」
「本当だ」
 赤の余韻を白で覆い、くすりと笑み零した二人は新しい一日に踏み出す為にも、贅沢な朝ご飯をゆっくりと堪能する。

 小振りな四枚翼を弾むように羽搏かせる灯が、騎士と姫君のトピアリーの周りをくるりと駆けて、刺繍花壇の縁を歩き、白薔薇迷宮を奥へ奥へと進んで行く。
 特製エッグベネディクトも食べたいけれど、今日は朝露に濡れたこの空気をめいっぱい味わいたくなったと、白薔薇よりも眩く笑った灯だが。迷子癖があるカルナが「灯さんが一緒だから迷子になっても大丈夫ですね」と言うと、身を翻し歩調を合わせて横に並ぶ。
「ふふ、そうですね。それにもしカルナさんが迷子になったら、私が探しますから!」
 灯の笑顔が、穢れなき白薔薇に不思議と満たされた心地のカルナの裡に何かを灯す。
 その正体は基晴の心のお裾分けだろうか?
 そんな風にカルナが思い巡らす頃、灯は物語のような庭だと呟き、密になって咲く小振りの花に顔を寄せた。
「誰のための物語か聞いても良いのでしょうか? それともそれは、素敵な秘密でしょうか?」
 薔薇は応えぬ。代わりの声はすぐ傍らから。
「灯さん。もう少しだけ、二人でこの薔薇園を迷ってみませんか。素敵な秘密の欠片を見つけられるかもしれませんし、ね?」
 悪戯めかして跳ねたカルナの語尾に、灯は目を丸め――蕩けるように笑み崩れる。
「はい……二人で迷子、なっちゃいましょう」
 カルナと灯が手を取り合ったか否かを知るのは、庭園を埋め尽くし咲く白薔薇たちだけ。
 清く美しい花たちは、新しい物語の始まりの予感に、密かに胸を躍らせたに違いない。

作者:七凪臣 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2020年10月26日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 6/キャラが大事にされていた 3
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