月面ビルシャナ大菩薩決戦~ルナティック・ハヴェスタ

作者:秋月きり

 空を見上げていた。黒く染まった夜空は何処までも高く遠く暗く。星々の輝きは遠くて、それでも、無数のそれらが自分達を包み込んでくれている様な、そんな夜。
 2019年9月30日の夜はそんな風に更けていく。黄金色に輝く月を見上げながら、知晴は明治時代の文豪の言葉を準える。
「月が綺麗ですね」
 それが俗説だろうと何だろうと、どうでも良かった。照れ隠しに込められた愛の言葉に、恋人――果耶はなんと返してくるだろう?
 そうだねと同意? それとも何を言っているのだろうと言う冷たい視線か。「死んでもいい」と返ってきたらどうしよう。
 だが、返ってきたのはその何れでもなかった。目は見開かれ、口はわなわなと震えている。そして伸ばされた指先が示すそれは、先程、知晴が見上げた月。否、月だった物。
「あ。あああああっ」
 見上げた知晴からもまた、驚愕に染まる声が上がった。
(「馬鹿なっ。月が自ら発光しているなんてっ!」)
 だが、太陽光の反射では、その目映さを説明なんて出来やしなかった。
 慌てて懐から取り出したスマホで幾渡と月を撮影する。デジタル変換された画像データにもくっきりと発光する月が刻まれていく。その全ての影が、鳥を思わせる形を形成した事を、彼は未だ気付く事が出来ないでいた。

 月が墜ちる。
 それがヘリオライダー達の視た未来予知だと、リーシャ・レヴィアタン(ドラゴニアンのヘリオライダー・en0068)は語る。言葉と共に見上げるヘリポートの月は明るく、大きく、そして鳥の形をしていた。
「月がビルシャナ大菩薩化し、地球への衝突コースに入ろうとしている事が分かったの」
 何を言っているか判らなかった。
 神妙な台詞から悪質な冗談の類いではない事は明白だったが、俄に信じがたい話でもあった。と言うか、月がビルシャナ菩薩化だと?!
「月が地球に衝突した場合、未曾有の災害になるわ」
 今でこそほぼ否定されているが、過去、隕石の衝突を起因とし、恐竜が滅びた説が強く流布した事もある。月の衝突となれば、隕石程度とは比較も出来ない質量による地球襲来だ。人類の絶滅は必至だろう。
「しかも、今回、墜ちてくる月は只の岩石の塊って訳じゃない。同等の質量を持ったビルシャナ大菩薩と言う事になるわ」
 それこそ只事ではない。落下の衝撃ですべからくが集合的無意識と一体化した未来を想像してしまい、ケルベロスの一人がうへぇと顔をしかめる。
 そうでなくとも、月の落下によって多くの死傷者が出てしまえば、そのグラビティ・チェインはビルシャナ大菩薩に奪われる結果となるだろう。最悪、そのグラビティ・チェインを用いて、ビルシャナ大菩薩による地球征服完了、となりかねない。
「だから、みんなにこれを阻止して欲しい」
 その為の鍵――文字通り、鍵となる物を既にケルベロス達は入手している。竜十字島から持ち帰った遺物、『月の鍵』だ。
「月の鍵を使えば、月の軌道を元に戻す事が可能。ただし、それには月の裏側にある『マスター・ビーストの遺跡』に月の鍵を運び込む必要があるわ」
 敵陣深くに潜り込む危険な任務になる。だが、墜ちてくる月を止め、地球を救う方法はそれしか無い。
「おそらく、敵も狙いもそこね。みんなが月の鍵を持っていかないと行けない、そうせざる状況にする事こそが、真の目的だと思うわ」
 その為には手段を選ぶつもりはないと言う事か。月をビルシャナ大菩薩化など大雑把すぎて、かつちょっとアレな作戦は、その表れとも言えるだろう。
「だから、月での行動は気をつけて。おそらく、互いに決死の覚悟でぶつかる事になるから」
 信頼と心配。その双方が金色の瞳に湛えられていた。
「それで、肝心の月への移動だけど……私たちのヘリオンを使うわ」
 アメリカ合衆国で開発していた『試作型宇宙用装備』がつい先日、完成したとの事だ。それをヘリオンに取り付ける事で月への移動が可能になると言う。
 なお、第二宇宙速度がどうとか問うても仕方ない。ヘリオライダーが何とかなると言う以上何とかなる。そう言う物なのだ。
「いや、別にトンデモにトンデモをぶつけようって訳じゃないけど」
 コホンと空咳をした後に冷静に呟くリーシャ。頬がちょっと朱色に染まっている事から、多少の自覚はあるようだった。
 なお、余談だが、試作型宇宙用装備を始めとした様々なヘリオンの追加装備は、先日行われたケルベロス運動会の収益が開発費となった様だ。皆で稼いだお金が元なので、使用に遠慮の必要はない、との事だった。
「さて。話を戻すわね。月への突入は、月まで護衛する『突破・防衛班』と遺跡目指して突入する『突入班』に分かれて貰うわ」
 ここに居る皆は突入班になるようだ。突破・防衛班によって開かれた突破口を通じ、月の遺跡へ侵入。その中枢を目指す事が目的となる。
「遺跡の内部は月の周囲とは異なって、ビルシャナではなくマスター・ビースト配下の獣人型デウスエクスが待ち構えているわ」
 敵の数は多くないが、その分、精鋭が集っている。加えて、遺跡内部に隠れ潜み、ケルベロス達へ奇襲を掛けるつもりの様だ。奇襲の予知がある以上、五割方は失敗しているが、肝心の奇襲方法は予知で捉えられていない。注意が必要だろう。
「月の軌道を戻す為には、遺跡の中枢まで月の鍵を運び込む必要がある。当然、奪われた時点で月の軌道を戻す術はなくなっちゃう」
 なお、遺跡の中枢までは月の鍵が導いてくれるようだ。道を誤る事はないだろう。
「だから、どうやって遺跡の中枢まで鍵を持って行くかを考える必要があるわね。突入班のどの班が月の鍵を所持するのか。どの班が索敵や防衛に努めるのか。あと……強敵が出た時にどう対処するのか」
 場合によっては足止めをする班と、先を急ぐ班に分かれて行動する必要もあるだろう。
「それと、大事な事だから覚えていて欲しい。今回の作戦は時間との戦いでもあるわ」
 突破・防衛班によって脱出路は維持されるだろうが、それも限界がある。遺跡中枢への到達に遅延すれば遅延するほど、彼らの危機を呼び、ひいては地球への帰還も危ぶまれる可能性も出てくるのだ。
「それと、マスター・ビースト勢力であるソフィステギアが、グランドロンと共に月へ向けて移動をしようとしていると言う情報もあるわ。彼女達が増援として現れれば、厄介な事になるでしょうね」
 最後にそれを伝え、リーシャはヘリオンへと皆を誘う。
「それじゃ、いこうか。一緒に頑張ろうね」
 いつもの言葉は少しだけ、いつもと異なっていた。


参加者
シルディ・ガード(平和への祈り・e05020)
ウィゼ・ヘキシリエン(髭っ娘ドワーフ・e05426)
プラン・クラリス(愛玩の紫水晶・e28432)
ユーシス・ボールドウィン(夜霧の竜語魔導士・e32288)
ティリア・シェラフィールド(木漏れ日の風音・e33397)
田津原・マリア(ドクターよ真摯を抱け・e40514)
グラハ・ラジャシック(我濁濫悪・e50382)
嵯峨野・槐(目隠し鬼・e84290)

■リプレイ

●月に至った道
 激しい衝撃がケルベロス達を襲う。突き上げる様な衝撃は三度。まるで交通事故の様だと、ユーシス・ボールドウィン(夜霧の竜語魔導士・e32288)は後に述懐した。
(「ある意味、交通事故だけど」)
 地球上での飛行機事故や胴体着陸の経験は無いが、おそらくそれと限りなく同等な物だろう。
「衝撃が少ないのは重力の差かな?」
 シートベルトにしがみついたまま、シルディ・ガード(平和への祈り・e05020)がぽろりと零す。
 月へは強行着陸となってしまったが、何とかなった様子だ。ヘリオライダー含めた9人に死傷者はいない。それだけで僥倖だった。
「行くぜ」
 一息吐く間も無く、立ち上がったのはグラハ・ラジャシック(我濁濫悪・e50382)だ。
 シートベルトを外し、手はヘリオンの扉へ。窓から覗く景色は一面の荒野であった。
「まだ、戦っているみたいやね」
 田津原・マリア(ドクターよ真摯を抱け・e40514)の台詞は空を見上げながら紡がれる。
 自身らが特攻した遺跡の遙か上空で、未だ、6機のヘリオンとケルベロス達、そして無数のビルシャナ達との攻防が続いていた。個々の能力はケルベロス達の方が上、しかし、ビルシャナは人海戦術を以てケルベロス達と対峙している。今は確かに善戦を続けているだろう。だが、時間が経過すれば、その行方は判らない。
 故に、今すぐ飛び立ち、仲間達を支えたい衝動に駆られてしまう。だが。
(「行かへんと、ね」)
 自分達が遺跡に突入する隙を生み出してくれた彼らの期待に応える為に。
「行こう。私達の戦果が、地球の運命を左右しちゃうんだから」
 笑顔と緊張。それらが入り交じった表情を浮かべ、ティリア・シェラフィールド(木漏れ日の風音・e33397)が言葉を零す。
 遺跡突入は6班48名。彼女らもその中の一員だ。
 双肩に掛かる期待は重かった。だが、応じない訳にいかない。その為に笑顔を紡ぐ。

「うわぁ」
「……悲惨じゃのぅ」
 ヘリオンを降り立ったプラン・クラリス(愛玩の紫水晶・e28432)とウィゼ・ヘキシリエン(髭っ娘ドワーフ・e05426)が零した言葉は、感嘆の物であった。
 視線の先には砂に半ば埋もれるヘリオンの姿があった。その様相は無残の一言に尽きた。
 プロペラの一本は折れ、機体には大きな裂傷が見受けられる。成る程、これではユーシスの評した「交通事故」と言う表現は決して過大ではないだろう。
「まずは遺跡の探索。先、急ごう」
 一見冷酷な嵯峨野・槐(目隠し鬼・e84290)の言葉に、しかし、二人は頷かざる得なかった。
「そうだね」
 心配と理解は両立する物だ。だからこそ、口調は平常通りに、しかし、思いは絞る様に紡がれる。
 目指すは月の遺跡の最深部。そして、そこに鍵を届ける事が今回の任務だ。自分達の役割は、その護衛である。ヘリオンとヘリオライダーへの心配は二の次だ。
「必ず戻るぞ」
 黙礼のみを行い、ウィゼは仲間達と歩を進める。
 これは今生の別れではない。そう、告げるような足取りであった。

●麗しの回廊
 さて。
 遺跡の外観、そしてその内部構造に苦々しい表情を浮かべたのは、グラハであった。同じオウガ種族である槐もゴーグル越しの目を伏せ、しかし、口元には嫌悪を滲ませいた。
 例えるならば無数の触手が絡み合った外壁と内部、と言った処だろう。ドクドクと脈打つ壁は、悪趣味にも程があった。
 むしろ、その趣味は。
「クルウルクに似てやがるな」
「……ええ」
 二人から零れた言葉は、一同に緊張を走らせる。
 それはオウガ達の主星、プラプータを滅ぼした邪神の名。よもや、このマスター・ビーストの遺跡で聞く事になるとは。
「なら、ウチらは喚ばれてんの?」
「そう、だよね」
 マリアの声に短くシルディが応える。
 遺跡を閉ざす扉は、鍵輸送班の一人、鳳琴の手によって開かれた。十中八九、彼女が月の鍵を所持する事に起因するのだろう。
 脈動する遺跡内部は、しかし、外観を除けば、何かの活動を想定した作りである事は明白だった。
 曰く――。
「空気の流れがある。地下迷宮を彷彿させるのじゃ」
「ふわふわした感じは……毒ガスも混入している?」
 地中人としての見解を述べるウィゼの言葉と、暗殺者としての顔を持つ妖精であるティリアの言葉は、それぞれが正鵠を射ていた。
 真空中での活動を想定していた彼らの出鼻は、されど挫かれた訳ではない。むしろ、可能な限り呼吸を抑える術は、この遺跡を潜る以上、必要な物であった。
「こんなのが、マスター・ビーストの遺物やなんて」
 この班の中では只一人のウェアライダーであるユーシスは顔を顰める。
 脈打つ触手じみた遺跡、毒ガス混じりの空気、挙げ句に――。
「来たぞ! 迎撃する!」
 先頭を歩む足止め班から忠告と、剣戟の音が響き渡る。
 遺跡の壁から染み出る様に沸き立つそれらを、なんと形容するべきか、彼女には判らなかった。
 形としては人型。だが、口があるべき場所には何もなく、10の指先にはそれぞれ目が備わり、皮膚は無数の口で彩られている。
 その容姿はまさしく混沌の尖兵。
「嫌でも思い出しちゃうよね」
 クルウルクの眷属、オグン・ソード・ミリシャを彷彿させる外見に、プランはげんなりとした表情を浮かべた。
 そして、同時に疑問が浮かぶ。――何故? と。
(「ここはマスター・ビーストの遺跡じゃないのかな?」)
「或いは、マスター・ビーストの遺跡をクルウルク勢力が手を加えたのかもしれんな」
 全ては推測の域を出ないとグラハは言い放った。淡々と紡ぐそれは、同じ種族である槐の口調が移った様にも思えた。
(「もしかしたら――」)
 しかし、その疑問が形を成すより早く、一同の足が止まる。
「これは水槽?」
「調べている暇はないが……なんだ、これは?」
 それは自分達の台詞だったようにも思えるし、前を進む誰かの台詞のようにも思えた。
 進む都度、壁は胎内を想起させる球体の数が増えていく。そして、その中には何かが浮かんでいた。
「まさか」
 ケルベロスの一人が息を飲む。
 そこに浮かぶ物は鼠であった。兎であった。犬であった。猫であった。小動物の屍体が、液体の満ちる球体の中に浮かんでいた。
「ここがマスター・ビーストの遺跡だとするならば」
「新造デウスエクス・ウェアライダーを生み出した実験所なん?」
 ユーシスの独白に答えはない。誰も答える事が出来なかった。

 そして、歩を進める毎、球体の中身は変貌していく。
 小動物は中型動物に。そして大型動物に。
 それだけではなかった。
 ドードー鳥がいた。ステラーカイギュウがいた。ジャイアントモアがいた。絶滅動物とされた動物達の屍体すら、球体の中には浮かんでいた。
「マスター・ビーストは、一体何を?」
 疑問の種は、意外な形で発露する。
「――!」
 警告の声と鋭い音が同時に響き渡った。

●我が名は
 現れたのは3体の獣人型デウスエクスであった。
 兎、獅子、そして――おそらく海獣。人と獣が交ざるその姿は、ウェアライダーを彷彿させる外見であった。
 鋭い音は、彼らが眠るカプセルが砕けた音か。
 ならば、敵は――。
「ここは私達が出る!」
 任せろと声を上げるのは、先頭を歩む3つの班だった。デウスエクスが身構えると同時に、彼らもまた得物を構え突進していく。
「――ぐっ」
 それを目で追いながら、シルディは息を飲む。
 鍵輸送班は戦力の温存を。護衛班はその護衛を。それが、課せられた使命。そこに異存は無い。だから――。
 役割を全うする。そのつもりだった。
「さあ行くのじゃ、誇り高き魂を持つ英雄。アヒルちゃんミサイル発射なのじゃ」
 一進一退の攻防を行うミリム達と海獣型デウスエクスとの間に割って入ったのは、ミサイルの爆炎――否、爆炎をまき散らしながら進み切り裂くドリルの群れであった。
「敵は3体。そして足止めに3班。しかし、ここにはまだ、3班が残されておるのじゃ!」
「いや、鍵輸送班を頭数に入れるのはまずいと思うよ」
 さらりと鍵輸送班を付け加えるウィゼに冷静な突っ込みを入れるのはプランだ。
 だが、突っ込みと共に竜砲撃を放つ姿は、ウィゼの意図は理解している為だろう。
「残った護衛2班を加え、3班で一体ずつ撃破するのじゃ! 撃て撃て撃て撃て! なのじゃよ!」
 口ひげを押さえふぉっふぉっふぉと言葉を零す彼女は、軍師さながらに良い笑顔を浮かべていた。

 如何に現れたデウスエクスが強力であろうと、ケルベロス3班――24人の攻撃に抗える筈もない。
 炎が、斬撃が、爆撃がデウスエクスの身体を覆い、対するデウスエクスの触手や蹄は、しかしてケルベロス達に有効打へと繋がっていかない。
「怪我は治す。安心して前を見て」
 槐の応援と補佐がケルベロス達の歩を進ませる力となる。
 そして。
「これで、仕留める……!」
 足止め班の一人、ランドルフの銃弾がデウスエクスの身体を貫く。
 そこに広がる爆発は、銃弾が破裂した為だろう。グラビティによって生成された銃弾は爆弾と化し、内側からデウスエクスの身体を灼いていったのだ。
 並以上のデウスエクスであろうとも瀕死に追い込める殺傷力は彼一人の賜物ではない。仲間達、そして他班の尽力があって成し得た物だ。
 だが、それでも。
 彼らもまた、デウスエクスを超える超越存在である事が、彼らにとって不運でもあった。
 身体の内側から灼き砕かれ、それでも海獣型は立ち上がる。
 仕留めた。それは間違いない。ならば、それを上回る速度で体内が再生している。それ以外考えられなかった。
「マスター・ビーストにより産み出された最高傑作たる、神造レプリゼンタの我らは滅びる事は無い」
「神造、『レプリゼンタ』……!?」
 それは不死のデウスエクスの中で、死なない物の名称。だが、それは――。
「っ! ここは任せて、皆は先へ!」
 衝撃の事実に放心したケルベロス達は、スズナの一喝によって我を取り戻す。
「で、でもっ」
 シルディの焦燥はしかし、笑顔によって返される。
 不滅の相手に時間を無駄にする訳にいかない。その覚悟が自分達にはある、と。
「――俺達は必ず勝利する」
「任せたぞ」
 グラハの言葉への応答は信頼に彩られた物だった。
 頷き合うケルベロス達は踵を返し、先へと急ぐ。
 判っていた。
 ビルシャナとの攻防を託した仲間達。道中の危険を託す仲間達。
 これは、彼らに託し、彼らから最後の勝利を託される、そんな戦いなのだと――。

●最深部へ
 どれ程走っただろう。
 どれ程駆け抜けただろう。
 月の遺跡の奥。おそらく最深部と呼べる場所へと向かうケルベロス達は何れも、疲弊し切っていた。
 額は汗で濡れ、喘ぐ喉はそれでも、肺腑に酸素を送ろうと懸命に呼吸を続けている。
 誰もが休息を求め、しかし、それを叶わせてはいけない事を悟っている。
 そう。彼らには時間が無いのだ。
(「みんな――」)
 息切れを何とか抑え込みながら、シルディは想いを嚥下する。一分一秒だって惜しい。その考えは、皆も同じであろう。
「ここいら一帯、変だよ!」
 駆け抜ける理由は他にもあった。ティリアの悲痛な叫びがそれを表していた。
「――神造デウスエクス?!」
 交戦経験のあるユーシスが叫ぶ。
 竜十字島に現れたズーランドファミリーと同じ威圧感は、それに類する物の証拠だろう。獣人を思わせる文様は彫刻などではない。それが何十何百と壁に埋め込まれているのだ。
「さっきの動物みたいに屍体なん?」
 マリアの震える声は、しかし、鍵輸送班――とりわけ、鍵を所持する鳳琴によって否定される。
 彼女が通過した通路から、ひび割れの音が響いたのだ。
「――!」
 見れば、壁から剥がれたと思わしき虎の腕が、己を戒める壁そのものを引き剥がさんと、爪を立てている。否、それだけではない。狼の足が、象の鼻が、猿の尾が、戒めから解き放たれ、蠢いていた。
「急げ!」
 それは誰の台詞だっただろう。
 弾かれるように走り出すケルベロス達の中で、グラハはマジかと口の中だけで叫ぶ。
(「生きてやがる!」)
 奴らは保存されているだけなのだ。おそらく、自身の遭遇した『道化』ランバーニも、ここに保存され、任務の為に解放された。直感に過ぎない推測であったが、過ちと否定する理由はなかった。
「たくっ。月の鍵様々だな!」
 好戦的な、それでいて皮肉げな笑みが口元に宿る。
 ここで退くのはオウガの本能としては癪だが、全ては勝利の為だ。生き抜き、最奥に到達し、そして月を止める。
 それが自身らの目指す勝利。ならば、ここで無駄な戦いを繰り広げる理由などない。
 そして――。
「ここが、最深部?」
 プランの困惑の声だけが、響き渡る。
 通路と比べればあまりにも広い空間のその奥は、脈動する壁しか見受けられない。完全な袋小路であった。
「何も……無いかのぅ?」
「いえ」
 ウィゼの疑問は、即座に槐に否定される。
 刹那。光が灯った。

 部屋が光る。
 確かに、その部屋の中心には光源が無かったはずだ。だが、その中心は脈動する光を放ち始めている。紫、緑、青……不気味とも言えるそれはケルベロス達の顔を照らし、夜目を駆使するドワーフ達の瞳を猫の如く、細い物へと転じさせる。
 そして、歌が響いた。
『ろう ろう りまーが! ろう ろう りまーが!』
『りまーが りむがんと なうぐりふ!』
『りまーが なうぐりふ げるせるとれぷりぜんた ろう くるうるく!』
『ろう ろう りまーが! ろう ろう りまーが!』
「……ちっ」
 無茶苦茶に横笛と太鼓を掻き鳴らせば、このような歌になるだろうか。不快と狂乱。あらゆる不協和音を詰め込んだ歌に、グラハと槐は顔をしかめ、プランとマリアは思わず耳を塞ぐ。トップクラスの実力を持つケルベロスであれ、その歌声は精神に牙と爪を突き立てるような代物であったのだ。
「誰か……来る?!」
 表情を歪めたまま、紡ぐシルディの視線の先で、それは光の中から顕現する。
「オグン・ソード・ミリシャ……いや、これは――」
 無数の触手が絡まったそれを形容する語句を、ケルベロス達は持ち合わせなかった。
 毛むくじゃらのヤドカリにも、人馬状に直立した蜘蛛にも見えるそれはまさしく禍々しく。
 そして、それが発した物は鳴き声などではなく――。
「さあ、今回帰って参りましたのはこの私! マスター・ビースト!  名前からお察しの通り、動物からウェアライダーを作ったのは、この私です!」
 明るくも人懐っこく聞こえる人語であった。

●おぞましく、美しく
「マスター・ビースト……?!」
 8人の中、彼――それを『彼』と呼称してよければ、だが――の自己紹介に、真っ先に反応したのは、唯一のウェアライダー、ユーシスであった。
(「こんなものが、マスター・ビースト?!」)
 デウスエクスとは超越者だ。ドラゴンやビルシャナを鑑みれば、人の形を成している事が絶対の条件と言うわけではない。いかなる外見をしていても、不思議ではないはずだ。
 それでも――。
 おぞましい。
 これは、デウスエクスでありデウスエクスでない。もっとおぞましい何かだ――。
「それにしても、ビルシャナ大菩薩ですか! 相変わらずガンダーラはスケールが大きい。だからこそ、レプリゼンタからは最も遠い……」
 身構えるケルベロス達の前で、マスター・ビーストの独白は続く。
 目と思しき器官で虚空を見つめているさまは、おそらく月そのものに思いを馳せているのだろう。赤銅色に輝く球体が、本当に目であるならば。
「おっと、話が脱線しました。暗夜の宝石に聞いた所、どうやら皆さん私にあまりご質問は無いようす。ならば、要件のみをお話しましょう」
 ゆるりとした口調は、先ほどまでと変わらず友好的に。
 晩年を共にした友人に向けるような口調で、それは言う。
 しかし、それは提案でもなく――命令であった。
「月の鍵を渡しなさい! 私はその鍵を悪用しますが、月だけは止めて差し上げましょう!」
「――なっ?!」
 内容よりも先に、蠱惑的な魅力だけが頭に残る。
 思わず従いそうになる言葉に、しかし――。
「――ううん」
 否が紡がれた。
 全ての気力を総動員し、マスター・ビーストに否を唱えた者がいた。
 その少女の名はシルと言う。両腕でしっかりと月の鍵を抱き、マスター・ビーストの蠱惑的な声を拒絶する。
 酷く嫌な気がした。頭の中で警鐘が鳴り響いていた。彼にこれを渡してはいけないと、これを渡す事だけはしてはならないと、自身の全てが叫んでいた。
「渡さない。あなたを倒して、月を止めてみせる! ……覚悟は決めてるから」
「おや。これは残念! では、貰い受けましょう」
 表情など見えない異形の相貌の中で。
 彼はにやりと笑った。そんな気がした。

 禍々しき一撃が繰り出される。3メートルを超す長身から繰り出される触腕の一撃は、ハンマーの如くケルベロス達を強襲した。彼らを掠め、地面を抉るその一撃はしかし。
(「これが、マスター・ビーストの攻撃?!」)
 攻撃をハンマーで受け止めたシルディは怪訝な表情を浮かべる。
 攻撃自体は重い。当然だ。彼が名乗った通りであれば、全盛期のオウガの女神ラクシュミや魔竜王に匹敵する存在の筈だ。
 にも拘らず、繰り出された攻撃は単純な殴打だった。重量と加速以外の何も籠もっていない攻撃が意味する物は――。
「舐められてんなぁ」
 流星降り注ぐ蹴りをマスター・ビーストの巨体に叩き込みながら、マリアは口の中で独白する。
 自身らを吹けば飛ぶような矮小な人間と位置付けているのか。その驕りに怒りがこみ上げてくる。
(「やけど、これは勝機でもあるわ」)
 結束した人間の力を、彼らは知らない。驕るだけのデウスエクスをケルベロスは倒して来た。此度もまた、それを行うだけだ。
 プランとマリア、ユーシスの竜砲弾が、ウィゼのミサイルが、マスター・ビーストの身体に突き刺さっていく。えぐられ、ひしゃげ、泥のような体液を零すが、そこに苦悶の表情は浮かばない。
「ややっ。意外とやりますね。これではどうです?」
 反撃にと返ってきたのは息吹の掃射だった。
 火炎放射器よろしく、顔面から噴き出した炎がケルベロス達の身体を焼いたのだ。
 苦痛の呻き声が零れた刹那、痛みを軽減すべく、銀の輝きが仲間達を覆う。
 槐の放った混沌の水、そして、メディックの彼女を補佐するよう、シルディとティリアが放出したオウガ粒子による治癒であった。
「はっ。お前も力尽くって訳だな」
 未だ己を焦がす炎を握りつぶしながら、グラハが吠える。
 目の前の敵がマスター・ビーストだろうが神だろうが知った事ではない。敵と立ちふさがった物は倒し、勝利する。それが彼の流儀だ。
「ドーシャ・アグニ・アーパ。病素より、火大と水大をここに与えん。――これこそ最後の晩餐、ってか? 己で己を貪り殺せ!」
 詠唱と共に召喚されるのは黒い靄であった。悪霊と名付けた力が放つ消化液をまとい、拳をマスター・ビーストの身体に叩きつける。
 如何にデウスエクスであろうと、この一撃は耐え難い――。
「意外と痛いですよこれは!」
「痛そうな面してからにしろや!」
 驚愕はグラハの罵倒に掻き消される。
「なるほど。ならば少し本気を出しましょう。えいっ」
 陽気な言葉と共に繰り出された一撃は鍵輸送班の銀髪の少女――イリスを強撃する。音すら置いていく一撃は重く、そして、疾く。
 だが、マスター・ビーストの一撃はイリスを叩き潰す事はなかった。
 射線上に飛び出た少女――ティリアが身を盾にして彼女を庇ったのだ。
「怪我とかないよね? なら……良かった」
 気丈に、ただそれだけを口にする。一見して、その身に負った傷が深い事が分かった。だが――。
「――ありがとうございます」
 少女は短い礼のみで戦線へと戻っていく。ああ、そうだ。それでいい。ティリアは口元に笑みを浮かべようとして――それすらも出来ない自身の損耗を悟ってしまう。
 そして、それは急に訪れる。地面に崩れそうになる彼女に、されど無数に延ばされる手。そこに宿る癒やしの力はしかし、彼女に届かない。否、届けられない。
「ここは私達の領分だ。貴方達は鍵輸送班を頼む」
 槐だった。同じ護衛班の一人、イズナが伸ばした手を制した彼女は、静かな口調で彼女達に告げる。自身の仕事をこなせ、と。
「――わかったよ。でも、ここまできたんだもん、必ずみんなで脱出しようね」
「そうね。私はまだ、地球文化を堪能しきってないから――花は見えども実をつける、夢見し日々は甘露となりて裡に有り」
 回復手を担う齢13の少女から零れたのは、大人びた台詞と蕩けるような果実の匂い。
 それがティリアの身体を包み、荒かった呼吸を穏やかな物へと転じていく。
(「本当は手を借りたかった」)
 悔悟は口にしない。ティリアがイリスを庇った意味。そして自分がイズナに告げた意味。その実は――。
「役目を果たさないとね」
 神造レプリゼンタと戦った護衛班の消耗は大きい。今、マスター・ビーストを撃破する体力があるとするならば、それは無傷に近い鍵輸送班のみだろう。
 ならば、その守護と補佐こそが役割だ。
「行こうか。まだ、うちらはまだ戦える」
 背を押すマリアの言葉が、強く響く。

 幾度となく重力の刃が、異形の身体を捉えた。
 目に見えて傷つく様子はなくとも、確かに敵は少しずつ消耗していく。
 そして。
「まずはその動き、止めてもらいますよ!」
「理に背く者共よ……大地より飛び立つ雷竜に穿たれるがよい!」
「お祓いだよ」
 マリアの麻酔弾が、ユーシスの雷撃が、そしてプランの殴打がマスター・ビーストを穿つ。
 マスター・ビーストの攻撃は単調だった。触手による殴打と妖しい炎の噴出。そして自己回復。その単調さ故に、攻撃そのものを見切るのも容易かった。
(「もしかして、何か力を出せない理由が……?」)
 プランの呟きに、グラハが頷く。
 理由は何でもいい。付け入る隙があるのならば、そこを穿つまで。
「お願い、倒れてっ!」
 悲痛な叫びはシルディから。ティリアが倒れた今、この班を支える盾役は彼だけだった。それも次第に保たなくなっていく。
「――?!」
 そして、炎の一撃はその身体を灼いていく。しかし、息吹によって生まれた体勢の崩れは、ようやく生み出された隙でもあった。
 その間隙を縫い、 6人6様の攻撃――否、3チームのケルベロス達による攻撃が紡がれていく。
「地球の人々の為に、必ず制御を成功させます!」
 そして叫びが響いた。それは祈りだった。ここに居る全ての、地球にいる生命全ての祈りを受け、少女の手に輝きが宿る。
「時空歪めし光、汝此れ避くるに能わず!」
 時空魔法による歪光は、少女の抱く全てを以て、マスター・ビーストの身体を貫く。
 それは、彼女らがマスター・ビーストに一矢報いた瞬間であった。

●獣王の収穫祭
 マスター・ビーストの歪曲した身体が崩壊していく。
 それはケルベロス達の勝利を意味していた。――その筈なのに。
「鍛えてますねぇ! ですがすみません、ここでネタバラシ。実は私の体は『途方もなく巨大』なのです! この体は、私の触手の1本にすぎません!」
 ケタケタと笑みが響く。それが崩れゆくマスター・ビーストから零れた物だと悟った時、ケルベロス達の表情に陰りが宿る。
 ――コイツは、死んでいないっ?!
「とはいえ、私も忙しいのです。全力を出した所で別に勝てる気もしませんし、何よりクルウルクが、目覚めた私を殺しに来るのでね!」
 揶揄と嘲笑と賞賛。その何れを込め、或いは何れも持たず、マスター・ビーストはケルベロス達に言葉を紡ぐ。
「みなさんが月の鍵を使っても、大菩薩がその気になれば、じきに月は落下の続きをはじめますよ。ま、本気で止めるおつもりならば、いつでもお待ちしています。よろしくどうぞ!」
 そうして、その身体は消えていく。
 確かにケルベロス達は勝利した。だが、そこに残る虚無は勝利の美酒とは程遠く。
「それでも、じゃ」
「ああ」
 ウィゼとグラハの視線は、光り輝く鍵を抱くシルに向けられている。
 勝利したと言う事実は変わり無い。
「これで、月の落下は止まったのかな?」
「判らない。だが――今は、帰ろう」
 プラムの疑問は今、解消する事はないだろう。それでもユーシスは断じる。ひとまず、月から離脱せねば、と。

 12機のヘリオンが月面を飛び立っていく。
 激戦の最中、一機も欠ける事の無かった仲間達の奮闘を称えるべく、槐は静かに目を閉じる。
 勝利は苦い物であったけれども。
 それでも、喜びは胸の内に広がっていく。
 幾多の謎もまた、孕みつつ――。

作者:秋月きり 重傷:シルディ・ガード(平和への祈り・e05020) ティリア・シェラフィールド(木漏れ日の風音・e33397) 
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2019年10月18日
難度:やや難
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 8/感動した 0/素敵だった 0/キャラが大事にされていた 0
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