青の長流

作者:東公彦

 こうも暑いと外に出ることさえ億劫になるのか。いきつけの喫茶店に向かう道々には人の影がない。アスファルトの熱が水平線を歪め、行く先の風景がさながら蜃気楼のようにうつる。そして、現実から乖離しているのは風景だけではなかった。
 ルベウス・アルマンド(紅い宝石の魔術師・e27820)の出で立ちは太陽の厚かましいほどの輝きの中では正気を疑うものに見えた。喪服じみた漆黒のドレス、足先まで覆うストッキング。それでいて汗の一粒もかかずにルベウスは歩き、
「どこに行くのかなぁ、お嬢ちゃん」
 かすれ声の意味をかろうじて理解して足をとめた。じりじりと頭をやく熱に嫌気がさす。振り返り、その者の姿を見ただけで全てを悟った。
「まったく。こんな暑い日に結構なことね」
「しょうがねえだろ。ギーラハもシネレウスも死ん――」
 女が言いきる前にルベウスは魔術を放った。手中の宝石が淡い光を放ち、光の奔流が女を呑みこむ。
 しかし次の瞬間、ルベウスが身をかわした地点に銛の切っ先が突き立った。鎖に引き寄せられてモーラが着地する。
「不意をついたつもりだったんだろぉ? 残念だったねぇ」
 ルベウスは、実に楽しそうに相貌を歪める女をよくよく観察した。すらりと伸びた四肢、道化師を思わせる仮面。喉の陰惨な傷痕は彼女の酷い声の原因だろう。背にさしている二股の銛は長く、切っ先は槍のように鋭利だ。
 とにかく近寄らせてはいけないわね。
 しかし女はルベウスの機先を制して鏡写しのように動きを合わせる。これではまるで……。
「心を読まれてるってか? ご名答ぉ!!」
 女の銛が漆黒のドレスを切り裂いた。ドレスを形作る流体金属はすぐさま綻びを埋めるも、モーラは肉薄したまま銛を振るう。
「四騎士が一人、青銅のモーラ。紅卿を貰いにきた!」
 モーラの哄笑が空虚な街に響いた。


「ケルベロスの人もほんと大変だよねぇ。こんな物騒な相手に狙われちゃうんだから。僕なんか縮こまっちゃうよ」
 平塚・正太郎が声を投げたが、轟音のなかでそれを拾う者はいなかった。ケルベロス達にとってはそれどころではないし、正太郎の声は小さく、ヘリポートにあって容易に掻き消される程度のものだった。
「ルベウスさんとは連絡の取れない状況なんだ。現地に着き次第、すぐに降下してもらうね。僕も出来るだけヘリオンをとばすよ!」
 正太郎が声を張り上げると今度こそケルベロス達に届いたようで、彼らが声なく首肯した。
 ため、正太郎は話を続ける。
「ええと、戦闘場所は古い街並みの中だよ。寂れた商店街とでも言えばいいかな、シャッターが閉まっているお店も多いみたいだね。でも今は文字通り、ひとっ子一人いないよ。どうも敵が手配したようだけど何の意図があるのか……いや、案外なんの意味もないのかもね」
 正太郎はあっけらかんと自分の言葉をひるがえす。意図はともかく、ケルベロスが襲われており、周囲に人がいないという状況は確かなわけで。
「とにかく、人や物の被害は考えなくてすみそうだね」
 正太郎は早口に話を結んだ。
「青銅のモーラは長柄の武器を使うようだね。リーチが長いっていうのは、それだけで面倒なんだろうなぁ。あっ、あと大事なことだけど敵は生物の思考を読めるみたいなんだ! 有効な距離や対象数なんかは知りようがないけれど、こちらの行動が筒抜けっていうのは相当に不利だと思うよ。これに限っては知っていても防げるものじゃないし……」
 正太郎の声は尻すぼみになり、やがてぷっつりと切れた。
「でもきっと……大丈夫だよ」
 自分に言い聞かせているのか、ケルベロス達に尋ねているのか。返答はなく、正太郎の言葉はヘリオンの巻き上げる風にまかれて消えた。


参加者
新条・あかり(点灯夫・e04291)
玉榮・陣内(双頭の豹・e05753)
ルベウス・アルマンド(紅い宝石の魔術師・e27820)
曽我・小町(大空魔少女・e35148)
雑賀・真也(英雄を演じる無銘の偽者・e36613)
フェルディス・プローレット(すっとこどっこいシスター・e39720)
田津原・マリア(ドラゴニアンのウィッチドクター・e40514)
エリザベス・ナイツ(フリーナイト・e45135)

■リプレイ

 思考が読まれるというのは厄介なものね。
 ルベウス・アルマンド(紅い宝石の魔術師・e27820)はもつれる足に力をこめて一歩でも遠くへと走った。上体をひねって放った牽制の魔術は意味をなさず、爆発を引き裂いて銛の切っ先が迫る。
 小さな翼をはためかせて横っ飛びに転がるも、華奢な腕を赤い線がつたう。
「あーあっ、おしいねぇ!」
 声に含まれた愉悦に馬鹿馬鹿しくなってルベウスは足をとめた。
「もう走り回るのは飽き飽きよ。なぜひと思いに殺さないのかしら?」
「なぜって? 決まってんだろ。てめえが気に食わねぇからだよ!」
 モーラは残酷な笑みを浮かべ、無造作にルベウスを殴り飛ばした。そしてうつ伏せるルベウスに銛を打ち付ける。何度も何度も。皮がめくれ肉が潰れて、喉にたまった血をルベウスがえづき吐き出すまで、それは続いた。しかしモーラの愉悦は長くは続かなかった。
「あの子が構ってくれないから嫉妬しているの、かしら」
 ルベウスの言葉は賢明ではなかったが的を得ている。
 モーラは怒りに任せてルベウスの足を突き刺した。切っ先が傷口を抉ると、押し殺した悲鳴があがった。モーラの顔が喜悦に歪む。
 だが次の瞬間。ルベウスが地中に潜ませたケルベロスチェイン『混世魔王』がモーラの足元から突き出た。鎖は剣の形をなしてモーラの首を狙い……容易に断ち切られてしまう。
「無駄だっつってんだろ! お前の考えが読める限り――」
 言い終わらぬうち灰色の雪が降り落ちた。そしてモーラはコマ抜かしの映像のようにかき消える。一拍遅れてがらんどうの商店街に炸裂音が響いた。
「どうにか間に合ったみたいね」
 二対異色の翼をはためかせて曽我・小町(大空魔少女・e35148)がルベウスの隣に着地する。見れば上空からは次々とケルベロス達が降下を開始していた。
「ああ、ルベウスをやらせるわけにはいかない。ここで仕留めさせてもらう」
「ルベウスさん、動かないでください」
 田津原・マリア(ドラゴニアンのウィッチドクター・e40514)は降下するとすぐにルベウスの傍へ膝をつき、傷の具合を確かめた。雑賀・真也(英雄を演じる無銘の偽者・e36613)が剥離させた白銀のオウガ粒子はあらかた戦場に行き渡り、ケルベロス達の知覚を補っている。それによりマリアの診断精度はより確かなものとなっていた。
 臓器のいつくかがダメージをうけ、胸骨が折れて肺を圧迫。刺し傷は柔らかな腿の内側にあって深く、出血も多い。緊急に処置が必要だが、マリアが見立てるに動脈や健は損傷してはいない。
「しばらくは後方で戦ってもらいますよ」
「……問題ないわ。元から殴り合うつもりはないもの」
 マリアの肩を借りてルベウスは立ち上がり、駆けてゆく番犬たちの背中に視線を注いだ。
 彼らが助けに来てくれなければ自分はおそらく死んでいた。それについて感謝の念は尽きない。だが彼らを死地に立たせてしまった慙愧の念もまた胸底にあった。
 もし彼らの誰かが命を落とした時、私は、今のままでいられるだろうか。


「クソがっ、なんだってんだ」
 小町に一蹴されたモーラは受け身をとると、すぐさまルベウスに駆けよろうとする。その道を阻んだのは唸りをあげて打ち掛かってくる大剣である。銛で軌道を逸らした為に切っ先が両断したのは鉄柱だったが、当たれば星霊甲冑も断ち切るだろう。
「あなた、絶対に許さないから!」
 エリザベス・ナイツ(フリーナイト・e45135)の膂力は見た目通りの少女のものではなかった。大剣は街灯や歩車道を仕切る柵くらいなら抵抗なく切断する。しかしエリザベスの頭は嵐のような怒りに満ちている。モーラにとって脅威と同じだけ御し易い。
 間合いを外して大剣をいなされるとエリザベスに大きな隙が出来る。モーラはエリザベスの胸を狙い、銛は濡れた黒い腕を貫いたところで止まった。
「獣畜生が邪魔しやがって」
「いいや。邪魔ってのはこうするのさ」
 玉榮・陣内(双頭の豹・e05753)は腕に力を入れて銛を抜けないように固定すると、そのままモーラの腹を蹴り上げた。逃げ場のない衝撃にモーラの体が数センチも浮き上がる。だがモーラはレディと呼ぶには野蛮にすぎた。銛の仕掛けを起こすと、切っ先は陣内もろとも一直線に飛びやり幾多もの壁を突き破って止まる。
 とはいえモーラもまんじりとしてはいられない。踊るようにステップを踏み、飛び込んで来た緑の風に対応せねばならなかったのだから。
「はっ!」
 フェルディス・プローレット(すっとこどっこいシスター・e39720)は無手であっても上手く間合いを計りながら銛と渡り合う。右へ左へ上体を揺らし、少しでも有利とみるや蹴撃を見舞う。大きな動きで飛びずさったかと思えば、突如現れたグリと猫の二匹が踏み込んだモーラの視界を塞いだ。
「どきやがれ、クソがっ!」
 多少の手傷なら構うことなくモーラは銛を振るい、ウイングキャットを払いのける。が、眼前にフェルディスの姿はない。燃えるような赤い髪と金色の瞳だけがモーラを見つめている。
「3人目なんだって? 何人来ようとルベウスさんには触れさせないから」
 胸の前に両掌を突き出して、新条・あかり(点灯夫・e04291)が小さく唱える。
「焼き尽くせ……火竜よ」
 応じて呼び出された火竜は幻影であっても炎は現実のものとして大気を焦がす。噴き出した火炎は直線状の全てを溶かして失せる。モーラは跡形も残っていない。
 焼き切れた? ううん、それはないよね。
 あかりは神経を研ぎ澄まし直感に従って上空を見た。影が一つ、急速に落ちてくる。あかりは咄嗟に体を投げ出して難を逃れるが、むしろエリザベスは急降下してくるモーラを迎え撃つように大剣を構えた。
 刃が交錯する。
 着地したモーラの星霊甲冑が砕け、うっすらと血がにじむ。モーラの細められた瞳から嘲りが消えた。
「もう毛ほども気は抜かねえぜ、てめえらを全員ぶっ殺してから目的を果たす」
「そうか、出来るものならやってみるといい」
 言葉と共に双刀が襲いくる。声の主は一足で間合いをつめ、下段から剣を振り上げた。モーラは銛を回転させ、柄で下を矛で左方からの刃を止める。そのまま体を回転させて双刀を払うと、螺旋を描くように銛を突きだす。
 すると真也は矛先に合わせて双刀を打ち合わせた。刃を滑らせて銛の指向性を変えてみせる。得物を振りかぶり正面を切って両者が打ちあう。
「長柄の武器……動きは槍使いか。弓使いの俺にとっては不利な敵だな」
「ハッ、うそぶくんじゃねえ!」
 モーラの言のとおり、真也の動きによどみはない。そこには何千、何万と行ってきた技と戦闘の経験に裏打ちされた鋭さがある。ためモーラも長柄を活かして間合いを保ちつつ立ち回る。銛が肩を突いたのと、双刀が腕を切り裂いたのは同時であった。互いに距離を取って体勢を立て直す。だがモーラの背に狙いを定めた猛獣は既に音もなく、その爪を首元にかけていた。
 しかして惨殺ナイフによる必殺の一撃はモーラの髪を僅かばかり空に散らした。陣内は勘付く。思考を読まれている、と。
「ははっ、大正解。しかしスケベなオッサンだぜ」
「おっと、そいつは聞き捨てならないな」
 陣内は押さず引かず、適度に距離を保ちつつ動きの兆候をみせては虚と真を使い分ける。心を読まれているというのに本人は飄々と風になぐ旗のように動じない。
 空間を蹴っては予期できぬ動きを繰り返し、刃を翻して牙のように突き立てる。
「美女を愛でるのは男の義務って? 気取ってんねぇ」
「まぁ、男の性でもある」
 だがいかに変則的に動いてもモーラはその思考を読んでかわす。むしろ思考を読まれてもなお追いすがる陣内に舌を巻いた。干戈が交わる度に火花が散って空に溶ける。
「へぇ……本心だねぇ。骨のある男は嫌いじゃ」
 モーラは楽しげに言葉を重ねたが、
「よく動く口だね。縫い留めようか、コレで」
 魂の芯さえ凍るような冷たい声が氷針と共に降り注いだ。咄嗟、モーラは銛を回転させてそれを打ち払った。弾かれた針が大樹に刺さると緑葉に霜がおりた。内部の水分が瞬時に凍結したのである。
「おぉ、怖ぇ怖ぇ。男をとられてお怒りかぁ?」
 あかりの耳がピンと張って天を衝いた。両腕を交差させるようにして鋭く振るうと、さらに数千数万という氷針がモーラに襲いかかる。
 挑発などしたものの実際問題、モーラがこの攻撃を避けることは難しかった。雨のように降り注ぐ氷針から身をかわすのは思考を読んでいても能わない。
 陽の降り注ぐ晴れ模様のなか驟雨が降ってくると、なお針は不可視の攻撃となった。
「みなさん、えらいお待たせしました」
「マリアさん、ルベウスさんは……」
 フェルディスの問いかけに、駆けつけたマリアは顔をほころばせた。
「ええ、もう安心です。これからの皆さんの傷は、うちが請負いますね」
 見ればマリアの手には空の薬瓶が数本握られていた。先まで瓶を染めていた薬は空気中に溶けて、今は一時ばかりの慈雨を降らせている。滴が触れると、傷は徐々にふさがれてゆき番犬達に希望と活力を与える。
「ルビィちゃんのお邪魔になったらごめんだけど、あたしの勝手で少しだけ――踏み込ませてもらうわ!」
 小町が祈るように腕を組むと手中から光りがこぼれだし風を生む。
「シャイニング・デストーム!!」
 小町の腕で渦を巻く暴風は彼女の意思と力で解き放たれた。生半な建物などは巨大な渦の前に倒壊してゆく。と、何を思ったかフェルディスがそんな暴風に身を投げた。
「では私もひとつ」
 フェルディスは軽い身のこなしで体勢をつくろいながら、風に背を受けた勢いをつけてモーラの懐に飛び込んだ。
「奪うならば、奪われる覚悟も出来てますよね?」
 耳朶を噛むような声で囁くと、一転して腹部に強烈な一撃を叩きこむ。内臓がひっくり返るような衝撃にモーラは暴風のなか抵抗もできず投げ出される。
 抗わぬ者に嵐は容赦をしない。モーラは錐揉みに吹かれてボロ布のように壁に叩きつけられた。
 とはいえ、ただやられるだけではない。
「っと――!」
 射出された銛の切っ先がフェルディスに突き刺さり、モーラを引き上げる。フェルディスを足場にして跳躍すると、竜巻の目である小町に銛を振りかぶり、
「潰れちまえ!」
 交差の瞬間に殴りつけた。
 痛みを覚悟して唇を噛んだ小町だったが、銛が彼女に届くことはなかった。身を挺して盾となった黒猫が落ちてゆく。
「グリ!?」
「こいつは面白え!」
 落下するグリを追って手を伸ばす小町。モーラはその無防備な背に的をつけて銛を射出した。
「させないっ!」
 あかりが大地を打つとドラゴニックハンマーの冷気が氷の盾を形成、銛をはじき返す。地面と衝突する寸前、小町はグリを胸のうちに抱えた。思惑が外れて地に降り立ったモーラはそこで大きな魔力のうねりを感じ、咄嗟、魔力の中心にある人物の思考を読みとる。
「マリア、みんな、感謝するわ。お蔭でこの子を生みだすことが出来たもの」
 宝石を媒介に生み出された虚構の尾を引いた現実の存在は、瞬く間にモーラへと肉迫した。槍のように磨かれた金色の切っ先がモーラを捉える、しかし紙一重で、どうにかモーラは身をかわしてみせた。『ルイン・アッサル』は高速で彼方へ飛んでゆく。
「残念だったねぇ」
 背中に冷たい汗を感じながらモーラは笑みをつくる。ルベウスは至って平静に視線を返した。その瞳に映る未来は紅い。
 物理法則を無視した直角機動で転回したルイン・アッサルが、モーラの星霊甲冑を突き破るのに必要としたのは、ほんのひと呼吸ほどの時間だけだった。信じられないものでも見るようにモーラが自らの体を凝視し、膝をつく。
「どうして、と聞きたいのね。ああ、これは思考を読んだのではないわ、よ。その子は私の支配下にあっても私ではないの。単純なルーチンではなく、知性を備えた思考することの出来る『魔法生物』。あなたは読む思考を間違えた、というわけよ」
 不安定な存在であるルイン・アッサルが光の粒子となって消える。残ったのは消えることのない傷、大地を汚す赤い血だまりか。
「それと。あなたが呆けているのを待っているほど、私の仲間は甘くないと思うけれど」
 モーラがハッと我に帰った時、突然に足元が破裂した。
 身構えて爆風の中から飛び出す、しかしそれは全くの徒労であった。爆発はルベウスの言葉に喚起された攻撃ではなく、あくまで味方を鼓舞するものである。
「うちやって、少しでも皆さんのお力に」
 マリアに深い意図はなかった。必死に仲間の役に立とうとしただけである。その無意識の行動にさえモーラは裏を感じてしまった。そこが仲間を信じて突き進む番犬達との違いだったのかもしれない。
 自分から飛び込んできた敵をどうして優しく迎え入れよう。
「はっ!」
 鋭く、力強く。エリザベスが大剣を薙ぎ払った。その刃が何を斬ったのか。空から落ちてきたモノがその結果を何よりも物語っている。
「くそがぁ! よくも、よくも!!」
 片脚を失いながらもモーラは魔方陣を描き、魔方陣は街に瀑布を生み出す。街に流れ込む激流は行き場を求め家屋にあたっては方向性を変え、地上のあらゆるものを腹におさめんと口を開いた。
 だが、大河の前に立ち塞がる者がいないわけではない。
「喰らいつけ、血に飢える電光石火の猟剣!」
 弓に黒剣を番え、真也は必殺の一撃を射ちはなった。黒い線が一直線に大河に向かい、呑まれたかと思われたその時、大河の腹を突き破ってその勢いを大きく減衰させた。
 もはや水流は脅威ではなく番犬達を避けてその後方へ流れてゆき、なぜかぽっかりと口を開けた穴に吸い込まれていった。しかしモーラの姿はどこにも見えない。
 と、ルベウスは不意に力強く引き寄せられ体を地面に押し付けられた。
「ようやく掴まえたぜ、クソガキィ!」
 ひび割れた仮面、失くした片脚、口元にこびりついた血を舐めてモーラはルベウスに銛を突き付けた。自らが生みだした瀑布のなかに潜行したモーラは、もう自らの目的を迷うことはなかった。少女らしい痩せ形の、起伏のない身体を銛の切っ先が這いまわり、胸の稜線をたどって真紅の宝玉に触れる。
 こいつだ、こいつが欲しかった!
「無駄よ。このズナーニエに紅卿の魂なんて残っていないわ」
「そんなこたぁどうでもいいんだよ」
 ルベウスが僅かばかりに眉根を寄せた。
「私があの御方から命じられたのは紅卿の奪還とあんたの抹殺だけさ。取り戻したコイツをどう使おうとあたしの勝手じゃないかい?」
「これには、あなた達が思っているようなものは――」
 銛の切っ先でズナーニエを叩いていたモーラだったが、矛をルベウスの首にあてた。そして番犬達を振り返る。言葉はなくとも笑みが語っていた、この女の生殺与奪の権を握るのは自分だ、と。
「じゃぁ、頂くとしようかねぇ」
 宝玉が蠱惑的な光を発している。モーラは吸い込まれるように手を伸ばし、遂にズナーニエに触れた。
 途端、モーラは青の長流に呑まれた。知識の大海、情報の濁流と言い換えてもいい。ズナーニエが永きに渡って集積した記憶という細胞単位の情報がモーラの脳へと強制的に流れ込む。それは人間の脳にスーパーコンピューターの演算処理をさせるような、途方もなく無謀な行為であった。
「ズナーニエの思考を読んでしまったのね……。あなたの現状、実感は忘れてしまったけど、理解は出来るわ」
 ズナーニエの膨大な記憶の前で一個人の我などどうにもならない。それが一瞬の邂逅であっても、おそらくモーラはいま自分を保てていない。
「……シルヴィア様。あなたと並び立つ存在に」
 抜け殻のようになり、うわごとを繰り返すモーラを押しのけてルベウスは立ち上がった。
「いま終わらせてあげる、わ」
 ズナーニエが熱を帯びる。再び生みだされた金色の翼、槍のような切っ先は人形のようになってしまったモーラの胸を貫いた。


 小町が奏でる旋律が戦いの惨状を過去のものとし街を修復してゆく。感傷的な音色の溢れるなかルベウスは番犬達を顧みた。
「彼女達が狙っていたのはこのズナーニエ。なかに眠る紅卿よ。私が知る限りそんなものは残っていないのだけれど、ね。……あなた達を私の事情に巻き込んでしまった。これからあなた達は嫌でもズナーニエについて知る事になるかもしれないわ。私には謝罪のしようもないけれど」
「まっ、巻き込んだなんて気にせんでいいんですよ。困った時はお互い様です」
 マリアが目を丸くして早口に言うと、フェルディスはふっと息を吐いて背を丸めた。戦闘の時にはないくだけた表情が広がる。
「まっ、敵の動向はわからないけど、今後も警戒しておこうか」
「シスター……」
 番犬達も一様に同意してみせる。
 ルベウスは気楽というか、器が広いというか。そんな仲間達を見やってから心中でひとりごちた。
 悪いけれどね、銀鐘君。今の私には仲間がいる。簡単には奪われてあげられないの。


「ザラキ、どうしましょう」
 ザラキは不機嫌そうに箱の中から水を吐いた。
 洞窟を掘り続けていたイッパイアッテナは首を傾げた。急に天板が崩れて大量の水が浸入してきたのである。全く想定外だ。どこか水源でも掘り当ててしまったのだろうか。
 こうして予期せず、戦闘の助力となっていたイッパイアッテナであった。

作者:東公彦 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2019年6月22日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 3/感動した 0/素敵だった 4/キャラが大事にされていた 0
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