夕雨と夕立と貴方と

作者:澤見夜行

●夕立が好きなのだと貴方は言った
 師走を迎えて幾日か。
 見上げた夕暮れは俄に雲が覆い、シトシトと雨粒を落としていく。
 季節外れの夕立つ空に、沸き立つ不機嫌と苛立ちをぶつける事は出来やしない。
「はぁ……仕方ありませんね」
 一つ大きくため息をついて、京極・夕雨(時雨れ狼・e00440)は愛用の番傘を開いた。
 和紙を叩く雨音は、何時になく静かに優しげで――今も、嫌いで不快な雨をどうしてその様に感じてしまうのか。
 自身の心の機微を探っては、心理という名の迷宮に深く酩酊する。悪酔いしてはならないと一つ首を振った。
「――詮無きことですね。
 優しいゆりかごのような雨音だとしても、雨は雨……本能的に苦手なことに変わりはありません」
 肩を竦めながらそう言葉にする夕雨。その内面は相反する気持ちがぐるぐると蜷局を巻く。なぜ、こんな気持ちになるのか。その実、思い当たることが無いわけではない。
 失った記憶。その欠落は、目を逸らしているだけで常に自分と共にある。
 もし、欠落した記憶の中に、雨に関わる事があるのなら――。
 日常の中では些細な問題で気にする事はない。が、今日はどうしてかキリキリと心を締め付けた。
 目を細め、番傘越しに空を睨む。

 嗚呼――どうしてこんなにも、気分が悪いのだろう。

 主人の機嫌を察知してか、サーヴァントのえだまめが心配するように夕雨を見上げた。
「おっと、いけませんね。
 心配しないでください、えだまめ。ちょっと白雨を齎すお空に、尋ねたかっただけですから。
 夕立は貴方(ユー)の涙ですか、とね」
 冗談交じりの言葉に薄く笑いを乗せて、屈み込んで主を心配する相棒を撫で上げる。
 戯れのじゃれ合いは、この気持ち忘れさせてくれるだろうか。
 和紙を打つ雨音がしとしとと心に染みこんだ。
「もし――」
 雨水を踏みしめる音。そして雨に打たれるノイズと共に声を掛けられる。
「もし――、今は夕刻かな?」
「ええ、そうですよ。
 季節外れの夕立が降りしきる、まさに夕刻です」
 振り返らず、えだまめを撫でながら背中越しに応える。
 若い男と思われる声。穏やかな声色に似つかわしくない不自然な質問に疑問符を浮かべていると、「嗚呼、そうか……」と嘆息したのがわかった。
 何か違和感を覚えた夕雨が、和服の裾を整えながら立ち上がり振り向こうとすると、その声は実に感慨深く言葉を零した。
「きっと朱に染まる空がキラキラと輝いて、とても綺麗なのだろうね。――残念だ」
 振り返った先で、夕雨は目を見開いた。
 ギョッとする。
 なぜか一瞬動きを止めてしまうほどに、その異形に衝撃を受けた。
「嗚呼、本当に残念だ。
 もう見る事ができないなんて――。
 でも、きっともう見ない方が良いのかもしれないね」
 両目から流す鮮血が頬を伝い雨音と共に落ちる。その両目と、剥き出しの腹部を守るように組まれた不自然な両腕は性別を違えた二組。
 その異形、その異質な姿形の造りはまさに、
「――屍隷兵……」
 声に出しながら、夕雨は既に己が必殺の間合いにいることに気づく。ありえない事態への戸惑い故か、番傘を持つ手が小刻みに震えた。
「悲しい、苦しい、憎い。
 力あるものは救いを与えてはくれなかった。
 こんなにも世界を感じるというのに――もう、何も見る事はできない」
 渦巻く憎悪と悲嘆の感情が流れ込み、吐き気を催す。
 明確な殺意――力ある者(ケルベロス)へ向けた絶死の波動が雨音を掻き消した。
「誰もが救ってくれなかったこんな世界は全て消えてしまえばいい――」
「グぅっ……!
 恨み言に、付き合う気など、ありませんよ――ッ!」

 嗚呼――どうしてこんなにも、気分が悪いのだろう。

 胸に巣くう黒錆が心を腐敗させていく。
 気圧され歯噛みする夕雨は、救援を信じて、降りしきる夕立の中へと身を晒すのだった。


「夕雨さんが、屍隷兵と見られるデウスエクスの襲撃を受ける事が予知されたのです」
「これで三度目? 四度目? いっぱい付け狙われて大変だ」
 クーリャ・リリルノア(銀曜のヘリオライダー・en0262)の言葉にユズカ・リトラース(黒翠燕脚の寒がり少女・en0265)が冗談めかして言う。
「そう悠長なことは言ってられないのですよ。
 急がないと夕雨さんが危ないのです」
「うん、わかってるよ。すぐに向かって助けなきゃね!」
 ユズカの言葉にクーリャは頷いて、分かっている限りの敵の情報を伝えてくる。
「敵は『見ざる』大樹と呼ばれる屍隷兵なのです。数は一体。配下などはいないのですよ」
 敵は格闘戦を得意とする他、黒赤色のグラビティで攻撃してくる。詳細な情報は不明だが、回復能力も持っていると思って良いようだ。
「周辺は長屋の並ぶ住宅街ですが、路地裏ということもあって避難誘導の心配はいらないのです。戦闘に集中してほしいのですよ」
 説明を終えたクーリャがユズカと番犬達に向き直る。
「正体不明の屍隷兵ですが、夕雨さんの救援としてお手伝いをしてあげてくださいなのです。どうか、皆さんのお力を貸してくださいっ!」
「うん! どんな相手でもバッチリ倒して見せるよ!」
 ユズカの力強い返事にクーリャはぺこりと頭を下げて、番犬達を送り出すのだった。


参加者
福富・ユタカ(慕ぶ花人・e00109)
ユージン・イークル(煌めく流星・e00277)
京極・夕雨(時雨れ狼・e00440)
レカ・ビアバルナ(ソムニウム・e00931)
空閑・唯梨(夢見る森には意味がない・e04699)
アイカ・フロール(気の向くままに・e34327)
円谷・三角(アステリデルタ・e47952)

■リプレイ

●忘却者と盲目の屍隷兵
 襲い来る屍隷兵、”見ざる”大樹。
 相対し、一合、二合と技を繰り交わす京極・夕雨(時雨れ狼・e00440)は、この相手に対しやりにくさを感じていた。
(「この攻撃――グラビティ構成、似ている……?」)
 誰に――。
 考えるまでもなかった。それは他でもない、それは自身の得意とするグラビティ能力と酷似している。
 偶然か――それとも。
 雷鳴迸る敵の突きを番傘からくれなゐで防ぎながら、間合いを取る。
 やりにくいのはそれだけではない。
「大事そうに抱えて……まるで子供を守るよう――」
 呟いて、この屍隷兵が家族三人を”使った”ものだと気づく。
 ドロドロとした黒い塊が胸に渦巻く。
 嗚呼――本当に気分が悪い。
 だから――例え不幸な身の上であろうとも――絶対に逃がさない。
「貴方と、貴方の大事な家族が向こう側でもずっと一緒にいられるように、
 今日、ひと思いに倒します」
「救いを求めるものを討とうというのかい。
 力あるものよ――僕ら家族をこれ以上引き裂こうとしないでおくれ」
 大樹が腕を振るう。
 生み出された渦巻く黒炎。反応し夕雨も左目の地獄の炎を迸らせて、武器へと纏わせる。
 ぶつけ合う夕闇の炎。瞬間、夕雨は左目を押さえる。
 突如左目に広がる光景は、忘却者の見た幻視に他ならない。
 雨降りしきる中、両目を抉られた少年と、左目を抉られた少女の幻視。

 やめろぉ! 兄貴を離せ!!
 ――ちゃん! 逃げるんだ!

 脳裏に響く声は誰の声か。誰かの記憶を覗いたようなそんな不快感に夕雨は歯噛みする。
 はた、と気づけば大樹が必殺の間合いで腕を引く。咄嗟に腕をクロスして防御の姿勢をとった夕雨。しかし、大樹の一撃は寸前で中断させられる。
 一条の矢が牽制的射られ、大樹の攻撃を止めたのだ。
「夕雨さん! ご無事ですか!」
 弓を射ったレカ・ビアバルナ(ソムニウム・e00931)が声を上げる。次いで、救援に駆けつけた番犬達が、夕雨の傍へと駆け寄った。
「よかった、間に合ったようだね。
 待ってて、直ぐに傷は治すよ!」
 ユージン・イークル(煌めく流星・e00277)が治癒のグラビティを手繰って夕雨の傷を回復させる。
「京極さん、大丈夫かい!?
 そろそろ襲われ慣れてきちゃったかな。
 って、慣れても助けに来るに決まってるんだけどね」
 冗談めかして言う円谷・三角(アステリデルタ・e47952)に夕雨は「助かりました」と頭を振って応えた。
 集まった番犬達を前に、大樹がさも悲しそうに嘆きを零す。
「そうやって助ける力があるというのならば……、なぜ僕ら家族を救ってくれなかったのか。
 どうして、あの時、来てくれなかったのか――嗚呼、憎い、許せはしない」
「我々とて万能ではないのです。そう言っても収まる筈もありませんか。
 よろしい、夕雨を助けるついでです。
 お前が悪いのだとあなたが指をさして死んでいけるよう、おいでなさい」
 大樹の恨み言を真っ向から受け止めて、マリオン・オウィディウス(響拳・e15881)が大樹を睨めつける。
「どれだけの憎しみ、悲しみを抱いているのか想像も出来ませんが……、
 夕雨さんを襲うというのであれば見逃すわけにはいきませんね」
 三角と共に夕雨を治癒しながら大樹へと視線を向けていた、アイカ・フロール(気の向くままに・e34327)が、そう言葉を零す。
「屍隷兵の出自を考えると、やりにくい相手だね……。
 でも、夕雨さんをやらせはしないよ!」
 ユズカ・リトラースの言葉に、番犬達が頷く。
「あーあ、だから雨が降るから出かけるなって言ったのに……、
 なんでそう、『ユタカさんが言う位ならいっそ晴れますね』みたいな思考になるのでござー」
「あの時は、そんな気がしたんですよ。
 まあ、今日ばかりは反省していますよ。本当に」
 夕雨の言葉に福富・ユタカ(慕ぶ花人・e00109)は「やれやれ」と肩を竦めて、
「まぁ、迎えに来て正解だったな。さっさと帰るぞ。
 ……そいつを倒してな」
 と、鋭い眼光で大樹を射貫いた。
「夕雨さん、ご無事でよかったです。わたしも、全力で力になりますね」
 戦闘経験の少なさ故に些か緊張を持ちつつも、空閑・唯梨(夢見る森には意味がない・e04699)は大切な友達を助ける為にこの場に駆けつけた。
 唯梨に感謝するように夕雨が頷いて、大樹へと対峙する。
「覚悟してください。絶対に逃がしはしません」
 もう一度、ここで止めを刺すのだと口にする夕雨。悲しげに立つ大樹が唯一開く口で静かに言葉を零す。
「ああ、そうだろうね。君達にとって僕は倒すべき敵だ。
 力あるものは、そうして多くの人々を救うのだろう。
 救えなかった僕ら家族のことは見なかったフリをしてね」
 それは違う。
 この場にいる番犬達の誰もが口にしようとして、しかし大樹の事を考えれば、それは軽々しく言葉にはできなかった。
「ならば僕は――”見ざる”大樹は、自分と家族の為に復讐する。
 救いを与えてくれなかった世界を、終わらせる為に――」
 濃密な殺気が広がって、地面を打つ雨が飛沫となって飛び散った。
 悲嘆に暮れる屍隷兵、”見ざる”大樹との戦いが始まった。

●家族の幻影
 雨だれの中を十の影が疾駆する。
 電光石火の突きが番犬達の身体を抉り神経を麻痺させて、沸き立つ黒炎が肌を焼くと同時に雨を蒸発させる。
 盲目であることをまるでハンデとしない大樹の動きに翻弄されながら、番犬達は大樹を守る二対の腕に親の愛を感じ取り、家族の幻影を感じ見る。
 死してなお――デウスエクスに改造されてまでも――子供を守ろうとする親の力。それは憎しみに駆られる大樹を世界から守るようでもあった。
 竜砲弾を放ちながらレカは不安に駆られていた。
 大樹の容姿、その姿に重なるは夕雨の面影。もし夕雨の失った記憶に大樹が関係するというのなら……。
 そんな不幸があるというのだろうか。どうか勘違いであってほしいと願う。
「出来るだけ傷は付けないようにしてあげたいですね……!」
 視線の先には大樹を守る二対の手の指先、同じデザインの指輪。
 幸せだった頃の家族はここになく、互いに命を奪いあうその光景に胸を痛める。
 それと共に、レカは自分の妹と両親の姿を想起する。
 もし大切な家族を失ってしまったら――その悲しみは己には想像もつきそうにない。
 やるせなく、いたたまれない思いに、瞳を伏せた。
「call、八角の牢獄」
 正八角柱の結界を生み出したマリオン。大樹の武器――そのグラビティ能力――を封じる。
 攻撃を繰り返しながら、マリオンは家族というものへと思いを馳せる。
 自身に家族と呼べる存在はいない、と思う。同型機はいたが、あれを家族と呼んでいいかは悩みどころだ。
 だが、休日の晴れた日に手を繋いであるく親子を見ると、少し羨ましい気持ちになることがある。
 大樹の眼を塞ぐ両親の二つの手。あの手が視界を塞ぐ前に、事件に気づけていれば――マリオンは悔やむ気持ちが少なからずわき上がるのを感じた。
「ユージンさん、唯梨さん、そっちはお願いします!
 私はユタカさんを――」
 仲間と手分けしながら治癒のグラビティを手繰るアイカ。
 父と母、そしてサーヴァントであるぽんずを含めた四人家族のアイカ。冒険家である両親だ、出会えることは滅多にないという。
 けれど両親からの手紙には元気で生き生きとした様子が伝わってくる。それもあって寂しさは感じていなかった。
 なにより、今のアイカの回りにはぽんずや多くの友人がいるのだから。
 大樹を守る両の腕に家族の愛の重さを感じながら、けれどその手に家族を奪うことはさせたくないと、アイカは仲間達を支えていく。
「ユズカさんフォローよろしく!」「任せて!」
 三角がシャッターを切る。連写した風景が即座に現像されて、『空中に浮かぶ道』を描き出し、その上を滑走して突撃する。その動きに合わせてユズカが二発蹴りを見舞った。
 新進気鋭の動物カメラマンである三角の周りには、動物が多くいる印象がある。
 家族構成がどのようなものであっても、きっと三角の周りには笑顔の絶えない動物たちが、家族のように寄り添っていると思う。
 その表情を、記録に残し、後世へと伝えるのは三角の勤めだ。
 もし、大樹達が無事だったら――彼らの瞳はどのような色を輝かせていただろうか。
 シャッターを切りながら、三角はこの悲嘆に暮れる屍隷兵を記録していく。
「君の事は知らない。
 でも、君の両親の思いは……少しはわかる気がする」
 家族がお祖母ちゃんだけだっというユージンは、家族というものへの理解が不透明だ。
 そんな絆を羨ましい気持ちを少しもっていた。
 大樹をの眼を塞ぐ両親の腕。
 誰かを傷つけたことも、誰かに刃を向けられた事も見なかった事にさせ――ただ安らかに眠って欲しい。そうユージンは感じ取った。
「――そう、そこまでは尊重する」
 でも――。
「守ろうとした人がいたであろう事。
 そして今も君の目を塞ぐ事で守ろうとしている人がいる事実を『見よう』としない君の事は、絶対に止める!」
 自分の思いを貫かせて貰う。ユージンは家族みたいに大事に思っている”雨の似合う彼女”を……絶対に守ると、支えてみせるとグラビティを手繰り癒やしていった。
(「兄さんがいなかったらわたしはここに存在していない」)
 しかし、その兄から託された家族は護れなかった唯梨。
 失うことも、護れなかったことも苦しい。大切な存在であればあるほど、その重荷は重くのし掛かる。
「だから、絶対に忘れない――」
 温かかった存在があったことも、それを護れなかった後悔も、全部、抱えて生き抜いていくのだと、それが今の自分が家族に出来る唯一のことだと、唯梨は考えている。
「その想いを全部憎しみに変えてしまう気持ちもわからなくもないですよ」
 大樹へと肉薄し、その刃をジグザグに振るう。
 その気持ち……それは心の底からの本意でないことも、唯梨は理解している。だから――。
「もう苦しまないでください」
 大樹の反撃を受けながら、しかし今一度、肉薄し、空を断つ一撃を放った。
「傷つけられる痛みを知っているなら、もうこれ以上誰かを傷つけないで欲しいでござる」
 大樹が湧き上がらせる炎が傷を癒やし状態異常を取り払う。
 それを確認するとユタカは疾駆し、大樹の懐に潜り込み、卓越した技術からなる一撃を見舞う。
 天涯孤独。
 親の顔も知らないというユタカだが、それを寂しく想う気持ちは過去のものだ。今は幸せが過ぎる。
 それ故に、大樹の気持ちをすべて理解できるとは言えなかった。
「それでも――俺にも大事な人はいるんだ」
 家族みたいに、想っている人がいる。夕雨は勿論その一人だ。
 ユタカにとって夕雨は――とても大事な存在だ。
「そんな夕雨殿を――夕雨を傷つけたり悲しませたりしないでくれ」
 悲しみや苦しみは、一人ではなく二人、いや家族で分かち合いたいのだと、自らの持つ旅団員を家族と思うユタカは大樹へと気持ちをぶつけていく。
「君達が来てくれていれば、僕のこの両の眼は未だ夕立の空を見上げる事ができたというのに――なぜ助けてくれなかったんだ」
 抉り取られた両の眼を嘆きながら、大樹は言葉を零す。
 その感傷に当てられて、夕雨は左目に手を当てた。
「……私も、左目は空っぽで地獄無しには世界が見えないんですよ。
 ちょっとしたお揃いというやつですね」
 夕雨が大樹へと肉薄する。
「家族も知らない(覚えてない)のに仲間まで失うのは流石に堪えますからね」
 稲妻を帯びた超高速の突きからの、地獄を帯びた強打が大樹を打つ。
「君から感じるこの感覚はなんだ? 君はもしかして――」
 何かを察したように呟く大樹。
 ぴしり、と夕雨の脳が軋む。歯噛みして、余計な感覚を投げ捨てる。
 間合いを広げた大樹を逃さぬように、番犬達が取り囲んだ。
 追い詰められた大樹はしかし、いまだ諦める事無く。
「僕は、諦めるものか、今度こそ生きるんだ」
 雨音は未だ絶えなかった。

●雨に夢散して
 京極夕雨は記憶喪失である。だが、それをハンデと思う事はなかった。今の生活は充実しているし、かけがえのない友人知人もできた。
 だから、例え目の前の男に言いしれぬなにかを感じても、武器を打ち合う度に、誰かの両目や、誰かの左目を抉られる光景や、雨の中助けを求めて彷徨った、そんな幻視をしたとしても、それを自分の”記憶”から想起されたものだとは考えもしない。
 故に、今この場で夕雨の記憶が戻る事は絶対にないことはわかりきっていた。
 この話は、徹頭徹尾不幸が擦れ違うだけの話でしかないのだ。

「追い詰めています。ユズカさん!」
「おっけー! 回り込むよ!」
 レカとユズカが側面から挟み込むように疾走し、呼吸を合わせた視認困難の斬撃を浴びせる。身体を切り刻まれながら、大樹が稲光る突きを見舞おうと腕を引いた。
「やらせませんよ」
 反撃の一撃は割り込んだマリオンが見事に防ぎ切る。衝撃に大きく間合いを広げさせられながら、しかし止まる事無く圧縮した霊弾を発射、大樹に叩きつけていく。
「ユージンさん! 唯梨さん!」
「任せてよ!」「はい、合わせます」
 アイカとユージン、そして唯梨の三人が治癒グラビティを手繰る。手分けして放たれたグラビティが夕雨の力を高め、揺るぎない支援を纏わせた。
「福富さん、一緒に!」
「いくでござるよ! ついてくるでござる!!」
 クラッシャーの三角とユタカが駆ける。
 迫る二人のプレッシャーに押され、大樹が自らを守るように黒炎を吹き上げる。その炎原を突き破り、肉薄した二人がグラビティを手繰る。
 幾重にも輝くフラッシュが破滅の閃光となって大樹の肌を焼き、そのふさがれた顔を写し取る。
 盲目である大樹へと当てつけるように、ユタカが鋭い眼光から光りを放てば大樹を守る腕ごと切り裂いて、
「これはおまけだ――ッ!」
 二対のバンカーによる飛翔突撃が大樹を穿つ。
 雨音は未だ強く地面を打つ。
 左目の地獄に映り込む幻視も、雨に濡れる髪も、そしてざわざわと心を腐敗させていく黒炎を振りまく大樹にも――全てが胸くそ悪いこの気持ちを生み出す要因のように思えてならない。
 だから今は、全てを掻き消すために目の前の敵を討つ。
「――とっておきの技です。特別な雨で見送ってあげましょう」
 傘も武器も全てを手放して刹那の呼吸で大樹へと近寄れば、その服を強く掴む。
「……グゥッ、この――!」
 大樹の手が、夕雨の頭を掴む。
 同時、夕雨の左の眼孔から遡る地獄の炎が霧雨のごとき迸りを見せて、自身もろとも大樹を包み込む。
「大樹さん、嫌な名前ですね。
 雨は大木の下では全て塞がれてしまうものですから」
 ああ、でも――と、夕雨は続ける。
「私は私の名よりもそっちの名前のほうが好きです。
 私は雨が嫌いなので」
 夕空のような炎に包まれながら、大樹は自身の命が尽きようとすることを感じ、同時にその手で掴む夕雨の頭部に懐かしさを覚えた。
「君は……もしかして――ちゃん?」
「……兄貴――……? いえ、誰ですかそれは――」
 無意識に兄と口走ったことに、頭を振って、夕雨は無慈悲に、無感情に、霧雨を濃霧へと切り替えていった。
 命の灯火を燃やし尽くしていく最中、大樹を守る両腕はさらに強く己が息子を抱き留め、最後までその両の眼を開かせる事はなかった。
「嗚呼……もう一度、夕立の空を見たかった……」
 静かに零れ落ちていく手は、まるで夕雨の頭を撫でるようだった。

●夕雨と夕立と貴方と
 ほぅ……と、唯梨が息を吐く。
 戦いが終わり、戦闘の余韻を感じながら、足を引っ張っていなかったか心配になる。
 その心配を拭うように、サーヴァントの田子作に腰掛けるマリオンが唯梨の背中を軽く押した。
 周辺をヒールし、幻想化した風景を納める三角。そのレンズが、崩れていく屍隷兵を見送るアイカの姿を映した。
「こんなカタチになってなお子を守る親の愛……。
 どうか安らかにお眠り下さい」
 ぽんずを撫で上げながら家族の尊さを感じるアイカ。
 傍に立つ夕雨は、どこか呆とした様子で雨粒降りしきる夕空を眺めていた。
「雨はやっぱり嫌いです」ふと呟いた言葉に、三角が言葉を投げかける。
「雨も悪くないよ。虹と新芽は、雨の後に生まれるものだからね……命が溢れてるって思わないかい?」
「そう、かもしれませんね」
「夕雨さん……」
 レカが近寄りタオルで献身的に拭いていく。
 もう二度と、禍に濡れてしまわぬように、と。
 近づいたユージンがすこし照れたように言う。
「ユウちゃん。……パパって呼んでもいいよ」
 その言葉に、無表情だった夕雨がニンマリと笑って、
「それでは、パパ、今日のご飯は焼き肉がいいですね」
「おー、いいでござるな。パパ拙者達の分もよろしくでござる」
 と、冗談めかしてユタカと茶化した。そんなやりとりに、ユージンはいつもの日常が戻ってきたのだと、笑顔を浮かべて。
「お帰り」
 と、言葉を掛けた。
「ええ、ただいま。さあ、帰りましょう」
 広げた番傘を雨が打つ。
 夕立の中帰路へと付いた夕雨が、ふと振り返った。
「兄、がいたら、雨に濡れた私をあんな風に撫でてくれたのでしょうか……。
 いえ、――詮無きことですね」
 どこかよく似た貴方に別れを告げて、夕雨は暮れなずむ夕立の中を駆けていった。

作者:澤見夜行 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2018年12月23日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 7/キャラが大事にされていた 0
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