昏く澱む蒼の影

作者:六堂ぱるな

●愛する幼子へ
 暑さもやっと鳴りをひそめ、季節は秋に移ろうとしている。四季のうつろいを身近に感じながら育ったシル・ウィンディア(蒼風の精霊術士・e00695)はその日、久しぶりに山を訪れていた。澄んだ空気と麓から吹き上がる爽やかな風が肌をくすぐる――と、シルは耳をそばだてた。
 火がついたような子供の泣き声が聞こえてくる。そう遠くない。
 駆けだしたシルは声の主を探した。迷子だろうか、それとも。
 山道を数分駆け下った先には、黒と暗系色の衣装をまとった女がいた。左手には杖、右手で女の子の手を握っている。
 女の子は女の手から逃れようと足を踏ん張って抵抗していた。一方で女は子供の様子がまるで眼に入っていないように、楽しそうに微笑んでいる。
『山の空気は気持ちがいいわね。でももう帰らなくちゃいけないわ』
「やだー! かえる、おかあさーん!!」
『なあに?』
 女が子供の顔を覗き込むと、さらりと長い髪が揺れて尖った耳が露わになった。涙で顔をぐしゃぐしゃに歪めた子供が全身で否定する。
「ちがう、おかあさんじゃない! おかあさんのとこにかえる!!」
 とても見過ごせる事態ではない。これはどう見ても誘拐だ。
 だがそれ以上に、シルは身動きならないほどの衝撃を受けていた。
「嘘でしょ……こんなの……」
 声が震える。目の前の女は幼い日に行方不明となった彼女に――母に、似すぎている。
 でも、母がこんなことをするはずがない。
『あら』
 女がシルに気がついた。その瞬間に力が緩んだのか、女の子が女の手を振り払って駆けだす。山道を駆け下る背を、女は微笑んで眺めていた。
『まあ、『シル』ったら。知らない人が怖かったのね』
 偶然なのか、女の口にした名前は自分と同じ。
 そして女が息が詰まるほどの殺意と狂気を放って、シルの方に向き直った。
『大丈夫、大丈夫よ……何からも、どんなものからも、私が絶対に守ってあげる!』
「……っ!」
 彼女になんと呼びかけるべきなのかもわからない。
 女の子が逃げた方は避け、風をきる錫杖をかいくぐって跳び退いたシルは唇を噛んだ。

●凝った執心
 離陸準備を進める黒瀬・ダンテ(オラトリオのヘリオライダー・en0004)は、集まったケルベロスに焦った顔で予知の内容を告げた。
「またまた超速案件っす! シル・ウィンディアさんが一人の時に、デウスエクスに襲われるんすよ!!」
 すぐに警告しようと連絡を試みたが、シルには何故か繋がらなかった。彼女は腕ききのケルベロスの一人だが、それでも一人では抗し得るはずがない。しかもダンテによれば、彼女の様子は常とは違ってひどく動揺していたという。
「どうしてかはわからないっすが、少なくともデウスエクスは完全に本気で殺しにかかってきてるんす。このままじゃシルさんが危ないんすよ!」
 もちろんそんなことにはさせない。
 ダンテによれば、シルがいるのは栃木県の山中だ。どうやらデウスエクスは麓の町から子供を攫ってきていたらしい。何故かシルを敵対者と思い込み、彼女を排除しないと子供が――当然デウスエクスの子ではないが――脅かされると思っているようだ。
「逃げた女の子は登山道を下った草むらに隠れてるっす。戦闘に巻き込まれる心配はないんで、このデウスエクスの撃破に集中して欲しいんす!」
 山中とはいえ、現場は木がそれほど密集しておらず戦いに支障はない。デウスエクスは所持する杖をふるったり、影を弾丸として攻撃してくるという。
「デウスエクスの名前はラリマーって言うらしいんす。見るからに子供に執着してるっすよね。事情はわからないけど……なんか浅からぬ因縁っぽいっすね」
 困惑した顔で全ての説明を終えると、ダンテはケルベロスたちに向き直った。
「けど、皆さんもシルさんを失うわけにはいかないっすし。助けてあげて、どうか皆さん全員で帰ってきてくださいっす!」
 もちろん仲間が黄昏に呑み込まれるのを座視はできない。
 彼女を救い、共に帰るのだ。


参加者
幸・鳳琴(黄龍拳・e00039)
セレスティン・ウィンディア(墓場のヘカテ・e00184)
シル・ウィンディア(蒼風の精霊術士・e00695)
ラピス・ウィンディア(ビルシャナ絶対殺す権現・e02447)
愛柳・ミライ(宇宙救済係・e02784)
揚・藍月(青龍・e04638)
ウィゼ・ヘキシリエン(髭っ娘ドワーフ・e05426)
アストラ・デュアプリズム(グッドナイト・e05909)

■リプレイ

●残酷な断絶
 陽が傾いた空をヘリオンが切り裂くように飛ぶ。
 現場への途上、揚・藍月(青龍・e04638)は現場の把握と陣形の考察を行っていた。横から紅龍が覗き込む。誰よりも早くヘリオンへ乗り込んだセレスティン・ウィンディア(墓場のヘカテ・e00184)は、表向き冷静にその考察に臨んでいた。
(「いざとなった時頼れない姉でどうするのよ」)
 心穏やかでなくとも、姉妹を護る先頭にたつべき風格というものがある。
 その隣、ラピス・ウィンディア(ビルシャナ絶対殺す権現・e02447)は黙然と話を聞いていた。
 あの子に親殺しの十字架は重すぎる。……しかしケルベロスなら、あの時から答えを出しているべきだろうか。でも妹はまだ若い。若すぎるほどに。
 考察の合間、機内に落ちた沈黙の中で、ボックスナイトを膝に乗せたアストラ・デュアプリズム(グッドナイト・e05909)がぽつりと呟いた。
「シルさんのお母さん……さすがに人違いだと思いたいかな」
「……確かシルは彼女を一度逃がしていたな。彼女はそれを覚えている様子もない……もしかすると酷い洗脳を受けたのかもしれない」
 藍月の口調も重い。家族、それも母の姿をしたデウスエクスに二度も遭遇するなど、心中慮って余りある。
 包囲の相談の間は気が紛れていた幸・鳳琴(黄龍拳・e00039)も、気が重く塞ぐのを感じていた。自分が強くなったのは、母の仇を討つため。その自分が、愛する人の母を奪う拳を振るえるのか。
「……否、惑いません。愛する人が最も不安な時に私が迷ってどうするんだ!」
 己に喝を入れるような鳳琴の呟きに、隣の座席にかけていた愛柳・ミライ(宇宙救済係・e02784)がぐっと小さな拳を握り締めた。前の時には立ち会えなかったのだ。
「肝心なときにいななかっただなんて、あの時だけで十分。……何ができるわけでもないけれど、それでも!」
 主を気遣うように、ポンちゃんがふわりと羽ばたいて頬をすり寄せる。仲間の気合の入りようにウィゼ・ヘキシリエン(髭っ娘ドワーフ・e05426)は安心して笑った。
「そうじゃな。まずはシルおねえを勇気づけねばならんの」
「……選択は自由だが……貴殿らはそれを選ぶか。ならば全力で果たすべき事を果たす為の援護をするのみだ」
 地図を仕舞って藍月が息をついて目を閉じる。覚悟を決めるように。

 虚空に黒い尾をひいて、少女の形をした影が襲いかかってくる。斬撃をかろうじて凌ぎきり、シル・ウィンディア(蒼風の精霊術士・e00695)は唇を噛んだ。降魔で食らった魂をまとってはいるが、攻撃に転じられない。
「お母さん、なんでこんなところにいるのよ……。子供をさらうなんて、何をしてるの? それに、『シル』はわたしだよ? あの子じゃないよ……」
『騙されませんよ。私の可愛い『シル』はまだ子供なのですから』
 影はあまりにも、幼い頃の自分の姿形に似ている。操る女はシルの方を向いてはいるが、『見て』いない。虚実に塗りつぶされた瞳のラリマーはこくりと首を傾げた。
『邪魔するものはすべて潰すわ』
「やっと会えたのに、こんなことって……一杯お話ししたいこととかあるのに! なんで、なんでなのよ……!」
 悲痛な叫びにも眉ひとつ動かさない女が、シルに近づいた瞬間。
 割って入った鳳琴が軽やかに地を蹴り、首をへし折らんばかりの蹴撃を食らわせた。

●幾重もの縁
 ぐらりと上体が揺れた女は、しかし滑るように距離をとった。ラリマーを蹴った反動で元通り傍へと着地した鳳琴へ、シルが涙声を振り絞る。
「琴ちゃん……!」
 約束の指輪のはまった彼女の手を握り、鳳琴は誓いのとおり、想いをこめて囁いた。
「シルさんにはみんながいて、私がいます」
 どんなつらい時でも支えてみせる。それに、駆けつけたのは彼女だけではなかった。
「シルおねえ、助けに来たのじゃ。戦いにくい相手かもしれないが、しっかりするのじゃ。するのじゃ」
 グラビティがウィゼによって反響し、彼女の攻撃エフェクトを増幅させる力場が展開される。そのついでに語尾が誤作動で反響した。
『邪魔をしないで』
 面倒そうに言い放ち、ラリマーがシルめがけて黒い鳥のような魔力弾を放つ――その軌道へ立ちはだかり、攻撃を引き受けたセレスティンが妹に問いかけた。
「シル、しっかりして。あれはお母さん? ほんとうに??」
「それは……」
 見る限りそうだからこそ、彼女は為す術なく追い込まれていたのだ。女の瞳はいつかと同じように澱んだ青。
 舞い降りてきたミライが広げた翼から光を放って、女の足を一瞬完全に止め、傍らのポンちゃんはセレスティンの傷を塞いで羽ばたいた。
「シル先生、大丈夫ですか? いけます……ね?」
 ミライに問われたシルが唇を結んだ。毒に蝕まれる姉を見れば平静ではいられない。
「大切な人達を平気で傷つけるなんて……あなたは、お母さんじゃないっ!! 大切な人達を傷つけるなら……わたしは、許さないっ!」
「シル、冷静さを欠いてはダメ。今は1人じゃないのだから」
 戒めるラピスの刃は雷を帯び、青白く輝いてラリマーの腹に突き立った。高々と跳んだシルの踵落としが決まり、かすかに顔を歪めて女が更に距離をとる。セレスティンは自身の傷を塞ぎ感覚を研ぎ澄ませながら、母に呼びかけた。
「あなたは、ラリマー……久しぶりね」
『あら、どなたかしら』
 彼女が覚えていなくても懐かしんでしまう。
「家族との再会は本来喜ばしいものであるべきなのにな」
 慨嘆する藍月が爆破スイッチのボタンをぐいと押しこみ、カラフルな爆発で前衛たちを鼓舞した。弟分の紅龍はブレスをラリマーへ吐きかける。
「さあみんな、頑張ってね。応援コメントもたくさんついてるよ」
 高速入力で前衛を鼓舞するアストラが、セレスティンに残る傷を塞ぐ。その傍らボックスナイトが剣で斬りかかった。ぎりぎり命中しラリマーの脇腹を捉える。
 黒い長衣を揺らして跳び退き、女が不愉快そうに眉をひそめた。

●血戦
 地形を頭に叩き込んだ藍月のサポートもあり、戦いは終始ラリマーを包囲して行われた。ウィンディア家の姉妹を重点的にカバーする戦術は正しかった。
「貴殿らは己の想いを、その心の赴くまま往けば良い。フォローは俺達でやり切る」
 そう言う藍月は、かなり威力が落ちたラリマーの杖の一撃をなんとか受け流した。
 交互に傷ついている庇い手を癒すべく、ウィゼが黄金の果実を実らせる。
「あの者をデウスエクスという永遠に続く不死の楔から解放できるのは、ケルベロスだけなのじゃ。あの者は時計の針が止まってしまったのじゃ」
 プリンの形をした攻性植物は完成されたデザートのようで、手渡された前衛たちは傷を塞ぎ呪力への耐性をつけていった。
「じゃから、再び時計の針を動かし、成長した姿を見せてあげられるのはシルおねえだけなのじゃ」
 藍月に巣食うプレッシャーも、セレスティンを蝕む毒も吹き飛び、ウィゼの力強い言葉にシルが頷く。
「私は、シルさんの恋人、幸・鳳琴です!」
 精神を限界まで集中させると、よろけるラリマーを中心とした爆発を起こした。直撃で膝をつく彼女に、自分と愛する人の左手の薬指に輝く絆の指輪を見せる。
「他人じゃない……だからこそ言います! シルさんの愛する家族を、”お母さん”を、これ以上汚すのはやめてください!」
『……こいびと……?』
 うわごとのように、不思議なことのように女が呟く。
「お父様の時のように、死神にサルベージされたのか……或いは、デウスエクスの手に落ちたか……」
 杖をふるうラリマーから跳び退き、ラピスが構えるは静芯流・壊勢剣。集中し、心を澄ませて納刀。次の瞬間、神速の居合い斬りは黒い衣ごと女の体をざっくりと断つ。
『あああっ!!』
「私はあなたとの約束を違えない。それを脅かすものが母親だとしても、その生命、奪い尽くしてこの身を盾にするの!」
 セレスティンが歩み寄り、女に触れた。小さな囁きと同時にグラビティチェインがラリマーを絞めあげる。
 母に甘えたい、いつか認めてもらいたいと願ってきた。だからこそ長姉らしく妹たちを守りきるのだ。
 そんな姉妹を見ていると、ミライは少し手が鈍りそうになる。
(「……私には母がいませんから、代わりに迷わず戦える――と、思っていたのですが」)
 だからこそか、とても不謹慎だと思いつつも、少し羨ましいと思った自分を殴りたい。
 ミライはライフルを構えて、撃った。食いこんだ弾がラリマーの肉体の時間を凍てつかせていく。のみならず、ポンちゃんのタックルの衝撃で、氷は更に体表を蝕んでいった。
 以前会った時の記憶が全くなさそうなのが、アストラには不思議でならない。
「前会ったのとは違う存在なのかな?」
 もちろん油断するつもりはない。攫ってきた女の子の方へ動こうものならすぐ警告を発するが、今は眼前のケルベロスで頭がいっぱいのようだ。
 ボックスナイトのばらまいた財宝でラリマーが戸惑う間に、アストラは軽いステップで星のオーラを彼女の胸へしたたか蹴り込んだ。
「……一つ問おう。『シル』とはどのような者なのだ? 貴殿が守ろうとする『シル』とは何者だ」
 携えた刀に空の霊力をまとわせ、藍月は問いかけと同時に斬撃を見舞った。苦しげな叫びがあがった後に、紅龍の体当たりが頭に命中する。

●引導
 回復に勤しんでいたウィゼも攻撃に転じた。組成されるウイルスカプセルで治癒力を阻害しながら斬りつける。
 今のシルを見続けるのは、ミライには少しきつい。
(「……おやすみなさいが辛いなら、代わりにいくらでも泥を被るつもりですが」)
 初めての依頼の時から彼女がずっと先生だった。それでもいざというときは、私が守ると決めていたのに、2年前の遭遇のときはどうしてか間が悪かった。でも。
「今日はちゃんと傍に、いますから」
 ミライの構えた銃口から放たれた弾丸が女に着弾し、体の時間を止めようと氷結していく。みしりみしりと肉を侵す苦痛、次いで浴びせられたポンちゃんのブレスで、遂に女は苦鳴をもらした。
 セレスティンの手から漆黒のスライムが巨大な口のように広がる。麻痺や石化に蝕まれ、逃げることもままならないラリマーの顔には、明白な恐怖が見て取れた。再び影の少女を喚び出し、僅かながらの回復と、呪力への耐性をつけようとしている。
 『シルをよろしくね』と言って、まだ小さかった妹たちを残して貴女は行ってしまった。母の跡を引き継いで、シルには魔法も教えて――次々と思い出が浮かび上がる。
 セレスティンは影に襲いかからせた。女は呑み込まれ、くぐもった悲鳴が聞こえて。
 ラピスがふるう一刀は、女に以前つけた傷を正確になぞり、更に深く切り開いていく。
「お父様は皆を護るために命を落とした……お母様……あの時、なにがあったの?」
『なに? 誰のことを聞いているの?』
 やはり、ラピスの問いには混乱した叫びが返ってきた。
「八卦炉招来! 急急如律令! 行くぞ紅龍! 今こそ俺達の力を見せる時だ!」
「きゅあきゅあっ。きゅあー」
 藍月が符を展開しラリマーを結界へ抑え込むと、紅龍が無数の神火を撃ち込んだ。逃げ場のない炎熱に女が絶叫する。結界が解けたところへ紅龍がタックルを食らわせた。
「守る……言葉だけじゃなくて行動でだね!」
 アストラとボックスナイトが挟撃。将来性を感じさせる一撃は、ボックスナイトの斬撃と同時に打ちのめす。ばきばきと体表を蝕む氷が追い討ちで女を襲った。
『……帰らないと。『シル』の、もとへ……』
 呟くラリマーの細い体が折れそうなほどの蹴りを鳳琴が叩きこむ。
 もっと話したいことがあった。けれどそれが叶わず、彼女も苦しんでいるのなら。
「どうかどうか、……眠らせてあげてください」
 鳳琴にシルが首肯する。彼女に重荷なら自分が、と思っていたラピスも頷いた。
「……これで、決めて見せる」
 詠唱を始めたシルはよろめくラリマーを射程に収めた。
「闇夜を照らす炎よ、命育む水よ、悠久を舞う風よ、母なる大地よ、暁と宵を告げる光と闇よ……」
 背中に反動制御の為の魔力の翼が展開される。揃えた手から放たれた魔力の砲撃は女を捉え、全身を灼いた。ひとこと小さく、シル、と呟いたのが聞こえる。
「お母さん、ありがとう。そして、さようなら……」
 堪え切れない嗚咽をこぼし、最後の砲撃を目を灼く光と共に撃ち込んだ。
 セレスティンにとって、この悪夢から逃げず立ち向かう妹たちこそが誇り。悲しみがないと言えば嘘でも、強がりでも、微笑んで告げた。
「……お母さん、さようなら」

 終ぞラリマーの目に光が戻ることはなく、どこまでも虚ろで。
 まるで糸が切れた人形のように倒れ伏すと、それきり動かなかった。

●泡のように儚い蒼
 蒼の女の傍らで、シルは言葉もなく立ち尽くした。
 最後に会った時は少なくとも、『シル』が誰かわかっていた。なのに何があったのか。
 誰もが同じ想いで見つめるうちに、骸は石と化して砕けていった。外側は灰色の斑でひび割れているが、割れた断面は浅瀬の淡く蒼い水のような輝石だ。
 隠れている女の子のところへは、仲間の手当てを終えたアストラとウィゼが向かった。
「怪我はない? もう大丈夫、お母さんの所に帰してあげるね」
 草むらの傍へかがみこんでアストラが声をかけると、女の子がおずおずと顔を出す。その前でボックスナイトがぴょこぴょこと跳ねてみせ、ウィゼが笑いかけた。
「もう怖いことはないから、安心するんじゃぞ」
 擦り傷の手当てをすると、女の子は声をあげて泣き出した。ボックスナイトが慌てたようにぱくぱくする。
 聞こえてくる泣き声で、犠牲を出さずに済んだ安堵がシルの胸にこみあげてきた。唇を震わせる彼女にそっと、ポンちゃんを抱いたミライが囁く。
「……泣いても、いいんですよ?」
 堰を切ったように青い瞳に涙が溢れて、零れる前に鳳琴がシルを抱擁した。
「――頑張りましたね、シルさん……」
「……琴ちゃん、ごめん、しばらくこうさせて……」
 鳳琴の胸の中でシルは泣いた。かける言葉もなく、鳳琴も愛する人を抱きしめる。自分の胸の温もりでいいのなら、こうすることで彼女の心を癒せるのなら、いくらでも――。
 今必要なのは惜別の時間だろう。藍月は紅龍を連れ、女の子をあやすアストラとウィゼのもとへ向かった。
 妹の泣く声を聞きながら、ラピスは考えを巡らせる。死神が関与した証拠はないけれど、確証もなくて。
 砕けた輝石の原石をひとかけら手にとり、セレスティンは目を閉じた。自分もちゃんと己の道を歩む決意を胸にする。
「……潮時ね。いつまでも子供じゃないの」
 別れを告げても思い出が消えてなくなることはない。今日この日の思い出は、死の香りと共にきっといつまでも記憶に残るのだろう。

 ――それでも前へ。黄昏をこえ、ひとは生きる。

作者:六堂ぱるな 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2018年10月21日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 3/素敵だった 0/キャラが大事にされていた 7
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