
●夢見鳥
美しい夜だった。
月あかりが照らす森は緑が柔らかにとけたように優しい黄葉へ、そして絢爛たる紅葉へと移り変わる最中にあり、梢の合間から零れ落ちた月光は夜露のごとくあえかに煌いた。あと一月もせぬうちに森は絢爛の錦を纏い、二月もせぬうちに落葉するのだろう。
森の大地には誰かが纏めて投棄したらしい楽器が二台、落葉に埋もれるのを待つかの様に静かに横たわっていた。蒼い虹やオーロラを思わす彩りで蝶の片翅の輪郭を描くような柱と腕木、響板を持ち、透明に煌く弦を張ったハープ――その音色を電気信号に変えて増幅するエレクトリックハープ達。
だが彼らは森の褥に眠ったままではいられなかった。
夜露よりも強く、冷たく、月光に煌く宝石。機械脚を持ったコギトエルゴスムに融合され絶えて久しい音色を甦らせたエレクトリックハープは同型のもう一台も取り込んで、一対の翅を得た蝶のごときダモクレスとなって、秋の夜にふわりと羽ばたいた。
夢のように不可思議で、美しい姿の蝶。エレクトリックハープの翅持つ蝶は最早アンプも電気も必要とせず、求めるものは数多の命を奪って得る、グラビティ・チェイン。
然れど奏でる音色は何かを夢見るように秋の夜へ響いていく。
夢見るのは過ぎさりし日々か、あるいは己の未知なる楽曲か。夢見鳥は蝶の異名、ゆえにこのうえなく己に相応しい音色を奏でながら森を出た蝶の眼前に、柔らかなあかりでライトアップされた秋薔薇の庭園が広がった。
庭園の奥には、およそ百年の歴史がありそうなネオルネッサンス様式の館。
旧華族の別荘に手を入れプチホテルとして営業しているその館では、この秋の夜に――。
●秋の夜の夢
折しも、ケルティックハープの演奏会が開かれる。
機械脚の宝石に融合されたエレクトリックハープは、抱えたり膝の上で演奏するタイプのラップハープ。対して演奏会で奏でられるケルティックハープは床に置いて演奏する大型のフロアハープだが、それでも敷地の外まで届くほどの音量は持ちえない。
だが、
「エレクトリックハープの蝶は、グラビティ・チェインのみならず、ケルティックハープの音色も感知していたものと、推測」
款冬・冰(冬の兵士・e42446)は小さくも確かな声音で呟いた。
根拠はない。強いて言うなら、元は同じダモクレスであった者としての勘だろうか。
「そうだね。聴いて、惹かれていったのかもしれない。けれど、冰さんが演奏会への襲撃を警戒してくれてたおかげで事前に予知できたから、避難勧告ももう手配済み」
天堂・遥夏(ブルーヘリオライダー・en0232)はそう語り、あなた達には秋薔薇の庭園で敵を待ち受けて欲しいと告げた。近隣にひとの気配が無ければ、敵はケルベロス達の気配に惹かれて来るからだ。
「庭園はライトアップされてるし、広さも充分。そこでこの蝶と戦って、撃破してきて」
蝶が奏でる音色はグラビティとなり、相手を陶酔させる麻痺、広範囲の対象を魅了せんとする催眠、そして痛手を癒し術の力を高めるヒールとなって顕れる。
「最も厄介なのは、ポジションがメディックってところだね」
「……攻撃にはブレイク、回復にはキュアが付随。対策なしでは長期戦になるものと予想」
微かに眉を寄せた冰が言を継げば、皆で全力で当たって、と遥夏が頷いた。
決して侮れぬ相手。だが無事に勝利できれば、是非とも演奏会にお立ち寄りください、とホテルからお招きがあるという。柔らかにライトアップされた秋薔薇の庭園を眺めることができる、アンティークの暖炉を備えた暖かなサロンで聴く、ケルティックハープの音色。
奏でられるのは秋の夜の夢をモチーフにした曲、それをただ静聴するのではなく。
蜂蜜酒にオレンジとスパイスを加えて温めたホットミードの杯を片手に、誰かとゆったり談笑しながらケルティックハープの演奏にも耳を傾ける、そんな夜の憩いのひとときとして催される演奏会だ。
酒を嗜めぬ者には、林檎果汁に蜂蜜とジンジャーを加えた、ホットアップルジンジャーが饗される。平日ゆえに部屋にも余裕があり、望めば一泊していくこともできるとか。
酒精があってもなくても、温かな杯を手に豊かな秋の夜のひとときをすごせたなら。
「ああん、とっても幸せに眠れて、とっても幸せな夢が見られるんじゃないかしら~!」
「ん。冰もトウカに同意。幸福な一夜になるものと、確信」
真白・桃花(めざめ・en0142)が尻尾ぴこぴこで語る言葉に冰も心から同意して、少女は居合わせた仲間達に助力を願った。皆でエレクトリックハープの蝶を眠らせてやれたなら。
豊かな秋の夜の幸福が、暖かな館で皆を待っている。
参加者 | |
---|---|
![]() オペレッタ・アルマ(ワルツ・e01617) |
![]() キルロイ・エルクード(ブレードランナー・e01850) |
![]() 蓮水・志苑(六出花・e14436) |
![]() 御堂・蓮(刃風の蔭鬼・e16724) |
![]() 藍染・夜(蒼風聲・e20064) |
![]() ヴィルト・クノッヘン(骨唄葬花・e29598) |
![]() 天乃原・周(不眠の魔法使い・e35675) |
![]() 四十川・藤尾(七絹祷・e61672) |
●夢見鳥
蒼い虹のごとく煌く翅で、蝶が月下の庭園に羽ばたいた。
あるいは蒼い極光か。幻想的な光沢で縁取られた翅に張られた透明な弦を震わせて、蝶は秋薔薇の香る夜風に魔法の力を得たエレクトリックハープの音色を幾度も響かせる。麻痺や幻惑の魔法だけでなく、癒し手の破魔をも乗せて。
華やかな七色の彩風で庭園を彩ったブレイブマインや、陣形を歌劇の舞台に見立てた百戦百識陣、戦端が開かれるとともに仲間が前衛へ展開した術の恩恵は早々に、儚い夢のごとく霧散した。それさえも現と夢の境を朧にするようで、
――この戦いも、胡蝶自身が見ている儚い夢の世界なのかもしれない。
なんてね、と藍染・夜(蒼風聲・e20064)は星の双眸を細めたが、天地を貫く隼を思わす神速の一閃は確かな現となって機械の蝶を裂き、天乃原・周(不眠の魔法使い・e35675)が翳す刃に映した鏡像は、蝶に、夢見鳥に悪夢のごとき心の傷を三重に見せつける。
相手は何を視たろうか。周が初手で召喚した、蝶の癒しを阻む魔獣だろうか。
次の瞬間、羽ばたく翅に銀の煌きが躍れば、
「来る! 催眠だ!」
「後衛狙いだぜ!!」
「俺達で止めるぞ、空木!!」
二人の声が夜風を貫き、御堂・蓮(刃風の蔭鬼・e16724)と空色の焔を纏うオルトロスが夢見鳥の魔法を受けとめた。即座に降ろすのは古書に宿る思念、赤黒い影の鬼の豪腕に雷を纏わせ、彼は嵐でもって敵に報いる。
銀色の、真珠色の月光を爪弾いたかのごとき音色は夜の水面へと伸びゆく光にも、何かを求めて手を伸ばす様にも思えて、魔法は確かに蓮が引き受けてくれたのに、音色に共鳴する心地でオペレッタ・アルマ(ワルツ・e01617)は胸を震わせた。
「これが、『夢をみる』の音色なのでしょう、か?」
「心を得たお前さん達が見るなら解るが、心の無い機械には縁の無いものに思えるがな」
――心が無いまま夢を望むというなら、胡蝶の夢としてこの世から消えろ。
幻惑の音色を受けながらもキルロイ・エルクード(ブレードランナー・e01850)の銃口が僅かな狂いもなく機械の蝶を捉えて、この敵にひとかけらの慈悲も持たぬ彼の心そのままに苛烈な凍結光線を迸らせれば、神犬に護られた真白・桃花(めざめ・en0142)が宙に舞い、竜の尾で蝶を叩き落とす。
「わたしね、キルロイさんのああいうところひっそり好き~」
「だろうね。俺も解るな、桃花の言いたいこと」
誰よりも愛しい存在をダモクレスに奪われたのだろう彼が件の種族そのものに抱く峻烈な殺意と、それゆえレプリカントにも複雑な想いがあるだろうに、ともに戦う同志となるなら迷わず信を置き、時に情をも覗かせる様を、夜も眼にしたことがある。指輪燈る手に顕すは光の剣。
己もまた、愛しい天使を奪う者なら神とて斬るだろう。
「周、『これ』は『支援』を『要請』します」
「わかった、前衛は任せてくれ」
白銀の、黒の妖精靴が拍子を踏めば、薔薇の庭園に光の花々が舞い吹雪く。オペレッタの癒しと二重の浄化に潤された四十川・藤尾(七絹祷・e61672)は陶然と春の双眸を細め、
「さあ、もっとわたくしと遊んでくださいな」
――あなた。
艶めく声音で夢見鳥を呼ばえば、秋薔薇の庭も死の底に滅り込む春の上。彼女の織り成す紫縄が蝶を逃さぬ夢となり、前衛に三重の浄化を乗せた花々が降る様を銀灰の瞳に捉えて、
「どうせなら皆で夢を見たいところだしねぃ。アンタも良い夢見られているかい?」
春の夢も、己が序盤で刻んだ癒しを糧に咲く黒蓮もいっそう深く夢見鳥へ刻み込むべく、ヴィルト・クノッヘン(骨唄葬花・e29598)が歪な稲妻型に変じたナイフを躍らせた。
月光と燈りで夜闇に浮かびあがる数多の薔薇のなか、何処までも深く夢に迷い込むよう。繰り返される夢見のしらべが胸に幾重にも反響して、無限で夢幻めく合わせ鏡の迷宮の奥へいざなわれてゆく心地さえ覚えながら、
「――ですが、これは元の貴方の本意ではないでしょう?」
桜咲く袴の裾を流れるように捌いて踏み込むのは蓮水・志苑(六出花・e14436)、閃いた刃は氷のごとくに煌いて、白雪の桜を舞わせながら夢見鳥の片翅を斬り散らせた。
自陣最高火力の桜花霜天散華、
「今宵もお見事、志苑。ほら、胡蝶も耐えきれぬようだ」
「癒しが来るな。それなら、俺からも贈り物を」
堪らず蝶が燐光を帯びる様に夜の声が通れば、極小の星が残る片翅を穿つ。
左潟・十郎(落果・e25634)が撃ち込んだ星が神殺しのウイルスで三重に夢見鳥を冒した刹那、ひときわ優しい音色が奏でられたが、黒蓮に、ウイルスに、魔獣の咆哮の余韻に力を喰われ、再生する端から蝶の翅がほろほろと崩れていく。
強大なはずの癒しは夢のごとき淡さ。
然れど、術を高める銀光と、縛めの幾つかを霧散させた癒し手の浄化は確かな現。
浄化直後ではグラビティブレイクは分が悪いと一瞬で見てとれば、夜は己が竜鎚へ即座に天津風のごとき加速を乗せた。鎚が確と蝶を強打したのは精鋭たる彼の実力と、敵を逃さぬ超加速ゆえ。
「大分消しやがったか。だが、テメェをひらひら舞わせとくつもりはないんでな!」
「戦いの序盤に足止めを積めば充分、とは参りませんものね。メディック相手では」
機械の夢見鳥が自由を得たと見れば迷わず吼えたのはキルロイと彼の竜の鎚、確実に狙い澄ました轟竜の砲声を轟かせれば、過たずに蝶へ爆ぜた竜砲弾の軌跡を正確になぞるよう、藤尾も竜の鎚を振り抜いた。豪放にして精密な砲撃が嘗て屠った竜影海流群の咆哮を連れ、夢見鳥に足止めの痛打を喰らわせる。
派手に爆ぜたその余波を貫いたのは銀の神風、
「来い、志苑! 打ち砕いてやれ!!」
「はい! 参ります!!」
黒革靴に踊る銀の銀の蔦文様を流星の煌きで強く彩った蹴撃、蓮が星の重力で蝶を地へと打ちつけたなら、抗う夢見鳥が僅か浮かびあがった瞬間に、銀の螺鈿に蒼鷺舞う短刀が振り落とされた。志苑のグラビティ・チェインが純然たる破壊力となり、蝶の銀光を破砕する。
前衛は精鋭揃い、後衛から攻めるのは狙撃手達、となれば。
「ヴィルト、周。『これ』が『支援』します」
「っと、サンキュ!」
「助かるぜぃ、オペレッタの姐さん!」
白きコンフェッティの娘は黒きオルゴールを開き、煌くよう溢れだしたアリアデバイスの音色に乗せ、失われた愛しい想いを歌い上げた。歌声に眼前の世界を更に広げられた心地で周が揮うナイフは新たに夢見鳥へ刻まれた縛めを深め、次なる癒しも喰らうべくヴィルトが撃ち込んだ呪印が三連の黒蓮を燈した、そのとき。
蝶の弦に銀の煌きが細波のごとく渡る。
「ヴィルトさん、下がって!!」
奏で解き放たれた夢見の音色は美しい響きで陶酔の麻痺を齎す魔法。だが周が声を張ると同時に跳び込んでいた蒼と雪色のシャーマンズゴーストが魔法を受けとめれば、
――これより、『再上演(リバイバル)』の『時間』です。
軽やかにオペレッタの踵が鳴り、高らかに開演ブザーが鳴り響く。
癒しで神霊を抱擁する魔法は絵本の頁のように舞台の幕のように踊って開かれて、偶然か必然か、海の舞台が投影された瞬間に、周の全身を彩る魔術回路に煌きが奔った。
「出でよ、レヴィアタン! その咆哮を聞かせたまえ!!」
招来された幻影は古の海の魔獣、轟く咆哮は三重に癒しを阻む呪いとなって蝶を蝕んで。
美しいその翅も音色も、愛おしくさえあるけれど。
――ぼくたちは、キミを黄泉へ送らないといけないんだ。
蝶が夢に、音色が幻となって消えるときが近づいてくる。
夢見のしらべのみならず戦場の熱にも胸を恍惚で満たされる藤尾は、迫る終焉にひときわ名残惜しさを募らせるも、
「過ぎ去ってこそ、その美しい余韻をどこまでも、人は心へ留めるのでしょう」
御還りなさい、と胸元から優艶に舞った彼女の手は懐から金時計を差し出すかに見えて、掌から瞬時に眩く輝く黄金の角を迸らせた。苛烈な鬼神の角に貫かれた夢見鳥へ、美しくも凛冽な桜吹雪が襲いかかる。
「貴方の演奏会はここで終えていただきます」
「ああ。暖炉のあるサロンで聴くその音色も美しかったろうが、ここで終演としてもらう」
凍てる白雪の桜を舞わせ、蝶の命も散華と変えつつ志苑の斬撃が夜風に踊れば、舞い散る花ごと夢見鳥を抱擁するように、蓮の縛霊手の一撃から霊力の網が咲いて、
「アンコールがあると思うなよ、夢見鳥。潔く消えろ」
「確かに、終幕を長引かせるのは本意じゃないな」
――あばよ。
仮面越しに狙いを定めるのは一瞬、詠唱も簡潔で端的で。
然れど唯それだけで極限まで集中力を研ぎ澄ませたキルロイの銃撃が、聖女を穿つ魔弾が機械の蝶の真芯を貫いた刹那、淡い感傷を冥い黒へと隠した夜の一閃が、夜風を、黄泉路を拓いた。優しく光り輝く花々が降るのは、くるり、くるりと白銀の靴先でオペレッタが舞う癒しが齎す、終幕のフラワーシャワー。
おやすみ、良き夢を。
眦を緩める夜の眼前で、胡蝶が蒼い虹と柔い銀の光になって消えていく。
どうぞ――おやすみなさいませ。
流れるように優雅なカーテシーで、オペレッタは夢見鳥の最期を見送った。
淡く瞬いたひかりの、さいごのひとつぶが、消えるまで。
●夢見路
――オルフェウスの、竪琴。
蒼い虹の煌きを連れたエレクトリックハープの蝶にそれを連想したのは、蝶が死後の魂を導く存在だと何かで読んだことがあったから。夜の拓いた黄泉路へオペレッタの花とともに向かった夢見鳥は、きっと迷子にはならないだろうけれど。
なんとなく寂しくて、周は踵を返した。
月夜に咲く秋薔薇は天鵞絨のごとく豊かで優雅で、秋薔薇を照らしだす柔らかなあかりに壮麗なネオルネッサンス様式の館もが夜闇に浮かびあがる様は幻想的で、あのひとを誘って来られたならと思わずにはいられなかったが、周は、
「……本当、意気地なし」
秘めた想いを封じた手紙を彼に押しつけて、封が開かれる前に逃げ出してしまったまま。
寄り添ってくれる神霊に小さく笑いかけた。
――いつかちゃんと返事を聞いて、受けとめたいな。
華やかな彫刻と杢目と、美しく艶めく赤褐色に彩られたマホガニー製のマントルピースに抱かれ、暖かな赤橙に耀く焔が暖炉に揺れる。薔薇を描いたゴブラン織を張られたソファに並んで腰かけたはずの夜の気配がふと遠ざかったかと思えば、サロンの中央へと据えられたケルティックハープとその奏者の傍らで、ティンホイッスルを手にした彼が、悪戯な笑みを送って寄越す。
誕生祝いにね。そう言いたげな親友の姿に、
「ありがとう、素敵な贈り物だ」
目許を和ませ、心ほどけるように、十郎は笑った。
アイルランド発祥ともイギリス生まれとも言われる縦笛は、いずれにせよケルトの笛。
笛の音が草原の風を連れてくる。ハープの音が森の木洩れ日を連れてくる。やがてゆるり添うふたつの調べが、黄金の黄昏を、天鵞絨の夜闇を連れ、豊かで暖かな夢へと皆を誘う。
夜さんて笛ならなんでも演奏できちゃうのかしら~と春色尻尾がぴこぴこする様に、前の冬には彼のネイを聴いたものね、とスプーキー・ドリズル(モーンガータ・e01608)が柔い笑みを綻ばせた。久々に聴くケルティックハープの生演奏を楽しみに訪れてみたなら、友の笛までも。こんな夜には銃士よりも楽士としての魂を揺さぶられ、
「桃花はどうかな、演奏してみたい楽器はあったりするのかい?」
佳ければ僕の判る範囲でお教えするよ――と水を向ければ、いいの!? と瞳を輝かせた彼女の尻尾がぴこぴこぴっこーん!
「それじゃあ、まずはヴァイオリンから教えてくださいな、なの~♪」
迷わず挙がる楽器の名も、そこに続く『から』という響きも、彼の手の蜂蜜酒にひときわ甘やかな、あたたかな幸せを燈す心地。
柔らかな旋律を妨げぬよう気遣った小声であったのに、二人のやりとりがキルロイの耳に届いたのは、きっと楽器という単語ゆえ。仮面と硝子越しに秋薔薇へ瞳を向け、懐の護符に柔い熱を燈すよう、大切な面影と思い出をゆるりと辿って。
美しさに聡明さ、天から数多の美質を与えられた女性であったが、
「――楽器の演奏だけは、へなちょこだったんだよなぁ」
そこが愛嬌でもあったんだがな、と思い起こせば笑みも浮かぶけれど、過去形にせざるを得ない現実が苦い滴となって胸奥に落ちる。
彼女に抱く想いだけは決して、過去形にはなりはしないのに。
熱を燈した蜂蜜酒の香りに誘われ、杯を傾ければ何処か懐かしい温かな甘味とオレンジやスパイスの華やかな風味が胸の苦さを円やかに包んでひととき隠してくれたけれど、やがて訪れるだろう睡魔に身を委ねるのは己の塒に帰ってからと決めていた。
俺にはここは、あまりにも暖かすぎる。
――夢見鳥の音色は、銀色で、真珠色の月光を爪弾いたようで。
――今、『これ』の、ここを震わす音色は、金色の、蜂蜜色の月光を爪弾いたよう。
蜂蜜の煌きを落としたホットアップルジンジャーの熱を燈した指先でオペレッタがそっと触れるのは己の胸。戦いのさなかにも、今このときも、『ココロ』がふるえた気がして。
「……エラー……」
「そんな風に言っちゃ可哀想だぜぃ、オペレッタの姐さんの『心』がさ」
ぽつりと落ちた言葉を掬うように、ヴィルトが蜂蜜酒の杯を掲げてみせる。暖かな暖炉に温かな杯に、豊かな蜂蜜色の煌き帯びるような音色と旋律に、彼女の身も心も温まっているだろうから。それが幸福と呼ばれるものでないはずがないと思うから。
ぱちりと瞬いて、オペレッタはそっと眦を緩めた。
「はい。そうですね。……本当は、『これ』も、識っているのです」
ふるえる胸に、ココロに燈ったものを。
――『愛しみ』と呼ぶのだと。
世界最古の酒。あるいは神々の飲み物。
蜂蜜の黄金を温かに湛えたそれをナクラ・ベリスペレンニス(ブルーバード・e21714)は受け取りながら、
「……ていうか藤尾、誘うのって俺で良かったの? 誰かさんじゃなくて」
「ああんわかりますなの、わたしも誰かさんが来るかしらって思ってましたなの~」
同じ誰かを思い浮かべたらしい桃花と『だよねー?』と意気投合すれば、藤尾があら、と瞬いて、ひときわ艶めく笑みを覗かせる。
「ふふ、だってお喋りに花を咲かせたかったんですもの。それならば是非」
――ナクラさん『が』良いと思いましたのよ。
赤毛の青い鳥さん、と唄うように続け、それなら確かに俺のが適役かな、と納得した彼の傍らで愛らしいリボンで装うナノナノが楽しげに揺れる様に、藤尾は双眸を細めた。
知恵の実は果たして林檎か柑橘か。誰かとのあの黄昏の続きはまたいつか。
然れども、蠱惑で戯れ官能を擽るのを愉しむ性分を抑えるつもりもなくて、
「ナクラさんがよろしいなら……宿をとることも出来ますよ?」
蜜の甘さを湛えて落とした爆弾に、ナクラが不死酒に噎せるよりも速く『ナノっ!?』と固まったナノナノが墜落。間一髪で彼に抱きとめられた愛らしい子の顎を擽りつつ、悪戯が過ぎましたかしら、と、ころり笑みを転がして。
「悪戯にはまだ早いぜ……? 怖い女だなぁ」
「ええ、わたくしは鬼女ですから」
悠然と、嫣然と、藤尾は笑んだ。
夢見鳥との戦いも、今は遠い幻想の夜に見た夢のよう。
林檎とジンジャーの香りがあたたかに蜂蜜ととけあうホットアップルジンジャーを手に、月夜に咲く秋薔薇を眺めれば、志苑は新たで暖かな夢の波間へ揺蕩っていく心地。
秋の夜長は読書に耽溺するものと蓮には相場が決まっていたけれど、遥か悠久のときをも連れ来るようなケルティックハープの音色に耳を傾ける夜も、心を豊かに満たしてくれる。
予知の光景で夢見鳥はきっとこのケルティックハープの音色を聴いていたろうが、結局は聴くことなく黄泉路へ向かった。もし聴いたなら自分もともに奏でたいと思っただろうか。
金色の、蜂蜜色の月光を爪弾いたようなこのしらべが。
銀色の、真珠色の月光を爪弾いたようなあのしらべの蝶への、手向けになるだろうか。
「――蓮さん?」
「いや……何も」
遠い眼差しをした彼を見上げれば、志苑の手がそっとぬくもりに包まれた。
このまま眼を閉じ、微睡みの波間へ漕ぎだせば、きっと。
美しい蝶が舞う、夢を見る。
「良い夜だなぁ……」
「酒を飲まぬ君も酔うのか」
異国の古い時を旅してるようだ、と優しいぬくもりを宿した十郎の声がそう紡いだから、軽い揶揄いまじりに夜は応えながらも、己が笛が彼に旅の扉を拓いたかと思えば、柔らかな満足感に満たされる。笛の余韻は遠く彼方の波紋となり、今はケルティックハープの音色が限りなく優しい澪を引く。
――いつもこんなに穏やかなら良いのに。
暖炉とホットアップルジンジャーで余程心地好くあたたまったらしい十郎が、ふうわりと微笑んで言の葉を落とし、睡魔を水先案内人に舟を漕ぎはじめたから、夜は落ちかけた杯を捕まえ、そのまま彼に肩を貸した。
贅沢な、どうしようもなく贅沢な、ひととき。
柔く目蓋を伏せて、彼方を見霽かす心地になれば、二人で吟遊詩人のごとく物語を探して星空を辿る旅路が見えた気がした。十郎の夢だろうかと吐息で笑む。
夢ならば醒めずに、現ならばどうかずっと、この、旅路を。
願わくば、皆々に、優しい夜が訪れますよう。
作者:藍鳶カナン |
重傷:なし 死亡:なし 暴走:なし |
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種類:
![]() 公開:2019年12月7日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
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得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 4/キャラが大事にされていた 1
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