硝子の夜

作者:七凪臣

●喧騒の狭間
 赤い光の中の人影が、青い光に歩み出す。
 誰の視線からも見上げる位置にある信号機が示す色が変わる度、人の波は押し寄せ、点滅が始まる頃には慌ただしく引いていく。
 朝の時間は、僅かばかり穏やかに。昼と夜は騒がしく。それは林立するビルに囲まれた界隈では、特に珍しくもないありきたりの光景だ。
 そしてこの宵も、常と変わらぬ筈だった。
 窮屈な制服から自由の羽を伸ばした学生たち、くたびれたように肩を落としたサラリーマン、華やかに化粧直しをした女性たち。入れ替わり立ち替わり、繁華街から吐き出され、或いは吸い込まれていく人らは、ネオンの眩い日常を辿り――思わぬ変事へ至る。
「――なぁ、あれ」
 最初に気付いたのは、浮かれた風情の若い男。
「え、え?」
 次は最初に気付いた男に腕を引かれた若い女。
 彼、彼女が見た異変は、見る間に恐怖となって伝播する。
 空から、四本の牙が降ってきた。
 アスファルトの地面に突き刺さったそれは、人々の足が信号機の色を無視して走り出す前に、竜牙兵へ姿を変える。
 規則性を失った世界に、けたたましいクラクションとブレーキ音、そして無数の悲鳴が響く。
「オマエたちの、グラビティ・チェインをヨコセ」
「オマエたちがワレらにムケタ、ゾウオとキョゼツは、ドラゴンサマのカテとナル」
 斯くして都会の夜の一角は、透き通る寒ささえ忘れる惨状と化す。

●硝子の夜
 竜牙兵の出現を予知したとリザベッタ・オーバーロード(ヘリオライダー・en0064)は眉を顰めた。
「このままでは沢山の被害者が出てしまいます」
 出現地点を変えぬ為に避難勧告を出せない事に臍を噛みつつ、少年紳士はケルベロス達へ現地への急行を促す。一度、ケルベロス達との戦端が開かれてしまえば、居合わせた人々を避難させられるからだ。
「避難に関しては警察は勿論、虹さんも手伝ってくれるそうなので、皆さんは戦いに集中してください」
 リザベッタの弁に、会話の輪に加わっていた六片・虹(三翼・en0063)も無言で首を縦に振る。今は軽口を挟む隙さえ惜しいのだ。
「場所は繁華街と駅とを繋ぐ交差点で、四体の竜牙兵が出現します」
 四体ともにゾディアックソードを装備し、前のめりな戦い方をするとリザベッタは言うと、「皆さんとの戦いが始まれば、竜牙兵が撤退することはありません」と力強く付け足す。つまり、ケルベロス達が敗北しない限り、人々に類が及ぶ可能性はほぼない。
「では早速ですが、ヘリオンへご案内します」
 足早にヘリオンへ急ぐリザベッタに、虹も続く。
 そこで、ふと。リザベッタより長じた女は、澄んだ冬の空気に包まれた都会の夜を目を細めて眺めて、零す。
「絶好の夜景散歩日和。上手く事が片付いたら――」


参加者
真柴・勲(空蝉・e00162)
レカ・ビアバルナ(ソムニウム・e00931)
華輪・灯(幻灯の鳥・e04881)
杜乃院・藤(狼纏イノ羊・e20564)
杜乃院・楓(気紛レ猫ハ泡沫夢二遊ブ・e20565)
ジェミ・フロート(紅蓮風姫・e20983)
櫂・叔牙(鋼翼朧牙・e25222)

■リプレイ


 陽だまりの匂いがしそうなウイングキャット――アナスタシアが、己が背にある翼とよく似た芽吹きの淡緑の四枚羽にじゃれる。
「ふふっ。夜の都会に繰り出すなんて」
 放課後のクレープ買い食いよりも、更にイケナイ感じでドキドキ。
 瞬く原色の濃い光たちを映し込む華輪・灯(幻灯の鳥・e04881)の大きな銀の瞳はキラキラ、羽根はそわそわひらひら。
 紛れた雑踏で行き違うスーツ姿の男性に怪訝な視線を送られ、慌てて大人ぶって背筋を伸ばすも、浮き立つ心は誤魔化せない。
 まるで宝石の海を泳ぐ魚になった気分だ。
 ――けれど、どれだけトキメキに胸を躍らせても、『ケルベロス』である事は忘れない。
「薄汚え流れ星だな。隕石の方がよっぽど風情があらァ」
 明滅し始めた信号を無視し、交差点の真ん中で空を見上げた真柴・勲(空蝉・e00162)のぼやきに、ガイスト・リントヴルム(宵藍・e00822)が口元をククと吊り上げる。
「……何だ」
「いや、我も度し難いと思っていた故な」
 含み笑いを既知の男に問われ、竜顔の漢も振り仰ぐ。
 迫り来る牙は四。敏い者らの声が雑踏でも上がり始めている。
 ガイストも好む街灯を眺める夜散歩。そこに無粋が割り込む様は、気分が良いものではない。しかも勲は昔から竜牙兵が「大」がつくほど嫌いなのだ。
「ったく。平穏な生活を望む人間の日常を徒に引っ掻き回すんじゃねえよ」
 三十路半ばの破落戸の悪態に、牙がアスファルトを砕く衝撃が重なる。
 メタモルフォーゼは一瞬。悲鳴が悲鳴を呼び、恐慌が夜をつんざく。けれど吹き荒れる逆風にレカ・ビアバルナ(ソムニウム・e00931)は凛然と弓を構えた。
 ――ケルベロスが守るのは、命だけではありません。
 番えた矢の先端に、レカは意思の力でエクトプラズムを圧縮していく。
 ――いつも通りの日常をお守りすることも、責務なのです。
 冷静に、淑やかに、されど勇ましく。
 森に生まれた少女は、コンクリートジャングルの大地を踏みしめ、襲い来る骨の戦士たち目掛けて先制の霊弾を撃ち放った。


 四振りの星辰宿す剣が波濤を成して押し寄せる。二本は煌々と輝くオーラを飛ばし、残る二本は――。
「ビウム、守るのである!」
「大丈夫。ここはあたし達に任せて?」
 無理を強いたのは百も承知。けれど戦線を維持する為の杜乃院・楓(気紛レ猫ハ泡沫夢二遊ブ・e20565)の気概の言の葉を受け、最前線へ転がり出ようとしたテレビウムをジェミ・フロート(紅蓮風姫・e20983)の手が引き留めた。
「……言ったからには踏ん張るわよ!」
「年若い娘御ばかり負わせはせぬ」
 地球に引かれる重い剣戟の一つを受け止めたジェミの更に一歩前へ、ガイストが黒い風のように滑り出る。頭上より襲う剣閃は苛烈。地に沈まぬようアスファルトに押し付けた竜尾が、ぎしりと戦慄く。
「これくらい、どうという事もない」
 ――嘘だ。破壊者渾身の一撃は、盾を担ってなおダメージは著しい。それでもガイストは折れず、果敢に魂喰らう拳を打つ。それに戦場に在るのは、一人ではない。
「こんなこともあろうかと! えんじぇりっくな私に抜かりはありませんよ!!」
 後方にて戦局を具に見つめる灯が大きく手を挙げる。そのまま「癒しの花束、いかがです?」と小首を傾げて綻ぶように笑むと、優しく柔らかい光を湛えた羽と花がガイストを包む。
 かぐわしき花の香りに鼻腔を擽られ、ガイストの眉間から余分な力が抜ける。同時に、回復に特化した灯の――しかも効果最大級――とっておきに、肩を焼くような痛みと深手が消え失せた。それを横目に、ジェミも余裕をふふと笑う。
「大丈夫! 怪我はさせないし、しないわ! ばーんと、どーんと倒しましょ! それは、砕くわ! 師匠譲りのこの体に、通じるもんですかっ」
 鍛え上げた腹筋で敢えて受けた一撃を、ジェミは己がありったけで無効化してみせる。僅かに痛みは残るが、それさえもアナスタシアの羽ばたきとビウムの応援動画が消し去った。
 前のめりな竜牙兵たちの攻勢は、ケルベロス達を十分に苦しめる。さりとて、猟犬たちとて無策ではない。
「幾度砕かれても同じ事だ」
 しゃらり、地に這わせた黒鎖を勲が念で操る。意思持つように動いたそれは、竜牙兵たちと直に切り結ぶ者らの足元へ守護の陣を描き上げた。
 デウスエクス達は手にした武具の特性を熟知している。ケルベロス達が守りを固めれば、即座にそれを破ろうと試みるのだ。けれど付随因子を撒くのに長けた勲の方が一枚上手。
「労働後の……癒しを求める、大人達の。憩いの時間、でしょうからね……」
 上へ、上へ。人ならざる鋼の動きでビルの壁面を蹴り、上昇を繰り返した櫂・叔牙(鋼翼朧牙・e25222)が中空でくるりと転身する。盾を担う仲間たちと、勲の守護を無数に受けたケルベロス側の破壊者である叔牙は、開戦より数分過ぎても未だ無傷。
「早々に、終わらせましょう」
 淡々と発した言葉通りに、叔牙はこれと定めた竜牙兵の一へ目掛けて一直線に降る。降りながら、構えた竜の鎚を振り被った。
「空気読めない、竜牙兵は……ケルベロスが、おもてなしです。どうぞ……心ゆくまで、ご堪能下さい」
 加速を得たドラゴニックハンマーが、骨の兵士の頭蓋を兜ごと叩き潰す。ぐしゃりと骸骨の輪郭が歪んだ。
「行くよ姉さん……」
 今が、好機。
 逃さず流れを読んだ杜乃院・藤(狼纏イノ羊・e20564)が双子の姉――楓を呼ぶ。
「遅れは取らぬのだ!」
 猫の尻尾をぴんと立ててすかさずファミリアロッドを翳した姉に、弟は常は眠そうにしているのが嘘のようにどう猛さを湛えた眼を一度瞬き、
「うん――おれ達の連携技、見てなよね……」
 ぐっと白く輝く銃のグリップを握り締めた。
 引金にかけた指に迷いはない。弟の矜持にかけ、護りの意思に誓い、少年と青年の狭間に立つ姉想いの子供は素早く弾丸を放つ。
 藤の夜を切り裂く一弾を、楓が撃ち出した無数の矢が追う。やがて一点へと収束したそれらは、瀬戸際にあった竜牙兵へ終焉を呉れる。
 肌を突き刺す冷たい風に、骸の戦士が砂と溶け逝く。
「まずは、一体。次は――」
 あなたです。
 軽やかに跳躍した果て。幾つもの店名が並ぶ看板の上に立ち、レカは新たな獲物へ狙いを定めた。
「外しません。どうか、お覚悟を」
 森を見渡す視線が、敵を射抜く。直後、剣を払おうとした竜牙兵の腕を花毒に彩られた毒矢が突き抜けた。


「貴様らの相手はケルベロスがしてやるのだ!」
 全身を大きく使い、楓は全霊でデウスエクスを威嚇する。
「不足とは言わさぬである!!」
 シックな軍服ワンピースの裾を華麗に翻し、血に猫を宿す少女は竜牙兵へ組み付き、鋭い爪の代わりに銀の残滓で象る鋼の鬼で骨の喉笛を切り裂いた。
「そう……おれ達が、相手」
 対の藤も姉に劣らず。楓が飛び退ったタイミングに合わせ、超速の拳を敵の鳩尾へ呉れて身体ごと吹き飛ばす。
 渦巻く羊角が目立つ頭をぐるり巡らすと、藤の視界に映るのは都会のエアポケット。どうやら虹らは上手く人々を避難させてくれたようだ。
 憂い無き戦場に遠慮は要らない。数を減らした敵に、余力少なくなりながらもビウムやアナスタシアも奮戦を続けている。
「絶好の夜景散歩日和とて、刀の雨も降ったろう?」
 初撃で天より無数に注がせた刀剣を例えに上げて、ガイストは戦いの傷跡を刻むアスファルトを直走った。
「なれば竜の風とて吹くこととてあろうというもの――推して参る」
 割れて隆起した残骸で跳ね、竜の漢は足元の危うい竜牙兵へ一息に迫った。途中、刃を抜く。そうして緩やかな放物線を描いて敵の懐へ入ったガイストは一閃。巻いた太刀風は翔龍と化し、爪で、牙で、肉なき骸を喰らって夜空へ消える。
「さぁさぁ、いよいよ大詰め! 思いっきり、華やかにいっきまっすよー!」
 損なわれぬ自信と強気は乙女の標準装備。髪に咲かす木瓜のように、頬を高揚に染めて灯は手元のスイッチを勢いよく押す。
 沸き立つ、カラフルな爆風。
 色とりどりのコットンキャンディにも似たそれは、ケルベロス達の最前線の士気を押し上げた。
「そろそろ、頃合いだな」
 残る自陣の手数を一つ二つと指に折り、勲もゆるりと前へ出る。破壊に長けずとも、技を択べば勲の一撃は叔牙にも引けをとらず。無精髭を何とはなしに撫でた男は、瞬く間に加速した。
「いいから黙って擲らせろ」
 不敵に笑い、片頬を吊り上げ。男は持ち得るグラビティ・チェインを利き腕に寄せ集める。具現化したのは、鎖状の電霆。纏わせた拳が唸りを上げた。当然、叩き込むのは竜牙兵の横っ面。
 同胞の支援に重きを置いた我慢の憂さを晴らすよう、繰り出された一打は勲の渾身。被った骨の兵士は、木っ端みじんに砕け散った。
「残るはあなた一人です」
 今度は信号機の上。誰よりも疾く夜を翔けたレカは、ぎりぎりと弦を引き絞る。彼女がこの戦いで最初に施したのは、自身や杜乃院の双子らへ竜牙兵らが得た加護を破る力を授けること。これがこの戦いに果たした役割は、決して小さくはない。
 だが、真に満足するのは全てを終えてから。
「ジェミさん、叔牙さん。お願いしました」
 何処までも敵を追う矢を放ち、レカはジェミと叔牙へ終わりを託す。先に動いたのはジェミの方。赤いツインテールを尾にジェミこそが流星と成る。
 消えぬネオンに負けぬ赤い光が、ビルの狭間を斜めに翔けた。着弾は、たった一体残った竜牙兵の背面。
「ガ、ァ!」
「見た? 夜を裂き飛ぶ紅の流星の蹴りを! なんてね?」
 文字通り、蹴り倒した竜牙兵を下敷きに、ジェミがからりと仲間を振り返る。でもまだ、あと一息。
「行きます」
「りょーかいよ!」
 肉薄する叔牙へ、ジェミは場を譲る。ふらりと起き上がったデウスエクスが見たのは、目前に迫った褐色の肌のレプリカント。
「撃ち抜く……!」
 躱す事は不可能だった。攻勢エネルギーを帯びて刹那、硬化した叔牙の手首から先は全てを貫く刃。しかも一撃は一打に非ず。脇腹に食い込んだ手刀は、そこから更にもう一段階――伸びる。
 機械の体の性能を余す事無く活かすグラビティに慈悲はなく。暫し喧騒を遠退けた異分子たちの最後の一体は、断末魔さえ上げずに砂塵と消えた。


 素敵、素敵、素敵!
 都会の夜はまるで万華鏡のようだ。翼で夜空を一掻きする度に、色も形も全てが変わる。
 目指すは摩天楼のてっぺん。カルナが決めた、夜間レースのゴール。もちろん、手負いの獣に勝ってもつまらないから、灯へ施したヒールだって手を抜いてはいない。
「今夜の私は闇に溶ける漆黒の堕天使……ではなく輝ける流星です!」
 抜きつ、抜かれつ。重力から解き放たれて飛ぶ灯の表情は、地上の煌光より眩しい。しかし寒風を竜翼で切るカルナだって似たようなもの。
「……堕天使とか流星って、どちらも落ちるフラグ立ってますけど?」
「Σ」
「ちなみに今夜の僕は星海を奔る稲妻です!」
「稲妻だってたまに落ちるじゃないですかーっ!」
 言葉の押収に意味などなく、二人は光を散りばめたビルの谷間を自在に翔る。
 ふらり、カルナの方向音痴が発動しても。灯にとっては、目敏く見つけた自販機から温かいココアを捕獲してくる好機。
 眠たげな目のアナスタシアを頭にそれを差し出せば、心だけでなく冷えた指先までも熱に満たされるだろう。

 帰途に着くには、少し早い。ならばと飛ばしてもらったへリオンのハッチに腰を下ろし、叔牙はパレードのような光の奔流を遠く眼下に収める。
 傍らには、買い込みすぎた夜食の山。
(「これなら二人で食べるのに丁度良いか」)
 思い浮かぶ、明日も二人で過ごしたい人の顔。折角だから、土産にするのもいいかもしれない。瞼に焼き付けたこの絶景と共に。

 海や森もいいけれど。街灯りも、改めて見れば美しい。
「あの灯り一つ一つに人の生活があるんだなぁなんて思うとけっこう風情がありますよね!」
 お疲れ様の乾杯を交わしたジュースを手にした海咲の横顔は、ジェミにとって地上の星より眩い。まるで、太陽のように。
 久しぶりに過ごす二人の時間。名も知らぬ屋上から、華やぐ界隈を指差して「買い物もまた行きましょう」なんて次の約束をして。
 ――だから。
「この間のお買い物は楽しかったので、またいければいいですね……ど、どうしたんですか!?」
 振り向く海咲の笑顔に束の間、心奪われたジェミが頬に口付けを落としたのは、きっと必然。
「ご馳走様。そんな雰囲気だと思って、ね!」
 もう、と拗ねてみせても海咲の顔ははにかむだけ。こんな日常こそが宝物。

 忍び込んだ非常階段。猫と羊は手を繋いで一段一段踏みしめる。空には星、周囲にも人工の光――満月は、ない。
 『月』に狂った母。怖がる楓の手を引いたのは藤。猫になった楓は怯えて震えていた。
 ようよう帰るも、両親の姿はなく。それは、五年前の物語。
「ねぇねぇトウ。わたし達が戦った所、車がちゃんと流れ出したよ。夜ってこんなにキラキラなんだね」
 到着した特等席。高いフェンスをひょいと乗り越えて座り込んだ縁で、楓が指差したヘッドライトとテールランプの川に藤も目を見開く。
「ん……キラキラだね……」
 狂月病を発症した藤にとって、今宵は安らぎの時。怖い怖いと目を塞いでいた幼い楓では知りようがなかった、眩しい世界。藤にとって、ただただ暗いイメージでしかなかったもの。
 それが今は。
「わたし、強くなったよ」
「っ……本当に、本当に。姉さんは強くなったね……」
 ぎゅう、と。藤の胸が引き絞られる。星が綺麗に見えるのは、姉のお陰。でも、でも。楓に置いていかれたら、藤には何も残らない。
 募る不安に、握る手に力が籠る。けれど、楓と藤は双つで一つ。
「あの夜、連れて逃げてくれてありがとう。あと……ひどいこと言って、ごめんね……」
 ずっとずっと、謝りたかった。両親がいなくなったのを、藤のせいにした事を。
「こうして生きて、一緒に綺麗な世界をみてるのは。トウのお陰なの」
「……姉さん……お姉、ちゃん……っ」
 予想だにしなかった謝罪に、停止した思考は、温かく溶け出す。ひび割れた玻璃が、透明な輝きを取り戻すよう。優しく、優しく。
 先に泣き出したのは藤の方。けれどつられてしまえば楓も同じ。
 抱き締め合う双子が見る世界は、何処までも重なっていた。

 果たして子らは佳き場所を見つけたろうか?
 煙管でふかりと紫煙を燻らせ、ガイストは仕事終わりの一服を味わう。
 忙しなく人が行き交う灯は、ガイストの生まれ故郷では無縁のものだった。だからだろうか、人が作った夜の煌渦を『美しい』と思えるようになったのはこの数年な気がする。
「以前の我は、彼奴らを追うことしか視界に入っていなかった故」
 ――否。それは今でも変わらぬ事。
 寒さに弱い漢は、羽織る外套の襟もとを手繰り寄せ、巻いたマフラーに顎を埋めた。

 がしゃりと金網を鳴らすと同時に差し出された缶珈琲。奢りですかと問えば、五百円の請求。
「腑抜けた面しやがって」
 ――仇を追ってた頃の方がまだ目に覇気があった気がする。
 勲から寄越された悪態に律は二百円を渡しつつ、「……ですね」と嫌味を鼻で笑う。勲も律を揶揄れぬ身、故。
「俺も手前ェもイイ年こいて雑踏を彷徨う迷子の儘だ」
 ワザとらしく吐き出した勲の息に、眼下の光が僅かに霞む。無数のそれは、人々が明日を見据えて生きる証。だのに勲は、未だ新たな指標を見出せず――。
「はぁ? 迷子なんて可愛いもんですか」
 返された悪態に、起こされたばかりのプルタブから立ち昇る珈琲の香が添う。
 清算して残るのはろくでなしの男だけだと、互いに解りきっていた筈。
(「ただ」)
 大半が変わっても、あの頃と変わらず勲と隣り合っているのは律にとっても思わぬ誤算。
「はてさて。抜け殻野郎どもにも、あかりを灯せる日は来るのかねぇ?」
 得られぬ答を人造硝子箱に眺める勲に、律は適当な合槌を打って肩を竦める。
 縁とは不思議なもの。流れ行く光が如く、未練がましく途絶えぬものの先。『越えた先』を往く背中を、律は――様々をない交ぜにして――蹴りたく思うのだ。

「お好きな方をどうぞ」
 レカから見せられたコーヒーとカフェオレを前に、ナザクは全力で悩んでいた。
 実は、カフェオレが好きだ。だが甘いものはレカも好きそう。ならば、答えは一つ。
「ありがとう」
 別に格好をつけた訳ではない、筈。と、胸中で唸る男は実はレカが紅茶派なのを知らない。今日は同系統を飲んでみたいからと選んだ事も。
 気付くと、戦場でばかり顔を合わせていた二人。だからこうして穏やかな時間を分かち合えるのが不思議で、レカは小さく笑み崩れ、ナザクも是を頷く。
 と、不意に。翼ある者たちの空中散歩がナザクの目に入った。
「……昔は、彼らを羨むばかりだったけれど」
「……ナザクさん、貴方も誰からか羨まれる御人だと思いますよ」
 それに。
「共に眺めるこの夜景も、私にはどんな宝石より煌めいて見えます」
 嗚呼、本当に。レカの言う通り。一緒に楽しめる誰かがいるなら、地に足をつけて眺める光景も悪くない。
「……良かったら、また誘ってもいいかな」
「ええ、もちろんですとも」
 紡いだ縁は、一つの奇蹟。それはきっと二人へもっと綺麗な風景を誘う筈。透明な硝子箱から転げ出た、光の宝石のように。

作者:七凪臣 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2019年1月31日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 3/キャラが大事にされていた 5
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