大菩薩再臨~悲願成る刻、近し

作者:坂本ピエロギ

 七色の翼を背負った女が、祈りを捧げていた。
 洞窟の岩壁や地面には至る所一面に曼荼羅陣が彫られ、注がれたグラビティ・チェインによって淡く発光している。
 光に照らされた女の翼はすでに艶を失って煤け、声にもかつての力はない。
 それでも女は、天聖光輪極楽焦土菩薩は、祈りを捧げ続ける。
 大菩薩再臨という大願成就のために。
『ご苦労であった』
 何の前触れもなく、3つの光が天聖光輪極楽焦土菩薩の眼前に灯った。
 声の主は3つの光の1つだった。その光は、力尽きようとしている天聖光輪極楽焦土菩薩に語り掛けながら、残る2つの光と共にビルシャナの姿へ変わっていく。
『お前の集めた力は大菩薩顕現には足りぬが、後は我らが引き受けよう』
 滔々と語るビルシャナの言葉を、天聖光輪極楽焦土菩薩は黙って拝聴する。
 もうすぐだ。もうすぐ大菩薩再臨の悲願が――。
『あぁ、定命に苦しむ者の嘆きの声が聞こえる……。必ずや、ビルシャナ大菩薩を再臨させ、全ての定命に苦しむ者達を救ってみせようぞ』
 洞窟から去って行く御使いを、天聖光輪極楽焦土菩薩は静かに見送る。
 悲願達成の刻は、迫りつつあった。

 夜。
 大都市に聳える大病院の一室で、ひとりの老人が死に瀕していた。
(「死なんぞ。私は生きる! まだ、やり残した事が山ほどあるのだ!」)
 老人の身を蝕むのは、病気でも怪我でもない。
 老衰――地球の生命に等しく課せられた摂理によるものだ。
 だが、そんな理すら拒絶するように、老人は生への執着を手放さなかった。
 その執念こそが、デウスエクスを呼ぶとも知らずに。
「生きる……私は生きる!」
『よかろう。全ての生物が本来の寿命を得る事ができるように、共に戦おう』
 気づけばベッドの脇に、妙な姿の鳥が立っていた。
『お前の死は、本来の寿命では無い。ビルシャナ大菩薩によって世界全てが合一する事で、全ての存在は「星と同じだけの寿命を得る事ができる」のだ』
「……よかろう。生きられるなら何でも構わん……私に生きる力をよこせ!」
 言い終えると同時に、まばゆい光が病室を満たす。
 かつて老人だったビルシャナはベッドのチューブを引きちぎり、全身に力をみなぎらせ、病室の床に立つ。いずこかへと去っていく、浄妙菩薩を見送りながら。
『おお……こうしてはいられぬ』
 こみ上げる使命感に突き動かされ、ビルシャナ『絶対死にたくない明王』は歩き出す。
 この病院にいる老人達を、一人残らず殺害せねばならない。
 寿命という忌まわしき軛から、彼らを解放する為に。そして――。
『すべてはビルシャナ大菩薩再臨のために!』

「緊急事態だ。ビルシャナ大菩薩の近侍達が動き出した」
 夜のヘリポートで、ザイフリート王子(エインヘリアルのヘリオライダー)は集まってきたケルベロスを見回すと、さっそく説明を開始した。王子の固く引き結ばれた口元は、これが緊急の事態である事を明白に物語っている。
 今回動きを見せたのは、近侍の1体『浄妙菩薩』。
 老衰で寿命を迎えつつある老人をビルシャナ『絶対死にたくない明王』に変貌させ、事件を起こさせるという。
「事件が起こるのは、とある大病院の一室だ。お前達が現場に到着する頃には、老人は既にビルシャナ化しているだろう。彼を助けることは……不可能だ」
 そう言って王子は、現場の地図を広げて説明を進めていく。
 ケルベロスは病院の屋上へと降下し、現場の病室へと向かう。院内では既にビルシャナ化した老人が他の病室へ侵入し、死の淵に瀕した老人を襲撃しているので、ここへ踏み込んでビルシャナを撃破する事が今回の目標だ。
「絶対死にたくない明王は寿命で死に瀕した老人の力を吸収する事で、戦闘力を上昇させる能力を有している。吸収の為には殺害後に数分間の集中が必要となるため、失敗のリスクがある状況で老人を襲う事はないが、ひとたび吸収を許せば強敵となるだろう」
 病室には老人の男性患者が1人。自力での避難は困難だ。
 ケルベロスが乱入すればビルシャナは老人の命を狙う事を中止し、ケルベロス排除に全力を注ぐ事を王子は付け加えた。
「恐らく敵は、戦闘の際に浄妙菩薩の教義を唱えてくるはずだ。『定命である限りいつか必ず死んでしまう』『定命化から解き放つために命を奪う、それを何故邪魔するのか』……といったところだろう」
 これにどう対応するかはお前達が決めてくれ、と王子は言った。
 自分の思いを言い返しても良い。相手にせず淡々と撃破しても構わない。あるいは全く別の行動を取っても構わない。敵に教義を自由に喋らせたとしても、それが原因で病室の老人がビルシャナ化するような事はない。
 絶対死にたくない明王を撃破すること。大規模な被害を出さないこと。
 この2点さえ達成すれば、依頼は成功となる。
「被害者の老人にも同情の余地はあろうが、ビルシャナとなった以上は倒すしかない。確実な遂行を頼むぞ、ケルベロスよ!」
 そう言って王子は、ヘリオンの発進準備に取り掛かるのだった。


参加者
平・和(平和を愛する脳筋哲学徒・e00547)
シィカ・セィカ(デッドオアライブ・e00612)
大首・領(秘密結社オリュンポスの大首領・e05082)
秦野・清嗣(白金之翼・e41590)
グラハ・ラジャシック(我濁濫悪・e50382)
嵯峨野・槐(オーヴァーロード・e84290)

■リプレイ

●一
 八月某日、夜。大病院の屋上にて。
 照明灯に照らされたドクターヘリ発着場の上空で、ヘリオンのハッチが開放された。
「フハハハ……なかなかに立派な建物ではないか!」
 高笑いを夜空に響かせて、一番槍で降下したのは大首・領(秘密結社オリュンポスの大首領・e05082)。
 仮面で素顔を隠し、黒い甲冑に身を包んだ、悪の大首領そのものといった出で立ちの彼を先頭に、着地したケルベロスが次々に病院の中へと駆けていく。
 目指す先は、ビルシャナ化した老人――絶対死にたくない明王の現れる病室だ。
「病院か……薬液と病の匂いが、随分と濃い」
 嵯峨野・槐(オーヴァーロード・e84290)は視覚に頼ることなく、院内の置かれた状況を全身で察知していた。患者を移送するスタッフの足音。廊下で反響する避難警報。血の染み込んだガーゼの匂い。
 そして地球にあらざる異形の者、デウスエクスの気配を。
「近いな」
「ああ。急ごう」
 槐に頷きながら、秦野・清嗣(白金之翼・e41590)は院内の状況を見回した。
 廊下のあちこちでは医療スタッフが忙しなく動き、患者達を避難させている。病室に取り残された老人の身柄は、彼らに任せる事が出来そうだ。
 清嗣は、逃げ遅れた者を避難させる旨をスタッフに伝え、仲間の後を追いかける。万一の事態を防ぐため、ボクスドラゴンの『響銅』には盾役の指示を出すのも忘れない。
「絶対に、誰も死なせないように。いいね」
 毛玉のようなボクスドラゴンが、清嗣の声に頷いた。
「……ううん、なんて言葉をかけたらいいのか分からないデス!」
 一方、シィカ・セィカ(デッドオアライブ・e00612)は愛用のバイオレンスギターを小刻みに爪弾きながら、絶対死にたくない明王の教義に思いを巡らせていた。
 ――地球の生物として生きる限り、定命からは逃れられない。
 ――星の寿命を得るために、生を捨ててビルシャナと一つになるべきだ。
 実際、無茶苦茶だと思う。
 絶対死にたくない明王は、そんな教えのために罪なき人を犠牲にしようというのか。病に苦しみ死に怯え、辿り着いた結論がそれだったのか。
「人殺しなんて、絶対に止めるのデス!」
 決意に燃える心で、ギターをギュインとかき鳴らすシィカ。その前方で、平・和(平和を愛する脳筋哲学徒・e00547)が病室の一つを指さした。
「見えたよ、あの部屋だ!」
「よし、よし。んじゃひと暴れするかね、っと」
 グラハ・ラジャシック(我濁濫悪・e50382)はパキポキと指を鳴らすと、勢いよくドアを蹴破った。
「おいジイさん、生きてるか?」
「ひいっ! た、助けてくれ!!」
 グラハが飛び込んだ先、病室には二つの影があった。
 一つはベッドで身を震わせる、枯れ枝のような老人。
 そしてもう一つは――巨大な鳥人間、絶対死にたくない明王である。
『何者だ! 我が布教を妨げる気か!』
「フハハハ……我が名は世界征服を企む悪の秘密結社、オリュンポスが大首領!」
 明王の誰何に、領は堂々たる振舞いで応えると、即座に明王の前に立ちはだかった。
 その後ろでは清嗣と和が、救出した老人を病室の外へと送り出していく。
「さあ、ここは僕達に任せて。焦らないでゆっくり逃げてね」
 老人は怯えた表情で頷いて、清嗣が指さす方へ退避して行った。和はそれを確認すると、入口をキープアウトテープで封鎖し、清嗣と共に病室へ戻る。
「さあ、ボク達ケルベロスが相手だよ!」
『邪魔をする気か。ならば容赦せぬぞ!』
「笑止。本来の目的が手段と成った者よ……望みを果たせぬまま逝くがいい!」
 人の面影を捨て去った姿で、氷輪を掲げる明王。高らかな声で排除を告げる領。
 ケルベロスは隊列を組み、襲い来るビルシャナを真正面から迎え撃つのだった。

●二
『ビルシャナ大菩薩よ、我に力を!』
 明王の声が響き渡ると同時、ドス黒い鎖の幻影が床からとぐろを巻いて現れた。
 鎖は明王の指に従うように鎌首をもたげ、グラハめがけて襲い掛かる。
「させん……っ!」
 槐は横合いから割り込み、これを受けた。鎖の締め付けは大木をへし折る大蛇のそれよりなお強く、分厚い筋肉が上げる悲鳴を槐は懸命に堪える。
 それと同時、和と清嗣が明王への反撃に移った。
「いっくぞー! ボクの攻撃を食らえー!」
「人生の最後にビルシャナになって戦闘とはね、どういう気分だい」
『ぐうっ……お前達、我が教義の崇高さが分からぬのか!』
 流星蹴りに足を砕かれ、御業に体を鷲掴みにされた明王は嘴を打ち鳴らしながら吼える。グラハは、そんな身も心も完全にデウスエクスと化した存在に、嘲りで返した。
「崇高だ? ああ分からねぇな、バカな野郎だぜ。なんせ――」
 アームドフォートの主砲が一斉に発射され、明王の腹を貫いた。笑い声が途切れ、口から煙を吐き出す明王。その姿を指さして、グラハはますます大声で笑う。
「テメェは今ここで死ぬんだからな! 人間の方がまだ長生き出来ただろうぜ!!」
「響銅。槐さんの回復を」
 属性インストールで槐を癒す響銅。しかし鎖の力によるものか、治りは芳しくない。
 それを見たシィカはギターを派手にぎゅいんとかき鳴らしながら、オウガ粒子を槐のいる前衛へと派手に散布していく。
「レッツ、ロックンロール! ケルベロスライブ、スタートデース!! イェーイ!!」
 メディックから放たれたオウガ粒子は槐の身体を強化し、鎖のもたらすアンチヒールをも消し去った。槐は魔導金属片を含んだ蒸気を噴出、体の傷を普段通りに回復していく。
 戦場となった病室は、いまや床が変形し、ガラスが割れ、凄まじい有様だ。ケルベロス達は注意を払いながら、周辺の破壊を最小限に食い止めるように戦い続けた。
「フハハハハ! 大首領パイルバンカージェット螺旋服破り、受けるが良い!」
 デッドエンドインパクトの推進力で真黒い砲弾と化した領が突撃。ガードをぶち破られた明王の羽根が衝撃で派手に舞い散る。
 領は病室を破壊せぬよう壁のギリギリで踏み止まり、戦鎚ヴァルカンを砲撃形態へと変形させた。対する明王は解放の光で御業の束縛を振り切り、妨害の力を向上させていく。
「む。あの妨害力は少々厄介そうデース!」
「だったら、これだね!」
 殺神ウイルスを投げ、明王の回復力を阻害するシィカ。
 その横から、和がグラビティ・チェインをありったけ込めて放つエアシューズの蹴りが、妨害の力をブレイクで消滅させた。
「さあ、一気に行こうか」
 白い面梟の翼から放つ光で、明王の罪を射ち抜きながら、清嗣は微かな憐れみを感じた。あんな醜悪な鳥人間になってまで生き延びようとした、ビルシャナ化した老人に。
 自身の意思を捨てて、他者を犠牲にして、なおも生きたいと願う。そのありようを清嗣にとって憐憫の対象にしかなり得ない。
(「長引かせる気はない。速攻で片をつける」)
 ジャマーの清嗣が放つジグザグの傷を受け、ビルシャナの羽毛が派手にむしり取られた。それを見たグラハはゲラゲラと腹を抱えて笑いながら、自然発火装置の力で明王を火達磨へと変える。
「こりゃあ傑作だぜ。寿命から逃げて、鳥の丸焼きになるとはよ!」
『ぐぐっ……貴様、愚弄するか!』
「フハハハハハハ! どこを見ている、明王め!」
 領の放った竜砲弾が明王の土手っ腹に直撃した。悲鳴を上げて壁に叩きつけられる明王。そこへ槐の如意棒が、磔の如く胸を串刺しにする。
「諦めろ。デウスエクスには死あるのみだ」
『ぐうう……死なんぞ。我が、私が、こんなところで死んでたまるか!』
 明王は如意棒を力ずくで引き抜き、氷輪を高々と掲げた。
 浅からぬ傷を負ったにもかかわらず、その目はギラギラと凶暴に輝き、声はますます力と張りを帯びていく。

●三
『何故だケルベロスよ。何故邪魔をする!』
 乱舞する氷輪がケルベロスの前衛を襲った。
 羽毛を狩られ傷だらけとなった明王は、血を吐くような声で語り掛ける。
『定命の者はいつか必ず死ぬ。我が行いは、彼らを死の運命から救う崇高な――』
「オウガたる私にそれを言うか、明王よ……」
 グラハを庇い、その身を氷に覆われながら、槐は怒りも露わに目を見開いた。
 かつてデウスエクスであり、今や定命化を果たしたオウガ種族。その多くは定命化を忌むことなく、歓迎して受け入れた戦鬼達。
 その血に連なる自分に、定命から解き放つ教義を説くとは。
「明王よ。不死は『苦しみから逃れ得ぬ』ということだ」
 槐は散布した紙兵を浴びて、銀色の瞳で射るような視線を明王へと向けながら、一言一句斬りつけるように言う。
「不死のデウスエクスにも力の強弱はある。そこでは弱き者は常に差を負い続ける。永遠に等しい惨めな生を覆す術は皆無。それのどこが素晴らしい? 現実から目を背け、都合良き事だけを口にするな!」
 そこには、かつてデウスエクスたるオウガだった槐の、偽りなき言葉だった。
「全てが合一すれば自他の区別はなくなる。それは自己の死と同義ではないか?」
「そうだよ。死にたくないのは誰だって同じだと思うけど……」
 精神集中の爆発で明王の氷輪を砕きながら、和が口を開く。
「でも生きる事は手段であって目的じゃないでしょ? やりたい事を叶えるために使うものだよ。キミだって、人間だった頃は何か叶えたい夢や目的があったんじゃないの?」
『人であった頃など関係ない……!』
「フハハハハ! 何も分かっておらんな、明王よ!」
 再び解放の光を浴びようとする明王をパイルバンカーのジェット噴射で阻止しながら、領は尊大な口調で告げた。
「自らが死にたくがない故、糧になれと他者に死を強要する。お前はそれを崇高と言うが、その実やっているのは人としての尊厳を奪い、死を押し付けているに過ぎない!」
 領の言葉に、明王は即座に言い返す。
『恐怖は一時のものに過ぎぬ。星々の寿命を得れば、そのような苦悩など些少な殊に過ぎぬと誰しも気づくはず――』
「あー、うるせえ。寿命がどうの死ぬのがどうのと……」
 グラハはぽりぽりと頭をかくと、シィカのオウガ粒子を浴びて黒い悪鬼へ姿を変えた。
 『悪霊化』――己が精神を過剰憎悪し、力の塊として顕現させた果ての姿へと。
「死んだこともねぇくせに、なぜ死が忌むべきものだと分かる? 結局のとこ、一番それに縛られてんのはテメェ自身じゃねぇか」
 故に、これ以上の問答は無意味。
 グラハはそう判断する。後は言葉でなく、力で語るのみだ。
「ドーシャ・アグニ・アーパ。病素より、火大と水大をここに与えん。――これこそ最後の晩餐、ってか? 己で己を貪り殺せ」
『ぐうっ!?』
 体内を己が消化液で溶かされ、悶絶する明王。
 その姿を見下ろしながら、くっだらねぇとグラハは嗤う。死からの解放を解きながら、誰よりも死に縛られたビルシャナに。
「死が無いなら、生に執着もできねぇ。終わりが無いなら、今に真剣にもなれねぇ」
 デウスエクスとなり、閉じた停滞の中で永劫を過ごす。それは死と同義ではないかと。
 それを傍で聞いていたシィカは、エレキギターをギュギュギュイーンとかき鳴らして絶叫した。難しい話を聞いていると、頭が痛くなりそうだ。
「……と、とにかく他人に迷惑をかけるのはノーロック! ロックじゃないのデス!」
「そうとも。明王を名乗りながら、君の教義は底が浅いよ」
 清嗣は時空凍結弾を発射しながら、グラハとシィカの言葉に頷いた。
「星の寿命? 死の軛から解放する? それは心から出た言葉ではないだろう? だから君の言葉は誰にも届かないんだよ」
 何かを言おうとする明王を、清嗣は手で遮って続ける。
 デウスエクスとなってまで生き続ける事を選んだ老人の事だ。恐らくは生に執着する理由があるのだろう。この世に何かの未練があるのだろう。
 けれど、と清嗣は思う。
「望みを叶え、満足して死ぬ人間が何人いる? デウスエクスだってグラビティ・チェインがなければ滅ぶだけだろう?」
 清嗣は老人に言った。
「ねえ、君のやり残した事は人の命を奪う事だったのかな? まだ人としての記憶が残っているなら、思い返してごらんよ。本当に悔いしかないのかい?」
『ふ……ふふ。どれほど良き記憶も、寿命への恐怖の前には無力。定命の本能が告げるのだよ、ただただ恐ろしいと』
 全身を血で染めながら、明王は不敵に笑った。
 その言葉には、先程の教義にあった硬い響きは感じられない。ビルシャナとなる事を選んだ老人の、恐らくは生の言葉であるに違いなかった。
『昨日できた事が、今日は出来ぬ。今日は出来ても、明日は出来ないかもしれぬ。衰え行く肉体と、閉じ行く未来の先に待つ虚無は、定命の者に等しく訪れる……』
「故に、絶対死にたくないというわけか? 他者の命を奪ってでも?」
 一瞬の沈黙の後、領の問いに明王ははっきり答えた。
『私はこの道を選んだ。今さら引き返す気はない……!』
「よかろう。ならばこの大首領が、引導を渡してやる!」
 ビルシャナ化した老人を戻す事は叶わない。
 出来る事は、ただ一つだった。
 領は戦鎚ヴァルカンにありったけのグラビティ・チェインを注ぎ込むと、明王の鎖に傷を負うのも構わず、跳ぶ。
「我が力の一端を受けよ!!」
 雷の如く振り下ろされた一撃を頭に浴びて、明王はその場に倒れ込む。
 生への執着ゆえにビルシャナと化した老人は悲鳴も呻きも漏らす事無く、静かに息を吐き切ると、全身を光に覆われて消えていった。
 最後の最後に、自身の死を受け入れるように――。

●四
 修復が完了した病室には、再び平和な静けさが戻ってきた。
 幸い、酷い被害は出ていない。清嗣は病院のスタッフに連絡を取り、避難した者を含めて犠牲者がゼロだった事を皆に伝えた。
「人として、幸せに逝っておけばよかったのに……やるせないね」
 今は亡き老人へ語り掛けるように、清嗣は呟いた。
 彼がビルシャナとなった理由は果たして何だったのか。それを自分達が知る機会は、おそらく永久に来ないだろう。
「閉じ行く未来、か」
 ふと清嗣は、明王……いや、老人の残した言葉を思い出す。
 浄妙菩薩の教義とは明らかに違う、人間としての言葉を。
「やれやれ、酷く疲れてしまったな」
 清嗣は懐からラムネを一粒取り出し、口に放り込んだ。こういう悩みは、いくら考えても答えなど出ないものだ。
 戦いを終えて、一人、二人とケルベロスが去っていく。
 最後に領はドアを潜ると、無人の病室を振り返った。
「まさに、ビルシャナとは、定命者が持つ業そのもの……か」
 事件の黒幕である浄妙菩薩は、今もどこかで暗躍を繰り返しているのだろう。大菩薩再臨という自分達の目的のために。
「寿命か……果たして、私はその命尽きるまでに何を残せるだろうか?」
 誰にも聞こえぬ声で呟いて、領は病室を後にする。
(「浄妙菩薩。いずれ決着をつけねばなるまい」)
 その決意だけを、静かに胸に抱きながら――。

作者:坂本ピエロギ 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2019年8月21日
難度:普通
参加:6人
結果:成功!
得票:格好よかった 5/感動した 0/素敵だった 0/キャラが大事にされていた 0
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