空虚の城

作者:七凪臣

●紳士と令嬢
 つい先ほどまでは秋の陽が穏やかに降り注いでいた筈なのに――。
「わたし、どうして……?」
 冬の到来など知らぬような濃い緑に囲まれて、シィラ・シェルヴィー(白銀令嬢・e03490)は途方に暮れる。
 路に、迷ったのだろうか?
 何を思い家を出て、何を考え歩み出したのか。
 自らの記憶に問うても、明確な答えは得られない。
 どうしてか足が向いたのだとしか言い表しようのない現状は、一人置き去りにされた子供の如く。
「何とかなるでしょう」
 しかし淡く色づく唇が紡ぐ言葉は前を向き、まっすぐに伸びた背筋も変わらない。
 そうして辿り着いた森の廃屋で、シィラは身を強張らせた。
 枯れた色の秋薔薇のアーチの影から、優美なモーニングの胸元に白薔薇を飾った男が姿を現したのだ。
 無論、ただの身形の良い男であろう筈がない。
 声に混ざる違和が、何より顔をすっぽり覆った山羊のマスクが男の異質を知らしめる。
 ――デウスエクスだ。
 怪しげな香水瓶から甘い香りを漂わす男を前に、シィラは直感でそう思う。
 だのに、彼女の瞳はいつもより濃い憂いに沈む。
『よウコそ、ゴ令嬢』
 ああ、ああ、ああ!
 一人きりでありながら、私達という口ぶり――その声音に、貌はいつもの微笑のまま、シィラの魂が小刻みに震えだす。
『アナタも、私達ノ仲間にシテ差シ上げマス』
 山羊のマスクのデウスエクスが、銃を取り出し構える。その瞬間まで。

●引き寄せる縁
「シェルヴィーさんは連絡がつきません。ですから、急ぎ皆さんを現場へ送り届けます」
 シィラ・シェルヴィー(白銀令嬢・e03490)がデウスエクスの襲撃を受けるのを予知したリザベッタ・オーバーロード(ヘリオライダー・en0064)の動きは早かった。
 本人へは連絡がつかない。となれば、次はケルベロス達への救援要請。
「現場は鬱蒼とした山中の廃屋です。道も通ってはいますが、人が寄り付く界隈ではないのでしょう。周囲にシェルヴィーさんとデウスエクス以外の気配は感じませんでした」
 一刻の猶予もない事案を前に、リザベッタは手際よく知り得た情報を開示してゆく。
 古めかしい洋館は、館内で戦えば崩壊の危険性がある。
 幸い、シィラがデウスエクスと対峙しているのは放置されて久しい庭園。そのままそこで戦えば問題はない。
「相手は屍隷兵のようです。山羊のマスクを被っていましたが、人型で間違いありません」
 紳士然とした雰囲気だったので顔を見せたくないのかもしれませんねと、紳士を自称する少年は訳知り顔で一つ頷き、そういう場合ではなかったと襟を正す。
「得物は銃と毒の香水です。甘い毒の香りで相手を操り、そこを攻撃するというスタイルなのだと思われます」
 銃の命中精度は極めて高く、威力も絶大。個を狙うものと多をまとめて撃ち抜くもの、両方に対応していそうなので十分気をつけてくださいとリザベッタは話を締めくくり、ケルベロス達をヘリオンへ急がせる。
「どうか皆さんの力でシェルヴィーさんを助けてあげて下さい」


参加者
ティアン・バ(切落・e00040)
メイア・ヤレアッハ(空色・e00218)
落内・眠堂(指切り・e01178)
砂川・純香(砂龍憑き・e01948)
キソラ・ライゼ(空の破片・e02771)
シィラ・シェルヴィー(白銀令嬢・e03490)
サイガ・クロガネ(唯我裁断・e04394)
ベーゼ・ベルレ(ツギハギ・e05609)

■リプレイ

 秋薔薇さえ凌駕する甘い香りに、シィラ・シェルヴィー(白銀令嬢・e03490)の思考がくらりと揺れる。
 ――まさか、貴方に逢えるなんて。
 迎えに来てくれたのだろうか? それとも只の狩だろうか?
 答は、知れず。これが夢ならきっと嬉しかった、というのがたった一つの真実。
 そう。
 真実なのだ。
 嬉しいという感情が沸いてしまうのが!
 秋の日差しに星砂が零れるみたいに煌めく香りに、華奢なシィラの白い手がゆらと伸びる――しかし。
「まに、あった!」
 シィラの視界を、不意に温かそうな毛並みが遮る。
「誰が、お前達の仲間なんかに、なるもんか……!」
 等身大のテディベアを思わすベーゼ・ベルレ(ツギハギ・e05609)が肩で息をしながら仁王立つ。
「こんにちは、おじさま」
 ベーゼに遅れること一拍。優雅に片膝を折って紳士へ淑女の礼を尽くしたメイア・ヤレアッハ(空色・e00218)が、くるりと向き直る。
「お待たせ、シィラちゃん」
 金平糖のようなメイアの笑顔に、シィラはゆっくりと瞬いた。
 遠退いていた現実感が、戻ってくる。
「ごきげんよう、御命頂戴仕る――って、あらもう死体? こりゃ失礼!」
 襲い来る香りの波に身を任せても、わざとらしくデウスエクスへボウアンドスクレイプをするサイガ・クロガネ(唯我裁断・e04394)の背中に、シィラはクスリと微笑んだ。


 纏わりつく甘さを気勢で振り払ったサイガが、後方に陣取った仲間へ守護星座の恩恵を届ける光を「カッコイイねェ」と茶化したキソラ・ライゼ(空の破片・e02771)は、白き骨の大鎚を高く掲げる。
「てめぇにゃ、コッチのがお似合いかと思いまして?」
 てめぇ、と呼んだ山羊面の紳士へ、低く唸って風を切った大鎚から竜の咆哮が如き砲弾が飛ぶ。炸裂が生んだ爆風に紛れ、ティアン・バ(切落・e00040)は黒鎖でメイアらの足元へ護りの魔法陣を描き上げると、慕わしい友へ声を投げた。
「シィラ、むかえにきたよ」
 届けられた想いをシィラがどう受け取ったかは、屍隷兵へ狙い定めるメイアからは分からない。でもターコイズブルーの天使は溌剌と笑い、未来さえも凍てつかす弾丸を撃ち放つ。
「今日のわたくしは、シィラちゃんのガーディアンなの! 余所見してても、手を取って前を向かせてあげる」
「その通り。淑女に対して不躾な輩なんぞに、俺らの御ひいきさんは渡しません」
 ともすれば傲慢とも聞こえるメイアの言い様に倣い、落内・眠堂(指切り・e01178)も刹那の俺様を気取ると、
「我が御神の遣わせ給う徒よ。こなたの命に姿を示し、汝が猛々しき鼓吹を授け給え。急ぎ来れ――『颶風狂瀾』!」
 奇蹟を兆す壁雲をデウスエクスの眼前へ立ち昇らせて動きを阻み、シィラへ呼びかけた。
「助けに来たぜ、シィラ」
 ――みんなで、一緒に帰ろうな。
 とくり。己へ寄せられる心にシィラは鼓動を一つ跳ねさせ、メイアの箱竜であるコハブに自浄の加護を授けられながら寂れた庭園を真っ直ぐに駆ける。
(「誰かの大事な人も、人だった存在も。今まで散々撃ってきました。だから、今回だってちゃんと撃てます」)
 そうでないと自分を赦せない――という覚悟は、いっそ悲壮。故に曰くある相手へ零距離で引金を引いた白銀の乙女へ、ベーゼは陽だまりのように微笑んだ。
「今度はおれが、シィラのチカラになる番っす! ……もう、大丈夫っすよう」
 ――あの日、キミが。そうしてくれたように。
 ベーゼの優しさが形を成したような毛むくじゃらな掌が、メイアをそっと撫でて癒し、シィラの心配を少し軽くする。そうして僅かに一歩、『敵』から間合いを取ると、そこへベーゼと固い絆で結ばれたミミックのミクリさんが、文字通り転がり入ってきて問答無用で屍隷兵の足に噛みついたものだから。そのコミカルな仕草に、シィラのまだどこか浮ついたままだった足が、地につく。
 果たしてシィラは、どうしてこの地へ至ったのか。
 迷ったのか、無意識に脚が何かを求めたのか。きっと本人でも計り知れないだろう偶然の運命に想いを馳せ、砂川・純香(砂龍憑き・e01948)は最後方から愛らしき女の姿を眺め遣る。
 シィラが沈めた感情の機微は、如何な純香であろうと全てを理解できる程ではない。
 でも。いつでも前を向こうと笑うシィラが、宿業に囚われそうになるなら。
(「助けに、なりたい」)
 ――迎えに行かないと。
 忘れ去られた森の奥に至る道のりで固めた決意の儘に、純香は苛烈な最前線を守る力を練り上げ、囁く。
「大丈夫。あなたとその大事な人達も、膝をつかせたりしない。向き合ってらっしゃい」
 こころが進み、望む先を。


「さようならのご挨拶を」
 踵で刻んだ、夢見るような三拍子。ワルツの調べに戦場のプリマドンナは舞い、遊ぶ指先で黄泉路へのパ・ド・ドゥを誘う。
「アンタが惑わされるようなら、受け止める気でいたんだけどな」
 仲間より厚い加護を授けられたシィラの狙いが、全くブレる素振りがないのにサイガは喉を鳴らし、それならそれで思うが儘に走ればいいと道行きを託す。
 緩やかに波打つ銀の髪が、風と死肉の紳士と戯れる。その優美さにふと見惚れ、眠堂の脳裏に菫香の夏夜が過った。
 あの日、眠堂はシィラらに窮地を救われた。その時に齎されたシィラの優しさに、今度は報いたい。
 巫術を用い身の周りに展開した護符に意識を集め、眠堂は願いを力と成して屍隷兵の内より爆発を起こす。爆ぜた勢いで、胸元の白薔薇が散りぽかりと爛れた肉に口が開く。
 覗いた腐色を、シィラはどんな思いで目にするのか。
「つよがって、ないっすか?」
 金色の果実を掲げたベーゼは、シィラの表情を窺う。
 ――いつだって凛と銃を構えるキミ。嘘憑きの森へ助けに来てくれた時、おれはキミの指先が震えていたなんて、これっぽっちも気付いていなかった。
 でも、今日は。今日こそは!
「……ねぇ。しんどいときは、皆がいるっすよう。だってここにあるモノは、ぜんぶ、ぜんぶ。確かにキミが繋いで、手にした証なんだ」
 ベーゼの言う通りだと、ヤモリが転じたロッドを握り純香も胸裡で是を頷く。
 シィラが撃つ弾丸が、常も唯冷たいものではない。惑い揺れても、こころが込められている。
「空虚などではない。示してきたあなたがあるからこそ、守りたいと願う者がいるのよ――そして」
 妖精の靴でひとたび舞い、仮初めの花を雨と降らせた純香は偽りの紳士を金の眼差しで射抜いた。
「誰を仲間にしようとおっしゃるやら。シィラちゃんはあなたのもの、にはならないし。私達がさせるわけないでしょう」
『ナらバ。試シテ差し上ゲまショウ!』
 ケルベロス達の心を弄ぶよう、屍の紳士が腰のホルスターから銃を抜く。そのまま指揮棒でも振るかの如く、腕をひらり。最中に幾度も引かれた引金は、銃口から弾丸の波濤を生む。
 持ち得る威力を超えた凶弾の嵐に、盾の布陣が身を晒す。後ろへは一発たりとて通さない。覚悟は固く気高く。されどシィラを庇うのに成功したメイアの膝は小刻みに笑う。コハブを伴う分、どうしても余力に劣るのだ。しかしメイアは、果敢に、そして心から悪戯な笑みを花咲かす。
「日々、バール素振りを頑張っていた甲斐があったというものね」
 コハブ――と、メイアは呼びかけ。白い毛並の箱竜が首から下げた瓶に触れ、その指で菫色の金平糖が詰められた試験管型の小瓶をどこからともなく取り出す。
「わたくしは、わたくしのお友達を守ってみせるわ」
 振ると転がり出した星の欠片たちは、つい今しがた攻撃対象にされた者たちの元へころり。
「シィラちゃんは、わたくしよりもお淑やかで淑女力の先輩で、お友達なの。最近は一緒にお菓子作りをしたの」
 紳士へ日常を語るように、ほんのり自慢するように。メイアはシィラとの時間を紡ぎ。
「わたくし、シィラちゃんと一緒に居る時間が大好きよ」
 そして晴れやかな宣言に、金平糖は菫色の花となってメイア自身を含めた者たちを甘やかに癒した。
「同じ庇われるなら、オレもメイアが良かったカモー」
「そりゃあ、残念だったな?」
 相対する屍隷兵がシィラとどんな縁を結ぶのか、駆け付けた者らは知らない。だが重苦しさに支配されぬようキソラは掴み処なく振る舞い、乗じてサイガも無意識の苛立ちを殺気にすり替える。
 矛先は、死の先の生。動く死体。
 『何か』を遺し死んだであろう見知らぬ男の無力への厭わしさ。それが既視感である可能性であろうとも。
「ま、継ぎ接ぎのアンタにゃこのお嬢サンは勿体無さ過ぎるじゃナイ」
 固めた拳でデウスエクスの命を喰らったサイガを継いで、キソラは「惑え、」と大技を仕掛けにかかった。
(「屍隷兵……」)
 断ち難き縁ある種。抱く嫌悪感は隠しきれない。だからこそキソラは可能な限りシィラの力になりたいと望む。
(「悲しめど、憂いだけはなくなるよう」)
 シィラの様子から、察せてしまうものはある。故に屍隷兵に対する『デキソコナイ』の悪態を飲み込み、キソラは発した光で敵の五感を眩ませる。
「サイガ、キソラ。漫才は、そこまで。シィラが、集中できない」
 表には軽妙に映る知己の男二人の遣り取りに、制するふりでティアンは彩を添え、灰の瞳に今と過去を重ねた。
 ティアンは二度、命を救われた事がある。一度は、今やもう亡くした人達に。もう一度は、天文台の夜にキソラやサイガ、シィラ達に。
(「シィラは、ティアンの友達だ」)
 即ち、友とは助けるもの。嘗て己がそうされたように。狙われたのなら、助けになりたい。
「シィラ。何をどうしたいにしても。ティアン達は、手を貸す」
 とつ、とつ、と。思うままを告げ、ティアンは忍び入った敵の懐で紳士の手を取り、己が首に添えさせ『ふふ、』と意味ありげに目を細める。
 齎す効果は、倒錯感からの幻惑。
 迫力に気圧された屍隷兵が尻込むのを、シィラは不思議な気持ちで見た。
 Mr.アルデハイド。
 隠しても懐かしさを覚える面影と甘い香に、空虚な心さえ揺らいでしまいそうだったけれど。
「わたしは、惑いません」
 こんなにも、沢山の優しさが支えてくれているから。


 ケルベロス陣営の戦略は盤石だった。各自が万一に備え回復手段を用意したお陰で、大事に至る事も回避できている。
 ――つまり。
 体の継ぎ目を覆っていた艶めく礼装も、既に襤褸に近しく。優美ささえ湛えていた香も、毒々しさばかりが際立つ。
『こノようナ、筈でハ……』
 みすぼらしくなった己が姿に嘆く風の屍隷兵を、ティアンは冷たく観た。
(「屍隷兵は、好かない」)
 元々を嫌うドラゴンの技術であるのは勿論、何より命を弄ばれた結末なのに、胸が疼く。
「仲間が増えないのはさみしいかもしれないが――おねむりよ、もう」
 侘しさばかりを連れてくる風を背に、ティアンが低く走った。縛霊手に仕込まれたゆびさきの刃が、影の如き斬撃を繰り出し屍隷兵の首筋を切り刻む。
 緩まった顔の覆を、紳士が慌てて抑える。見ると、足取りも覚束ない。
 終わりの近さを感じ、眠堂は一度視線をシィラへ向ける。
 印象は、明るく可憐。だが不思議な空気を纏った今日のシィラへは、得体の知れない仄かな心配を抱いてしまう。友人としての好意や興味は変わらぬのに。
(「……痛みの所在は、知れぬ。けれど、この縁の末を、お前が手繰ると望むなら」)
「まことの眠りを授けてやるために、俺はその背を支えるだけだ」
 シィラへ、そして自らへ宣言するよう眠堂は言い切ると、はらり白き護符を中空へ撒く。続く詠唱が意味を成す毎に、真白へ鮮やかな反物を彷彿させる彩や絵柄が浮かび上がる。そして顕現した御業は紅葉、楓、錦の嵐を帯びて屍隷兵の膝を地面につかせた。
「……シィラ、ごめん」
 頽れそうな腕で体を支え見上げてくるデウスエクスを円らな瞳に映し、ベーゼは詫びの言葉を口にする。
 もし、もしも。シィラが、本当は違う未来を望んでいても。それでもやっぱり、ベーゼはシィラを連れていかせたりは出来ない。
「だって……キミのかわりは、どこにもいないから」
 込み上げる切なさを噛み殺し、ベーゼは刃毀れだらけの戦斧で屍隷兵を叩き潰す。
『あァ……アァ、見ルナ』
 被ったシルクハットがひしゃげ、山羊の角も落ちる。その姿に、純香は頃合いを察して余力十分な仲間へ敢えての花の雨を降り注ぐ。
「シィラちゃん、行って?」
 送り出す純香の声音は、底無き海の静けさと、果てなき空の慈愛に満ちる。
 多くには、今は触れず。ただ幕引きをシィラ自身の手でと――。
『あ、アらたナ肉ヲ……なカマを……っ』
「ザンネン。このお嬢さん案外じゃじゃ馬だからさあ。剥いで混ぜてもうまくいかねえと思いますよ。え、知ってる? ……だろうな」
 闇雲に撃たれた弾丸をひょいと躱し、サイガは楔を穿ち断つ漆黒の爪を静かに下ろす。
(「悔いの無いよう」)
 わき目も降らず駆け出したシィラが靡かせる髪に、キソラは祈るを添える。
(「きっちり清算したら、きっと淑女力アップなの」)
「さよならなの、おじさま――がんばれ、シィラちゃん」
 出会いがあったなら、別れもまた。屍隷兵へ流れるようなカーテシーをして、メイアは結末を見届ける為に瞬きを堪えた。
 ――立ち向かうその背を、支えるくらいなら。
(「きっとおれにも、出来るっすよね」)
 主の元へ戻るコハブと同じく、傍らに転がってきたミクリさんを撫で乍ら、ベーゼも目を見開く。
 励まされている、見守られている、信じられている。
 ありったけの温もりを全身に浴びて、シィラは進む。
 一歩の度に、近付く紳士。縋るように手が伸べられたのは、きっと苦しさのせい。
 その手を。真の意味で取りたくなったのは、ほんの一瞬。仲間の想いに包まれて、シィラは『デウスエクス』の前に凛と立った。
「貴方はもう異形。幼いわたしが焦がれていた人とは違うの」
 過ぎ去りし日々の光景が、幾つもシィラの脳裏を流れてゆく。けれど、押し流されたりはしない。
 だって。
「迎えに来てくれる人達がいるから、一緒には行けません」
 立ち上がれない紳士に対し、シィラが膝を折る。堪らず抱き締めたのは、その身体が『父』のものだから。
 抱き締め返してくれる腕なんて、期待しない。それでもシィラは、面の破れから父の耳に唇を寄せる。
「一度だけ、こうしてみたかったのです」
 囁いて、銃口を胸に押し付けた。
 祈るのは、安らかな眠りのみ。
「――お父様」
 乾いた銃声は、短く一度きり。けれど朽ちた躯が氷と崩れ去る間際、その腕がシィラを掻き抱こうとしたのは、ただの偶然だったのだろうか――。


 いつもより少し賑やかに迎えてくれる仲間の輪へ、シィラは「ありがとうございました」と礼を微笑む。
 その手には、香水瓶の欠片を包むハンカチが。

 わたしはずっと、貴方に。
「愛されたかったの」
 ――希求の結末は、虚ろの彼方へ。

作者:七凪臣 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2018年11月2日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 4/素敵だった 5/キャラが大事にされていた 2
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