ゆめのあと

作者:四季乃

●Accident
 まばたきをした拍子に、眦から雫がこぼれ落ちるのを見ていた。柔らかな草に身を横たえさせた腹は薄く、かろうじて呼気を繰り返すだけの営みすら精一杯の、この小さきモノ。痩せ衰えた四肢は震え、細い首に引っ掛かるだけの赤い首輪。鳴くことすら最早、命を削るだけの行為にすぎない。
 『森の女神』メデインは、痛ましい黒猫の姿に双眸を細めると、その白く美しい鼻先を寄せた。
『もう、大丈夫』
 ふうっと息を吹きかけるような、言葉が肌に沁み込んでいくようなあたたかさで、もう痛みすら分からなくなった躰に何がしかの種が埋もれていく。それは灯火を燃やす命の如き熱さを内に迸らせ、虚ろな世界に多重の光を放った。
『人間のことは忘れていいの。もう誰も、あなたを傷付けない』
 だから――。
 メデインの言葉は真綿のように、やさしくくるむような心地に満ちている。声に耳を傾けているだけで、自分の存在を認められたような――生きる赦しを得たような思いが押し寄せて、ひとつ、ふたつと目尻から雫が止めどなく溢れていく。
 それは魅力的だった。
 けれど。
『あなたの恩に、わたしは報いることができそうにありません』
 ゆるやかに変質していく四肢が大地を踏む。二つに裂けた尾は茨のような棘が突出し、やせ細っていた牙がみるみる内に生えてくる。鋭く尖った爪は深き森の色をして地面を搔き乱し、炎と見紛うほどの赤き吐息が牙の隙間から漏れ出していた。
 しゃんと伸びた背筋は、打ち捨てられた家猫のそれではなく、確かに攻性植物化に成功した姿であったのに。
『赦さぬ……赦さぬ』
 躯体から迸るのは黒き復讐心。周囲の草木すら怨嗟の炎で焦がしてしまいそうなその気迫に、メデインの瞼が悲し気に落ちる。もう己の言葉すら届かなくなったモノに背を向けると森の女神はそっと空気にとけるように去って行った。

『主に手を出すことは禁じられていた。それが礼儀であったからだ――けれど、けれど。主でないのであれば、わたしが聞く道理などなかったのだ!』

 山の麓、とある屋敷のその一角。
 古き時代より栄えし武家の末裔住まう屋敷で、身を八つ裂きにされた老婆あり。

●Caution
「ユグドラシル・ウォーの後に姿を消していたデウスエクス達が、ついに活動を開始しました」
 口火を切るセリカ・リュミエール(シャドウエルフのヘリオライダー・en0002)の緊張が刺すように痛い。ヒリリとした緊迫の空気のただなかにあって、ケルベロスたちは自然と噤む。
「今回みなさんに提示する事件は、『攻性植物の聖王女アンジェローゼ』が起こしたものと思われます。どうやら『森の女神』メデインを使って、人間に恨みを持つ動物たちに攻性植物を寄生させているようで……つまり、配下を増やそうとしているのです」
 『森の女神』メデインは、人間に虐待され山に棄てられた黒猫に目を付けた。メデインは黒猫に復讐などさせず、戦力として連れて帰りたかったようなのだが――。
「攻性植物と化してしまった黒猫は、内に芽生えた復讐心に抗えなかったのでしょう……これらは袂を分かちメデインは去っていき、黒猫は己を虐げた人間のもとへ襲撃を行おうとしています」

 元々この黒猫は、とある武家屋敷に住まうお嬢様が拾った野良であったらしい。一人娘であった彼女は弟のように慈しみ大切に育ててきたが、海外への留学が決まり数年家を空けることとなった。
「その間、面倒を見ることになったのが同居していた父方の祖母だそうです。ご両親は仕事が忙しい方々らしく、実質屋敷を仕切っていたのはこの祖母でもあったため、面倒は自分が見るから安心して留学するよう、背中を押されたことで踏ん切りがついたようですね」
 しかしこの老女、昔気質で随分と口うるさいところがあるらしく、とくに縁起物については喧しい。本心、孫が可愛がる黒猫も縁起が悪いと気味悪がり、視界に入れるのもおぞましいと常々考えていた。
 だから。
「お嬢さんが家を空けた途端、黒猫への虐待が始まったようなのです。それは決して人には見られないようする徹底さ、ある種の執着すら感じさせるほどで……」
 そしてついには、孫の留学が終わり帰ってくる日程が決まったので、さんざ苦しめたあと山に棄てたと、そういう次第らしい。
 生命力の強い老女ではあるが、さすがに山を上り下りするのは一苦労だ。誰にもバレずに虐待をしていたくらいなので下男にさせることもなく、自ら山に登って棄てた。しかし、棄てた場所が、目と鼻の先に屹立する山であったこと、老体に鞭打っても大した距離を稼げなかったこと。
「攻性植物化した黒猫が山を駆け下りて、麓の屋敷を襲うのは決して難しいことではなかったでしょうね……加えて時刻は夜。麓にひと際明るい光が灯っていれば、それはさぞ目立つことでしょう」
 敵が脇目も振らず真っ直ぐに屋敷を目指すなら、その屋敷で迎え撃つのが手っ取り早いかもしれない。幸い屋敷には山の森と繋がった広い庭があるので、ケルベロスが戦う分に問題はないだろう。
 黒猫は攻性植物化した影響で身体が二メートルほど大きくなり、二つに裂けた茨のような尻尾を使ったり、毒の染み込んだ爪で切り裂いたり、あるいは炎弾のようなものを吐き出してといった攻撃を仕掛けてくる。
「普通の動物にまで魔の手を広げるだなんて……」
 セリカは睫毛を落とすと、独語のように吐き出した。切々とした痛ましい声音に、聞いているこちらまで胸が締め付けられるようだ。加えて今回は虐待された過去を持つ小動物。予知で知り得た情報が、眼裏に焼き付いて離れない。
「とても、とても可哀想な黒猫です。もちろん同情の念に絶えません。ですが……このまま出ると分かっている被害を見過ごすことも、できないんです」
 どうか。
 セリカは深く頭を下げた。
「この黒猫を、止めてください」


参加者
桐山・憩(鉄の盾・e00836)
相馬・竜人(エッシャーの多爾袞・e01889)
リコリス・セレスティア(凍月花・e03248)
ハンナ・カレン(トランスポーター・e16754)
ミレッタ・リアス(獣の言祝ぎ・e61347)
如月・沙耶(青薔薇の誓い・e67384)

■リプレイ


 燻る紫煙が、憤怒の咆哮を浴びて霧散する。
「験を担いだ結果がコレじゃあ笑えねぇだろう?」
 咥えていた煙草を人差し指と中指の間に深く挟みこみ、仰いだ夜空に紫煙を吹きかけたハンナ・カレン(トランスポーター・e16754)は、立ちすくむ老女タミを頸だけで振り返って金眼を細くした。
 昏き闇夜を引き裂き、大地を震わせながら山から駆け下りてくる化け猫に、心当たりがあるのは当然と言えようか。驚愕に見開かれた双眸が、深い奈落の如し絶望に満ちていく。
「ま、何か思うところがあれば後で考えてくれや」
 怨念を身に纏った黒い化け猫は、憎き怨みの元に気が付き飛び上がる。ひとっ飛びで庭へと侵入し、木々を薙ぎ倒しながら猛進する巨躯を前に、タミは腕を引いて引き下がろうとした下男を巻き込んで腰を抜かした。やれやれ、と吐息したハンナは硬く握りしめた拳を構えるが――。
『我が怨み、その身をもって味わうといい!』
 幼子ほどもある大きさの牙を剥き、喉の奥から『赤』がマグマのようにせり上がってくる。灼けつくような燃える怒気を前にして、タミがはじめて悲鳴を上げた。
「婆さん。アンタはクソだが、それ以前に民間人だ。守る義務がある」
 言葉と共に肌を焦がすような熱風が裂けるのを見て、ハンナは口端を吊り上げた。
 おのれの炎弾を断ち切り、陽炎の中で嘲笑うのは桐山・憩(鉄の盾・e00836)だった。その姿を視認した矢庭に、天から降り注ぐ眩い光が眼前に落ちてきて、たたらを踏んだ化け猫が次の瞬間、強烈な破壊力を伴う打撃を喰らって吹き飛んだ。
「悪いが通行止めだ。ちょいと遊んでやるよ」
 ドラゴニックハンマー『竜鳴』を大地に突いて、顔に被せた髑髏の仮面から闘争心を迸らせる相馬・竜人(エッシャーの多爾袞・e01889)が低く唸れば、横転してもなお流れるように起き上がった巨体が、恐ろしき素早さでこちらに向かって大地を蹴った。ミレッタ・リアス(獣の言祝ぎ・e61347)は、すかさず化け猫の目前に飛び込むと、狭い額を蹴り飛ばし速度を削る。
「その意志に、敬意を表して。全力で、……私達の都合で、邪魔立てするわ」
 ミレッタの言葉に同調するように、左右からリコリス・セレスティア(凍月花・e03248)と如月・沙耶(青薔薇の誓い・e67384)の二人が姿を現す。
 後衛を担う竜人とミレッタ、沙耶、それからウイングキャットのエイブラハムにスターサンクチュアリの守護を宿すリコリスの傍ら、沙耶は前衛の憩とハンナ、そしてテレビウムのマンデリンに運命の導き「女帝」の愛の力から成る確固たる護りを付与。二人の援護を後押しするようエイブラハムが清浄の翼による風で邪気を祓うと、化け猫の二つに裂けた茨のような尻尾が、大きく後方へ引いたことに気が付いた。
 ぐぐ、と前足に力を込めて体勢を低くした化け猫はそのまま尻尾を振り抜き、仲間を守ろうと前に飛び出したマンデリンを激しく殴打した。しかしマンデリンはすっくと立ちあがると、自身の傷ではなく、初撃を食い止めた憩の傷を優先し、その”顔”に応援動画を流すことでヒールを施したのだ。
「別にお前の行動は間違ってるとは思わないぜ。存分に、暴れまわってくれや」
 その隙を補うように、茨の尻尾を棒切れの先端で捌きつつ大胆に懐に潜り込んでいったハンナ。豊かな金色の髪を、ふわり風に靡かせ無駄のない動きでいなし、一打を叩き込む姿はスマートで、その一々が計算されている。
「あんこさん、復讐したい気持ちは良く分ります。でもその手を血で穢させる訳にはいきません」
 沙耶は後衛に「女帝」を付与しながら、半身を引いたハンナの影から腕を巨大刀に変形した憩が飛び出して、力任せに刃を振り払うのを見た。
 化け猫は口端から赤い吐息を漏らし、屋敷の方を睨み付けている。だが、近付こうにも後方から迫る竜人の飛び蹴りが下肢を狙い、体勢を崩したところでミレッタの轟竜砲が被弾して、それどころではない。
 怒りと怨みがせめぎ合い、光を喪った瞳が黒く塗りつぶされていく。
「……あんこ様。人は時として、認めないものに対してどこまでも残酷になれると、私も身をもって知っています」
 静かなリコリスの語り口に、化け猫の視線が悲哀の色を湛えた藍の瞳を一瞥する。
 ゾディアックソードの切っ先で地面をなぞると、青白い光が天に立ち上る。それは再びの守護星座となって前衛たちをやさしく包み込む。眩い光に双眸を眇めた化け猫は、大地を踏み締める前足にゆっくりと力を込めていた。
「ですが。それでも私は、この命と力を人を守る為に使うと決めました。優しい人も居る事を、知っていますから。あなたにとっての、お嬢様のように」
 ――おじょうさま。
 そうと聞いた化け猫の総身がぴたり、と静止する。
 だが、それはほんの一瞬の出来事だった。注視していなければ気が付かなかったほど、瞬きより短い刹那。
「あなたとお嬢様の思い出を守る為に、あなたを倒します」
 ぐわ、と大きく開けられた口が、リコリスを向く。しかし炎が生まれるより先に向きを変えた。炎弾は盾役のマンデリンを灼き、さらには毒が染み出た爪で憩を巻き込んで畳みかける。
 エイブラハムが空中で身を翻すと、すぐさま清浄なる風を起こして回復する一方、マンデリンも自身をヒール。完全に回復しきる前に、化け猫は次の攻撃態勢に入っていた。茨の尻尾で至近に迫るハンナの躯体を絡め取ると、そのまま持ち上げ、逆さにして叩きつけようというのだ。
「泣き寝入りのつもりがねえってのは上等だが。そうなっちまった以上テメエは殺さねえといけねえんだわな。精々、俺を呪って死んできな」
 後方から的確に化け猫の動きを追っていた竜人は、大きく踏み込んで駆け出した。纏わりつく大気を引き千切るような荒々しさで距離を詰めた竜人は、摩擦する『抜天』のローラーダッシュを利用して炎を生み出すと、その気迫のままに化け猫の横っ面目掛けて蹴りを放つ。
(「怒りで他が見えないその頭が気に食わない。よし殺す」)
 気に食わないからぶっ殺すという、なんとも短絡的の衝動のままに動く竜人の一撃は鋭く、ハンナに巻き付いた尻尾が思わず緩んだほどだ。その隙に素早く逃れたハンナは、頭から落下したにも関わらず片手一本の素早い立ち直りで身を起こし、かつすぐさま低い体勢から飛び上がるように化け猫の顎下に気咬弾を叩き込む。
「さっき、お前の行動は間違ってるとは思わないって言ったよな。だが、あたしらの行動も間違っちゃいない」
 くらり、と数歩後ろによろめいて、頭部をふるふると振っている化け猫を仰ぎ、ハンナは紫煙を吐く。
「ま、あれこれ言っても仕方ねぇか」
 羽虫を払うように薙がれた尻尾をひらりと交わし、間合いを取る。
「テメェは復讐する為に私達を倒す。私達は道理を捨てたテメェを倒す。簡単だろ? シシシ」
 ハンナと入れ違いで前に出た憩は、ギザギザとした鋭い歯を見せて不敵に笑った。混沌化した左眼を眇め、見下すように嘲笑う姿に、挑発されたと気付くより先に身体が動いた。化け猫が炎弾を吐き出すと、彼女はそれを避けるでなく真正面から受け止めた。背にした屋敷を破壊されるわけにはいかない――その奥に怯え震える者が悪だったとしても、人間に害なすデウスエクスとして立ち塞がるおのれの使命を放棄するわけにはいかなかったのだ。
 たとえそれが、真実復讐に狂う獣であったとしても。
 皮膚を焼く匂いに眉をしかめた憩は、土煙の奥で大地を抉る爪に気が付き、咄嗟に背後を振り返った。
「相馬! 野郎ツメが伸びてる、備えろ!」
 言い終わらぬ内に巨体から大きな一陣が放たれた。それはあざ笑うように憩やハンナたちの隙間を通り過ぎ、竜人とミレッタ、沙耶たちを等しく斬り付けた。空中で戦場を広く見渡していたエイブラハムも負傷してしまい、美しい白き翼が真っ赤に染まる。伏しがちの憂い目が痛ましげに瞑られた。
「大丈夫、いま回復します」
 自身も傷を負っているにも関わらず、気丈に振る舞う沙耶。彼女は痛みで目を眇めながらも、希望の為に走り続ける者達の歌を奏でて、回復に集中する。傷がゆっくりと癒えていくのを横目に見やり、安堵の吐息を漏らしたリコリスは自身にスターサンクチュアリの守護を付与。すぐさま攻撃に転じるためゾディアックソードに意識を集中すると、物質の時間を凍結する弾丸を精製。
 エイブラハムとマンデリンが回復の補助に回る一方。
「ささやきは傷。寂しくて怖くて苦しくて傲慢な呪いを」
 それは、武器に積もった呪いのひとつ。
 ミレッタの言葉に伴い、呪いを具現化した鎖が一斉に地面から飛び出していった。渇望魂月――先へ進むなと囁く、誰かの願望の残響が化け猫の躯体を絡め取る。ぐるる、と喉を鳴らして威嚇を見せた化け猫が、ミレッタを睥睨する。ぎょろりと向いた黒き瞳に、ちいさき自分が映っている。
 あの瞳にお嬢様の姿が映ったならば、その時”彼”は止まったのだろうか。詮無い事を考えてしまい、かぶりを振る。
「悔いが残らんうちに、終わらせてやるよ」
 ハンナの声が聞こえた。
 地獄の炎を拳に纏わせ果敢に攻めていく背中を見やる。前足の付け根を狙ったブレイズクラッシュと、もう片方に被弾したリコリスの時空凍結弾により、がくりと巨体が傾いた。ボタボタと大地を真っ赤に染め上げる血液が止めどなく零れているのに、それを厭わず、気にもしない。ただ眼前の憎しみを噛み砕かなければ止まらないとでもいうかのように、改造された獣の身体は失踪する。
 事実、ケルベロスが止めなければ怨みを食い殺したとて、もう止まらないのだろう。止められないのだろう。痛ましい姿に同情する気持ちを覚えないと言えば嘘になる。けれど、やるべきことと割り切れる強さが、自分にはあるはずだ。
 沙耶は雷の壁を構築し、前衛の異常体勢を高める傍ら、ミレッタはそのしなやかな身体をバネにして身を翻すと、死角から獣撃拳を突き出した。
(「怨みを……痛みを長引かせたくない」)
 繰り出された一撃が身を打ち崩し、バランスを失った巨体が四肢を折る。
 願うミレッタの一方、終わりが近いことを察した竜人が赤黒い尻尾を振り被る。
「いいからさっさと死んどけや、なぁッッ!!」
 真横に振り抜かれると思われたその古竜の尾は、しかし真上から重力を叩きつけるように振るわれた。地に伏せることを強制するように寄越された攻撃は弩級であり、束の間の呼気を奪ったほどだ。
 カハッ、と掠れた吐息が化け猫から零れ落ちた。次いで大きく胸を膨らませて酸素を吸うも休む暇すら与えぬとばかりに左右から飛び掛かって来た憩とハンナの姿を見て――黒い瞳が、揺れた。
 天に掲げられた簒奪者の鎌が「虚」を伴い化け猫の身を斬り付ける。激しく損傷した躯体から血飛沫があがる。真っ赤な雨を掻い潜ったハンナが鋭くも美しい回し蹴りを繰り出した。
「じゃあな」
 それは衝撃波となって化け猫の額を斬り付け、怨みで曇った瞳を真っ赤に染め上げる。
「――貴方に、葬送曲を」
 氷のように冷たく静謐な旋律。母親から受け継いだ、遥か昔に滅んだ一族の歌、そのひとつを歌うリコリスの声に誘われるように、化け猫の瞼が落ちていく。
 氷哀の葬送曲。
 物悲しい歌声が終わる頃、悲しき獣は大地に横たわり、
『悔しや、悔しや』
 せめて、せめて一目だけでも――。
 まるで幼子のような泣き声にも似た呟きを残して、化け猫は二度と目覚めぬ深い眠りについたのだった。


「これ……」
 沙耶の掌に乗せられたものを見て、リコリスは息を呑んだ。

 せめてもの手向けとして埋葬が出来ないかと黒猫あんこに近付くと、彼は赤い首輪ひとつを残して、昏い夜空に還るように消えてしまった。どうやら首輪にはネームプレートの他にロケットが付いており、開いた状態で転がっていたのを沙耶が見つけた。
 中には、黒猫あんこを抱っこした黒髪の少女が映っていた。楚々としたその面影はもちろん、たおやかな眼差しや髪型などは、どことなくリコリスに似ていた気がして、「ああ」得心がいった。
 一度だけ、リコリスに向けられた攻撃が他所を向いた。もしかしてあれは――。
「悪い事ってのは誰かしらが分かっちまうように世の中出来てるなあ」
 思案に傾きそうだった二人の耳に、竜人の言が飛び込んだ。揃って振り返ると、屋敷の奥から出てきたであろう老女タミが、荒れた庭を呆然とした眼差しで見渡しており、その背後では居心地が悪そうに下男たちが立っている。
「わたしは、間違ってないわ。だってあの気味の悪い猫は化けて出てきたじゃない。ただの猫があんな醜い姿になって現れるなんておかしいじゃない……間違ってなんか、なかったでしょう?」
「……俺は猫なんて一言も言ってねえぜ?」
 びくり、と肩が揺れる。
 竜人は縁側にへたりこむ老婆をゆっくりと振り返り、無感情ともとれる眼差しで睥睨する。
「なんかやましい事でも?」
 はくはく、と唇が動いた。けれど。
「人間から酷い仕打ちを受けた動物が配下にされるケースと、それに伴う襲撃事件が起きていますので、今後も重々気をつけて下さい」
 ミレッタの事務的な助言が、やけに耳に残った。口に広がる苦い水が飲み下せない。
「お前は民間人だが、それ以上にクソだ。きっちりケジメつけてもらうぜ」
 厳しい憩の発言は下男たちが俯く。果たして本当に誰ひとりとして気が付かなかったのだろうか。薄々思うところは、なかったのだろうか。
 ここに居ない者に、彼女たちは説明する義務がある。きっと、聡明な彼女は気が付くのだろう。自分が居ない間に何があったのか、その全てを。
 深く、深く。腹の底からやるせない思いを吐き出すようなゆるやかで、リコリスは嘆息した。ロケットを握りしめる指先に力がこもる。丁寧な手つきで搔き集めた遺品をそっとハンカチに包むと、ここにはいない彼女に向けて女性のお手伝いさんに預ける。例えヒールで庭を修復できたとしても、この出来事をなかったことにはできない。
「お嬢さんも、辛いだろうな」
 庭先に作った、亡骸のない墓を振り返り、ハンナは新しい煙草に火をつけた。
 遠くから聞こえるサイレン。慌ただしくも姦しい近所の声。ケルベロスに睨まれて腑抜けた老婆から視線を逸らし上弦の月を仰ぐ。
「人の縁も福ならば、お孫さんや、危うく巻き添えだった下男の方との縁を、自ら切ったのかもしれないわね」
 ミレッタの言葉は、少し強く吹き抜ける風に乗って、皆の耳に届いた。
 一番会いたい人には会えず逝ってしまった黒猫。せめてその牙で過ちを犯すことがなかった、それだけが、そのひとつだけだが救いであって。怨みに呑まれた獣は裁いた。ならば、あとに残ったのは黒猫あんこという小さき獣のはず。その心が安らかに天に昇ったことを願うばかりの夜であった。

作者:四季乃 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2020年8月26日
難度:普通
参加:6人
結果:成功!
得票:格好よかった 1/感動した 0/素敵だった 3/キャラが大事にされていた 3
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