銀の月夜に鬼は二度、笑ゐ

作者:七凪臣

●悪鬼、再び
 涼やかな虫の音を乗せた風が、薄の穂に細波を起こさせる。
 背後に朱塗りの鳥居を、正面に街の灯を見る境の草原は、今は銀の月夜。
 絵に描いたような心地よい秋の宵。
 だのに、年の初めに赤いエインヘリアルに襲われた彼の地に、再び不穏な影が忍び寄る。
 ゆらりゆらり。
 薄の海原を仄青く輝く怪魚が三匹、連なり泳ぐ。
 その軌跡はやがて魔法陣のように輝き――、
『ふゥん?』
 月の船から飛び降りた彼の如く、薄野原にずぅんと地響きを伴い空より舞い降りた黒衣のエインヘリアルは、長い射干玉の髪を風に遊ばせ、怪魚――死神より死の淵より甦らされた同族であったモノを白い目で見る。
『これはまァ、随分と』
 華やかだったろう赤い鎧は錆色に。ただし衰えぬ戦意を示すよう、兜の特徴だったろう角が全部位に及んでいる。
『まるでハリネズミとかいうヤツだ』
 嘲りを含んだ評にも理性なき瞳は応えず、飢えた獣そのままに街灯目掛けて錆色の巨躯は銀の波を掻き分け駆け出していってしまう。
『まったく、面白味の欠片もないヤツだ。それならそれで、こっちはこっちで楽しむだけだけどなァ』
 侮蔑を塗した笑いで喉を震わせ、黒衣のエインヘリアルも掲げた長剣の刃を月明かりに怪しく煌めかせた。

●鬼が笑う秋の宵
 『笑鬼』と呼ばれる鬼を祀る社と外界を隔てる薄野原で死神の活動を確認したとリザベッタ・オーバーロード(ヘリオライダー・en0064)は言った。
「死神といっても、怪魚のような姿をした知性を持たないタイプです。此方の戦闘力そのものはそう大した事はないのですが、問題は死神がサルベージした罪人エインヘリアルと、新たに出現する罪人エインヘリアルです」
 サルベージされた方をかつて『赤鬼』と称したリザベッタは、新手の方を『黒鬼』と呼ぶことにして話を進めていく。
 死神たちは変異強化した上でサルベージした赤鬼をデスバレスへ持ち帰ろうとしているらしいこと。
 黒鬼の出現は、エリン・ウェントゥス(クローザーズフェイト・e38033)が危惧していた通りのエインヘリアル側の『罪人エインヘリアルのサルベージ擁護』だろうこと。
 二つを続けて語った少年紳士は緊張した面持ちで今回の肝になる要点を付け足す。
「サルベージされた赤鬼は、召喚されて姿を現した7分後には死神によって回収されてしまうのです。ですから可能な限り、それより以前に撃破して下さい」
 ケルベロスが現着する頃には、周囲への立ち入り禁止の処置は済ませてある。
 ただそれより広範囲での避難を行うと、グラビティ・チェインを獲得できなくなるため、サルベージする場所や対象が変化して、事件を阻止できなくなる可能性があるので、前以て手を打つことは出来ない。
「赤鬼の方は7分で死神に回収されてしまいますので人々に害が及ぶ事はないでしょうが、黒鬼の方はそうはいきません。逃走を許してしまえば、かなりの人的被害が出ると考えていて下さい」
 とはいえ、理性を失った赤鬼も、援護に現れた黒鬼も恐ろしく好戦的。ケルベロスと相対すれば、ケルベロスが戦闘不能に陥るまでは他所へ気をやる可能性はない。
 赤鬼は、豪快な立ち振る舞いをよしとしたかつての性質のままにルーンアックスを振るい、狡猾さが滲む黒鬼は計算高くゾディアックソードを繰る。
「気持ちの良い秋の夜に無粋な珍客。左潟さんが憂慮されていた通りになってしまいましたね」
 ――虫の音響く月夜の薄野原で事件が起きるかもしれない。
 左潟・十郎(落果・e25634)の懸念を思い出して眉を下げたリザベッタは、ケルベロス達をヘリオンへと急かす。


参加者
レカ・ビアバルナ(ソムニウム・e00931)
吉柳・泰明(青嵐・e01433)
連城・最中(隠逸花・e01567)
小山内・真奈(おばちゃんドワーフ・e02080)
天見・氷翠(哀歌・e04081)
サイファ・クロード(零・e06460)
左潟・十郎(落果・e25634)
ルリ・エトマーシュ(フランボワーズ・e38012)

■リプレイ

●月が観る、最初の一幕
 銀穂の海に小山内・真奈(おばちゃんドワーフ・e02080)の長い黒髪の毛先が泳ぐ。
 ――あ。
 四十を過ぎても幼い儘の肉体。その手で五回くらい伸ばした先に見つけたリボンに、真奈は己が髪が解けている事を知り、大きな眼で遥かな巨体を仰ぎ睨む。
「すべての攻撃はここに戻ってくる」
 虎視眈々と唱え、疾駆する。
「遥か昔の分も含めてな――こういうのは、どうや!」
 全身を躍動させて真奈は跳ぶ。喰らったグラビティが凝集された拳は眩く輝き、黒鬼の腹部装甲を鋭く切り裂いた。
「真奈、少し下がるんだ」
 着地と同時によろりとふらつく真奈へ、緊急オペの支度をし乍ら左潟・十郎(落果・e25634)が警鐘を鳴らす。
 真奈はケルベロス陣営の大きなダメージソース。故に前に出るのは止む無き事。だが、だからこそ赤鬼の獲物に選ばれた。
『はてさて、何時まで保つかねェ?』
 厭味とはっきり分かるよう喉を鳴らす黒鬼の足元へサイファ・クロード(零・e06460)が滑り込む。
「テメェは黙ってろ」
 脹脛へ触れるのは一瞬。しかし注ぎ込まれた螺旋の力に、血が噴き出す。それでも圧倒的優位を失わない敵から十郎へルリ・エトマーシュ(フランボワーズ・e38012)は視線を移し、少女の音色でころりと囁いた。
「甘花の香りに乗せて、みなさんに癒しの光を」
 月の夜に、新たな白光が重なり合って出現する。ほろり、はらり。光の裡で咲き誇る無数の花々。色とりどりの香りはあたたかく漂い、十郎が黒鬼から負わされていた傷を癒し包む。
 年相応の老女らしいたおやかな仕草に、従う翼猫のみるくも倣い優しく羽ばたき、真奈らから痛みを僅かに遠ざけた。
 虫の音は、止んでいる。
「六分です」
(「嗚呼、全く」)
 ――無粋にも程がある。
 刻む時を平たく告げ、連城・最中(隠逸花・e01567)は募る焦りを押し殺す。
 実力で上回る、戦いに長けた相手を二体同時に相手取る困難さが身に沁みる。ましてや一体は、己が命さえ一切惜しんでいないのだ。
『ハハ、ハハは、はハハッ!』
 壊れたような――事実、壊れている――哄笑と共に、真奈目掛けて振り下ろされた戦斧を、強引に割り入って受け止めた吉柳・泰明(青嵐・e01433)の全身が軋む。
 こんなのを、盾役でない者が幾度も受けては、歴戦のケルベロスであっても命が危うい。
 その時。
 矢を番えていたレカ・ビアバルナ(ソムニウム・e00931)は、赤鬼の背後から黒鬼が飛び出すのを見た。
「、避けて下さいっ」
 咄嗟に叫ぶ。でも、間に合わない。
「あんたらは、終いまでがんばりぃや」
 顛末を悟った真奈は、若人らを振り返り晴れやかに笑う。
「……!」
 声にならない悲しみに、天見・氷翠(哀歌・e04081)は冴えた月を迎望する。
 けれど静かに佇むそれは、この地に立った時と同じ儘に地上の喧騒を薄ぼんやりと照らすのみ。

●銀月夜の始まり
 月夜に虫の音。そこへ加えて、罪に塗れた赤と黒の鬼。
「日本の昔話にタイムスリップしたみたい」
 あまりにお誂え向き過ぎる情景に、思わずサイファが零した嘆息する。聞きつけた十郎は小熊猫の耳をピクリと欹てると、ひょいと両肩を竦めてみせる。
「見入ってる場合じゃないぞ?」
「わかってるよー」
 自慢の兄貴分の指摘に少し間延びした応えを返したのは、うっかり怪魚が描く青い光のゆらぎに見入っていたせい。しかし、それ以上に――。
「テメェの罪でも数えてな」
 内心の焦燥を消し去る為に余裕を装い、サイファはチク、タクと二体の鬼へ秒針の幻聴を齎し不安を誘う。
「――咲き誇れ、紫電の花よ」
 平素は視界を隔てるレンズを今は懐へ仕舞い、素の眼差しの最中も視線で赤鬼を射抜くと一駆けし、辿り着いた巨大な足の甲を迷わず一突き。添えた片手で我が身より強力な雷撃を流し込む。
 迸り散る紫電は、菊花が如く。
「……我が操るは、揺り籠の天蓋――」
 最中に続き、時空凍結の力を籠めた薄絹の帯を思わす水の流れで赤鬼を捉えた氷翠は、鮮やかさに比例する苛烈さに胸を痛めた。
 同じ星の命を巡り相容れぬ者同士であるのは理解すれども、どうして分かち合えないのかと何時も悲しい。奇しくも空には美しい秋の月。共に穏やかに見上げられれば、どんなに良かったことか。
 それは叶わぬ願い。討ち果たさねば、多くの無辜の命が彼岸へ渡る。
(「黒い方の動きが読み難いのも、厄介です」)
 秋夜に吹く風が孕む不吉さに微かに身を震わせ、だがそれを振り払う決意を胸にルリは傷付いた真奈へ花の癒しを舞わす。世界と呼応し、大いなる力を発揮するルリの治癒力は低くはない。とはいえ凝り残って蓄積するダメージばかりは如何ともし難い。
 されど後手に回っているわけでもない。みるくが皆に授ける自浄と加護と同じく、敵が帯びた穢れ払いの力を氷翠が早々に砕いたのは良作だった。同様の力を十郎の先見の明によりレカと最中も得ているのも、心強い事この上ない。
「四分です」
 それでも、最中が紡ぐ時の流れは無常。
 真奈へ襲い掛かり、ルリによって凌がれた赤鬼の攻撃力は未だ衰えを知らず。今度は気紛れに前列へと星のオーラを注がせる黒鬼は言わずもがなの現状に、操る黒鎖で傷を負ったばかりの仲間たちの守りを固める十郎は決断を下した。
「黒鬼撃破に絞ろう」
 死神の思惑を挫けぬのは業腹だが、人々の無事には変えられない。
 重い一撃を受け止めた余波である割れた額から血を流しつつ、泰明は短い息を一つ吐いて気持ちを切り替えると、態勢を整え直す為に気力をルリへと分け与える。
「――、……」
 冴えた月光に照らされた真奈の顔色は青白い。レカはその小さな背へ励ましの言葉を投げようとして、止めた。磊落に振る舞う真奈のことだ。きっと無理にでも明るい声を出すだろう。それは疲労に繋がる。
(「ルリさんだって、頑張っているんです」)
 信厚き女性の盾としての奮戦ぶりに鼓舞されて、レカは満月にも似る霊弾を頭上に練り上げると、黒鬼へ放った。
『んン? ハリネズミ君は諦めたのかァ?』
「ざぁんねん。そういう挑発には乗らないよ」
 標的が自分へ変わったのを揶揄る黒鬼の侮蔑を、サイファは悔しさなどおくびにも出さず軽やかに受け流す。
 月見にうってつけの夜。
 無粋なバカ騒ぎをやらかす輩は、ここから先は通せんぼ。

 ――そして。
「はは……、さすがや。ちょっと、やすませて、もらう、で……」
 銀の海原へ真奈が沈んですぐ、
(「嗚呼、彼は。死して尚、弄ばれるのか――」)
 陽炎のように、淡雪のように。消えゆく赤鬼が残した怪しい光の名残をみつめ、最中は唇を噛む。
 報告書で知った命。仮初めと対峙したエインヘリアル。同情はしないが、理不尽は覚えざるをえない。
(「これが、デウスエクスのやり方」)
「残念だったなァ? でも、お前らもすぐにまとめて――」
「そんな事にはならない。これ以上、思い通りになると思わない事です」
 饒舌な黒鬼の嘲りを一刀両断。最中は闇へと溶け、雷となって耀き狡猾な敵とまっすぐ切り結ぶ。その隙に、薄い青みを帯びた翼で氷翠が空へ飛ぶ。
 背には暮明に眠る朱の鳥居。遠くには、人々の営みの光。隔てる薄野原は戦いに踏まれ、薙ぎ払われても、銀の穂をゆらゆら靡かせている。まるで己が上で繰り広げられる荒事になど、些末事だとでも言うように。
 母なる星の雄大さを具に感じつつ、氷翠は足に星の煌めきを灯す。
 終わらせねばならない。
 これ以上の哀しみは、この美しい月夜に欲しくない。

●薄海原に沈む二幕
 求め得る最善を欲したのは、魂が善良な証。守れるもの全て、守ろうとした気高き理想。それに手が届かずとも理性と冷静さを失わないのは、確かな剛さを心に芯に据えているから。
「すまない」
「大丈夫です、気にしないで下さい」
 おっとりと微笑むルリの顔色は、徐々に青褪めてきていた。
 身に着けた防具の特製を活かし、受ける攻撃を分け選っていた泰明とルリ。けれどみるくを連れるルリの負担は大きく、至近距離から繰り出される黒鬼の長剣の一撃を彼女へ任せていた泰明は、以後は自身が全て請け負う覚悟を決める。
「鬼奉る社、平和な笑いに満つる地に。悪鬼の嘲笑は無用――いざ、黄泉路へ送らん。心血を、此処に」
 群がる手つかずの怪魚を強引に振り払い、泰明は根差す狼の血に誘われ宵を駆ける。小細工なしの真っ向勝負。銀の波を掻き分け正面から肉薄し、全力での跳躍と共に白刃を薙ぎ払う。
『しつこい蠅共だ』
 抜かれる予兆のなかった動きに翻弄された黒鬼の巨体が、ずぅんと鑪を踏む。ケルベロス陣営は最たる破壊者を欠いてはいるが、後方より狙い撃つ者らは全員健在。
 あとは減った攻め手に対し、戦線を維持する盾がいつまで機能するかが勝負の分かれ目。
「美しい月とはまるで不釣り合いなご来客。笑鬼も今宵ばかりは笑みを崩していらっしゃることでしょう」
 肩口で遊ぶ髪の狭間から、長い耳先を覗かせレカが黒鬼との距離を一気に詰める。
「禍は私達の手で振り払ってみせますとも――外しません。どうか、お覚悟を」
 弓使いの森に生まれた少女の神髄。赤茶の瞳で月光を受け、レカは見上げる頭上目掛け矢を番える。
 ぎりり、張り詰めた弦が限界を鳴いた。直後、レカは花毒を塗り付けた毒矢に自由を与えた。
『おォ?』
 剣を持つ側の手首を射抜かれ、黒鬼が瞬く。
「オレはどっちかっていうと、月より団子派でね。だから、こいつをプレゼントだ!」
 レカの一撃は、恐ろしく鋭かった筈だ。だのに未だ悲鳴を上げぬ相手へ、サイファは球状に仕上げた雷を打つ。添えた軽口は、敵の空気に飲まれぬ為の強がりだ。しかし、強がりも続けていれば、真の強さへ昇華する。
『……ッチ』
 サイファによって幾重にも纏わりつかされた違和に、黒鬼が初めて苛立ちを見せ、八つ当たりで周囲の薄を蹴散らす。
 一斉に穂から綿毛が飛び立つ。視界を埋め尽くす銀。怪魚の青光をより謎めかせる種子の波濤を破り、最中は黒鬼の後方から真横へ滑り入り、名もなき業物を閃かせる。
「あなたは、月を見上げた事はないのでしょうね」
 凛然とした調べは、白月の歌。描かれた軌跡もまた、優美なる月の弧。
 もしも同じ月を愛でられる存在であったなら。端からこんな事態にはなっていなかったろうという儚い幻想ごと、最中は風雅を介さぬ怪物の右足の腱を装甲すらものともせずに断ち切った。
 ――グ、ァ。
 衝撃に天を仰いだ黒鬼の口が、意地で音を殺した苦痛を漏らす。
(「ごめんなさい、ごめんなさい……」)
 例え他の誰が見捨てても、最後まで哀れを捨てぬ氷翠は、胸の裡で幾度も謝罪を繰り返し――けれども広げた翼で高く飛ぶ。
 乱れる長い髪を避け、叩き落そうとする腕を掻い潜り。氷翠は具現化させた光剣で黒鬼の首筋を薙ぐ。
『ッ、この……羽虫がァ!』
「させません」
 命脈をだらだらと溢れさす首の傷口を抑え、黒鬼が氷翠の着地を狙い剣を掲げる。しかしその足元へ、ルリが果敢にまろび体当たった。
 大きくバランスを崩した巨体が傾ぐ。
『調子に乗るな――』
 ケルベロスの勢いに飲まれ始めた黒鬼が、苦し紛れにルリへと剣先を向ける。が、そこへは既に泰明が回り込んでいた。
「言っただろう? 俺達の目標は、黒鬼撃破だと」
 泰明へ治癒を施す準備を整え乍ら、十郎は静かに最後通牒を突き付ける。

 身の自由が利かなくなったデウスエクスの長剣が、空を切った。生まれた太刀風に、薄の綿毛が宙を舞う。
 捉え処ない銀の波へ、泰明は牙を剥く怪魚らを投げ捨てると、ぐっと強く踏み込む。
 随分と血を失った体は重い。けれど血に混ぜて気勢を吐き、狼の鋭さを得た拳に重力を乗せ、巨体を問答無用で殴り倒す。
「レカさん」
「はい、お任せ下さい」
 泰明を追い走ったルリが、刹那、友人を振り返る。交わす言葉は、僅か。でもそれだけで意を通じた女と少女は、終局へ至る最善を選択する。
 ルリが巻き起こした目もあやな爆風に背を押され、レカは弓をナイフに持ち替え低く銀穂の海原を割り進み、夜陰へ紛れて黒鬼の左足首を深く斬り付けた。
『!!』
 強化された攻撃力と、倍化された戒めに、黒鬼の表情が醜く歪む。
「はてさて、テメェの罪は数えきれるもんかね?」
 黒鬼が揶揄を繰り返したのを意趣返し、サイファが煽る口調で敵の脳へ絶望の幻聴を吹き込む。それにより益々身動き出来なくなった巨躯に、最中の神速の剣は捉えよう筈もない。
「こんな夜にはやはり、澄んだ虫の音こそ似合う」
 暗に雑音の主を否定し、最中はとんっと地面を蹴った。跳躍は、巨体の身の丈半程まで。無数の罅が入っているのを見逃さない最中の一撃は、爆ぜる雷の菊と共に黒き鎧を砕き剥す。
「……我が操るは、揺り籠の天蓋……煩わず、ただ深い眠りへと……」
 ――せめて、安らかに。
 ゆら、ゆら。水の薄絹を漂わせ、無数の傷に苛まれた黒鬼を氷翠は柔く包む。果たして氷翠の慈愛は種を異にする相手へ通じるかは、分からない。
 ただ、冷えた水帯に覆われた黒鬼の瞳からは、絶望が消えていた。
 代わりに残されたのは、執着。
『おのれ、オノレ、このオレがぁア!』
 みるくに爪を立てられた黒鬼が、がむしゃらに堕ちた星々を降らす。しかし残滓のような力では、ケルベロスの誰一人に膝をつかせる事さえ能わない。
「ジュウロウ!」
「わかってるよ」
 サイファの呼び声に、少しだけ口元を弛めた十郎は、忌々し気に見下ろしてくる敵を涼やかに見上げた。
「そろそろ、虫たちが気持ちよく歌える時間を返してやらないとな」
 柔らかな白いシャツの裾を一つ叩いて払い、十郎は千の青葉を戦場へと招く。
「同じ鬼でも、無粋なのは此処にゃ不似合いだ――永久の蒼に、沈め」
 冬にも枯れぬ緑が、羽根のように舞ったのは一瞬。瞬く間に黒鬼を囲う檻と化したそれは、刃となってデウスエクスの身を切り刻み、永久の命へ『終わり』を教えた。

●そして再び、秋の宵は美しく
 三々五々に散ろうとする怪魚は、余さず仕留め終えた。
 今はもう青い残光さえ見当たらない。故に最中は仕舞っていた眼鏡をかけ直し、静寂が戻った銀月夜を眺め遣る。
 意識を失った儘の真奈を、体格に一等優れた泰明がちょうど担ぎ上げていた。脈や状態を確かめる十郎と、胸を撫で下ろすサイファの様子から、命に別状はないのだろう。
 安堵に細く息を漏らすと、耳に虫の音が忍び入る。
 危険が去ったのを悟った小さな命が、短い秋を再び謳歌し始めたのだ。
 その音色に氷翠は逝った魂の迷わぬ旅路を祈る。
「綺麗なお月様ですね」
 手を翳し、レカは穢れなき月を振り仰ぎ。陽だまりを思い出させる微笑で是を返したルリはみるくを抱き上げ、帰路を急ぐ仲間を追う。
 ぽつぽつと残る血の跡は、全て薄が隠してくれる。
 ケルベロス達が去った後には、何事もなかったような銀の海原がひっそりと広がっていた。

作者:七凪臣 重傷:小山内・真奈(おばちゃんドワーフ・e02080) 
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2018年10月18日
難度:やや難
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 7/感動した 0/素敵だった 0/キャラが大事にされていた 0
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