己が往き手を映す谷~バルタザールの誕生日

作者:譲葉慧

 ヘリポートの上に、秋晴れの空が広がっている。一片、一刷毛の雲すらない空色は、混じりけがないからだろうか、はっきりと濃く、そして澄んでいるようだった。
「今日は、空の色が深いな……」
 少なくとも、そんなことを言った、バルタザール・パラベラム(戦備えの銃弾・en0212) はそう感じているらしい。
 彼はしばらく空を眺めた後、何処かへ飛び立とうとしたが、ケルベロス達の姿を見つけて思いとどまったようで、一度拡げた羽をたたんだ。
「いい天気だな」
 バルタザールは、全世界共通のありふれた言葉でケルベロス達を出迎えた。実際その通りであったから、無難に同意の言葉や素振りが返される。
「こんな日和に行くにうってつけの所があるんだ。山奥の谷で、良い景色なんだが、いつもは天気が変わりやすくて、なかなか全部は見通せない。だが今日なら全てを視られる気がしてな」
『視られる』という言葉に何か含みを感じた者が、怪訝な顔をしたのをバルタザールは見遣り、目線で頷いた。
「ああ、そこは瞑想のための場所なんだ。谷の中腹の穴やら崖っぷちやらに、野ざらしのお堂が幾つも建てられててな、そん中で、天気とともに変わる谷の景色を見ながら、自分の内なる世界を覗く……って感じか。どんな天候、景色で何を視るかは、人それぞれなのさ」
 刻一刻と表情を変える場所が曇りなく晴れた時に、果たして何が視えるのか、それを知りたいとバルタザールは言った。今まで立ち寄った際は、天気は荒れどおしだったのだという。
「親父の縁でな、俺も何かつかめるかと思って籠ってよ。ここで鹵獲術の手がかりを得たんだ。そん時は嵐続きで、そりゃあひでえもんだったぜ」
 もしも俺が嵐を呼んでるんだとしたら、誰か他の人がいれば、晴れるかもしれないだろ? バルタザールは大真面目な顔でそんな事を言い、ケルベロス達を誘った。
 とはいえ、急な崖に造られたお堂でお籠りとか瞑想とは、人によっては時間を持て余しそうだし、自分の柄じゃないという人もいるだろう。
 これが万人向けの誘いといえないのは、バルタザールも分かってはいたようで、そこまで構えることもないぜ、と笑った。
「ただ居て景色を楽しむので充分さ。ちょうど今は紅葉の季節で、谷の中腹から上の方にかけてが見応えあるんだぜ。下の方は日があまり射さないが、谷底にある泉を観る事ができるな。他にも出会えるものはあると思うが……それは行って自分で探すといい」
 紅葉を観るも、森泉を覗くも、あるいは自分だけの風景を探すも、心の赴くままに。そして、そんな客人を迎える谷の様相も、晴れか曇りかはたまた雨か。
 その中で何をするかも自由だ。風景を愛で、宴に遊ぶのも沈思するのも、どちらでも楽しめる。瞑想の場だから、その時に何かを思えば、もしかすると応えがあるのかもしれないし、そうでないかもしれない。
「お堂は結構数があって、貸切状態だから、一人でも仲間同士でも、ちょうどいい場所が見つかるだろうぜ。朝昼夜構わず、好きなだけ自分、自分達だけの時間を過ごせるんだ」
 そう言って、バルタザールは空を仰ぎ見た。先程と変わりない青い空は、はるか遠く、見渡せる限り広がっている。
 空の果ての方を眺めたまま、バルタザールは、誰に言うとでもない様子でごちた。
「今まで長い間戦ってきたわけだ。戦場で過ごす中で、変わったものも変わらないものもあるだろう? それが何か見つけられたら、これからの往き方の手がかりになるかもしれない、そんな気がしてなあ」
 そしてバルタザールは今度こそ飛ぶために羽を広げた。
「まあ、気が向いたら来てくれな。ホント綺麗で面白い場所だからよ、じゃあな!」
 そう言い残し、飛び立ったせっかちな羽ばたきは、青空の中ですぐに小さくなっていった。


■リプレイ


 広く連なる山々の間に、ひっそりと埋もれるように穿たれた谷間では、季節の移りが染めぬいた紅葉が盛りを迎えている。濃淡織り交ぜた紅と黄の鮮やかさは、青空に向けて晴れ姿を披露するかのごとく、どこか誇らしげなようにも見えた。
 天より吹き下ろす風が山肌の彩を揺らし、ざわめかせる。その冷たさは、やがて来る冬の先触れであり、短い紅葉の終わりの始まりを暗に告げていた。
 向かい風の思わぬ冷たさでそれと知り、風の来し方を仰いだ、ジェミ・ニア(星喰・e23256)の方へ、ふわりと楓の葉が運ばれる。ジェミはすっかり紅く染まった葉を風の手から受け取って、傍らのエトヴァ・ヒンメルブラウエ(フェーラーノイズ・e39731)に見せた。
「冷たい風。行楽というより修行寄りだよね」
 エトヴァが楓の葉に触れると、指の皮膚に風の冷たさが伝わった。ふとした隙から、身体の芯まで染み透ってゆきそうな、油断のならない冷たさだった。
「けれど紅葉が綺麗なのハ、きっとこの風のお蔭なのでしょうネ」
 ジェミとエトヴァの周りを吹き巡る風が、谷のあちらこちらから集めて来た楓や紅葉を、はらりはらりと降らせている。それは綺麗だと褒めてくれたエトヴァにもっと見てとせがんでいるようだった。
 二人はほんのりと笑み、風に舞う案内人に導かれるままに道なき道を登ってゆく。そして、憩い処となるお堂をみつけた。
 険しい崖に建っていながら、しっかりと張り渡された土台や柱のお蔭で危なっかしさはなく、お堂へ通じる道には手すりもある安全仕様で、高い所が苦手な人でも、何とかお堂へと辿りつけそうだ。
 お堂の中にも風が通り抜けてゆくが、誰かが掃き清めているのか、風の忘れ物はどこにも見当たらない。
 ジェミが先に入り、足下を確めながら、紅い色味が覗いているお堂の縁へと向かう。欄干越しにその先の景色を見た彼は、エトヴァを招いた。すこし急いでいる様子に圧されるように、エトヴァはジェミの傍へと寄る。
 紅と黄で葺かれた崖。そして眩い青空があった。色彩により、天と地の境界がこれ以上もなく、くっきりと定められている。ここは二人のために設えられた場所なのではないかと、そんな思いさえ抱きつつ、欄干の側に席を設える。
 腰を落ち着けて景色を眺めると、随分と空が近い。改めて、ここは谷の中でも高い所なのだと実感する。そしてここに至る道のりの長さと険しさが思い起こされる。とはいえ、実のところ、道のりを実感したのは景色もさりながら、俄かに感じた空腹のためというのも大きい。
 ジェミとエトヴァは、どちらからともなく包みを取り出し、お互いの為にと丹精込めたお弁当を広げた。エトヴァはジェミのお弁当を見て目元を綻ばせた。
「……ふふ、これが一番の楽しみデ」
 いただきますの一言の後、お弁当を手に取り一口。見交わす眼差し同士が、美味しいと語っている。
 ジェミが作ったのは、秋の食材を炊き込んだおにぎりだ。しめじと栗と、旬のものを炊き込まれているおにぎりは、それぞれの具材が旬のものならではの張りがあって見た目にも食べ応えがありそうだ。
 実際、口にしたエトヴァの笑顔といったら。彼がころころと丸い大粒の栗が覗くおにぎりを口にすると、栗の甘味が淡く広がる。ご飯にきいた塩味で、めりはりのある味わいだ。
 次はしめじご飯のおにぎりだ。しめじのきゅっとした歯ごたえの後を、出汁の旨みが追ってくる。ご飯に沁みた出汁には、ほんのりしめじの風味が移り、こくを増している。
「……優しい味付け、大好きデス」
 幸せそうなエトヴァを見、ジェミは、きっと自分も同じ表情をしているだろうと思った。エトヴァの作ったサンドは、しゃっきりとみずみずしいレタスの甘味と薄切りのトマトの酸味とが、かるく炙ったベーコンの脂気や塩気とほど良く混じり合っている。粗びきの芥子は、噛むと粒々が弾け、味わいにぴりっと変化をつけてくれるが、辛味が勝りすぎないのは、まろやかなアボカドの賜物だろう。
 そして、ジェミのリクエスト、こがね色に焼きあげられたパイ。さくりとしたパイ皮の中には、丁寧に練られた南瓜がしっかりと詰まっている。南瓜そのものの甘さに誘われて、幾つでも食べられそうな気がしてくる。
 一時をすごす二人の頬から耳へと、風が撫で、通り過ぎていった。ジェミの耳で羽根のピアスが揺れている。そこで彼はああ、と得心した。道理で何処かで会った気配だと思った。今のはこの羽根を運んだ風だったようだ。
 世界を往く風が山と出会う地。風と山の再会の約束が交わされた地に憩うていた羽根。ジェミはその羽根の片割れを横目でエトヴァの横顔を見た。エトヴァは髪をそっとかき上げ、耳を飾る約束のしるしをあらわにした。
「……覚えていますよ。俺も大切に持っていマス」
「うん」
 暖かな日なたの中、エトヴァはジェミの肩に頭を預けた。ジェミはエトヴァの体温に安らぎつつ、目線を谷へとすえた。二人で眺める景色に未来が映るのだろうか、世界を懸けた戦いを越えた先のある日、互いの元へと帰る、そんな啓示があるのだろうか、と。
「……ほら、君の所へ帰りマス」
 お互いの耳元の羽根が寄り添って風に揺れていた。エトヴァは目の前の景色を眼に焼き付けた。二人で見たこの景色を再会のよすがとするために。そっと瞼を閉じても、心に宿った景色は、鮮やかなままだ。
「……うん、帰るよ、エトヴァの所へ」
 この景色だけではない。どこへだって、なんであっても、ずっとずっと二人で一緒に。
 紅葉の谷は、寄り添う二人の約束を、静かに見守っていた。

 山道を上り詰めてやっと辿り着いたお堂の外観を、サイファ・クロード(零・e06460)は眺めた。日本中に似たような作りのお寺はありそうで、あまり自分だけの特別の場所、という感慨はわかない。崖っぷちに危なっかしく建っているというだけで、充分不思議な場所ではあるのだけれども。
 外に面しているお堂の廊下には手すりはなく、歩くたびに床はきゅっと音を立てる。下を覗くも、繁る紅葉に隠れて先は良く見えない。だが落ちたらとにかく痛そうだ。ここで慌ただしく動くのは良くないな、と思いながら、サイファはお堂の中へと入り、真ん中に座った。
 ここからは青く澄んだ空が良く見える。紅葉をおおらかに照らす秋の陽が、秋深まるお堂の中にいるサイファを暖かく包む。
「瞑想かあ」
 サイファはもう一度、瞑想かあ、と繰り返し、誰に言うとでもなく、迷走ならよくするんだけど、と付け加えた。
 この場所はもともと瞑想のための場だということだ。サイファは医術を修める身で、医術にも精神面に関わる部分はあるけれど、瞑想、という方法にはとんと縁がなかった。
 僧侶とか修験者とか、魔術師とか、とにかく瞑想をしてそうな人達を思い浮かべる。たしか、その手の人達は、こんな感じで――。
 思いつくままに、サイファは景色がよく見える所に座り、目を瞑った。閉じた瞼から透ける陽の光を感じながら、肩の力を抜いて、ゆっくり、ゆっくり深呼吸をするうちに、光の余韻は遠のいてゆき、闇が訪れる……これが瞑想というものか、と悟る間もなく、意識まで闇に吸い取られてゆく……。
「――!?」
 サイファの意識が赤い光に引き上げられ、急に寒さが襲ってきた。目を開くと、その赤い光はお堂中に差し込み、周り中を赤く染めている。これは何事かと数度瞬きをすると、周りの景色が徐々に像を結んできた。
 赤い光の正体は夕陽だった。赤光と紅葉とが相まって、視界が赤く染まって見えたらしい。そして、肌寒いのは日暮れも近いからだ。
 神秘のあらわれでもなんでもなく、単に自分は寝込んでいただけだった。そうと分かって、サイファはくすりと笑った。
「そっか、疲れてたんだな、オレ」
 自分でもそうと知らず、疲れがたまっていたとみえる。立ち上がると、寝起きにありがちな倦怠感はなく、頭の中はすっきりとして思考は澄んでいる。お堂の縁へ立つと、山際に沈みつつある夕陽が起き抜けの目に眩しい。
 夕日は刻一刻と沈みゆき、サイファが眺めている間にも、天から降りる夜の帳が夕陽を隠してゆく。
「……オレ、やっぱ医者になりたい」
 サイファは空の彼方に語りかけた。
「んで、困ってる人を救いたい」
 ふと見降ろすと、お堂の下は黒々として先が全く見通せない。この様子では普通の人ならば、今日はもう下山できない。けれどケルベロスなら些細な問題だ。お堂からそのまま飛び降りたとしても、最悪、とても痛かったりひもじかったりで命に別状はない。
 そんな身体だからこそ、助けを必要とする人たちに向けて、遠くへ、より遠くへ手を伸ばせる。ケルベロスに覚醒し、この身体を得たのは、意味があった。それがいつか失われる力だとしても、力ある限り、一人でも多く――。
「……なあ、先生?」
 養い親であり、手に掛けた人でもある父。その背を追い足跡を辿るサイファの旅は、昔も、これからも変わらない。
 オレがそっち行くまで見守っててくれよな、そう願ったサイファに応えるように、一番星がちかりときらめいた。

 そのお堂は、谷に幾つものお堂がある中、ぽつんと離れた所に建っていた。辿り着くには傾斜のきつい岩壁に打ちこまれた鎖に掴まりつつ、人一人が通るのがやっとの道を登らなければならない。しかも、今は更に、俄かに強くなった雨風まで、登る者を阻みにかかっている。
「ここは凄い所だな。ここでどんな人が瞑想するんだ?」
 アラタ・ユージーン(一雫の愛・e11331)がお堂の中の先客に問いかけると、先客……バルタザール・パラベラム(戦備えの銃弾・en0212)はよく来たな、と笑ってから答えた。
「ここは偏屈者の庵って別名があるからな、偏屈者なんじゃないか?」
「パラベラムは、偏屈者なのか」
「やっぱり偏屈者か、俺? そういうアラタこそ……」
 喋りながら外を覗き込んだバルタザールは、瞬きし、言葉を呑み込んだようだった。
「どうしたんだ、パラベラム?」
「こっち来てみ。雨が止んでんぞ」
 アラタが外を見て見ると、あれ程酷かった雨風は止み、雲間から幾筋もの光が射し込んでいる。バルタザールが指さす方向には、谷間をまたぐ大きな虹が架かっていた。
「ここが晴れたのを見るのも初めてだが、虹とはなあ……こりゃアラタのお蔭だな」
 偏屈者のバルタザールは、良いもん見せて貰って、ありがとな、とアラタに笑い、虹の最後の色彩が陽光に融け入るまでずっと、眺めいっていた。

 紅葉に染まった峰々に包まれた瞑想の谷は、その行き方を知っていてはじめて、その全容を目にすることができる。辿り着くまでの道なき道の様子も相まって、まるで谷自身の意思で、世人から身を隠しているのではと思うほどだ。
 谷底にあたる場所から、レスター・ヴェルナッザ(凪ぐ銀濤・e11206)は梢の隙間から見え隠れしている薄雲混じりの空を仰いだ。谷の高みへと続く道が見えたが、彼は人の手による道には構わず、翼を広げ、飛び立った。
 はばたく翼で雨気混じりの冷たい空気を打ち、レスターは人の痕跡から背を向け上昇する。じきに、紅の彩りの中、ぽつりぽつりと崖に建つお堂が見え始めるが、それらは彼と彼の抱えるものにとっては、鮮やかに過ぎて、故に遠い場所であった。
 幾つものお堂を通り過ぎ、あらかた谷を回ったかと思われた頃、穿たれた崖の中に投げ入れられたように建つお堂を見つけた。せり出た崖が庇となって隠しているため、近寄らないと見つけられない。
 レスターは最初からここが目的地だったかのように、お堂に降り立った。歩みを進めるたび、足音が静けさを散らし響く。ここでは、かすかな衣擦れや自身の息遣いですら、静謐を乱すものであるようだ。
 入って来た方を振り返ると、彩に満ちた外の景色が遠いものに見える。レスターにとって、それは不思議な感覚だったが、同じ位馴染み深くも思える。
 この場の仄暗い沈黙、身を切る冷えた空気……あの時の海底に似た感覚がレスターの思考を澄ませ、沈思へと誘う。それは水底から還って来た時から堂々巡り続ける、己への問いであった。
 魂の一部……家族を喪った。彼女たちの苦しみの報いは、己が手でなされなければならない。
 復讐。彼が戦う理由を問われた時、もし答えを返すとすれば、そう答えるだろう。
 しかし心の内奥で、同じ声色が語るのだ。だが、それだけではないだろう? と。戦の高揚、無尽なる破壊への歓び、戦場の日々、己に密に寄り添っていたのは、むしろそれらではなかったか? と。沈黙で対すると、それに乗じるように、声は更に語り続ける。
 復讐だと唱えるのは、後ろめたさなく力を揮う方便にすぎず、方便の薄皮一枚を剥げば、放たれる時を焦がれる獣の欲望が牙を剥いているのだ。
 奪われ喪ったのは確かだが、そもそも、それは周りを顧みず戦を求めて奔った自身の所業故ではなかったか?
 己を形作っている本質は、破壊の衝動。それを否定し続け、理解せぬまま往く先にあるのは、過去をなぞるが如くに似た、螺旋の結末だ。
 違う。
 レスターは畳みかけて来る己自身の声に反撥したが、いつからか心の奥に積もっていた澱は消えなかった。喪失の日から時は経、過ごす日々のうちに結んだ縁や得たものを、躊躇なく傷つける日への恐れ、それが澱の名前だった。
 そんな事は絶対にない、そう言い切ろうとした。しかし……。
 お堂の縁へと踏み出し、空を仰いだレスターを、冷え冷えとした一面の薄墨色が見下ろしている。陽を隠し通す分厚い雲の色は、己の原風景と違えるところはまるでない。
(「……らしくもねえ」)
 どこかで答えを期待し、巡る想いを空色に問うた自分を評し、レスターはそうごちた。もし空から答えが返って来たとしても、あの曇天は往く手に在り続けるのだろう。どこまでも、どこまでも。

 色鮮やかな落葉を踏みしだき、ティアン・バ(死縁塚・e00040)は谷底近くを歩いていた。この谷は紅葉が見ごろであったが、他にも秘められた場所があるとのことだった。
 ティアンがしばしの寄せ処を探す間、谷の天候は晴れたり雨が降ったりと気まぐれに移り変わっていく。
 雨に濡れた崖を器用に登っているうちに、いくつかお堂を見かけた。崖に無理矢理に建てられた感のある不可思議なお堂は、それぞれに趣があったが、ティアンにとって、それ以上の感想を抱くものではなかったのだ。
 曇り空の下、一人登り続けるティアンの前が、急にぱっと開ける。今まで良く回りが見えなかったため、分からなかったが、もうここは谷の中腹あたりだ。景色を見渡してみると、視界に真っ先に飛び込んできたのは、眼下、谷底近くの泉だった。木々に囲まれた泉は、今ティアンが居る辺りからは良く見えるが、おそらく場所を変えたらひっそりと木々に隠れて姿を消してしまうだろう。
 雨後であるはずなのに、鏡の様に平らかな泉の佇まいに惹かれ、ティアンはその側のお堂へと入った。湿り気の残る縁から泉を臨むと、泉の全てを見渡せた。いつしか、晴れ間がのぞき、太陽の光が湖を照らしている。
 しかし、晴れの空を映しているはずの水面は、黒々と底知れぬ色を湛えていた。鏡は鏡だが、まるでまじないに使う鏡のようだ。しかし、気を鎮め、瞑想の境地へと入るにはむしろその方がよい。
 ティアンはその場に座り、姿勢を正し、呼吸を整えた。かつてのことではあるが、長らく巫術と鹵獲術に親しんでいた身だ。瞑想は修行の一環であったから、意識せずとも自然と思念の世界へと入るはずであった。
 しかし小さな違和感に引っ掛かり、ティアンの意識が現へと戻る。瞬き一つの惑いの後に、ああ、と違和感の正体に気が付いた。共に居た御業はもう居なかった。銃を構え、地獄の炎をまとうようになり、御業は封印した巫術と共に去ったのだった。
 そう言えば独りだった、そう望んだ自分自身を思い出し、ティアンは改めて瞑想をはじめた。黒く澄んだ深い泉、果ての見えない水底に向けて、ゆっくりと、ゆっくりと意識を沈めてゆく。熱も光も音も感じない中を、ただ独り沈んでゆく。
 一人で生きていけるようになりたい、そう願った。けれど、共にいたいと思えるひとがいて、そのひととの日々の重ねは、自身の願いを揺らがせてしまいそうだった。
 だからこうして、瞑想の中、今一度願いをあらわにし、幾度となく自身に言い含めるのだ。誰かに依らねば生きられなくなってはいけないと、弱くなってはいけないと、脆くなってはいけないと、だから一人で生きていけるようになるのだと。
 黒い水底で穏やかにたゆたうティアンに、ちくりと小さな痛みが走った。棘が刺さったよう痛みは、『けれど』という反撥だった。ティアンはその続きに耳を澄ませた。
 けれど――いつか、幸いを共に喜んでくれる人がいなくなった時、生きていけるだろうか?
 生きていける、ティアンは即座にそう言い切った。しかし、心臓を掴まれたかのような感覚とともに、蘇った五感が、瞑想から現へと引き戻す。ほんとうに? と問い返す声が、浮上する彼女の意識に追いすがった。
 ティアンが我に返ると目前には、黒い鏡の泉が変わらずあり、何もかもが瞑想を始める前と同じままだ。
 己の弱さに抗するように、ティアンは昂然と光射す空を見上げた。強くあらねば、と。

作者:譲葉慧 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2019年11月13日
難度:易しい
参加:6人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 1/キャラが大事にされていた 2
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