澄徹

作者:朱凪

●いざないの先に
 今日の夕食はどうしようか、なんて。
 ちりん、ちりんと右腕の鈴も軽やかに、キース・クレイノア(送り屋・e01393)は往く。
 どこか浮かれたみたいな足取りで先を行く魚さんことシャーマンズゴーストは青白い灯りを掲げてなにかを追うみたいにふらり、ふらり。
 特に急ぐ宵でもなかった。
 散歩も嫌いじゃなかった。
 だから魚さんの後ろを歩いて、ふ、と感じた潮の香。
「……うみ」
 ぴりっ、──と左腕の地獄が騒いだ気がした。散漫になっていた意識が明確に収束する。
「魚さ、」
 警戒を呼びかけようとしたその言葉は、遂に形を成すことはなかった。
 吹き抜けた潮風。
 キースの視界の先で踊った漆黒のドレスと、真紅の長い髪。そして捻じれた角。
 ゆるりと振り返った女は、微笑んだ。
「あら──」
 涼やかな声。鈴を、転がすような。
 うそだ。
 その声は脳裏を埋め尽くしただけか、それともそこから零れ落ちたか。もはやキースには判らない。

 ミランダ、と。

 呼ばわった掠れ声は少なくとも、音になったらしい。女は軽く首を傾げて彼を見た。
「わたしのことをおっしゃるの? それとも、わたくしのことかしら?」
 白い肌の上。目を惹く紅い唇がうたうみたいに問う。
「『この身体』のことを知っているのね、坊や。教えて頂戴。いいえ、貴方の心を頂戴? そうすれば──貴方の願いを叶えてあげます」
 まるで安定しない口調で笑う女は言葉どおり、模索しているのだろう。『彼女』のカタチを。『彼女』の在り方を。
 そんなものが、『彼女』であるはずがない。
 キースの瞳に宿ったいろに、「あら、生意気」女は紅い爪を閃かせた。

●澄徹
 急ぎましょう、と。
 厳しい声音で暮洲・チロル(夢翠のヘリオライダー・en0126)はヘリポートへと集まった番犬達へとキース・クレイノアの危機を告げた。
「まだ間に合います。キース君への連絡は取れないままですが、予知で彼の足跡を『追い』ますので」
「わかった。行こう」
 小さく、けれど確かに肯いてユノ・ハーヴィスト(宵燈・en0173)も応じる。
「敵は」
「詳しいことは判りません。……ただ、予知の様子からすると、キース君の見知った方──つまり、見知った方の身体をサルベージした死神であると考えられます」
 ヘリオンの傍で、チロルは苦し気に顔をしかめた。
 何度目か判らない、死神の所業。
「……おそらく、彼にとってつらい戦いになると思われます」
 もしかしたらDear達にとっても。そう続きを紡いで、チロルは宵色の三白眼を皆へと差し向けた。けれど、と。
「信じています。Dear達の力と、絆を」
 ケルベロスが集まり、倒せぬほどの相手ではない。
 だが、独りで相対せば、待つのは確実な死だ。
「油断せずに、そして最速で。では目的輸送地、潮騒の傍、以上。どうか、よろしくお願いします」


参加者
メイア・ヤレアッハ(空色・e00218)
繰空・千歳(すずあめ・e00639)
平坂・サヤ(こととい・e01301)
キース・クレイノア(送り屋・e01393)
ベーゼ・ベルレ(ツギハギ・e05609)
アイヴォリー・ロム(ミケ・e07918)
アラタ・ユージーン(一雫の愛・e11331)

■リプレイ

●それは限りなく、
 潮の香と波が弾ける音の中、キース・クレイノア(送り屋・e01393)は女と対峙する。
「お前は、あのときの……」
 知っている。
 知っている、のは。
 『その姿』、だけではない。
「どうして……あのときのお前は、確かに別の」
「あら」
 女は、『ミランダ』の姿をしたなにかは、その細い眉を軽く持ち上げた。面白がるような笑みが紅い唇に登る。
「坊やはわたしのことだけではなく、“私”のことも知っているのね」
「──」
 彼の記憶の中にあるのは、炎のドラゴンを遣う魔女の姿。忘れもしない。薄れもしない、“あのとき”のこと。けれど。
「……俺のことを、憶えていないのか」
「ふふふ。そうね、ごめんなさい?」
 知らないわ。
 あっさり吐き捨てられた台詞に、キースを胸が強く圧されたかのような息苦しさが襲う。憶えていない、でもなく。判らない、でもなく。知らないと断ずるその距離に声が出ない。
「それで、貴方はどうするの?」
 なにかを期待する女の声音に、キースは奥歯を噛み締めた。どう、する?
 ──わから、ない。
「……かつてお前に喰われた俺の心を、腕を、家族を返してくれとは言わない」
 願っても、二度と帰って来ることはないのだから。ただ。
 曇り空のような彼の双眸が、女を見る。
「けど、その姿で俺の前に立たないでくれ。……頼むからもう、なにも奪わないでくれ」
「あらあら」
 彼のその表情に、言葉に。女はあからさまに華奢な肩を竦めて落胆を示した。自らの白い手を、爪を眺める。
「家族を殺した仇を相手に乞うのがそんなこと? ──つまらない子ね」
 そして振るう、赤い爪。斬撃が空を裂く衝撃波となって、

「キース!!」

 響いた声。目の前に飛び出した魚さん──それより前に身を呈したのは、酒樽型の、
「りん、」
 目を見張るキースの傍に、素早く駆けつけた友たちが並んで笑う。
「キースも魚さんも、海辺でお散歩? 誘ってくれたら護衛ぐらい、してあげたのに。二人だけで遊ぼうなんて、ずるいじゃない?」
「寒い日の夕食は皆で帰って鍋! おでん、だろう?!」
「おれ達もいるっすよぅ、キース、魚さんも!」
 おどけて見せるは繰空・千歳(すずあめ・e00639)。心配を存分に織り交ぜてけれど真摯に提案するアラタ・ユージーン(一雫の愛・e11331)は銀の流動体を身に纏い、中列の仲間へと加護を送る。毛むくじゃらの掌をぎゅっと握り締めて喉を震わせたのはベーゼ・ベルレ(ツギハギ・e05609)。グレイン・シュリーフェン(森狼・e02868)とユノ・ハーヴィスト(宵燈・en0173)もこくりと肯く。
 そして彼の隣に立ち、けれどひたと敵に視線を据えたまま、アイヴォリー・ロム(ミケ・e07918)はしめやかに告げた。
「──キース、貴方の力になりますよ」
「キースちゃんはあなたにあげない。わたくしもコハブも、此処にいるみんな、あなたにはあげない」
 うん、と肯いて、アラタと同じ銀の光を纏ったメイア・ヤレアッハ(空色・e00218)もはっきりと宣する。その横顔を見つめた彼と女の間に位置取るケルベロス達に、女は可憐に小首を傾げて見せた。
「その坊やに、護る価値があるかしら。自分の願いさえも曖昧な、そんな子に。少なくとも“私”は要らないわ」
「っ、」
 『彼女』の声で、『彼女』の姿で。下される無慈悲な宣告に、違うと判っていてもキースの口角が下がり、眉が寄る。
「サヤは、ねがいを尊く思います」
 呟くように、けれど読み聞かせるように声を紡ぐのは平坂・サヤ(こととい・e01301)。
「善きにせよ、悪しきにせよ、それが純粋なねがいであればあるほどに」
 茫洋とした宙色の瞳で彼女はただ静かに両の掌を胸の前で開いた。それは丁度、文庫本を開いたような。ぱらぱらと頁が繰られるが如き光が明滅して広がっていく。断章:機運──フラグメント・アサケ。
 くん、とドレスの裾を引かれる感覚に「っ?」女は僅か紅の瞳を見開く。サヤは構うことなくひとつ瞬きした。
「曖昧であれ、依違であれ。……サヤはキースのねがいを尊重します」

●それは果てしなく、
 青白い燈火片手に祈りを捧げる魚さんの前で、樽型ミミックのミクリさんがぶわわっ、と生み出すエクトプラズムは、中空を泳ぐ魚の群れ。それにはしゃいだ酒樽型ミミックの鈴が真似して武器を魚の形へ変えてみせたなら、ボクスドラゴンのコハブもその翼を羽ばたき、あおく澄んだオーラで空をまるで海の中のように仕立てあげれば、ウイングキャットの先生も仕方なさそうにその翼で仰いで揺らす。
「……あ。キースが魚がすきだっていつか話していたの、覚えていたんすね」
 無邪気なサーヴァント達の姿にベーゼが告げて、戦場の空気はどことなく張り詰め切らずに保たれていた。
 しかしもちろんそれは遊んでいるわけではない。
 九人のケルベロスと五体のサーヴァントを相手取り、数度の攻防を経て、『ミランダ』はその美しいかんばせに微かな焦りを浮かばせていた。
 初めは良かった。しかし動こうとする度、緩く波打つ黒髪の娘の魔法を皮切りに、狼の尾を揺らし流星の輝き纏う蹴撃を叩き込んでくる青年や、
「がっ……がお~ッ!!」
 出鼻を挫く情けない熊男の大音声が足を鈍らせる。そこへ茜の一葉を符の代わりに、ショコラ色の瞳の天使が舞い降りて、ふ、と息をひとつ吹き掛ければ御業の力が『彼女』の身を縛り上げていく。
 ひょうと風を斬る音が聴こえたかと思えば、『彼女』の腕の筋を肉厚の刃が断ち切った。
「っ……!」
「やっと当たってくれたわ。……さあ。なんだかキースにご縁があるようだけれど。二人に手を出すなら、遠慮はしないわよ」
 刀を鞘に納めて、薄桃から若苗色に髪色の移ろう女が微笑めば、その身は更に重くなる。
「その身体、てめえの物じゃないんだろ。本来の形にかえさせてもらうぜ」
 戦いの間もずっと響き続ける、潮騒に。
 海を背に消えた、二度と会えぬと思っていたひとの面影を無意識に重ね、グレインは白銀の砲へと変形したハンマーを振り抜く。同時に放たれる竜気帯びた砲弾が女の細い肩を弾き飛ばした。
 ──体だけ見知った相手なのと、意識も本人なのと、……いや、
 小さくグレインはかぶりを振った。
 ──牙をむいて悪さしようってんならどっちがどうって話じゃねえな。
 後方へと吹き飛んだ女はその紅い髪を翻して片手で岩場へと爪を立てて、くるりと体勢を立て直す。しかしそこへあおい金魚が跳んで泳いで、囁く声はかそけく儚い、水葬金魚──ロストラブソング。
「あなたはだぁれ? キースちゃんの大切な人の身体、置いていってもらうわ」
 ──そう。チロルが言ってた、見知ったヒトのカラダだって。
 メイアの詩にベーゼは眉間に力を籠める。……そんなの、苦しくないワケないっす。
 だから。
 そっと彼は、強張ったキースの肩に大きな掌を添えた。
「ひとりで背負わなくていいように、おれにも持たせてくださいねえ」
「、」
 ぴくり、と彼の肩が揺れる。サヤはそれを見なかったことにした。
「あの彼女が、キースのたいせつなひとの器だけだとしても。でも、それでも、器にだって思い出は宿るのです」
 皆、彼と『彼女』の詳しい事情を知りはしなかった。
 けれど、彼は大切なひとだから。ともだちだから。──だから、彼の大切なひとのことは取り返す。そう硬く誓っていた。
「……うつくしい絆だこと」
 岩場に膝をついた女は薄く唇に笑みを刷いて、手を差し伸べた。そこから後列の仲間達へ奔った魔法の鎖を、アラタは銀のスプーン型の杖で打ち払い相殺した。
「ハーヴィスト!」
「だいじょうぶ」
 彼女の確認にユノが応じる。彼女の前には左の機械の腕を盾にして庇った千歳が立って、悪戯気に片目を瞑って見せた。安堵の息吐いて『Lucy』ことオウガメタルに加護の重ね掛けを指示し、アラタは胸を張った。
「純粋な心体を集めてるらしいな? どうだ、アラタに興味ないか? めちゃ健康だぞ!」
 ──キースも魚さんももう、アラタや皆の友達で、大切な人なんだ。
 だから敵が求めていたとて渡せない。キースが悲しむから、他の誰だって渡せない。ならば囮を買って出た。
 我知らずベーゼが身動ぎしたのはユノをその大きな身体の陰に隠すため。
 黒のドレスの裾は大きく裂けていて。満身創痍のその身がゆらりと立ち上がるのを、アイヴォリーは唇を引き結んで見遣る。
 ──いつか誰もがいなくなると、知っていました。一度限りの儚い時を、美しいと信じていました。
 けれど今は永遠ではない身がこんなにも苦しいの。アイヴォリーは長い睫毛を震わせた。脳裏を過ぎるのはいつだってあのいとおしい青。
 ──あのひとを愛したその日から、いつか来るさようならを憎んでいる――。
 彼女は知っている。その身も心も、純真に世界を愛してた頃には戻れないことを。だから困ったような笑みを浮かべて首を傾げる。わたくしではきっと、『彼女』のお好みにはそぐわないでしょう?
 サヤもまた、ただ佇んで動向を見守っていた。響き続けるさざ波の音が、からっぽの器に反響している。生命を育むことのない純度が、静けさを湛えてただそこに在る。
 ──純粋ってなんなのか、わたくしにはよく解らない。
 わたくしは深夜にケーキもアイスも食べるワルだもの。
 メイアも口許に指先添え、ふたりと同じようにアラタと『ミランダ』を、それからキースを見つめる。彼は傷付いた『彼女』の姿を見るに堪えないのか、俯いていた。
「ふふ。ふふふ」
 唐突に、女は笑った。
「そうね。健康な身体は大切かもしれないわ。けれど、そういうことではないの。わたしが求めているのは、そうじゃない……ねえ、坊や?」
「、」
「教えてはくれないの? 『この身体〈わたし〉』のことを。そうすれば、そうね。貴方の曖昧な願いを叶えてあげるわ、いかが?」

●それは紛れもなく、
「ふざけんなッ!」
 反駁したのは、ベーゼだった。
「キースとそのヒトとの思い出は……一緒に歩いて、笑って、過ごした日々は、ふたりだけのモノなんだ……! オマエに教えるモノなんて、いっこもないっす!」
 大切なヒトの心は、ずっとキースといっしょにあるんだから!
「っ、」
 キースが顔を上げる。魚さんが彼の顔を窺えば、鈴やミクリさんもそれに続く。女はそれでも口を開いた。
「貴方のお友達はこんなに素敵なのに、貴方はそうして流されるだけ? 教えてくれないのなら “私”から教えてあげる。『この身体』は、前の身体に傷を付けたの。だから、腹いせにサルベージしてあげた、それだけよ」
 「なん、」キースの瞳が零れんばかりに見開かれた。けれど女は哄笑をやめない。
「わたしが求めているのは折れない意志。強い心。坊や、わたしは貴方を知らない。『心を喰った』? そんなこともあったのかもしれないわ。……けれど、それでおしまい?」
 本当につまらないのね。
 冷えた声音が告げる隙を与えず、サヤの白銀の槌が女の身体を遠心力で掻っ攫った。その身を中空で追って、アイヴォリーの光の剣が振り下ろされる。
「誰もがいつか、愛しいひとと引き裂かれる世界。けれど、だからこそ穢すなど許されないことです」
 重力に順じて落下した先に待ち構えるのは千歳とグレイン。的確にその傷口に突き刺した刃。その柄を押すように叩き付けた螺旋の力が刃を渡り、死神を更に内側から破壊する。

 ミランダ。
 亡くなった両親の代わりに、俺を育ててくれた、母のような、姉のようなひと。
 一度この手で、弔ったはずの“家族”。
 なのに。なのに。なのに。
 無力感に握り締めた拳。強い心? 願い? わからない。わからな──、
「、……」
 そのとき、耳に届いたのは聲──サウト。振り返れば熟れた果実色の瞳が笑って、キースの背に手を添えた。
「イェロ……」
 いつかの恩返しだと彼は肯く。「だいじょうぶ」膝をついてしまいそうになった時。標を見失ってしまいそうな時。
「たいせつな人たちや懐かしの日々が、その背を足を、……キース、きみのこころを支えているから」
 そしてひとつ肯く。きみはなにも間違っていないと。
「どんなかたちであろうとたいせつなものを喪うのは、辛いから」
 だけど、だからこそ。もう、失いたくないんだろう?

「っ!」
 ベーゼの手が止まる。これ以上の攻撃で、死神は“死”を知ることになるだろう。奥歯を噛む。キースにつらい思いをさせたくはない。けれど、それを決めるのは自分ではあってはならない。
 そう思うからこそ、グレインがそっと背を軽く叩いてくれたのに応じて、振り返った。
 キースはただ、『ミランダ』を見下ろす。
「キース。要望があるなら今のうちよ」
 もはや死神は動くことができない。だがまだ油断はできない。それも判っている。
「なにがあったのかは知らないけど。やりたいように、動きたいようにしちゃいなさい」
 千歳の言葉に、彼は小さく肯く。その横顔をサヤは見つめる。
 ──望まぬねがいに連れ去って頂いては、困るのですが。
 ……ほんとうは。
 キースがそれを望むなら。
 ──そのようにしてよいと、サヤは。
 口にはしない。けれど、そのねがいをすら肯定する。それが彼女の在り方だったから。
「要望、願いごと。……みんなはあるのかしら」
 神妙な静けさに包まれる中、メイアは敢えて微笑んだ。
「わたくしは、みんなが幸せになること。わたくしの周りのみんなが。そうしたらきっと、わたくしは幸せだもの」
 だからキースちゃん、あなたも。そう言って一度ぎゅっと彼の両手を握って、あたたかな色の『花火』を餞に彼へと贈った。

「ふふ。ふふふ。その眼。その眼……!」
 岩場の上に頽れながらも、その前にしゃがみ込んだキースへ女は喜色を浮かべた。
 そして、──ひしと彼を抱き締めた。
 すべてなかったかのような、穏やかな、慈愛の表情で。
 「、」思わず、彼と本物のミランダとの邂逅を、心のどこかで願わずには居られなかったグレインが瞳を見開いた。
 キース、と。
 零された声はあくまでも優しくて。
「……人の笑顔が好きだった。彼女の周りは笑顔で溢れていた。今でもまだ笑っておかえりを言ってくれる気がするんだ」
「ええ……おかえり、キース」
 柔らかな声音がそう告げて、キースはほんの微かに微笑んで、そっと瞼を伏せた。

「……違うって、俺のこころが言うよ」

 彼が呟くと同時に『ミランダ』の長い爪が彼の背中に突き刺さり、腕が大きく彼の肋骨を軋ませたけれど、誰より驚いた顔をしたのは『ミランダ』そのひとだった。
「もう彼女はいない。解っている。だから」
 今度こそさようならをしなければ。
 彼は血の混じる咳を零しながらも流動の銀をその両腕に纏い、ただ同じように彼女の身体を強く、抱き締めた。

●それは例えようもなく、
 潮騒に紛れるように渡る、深海の子守唄──ララバイ・ブルー。
 傷付いたミランダの身体を癒す。それよりも、海に還す際のしるべを贈りたかった。
「空と海は繋がっているのだと聞いた事がある。そして、全ての生き物は海から生まれて空に還るから、と」
 波打ち際で佇むキースの傍らで、アラタが眉尻をめいっぱい下げた顔で、それでも口角を上げて、彼を見た。
「あの死神が純粋さに惹かれるなら、ミランダはそんな人だったんだな」
 戦いが終り、彼から彼と彼女の関係についてはケルベロス達も知るところとなった。
 ──キースを育ててくれた家族で、大切な人。
「……会ってみたかった」
 ぽつり、告げた言葉の語尾が震えたことに気付いた途端に、視界がめいっぱいに歪んだ。「ぅ……っ」痛い。痛い。ぽろぽろと零れ落ちる涙は、止まらなくて。
 だって、キースの心はきっともっと、痛いって叫んでるに違いないから。
 当の彼は少し困ったようにアラタを見て、それでも小さく「ありがとう」と呟いた。
 ふたりを後ろから眺めて、アイヴォリーは祈るように瞼を伏せる。
 ──ひとはみな海に地に還るなら、いつか同じこの星の一部になれるのでしょう。
 けれど今はきっとまだ遠いばかりだから。貴方が歩き出すまで、ただ、傍らにいられるといい。そう願う、その裏側で。
 幼子のように泣きじゃくってしまいそうな言葉を懸命に呑み干す。
 ──どうしてさようならをしないといけないの、
 ……本当は、そう、

 ぎゅうう、と顔じゅうに力を籠めるベーゼを見上げたユノは次にどこか沈んだ表情のグレインを見上げて、ただ小さくそれぞれの服の端を握って。
 ミランダの身体を静かにキースが手放すのを、全員が黙したまま見送った。
「……おやすみ」
 小さく告げた、別れのことば。
「……、」
 キースはいつまでも、海を見つめていた。

 彼が顔を上げたのを見て、千歳はその瞳に労りのいろを色濃く映し、けれどいつもどおりの声音で言った。
「さあキース、帰るわよ」
「ええ。帰りにファミレスに寄ってもいいわ。ね、コハブ」
 メイアが彼に駆け寄って提案すれば、魚さんが鈴とミクリさんと共に小躍りする。そして先生が肩に寄り添うアラタも肯いた。
「今度はアラタが温かいおでんを作ってもいい。アラタが驕るから。キースに、居て欲しいんだ」
 全員の視線がキースへ集まる。熟れた果実色の瞳も、穏やかに。
 だから彼は、──海の中で彼女が浮かべた気がした表情を真似てほんの少し、微笑んだ。

「……ただいま」

作者:朱凪 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2019年12月1日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 4/素敵だった 0/キャラが大事にされていた 2
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