蒼海

作者:藍鳶カナン

●岩窟
 遠く、近く、波の音が響いていた。
 黒々と濡れた岩の洞窟は濃い潮の香りと闇に満ち、けれど濡れた岩壁を時折煌かせる光と流れる風が、洞窟の奥が外界へ開けていることを示している。奥から聴こえてくる波音が、遠く近く、不可思議な響きと揺らぎを帯びるのは、洞窟内の反響ゆえ。
 荒々しく、豊かな波の音だった。
 磯や岩礁に荒波が噛みつき、激しく砕ける様が見えるような波と飛沫の音。けれど洞窟の反響で円みと深みを孕むその音に、ふと硬質な音が混じる。かつり、かつりと響くそれは、機械の脚を持つ宝石――コギトエルゴスムが歩む音だった。
 洞窟に満ちるのは濃い潮の香りと黒い闇。
 けれど反響する波音を辿るように洞窟を歩めば、その奥で一気に空と海が開けた。
 外海へ、太平洋へ向けて直接開けた大きな岩窟。黒々と濡れた磯や岩礁に噛みつく荒波が激しく砕けて、盛大な飛沫となって洞窟内を洗っていく。冷たい波飛沫をかぶりながら望む世界は蒼い海と青い空、蒼と青が遥か彼方で交わる水平線。
 だが、機械脚の宝石が惹かれたものは空でも海でもなく、激しい波飛沫を浴びてごろりと転がった硝子と真鍮製の品だった。光を燈さぬ電球を丸みを帯びたフォルムの硝子が覆い、その外を真鍮を組み合わせたガードが覆う品。
 荒れた海の船上でも耐えうる堅牢なつくりの船舶用ランプ――マリンランプ。
 経年劣化で失われたはずのその光が燈る。暖かな輝きに真鍮のガードが十字の影を映す、マリンランプ独特のあかりは、コギトエルゴスムが融合したことによって甦ったもの。
 繰り返し波をかぶりつつ、やがてマリンランプは少年水夫めく姿となって身を起こした。
 機械人形に生まれ変わったマリンランプは蒼海に背を向けて、グラビティ・チェインを、ひとびとの命を求めて洞窟を引き返していく。もう彼は海へは帰らない。
 ――還れない。

●蒼海
 語られた予知は、太平洋岸の岬にある洞窟での出来事だった。
 放置すれば洞窟を出たダモクレスは最寄りの港町を襲撃するが、
「今すぐ急行すれば洞窟内で敵の捕捉が可能です。戦うのに十分な広さのある場所ですし、皆さんにはそこでこのダモクレスを撃破していただくよう、お願いします」
「合点承知! なの~!!」
 セリカ・リュミエール(シャドウエルフのヘリオライダー・en0002)がそう告げたなら、気合いっぱいにぴっこーんと跳ねた真白・桃花(めざめ・en0142)の尻尾が続いてぴこりと傾げられる。
「ところでセリカちゃん、その子の元のマリンランプって、もしかして本物なの~?」
「そこまでの詳細は不明ですが、彼が操る術からすると、その可能性はあると思います」
 昨今は初めから船舶用ランプを『模した』庭園灯やインテリアとしてつくられるランプも多く、それらこそをマリンランプと称する向きもあるが、今回のマリンランプから生まれた機械人形のダモクレスは、まるで自分が船の上で経験した暴風と荒波を再現するかのような範囲攻撃で足止めを仕掛けてくるという。
 他にも回避困難な光の魔法攻撃や護りを強化するヒールの技も持ち、
「ポジションはディフェンダー。対策と作戦が確りしていなければ長期戦は必至ですよね」
「ああん合点承知、皆とがっつり頑張りますなの~!!」
 そう微笑むセリカにぷるり尻尾を震わせ、桃花は頼りにしてますなのと皆を振り返った。
 だって。
 洞窟の奥で出逢えるという光景に、心が躍る。
 外海へ、太平洋へ向けて直接開けた大きな岩窟。黒々と濡れた磯や岩礁に噛みつく荒波が激しく砕けて、盛大な飛沫となって洞窟内を洗っていく。冷たい波飛沫をかぶりながら望む世界は蒼い海と青い空、蒼と青が遥か彼方で交わる水平線。
 無事勝利できればその光景を存分に堪能できる時間も取れますよ、とセリカも請け合ってくれたから。
 少年水夫を思わす姿になったというマリンランプの子を世界に還して、蒼い海と青い空へ心が解き放たれるような光景に逢いにいこう。
 そうしてまた一歩進むのだ。
 この世界を、デウスエクスの脅威より解き放たれた――真に自由な楽園にするために。


参加者
ティアン・バ(よるべ・e00040)
真柴・勲(空蝉・e00162)
古鐘・るり(安楽椅子の魔女・e01248)
藍染・夜(蒼風聲・e20064)
ラカ・ファルハート(有閑・e28641)
ヴィルト・クノッヘン(骨唄葬花・e29598)
風鈴・羽菜(シャドウエルフの巫術士・e39832)
死道・刃蓙理(野獣の凱旋・e44807)

■リプレイ

●岩窟
 ――それじゃ、出航と行くか。
 昏い岩窟に満ちるのは黒き闇、けれど濃い潮の香りと、遠く近く響く波の音に心が躍る。濡れた岩を駆ける皆の足音に闇の奥から来る足音が重なれば、真柴・勲(空蝉・e00162)の口許に自然と笑みが昇った。飾り気ない無骨な火屋に夢を燈して、涯の見えない大海原へと漕ぎだして。そんな物語が眼裏に浮かぶよう。
 黒々と濡れた岩がきらりきらりと光を弾く。闇の奥から暖かなあかりが覗く。
「いいねェ、幾つになろうが航海は男の浪漫だ」
 知らず金の双眸を細めた瞬間の遭遇、その途端、激しい暴風と荒波が襲い来た。
 敵は硝子と真鍮で形作られた機械人形の少年だった。翻る硝子のセーラーカラーに真鍮が金色のラインを描き、人形を水夫の少年だと印象づける。前衛を呑んだ嵐の余波が灰の髪を煽り、泡の数珠に彩られた足首を洗っていく感触にティアン・バ(よるべ・e00040)は淡く眦を緩め、
「お前のその旅路にはきっと、似合いもしない死の匂いが付きまとうから」
「そう。向かう先を違えているよ、迷子の水夫君」
 鋼のかけらを、いのちを掴んだゆびさきを躍らせて、解き放つのは癒し手の浄化と自浄の加護を齎す紙兵の紙吹雪。護り手の献身で嵐を抜けた藍染・夜(蒼風聲・e20064)は冴月の刃に鳴神の加護、即ち雷の霊力を降ろし、海への路を示すべく真っ向から少年を貫いた。
 芯にあかりを秘めた硝子と真鍮の躯に罅が奔る。続けざまに護りを裂くべく唸りをあげた勲の駆動刃は交差した両腕に防がれたが、
「それでも、これをお前の最後の航行にさせてもらうぜ」
「ええ。あなたも嵐を越えてきたのよね? なら、私達もあなたという嵐を越えていく」
「荒波に耐え抜くロープ程ではありませんが、これであなたを止めさせていただきます」
 少年の至近で笑みを閃かせた刹那、左右後方から狙い澄ました狙撃手達の術が迸った。
 嵐の余韻を貫くのは古鐘・るり(安楽椅子の魔女・e01248)が撃ち込む神槍のレプリカ、必中の謂れさえ模した槍が確実に硝子を穿ち機動力を削げば、風鈴・羽菜(シャドウエルフの巫術士・e39832)の許から翔けた透ける御業が、散り舞う硝子のかけらや波飛沫ごと敵を鷲掴みにする。次の瞬間、闇の天蓋から二条の虹が降り落ちた。
「そうですね……在るべきところへ……帰してあげましょう」
「じゃね。もう一度、海へ還そう。――帰ろう」
 纏う死の匂いを七色の輝きへと塗り替えた死道・刃蓙理(野獣の凱旋・e44807)、花色の髪を濡らす飛沫に虹を映したラカ・ファルハート(有閑・e28641)、護り手たる二人、特に雪色のボクスドラゴンと力を分け合うラカが初撃で虹の怒りを刻めたのは幸いだったろう。蹴撃に倒された機械人形が跳ね起きる。俊敏な少年そのままの動きに、
 ――この姿は、どちらが願ったものなのか。
 ふとラカの胸奥に萌した想いを掬うように、足元から星の輝きが噴き上がった。
「きっと、マリンランプが望んだ姿だろうね。コギトエルゴスムではなく」
 後方から援護するスプーキー・ドリズルが描いた星の聖域。星芒に重ね、前衛陣へ奔ったヴィルト・クノッヘン(骨唄葬花・e29598)の鎖が幾重もの守護魔法陣を織り上げる。
「真白の姐さん――」
「大丈夫、自分の技の使い方はちゃんと心得てますなの~!」
 言葉の先を掬ったらしい真白・桃花(めざめ・en0142)が癒し手たるティアンへと自由の加護を燈す様に、了解とヴィルトは苦笑した。グラビティの特性を把握しきれていない者の指示より彼女自身の判断に任せる方が無難に違いない。
 濡れた岩を蹴った敵が間合いを取ると同時、後方の岩壁にあかりと十字の影が映り込む。
「ラカ、光が!」
「来るね、二時方向から!」
 少年の挙動を捉えたティアンと夜の声音が響いた直後、眼を開けていられぬほどの輝きが迸った。だが、逃れ難い光を受けとめたのも、声を張った瞬間には掌上で渦巻き始めていたティアンの魔法の木の葉が癒しに翔けたのも、ラカではなく。
「……お嬢」
 彼の盾となった小さな雪の竜。やるねぃ嬢ちゃんと口の端を擡げたヴィルトは、
「俺らが最後の遊び相手になるぜ。アンタのあかりが違う先へと人を導かねぇようにさ」
 ――我らが願い、黒き花よ咲け。
 白炎と銀灰の瞳で少年を捉え、硝子と真鍮の躯に癒しを阻む黒き蓮花の印を刻んだ。
 黒々と濡れた岩々に抱かれた大きな空間、そこへ幾度も暴風と荒波が、十字の影を映した光が満ちる。暖かで、けれど苛烈な力を得た輝きを仲間の守護魔法陣で殺しつつ、刃蓙理はバレットタイムを、と桃花へ言いかけたが、
「お任せください。私が、荒れ狂う嵐の海に立ち向かえる陣を」
「それは心強いですね。……なら、私は」
 荒ぶ風も波も、輝きも掬うように扇持つ手を舞わせた羽菜が後衛に破魔の力を授ける様に頷き、眼差しを翻した。硝子と真鍮の少年は出自を誇るように堅牢で、弱点も持たぬよう。ならば敵の弱体化と自陣の強化を図り、正攻法で削るのみだ。癒しをくれる魔法の木の葉が絡め手をも強めてくれるのを感じつつ、
 ――死灰復然……くらって……泣いとけ。
 刃蓙理が詠唱を成した刹那、舞い上がる塵芥が灰黒く爆ぜ、敵の命と火力を削ぎ落とす。
 だが、塵芥に包まれ灰黒い爆発に彩られて、確かな痛手を受けながらも、少年は身の裡のあかりを燈し続ける。星月のない夜、灯台の光も届かぬ海上でも、暖かに夜闇を融かす光。続く皆の攻勢に晒されても、なお。
 これが、マリンランプなのね。
 知らず呟いたるりの胸裡に少女の知らない世界がまたひとつ燈った、そのとき。
 少年にひときわ柔らかな輝きが燈る。一目で癒しと識れる光、だがその輝きを吸い上げた黒蓮の印が幾重にも開花する。治癒力の減少は明らか、なれど真鍮のガードフレームが金に煌き確かな護りとなって彼を覆う。
 本来、マリンランプのガードは、外部の衝撃から硝子を護るものであると同時に、衝撃で硝子がはずれた際にそれを抱きとめるためのものだ。床や甲板に落下した硝子が砕け、その破片でひとを傷つけることのないように。
「……随分と佳いガードじゃねェか。けど悪いな、砕かせてもらうぜ」
「本当にね。でもそのガードは、ある意味君を望まぬ旅路に囚わせ続けるものだから」
 船舶灯が航海してきた物語、垣間見えたそれを共有した心地で勲と夜が瞳を交わしたのも一瞬のこと、いっそう激しく駆動音を唸らせた勲の刃が、グラビティ・チェインを破壊力と成した夜の刃が、真鍮の護りを砕くべく派手な金属音と火花で戦場を彩れば、彼らの戦果を見極めるより速く超硬化したラカの竜の爪が閃いて。更には、
「純正のブレイク技は得意じゃないから、羽菜の力、ありがたく使わせてもらうわね」
 瞬く間にるりが顕現させた幻影竜が、破魔を孕む灼熱の炎で少年を呑み込んだ。
 奏功したのは何れの技か。けれど確かに砕かれた護りのかけらが消えゆく様に、
「流石だな、皆」
 眩しげにティアンが瞳を細めた刹那、闇の空洞が鮮やかな夕暮れの彩に満ちた。
 ――夢のつづきを。いつまでも。いつまでも。
 直前の攻撃、即ち竜の炎を幻影で追想させて、少年の傷と災禍を深める、世界で唯ひとり彼女だけが揮える技。波の名残も照らす炎の輝きに夜の吐息が笑みに染まる。この国からは東海となる太平洋、燃え立つような彩の夕景に出逢うことはきっと稀で、されど今、それを見せてもらえた気がして。
 夕暮れを渡る雁のごとく、黒鳥が舞った。
「破魔もですが、やはりアンチヒールも重要な鍵ですね。私からも贈らせてもらいます」
「おう、風鈴の嬢ちゃんからも重ねていってくれればありがたいぜぃ!」
 影を纏う羽菜の舞はさながら告死鳥の羽ばたき、少女の斬撃が癒え難い傷を硝子に刻めばすかさずヴィルトがバスターライフルを翻す。高命中の攻撃をと思いはすれど、攻撃四種の内三種が頑健技となれば、最も命中率に劣るこのフロストレーザーを挟まねば攻撃すべてが見切られる。凍結光線は躱されたが、音無く馳せた刃蓙理はその隙を突き、影に紛れるよう放った斬撃で真鍮の肩関節を掻き斬った。
「今回ジグザグは諸刃の剣かもしれませんが……それでも、メリットは大きいですから」
 彼女のみならず幾人もが揮うジグザグは災禍だけでなく初撃のみの虹の怒りも増幅して、少年の矛先をほぼ完全に刃蓙理とラカに固定する。嵐の破壊にも光の魔法にも耐性を持たぬラカの消耗は特に激しいが、
「お前さんを還してやるまで、わしは倒れんよ」
 笑みを敷きつつ撃ち込む気咬弾。喰らいつかれた硝子が無数の罅に濁る。
 死んだはずのものが残響だけで動いている。そう思ったのが少年のことなのか、己のことなのか分からなくなりながら。
 数多の縛めで少年の攻撃力も機動力も抑え、護りも癒しも殺し、炎や悪夢を燈して、皆で彼の嵐を越えていく。吹き荒ぶ暴風と激しい波濤が前衛へ襲いかかった瞬間、きっとこれが最後とるりは直感したけれど、
「嵐が止むのを待つつもりはないわ。切り開く」
 痛手は中後衛まで届かずとも、余波だけでも強い嵐。
 銀と青の裾を風に躍らせ、歪な稲妻型に変じたナイフで波飛沫ごと硝子を斬り裂いて。
 大きな船をも傾がせる暴風と荒れ海、立つことさえ儘ならぬ甲板を容赦なく叩いては洗い流していく波濤、嵐を喰らう程そんな彼の航海を追体験できる気がして、勲は昂揚を笑みに昇華した。るりの刃の軌跡を瞳に映せば声さえも晴れやかに、
「見えるか、嵐は明けたぜ」
 武甕雷の神威を纏わせた右拳を少年に喰らわせる。閃く電霆、そこに黒く渦巻く雷雲も、嵐の先に雲間から射した光さえも見えた心地で、
「お前の見せる海も、この先にある海も、ティアンの故郷の海と繋がっているんだな」
 ――思えば自分も、故郷からこの国まで嵐の夜の海を漂ってきた。
 柔い煙のごとく紡いだティアンが、懐かしさも愛おしさも握り込むように釦へ指をかけ、華やかな爆風を巻き起こす。灰色の娘が贈った七色の風に乗るよう嵐を越えて、ラカが波に濡れて煌く竜の爪で硝子と真鍮を貫いた。
「おやすみ、少年。夢は終わりだ」
「――望まぬ旅路の夢を終えて、航海の夢へ連れて行くよ」
 薄明の翼に乗せて、何にも囚われぬ真の解放へと。
 鼓舞の彩風に感謝の笑みを返し、ラカの言葉を継いだなら、嵐を凌いだ青碧と金の外衣が夜の許ではためいた。孕む風は嵐ではなく鼓舞の彩風と、数多出づる夜明け鴉の羽ばたき。舞い上がる薄明かりの羽根、別離を報せる鳥聲に連れられ、少年は全てから解き放たれる。
 世界に還る。
 思わず伸べた指先に燈った煌き一粒は、玻璃のかけらとも海の雫ともつかぬまに消えた。

●蒼海
 遠く、近く、波の音が響いていた。
 黒々と濡れた岩の洞窟に反響する波音は、深い夢へいざなうような円みを帯びて、けれど闇の先へと歩めば、夢の紗を斬り裂くように現の響きを取り戻す。
 昏い闇が、光と青に抉られた。
 一気に開けた世界から押し寄せる光と風と青、白く砕けて煌く激しい波濤。
 力強い波飛沫に頭から洗われる。冷たさも海の匂いも鮮やかで清々しくて、新しく生まれ直した心地でラカは眼を瞠る。遥か空と海、青と蒼を見霽かす。
「――ああ、あの子もこれを、見たんだな」
「見ただろうぜ。ここでも、ここでない海の上でも」
 蒼々と躍動する海面に白く砕けた波が渦巻く。黒い岩礁に噛みついては荒々しい波飛沫で岩窟も勲も洗っていく。過去の因縁も柵も洗い流されそうだと思えば、まるで心が共鳴したかのように、ティアンや夜と眼が合った。感じるものは三人とも、酷く似て。
 洗われる。晒される。
 心を、魂を鎧う虚飾を、纏う迷いや寂寥も、洗われ雪がれ清められ。
 心の、魂の芯に在るもの、荒波に洗われなお消えぬものの輪郭を、顕かにされるよう。
 世界の息吹に、いのちに。
 開けた岩窟の縁から振り仰ぐ青空、その天頂は深く冴える花紺青の青に澄み、雄大な雲を連ねて彼方へ向かうほど明るい青と光に透きとおっていく。岩窟の縁から見下ろす海の色は深く蒼く、磯を噛む荒波が泡立つ白が鮮やかで、彼方へ向かうほどに水面へきらきらと白い光を躍らせるのに、空と交わるあたりではまた深く、蒼黒くさえ見えて。
「ファンタスティック――という表現では追いつきませんね」
「わかります……何と言えばいいのでしょうね」
 幻想的だと表現するには鮮烈すぎるほどに現実で、素晴らしいという言葉で包括するには圧倒的なまでに力強くて荒々しい。刃蓙理は目の当たりにした光景に息を呑んで、波飛沫を頭から被った羽菜は、反響するまでもなく耳へ飛び込んでくる波音に瞬いた。
 荒々しい波が寄せる。岩礁を噛み岩窟の縁にぶつかり砕ける音が轟いて、なのに、爆ぜた波飛沫だけでもるりの身体を浚えそうに力強くて。
「冷たっ! そして、強い……! でも、波を被るのって気持ちいいのね」
「これっくらいが丁度いいのさ、戦場を越えた時には特にねぃ!」
 水を弾く仔猫さながらにぶるっとかぶりを振る少女の様子に呵々と笑い、ヴィルトは普段見せぬ竜の尾も上機嫌に揺らして、青と蒼を見霽かす。焦がれ憧れ続けた何かに少しだけ、近づけた心地。
「タオルもあるし、ヘリオンに戻ったら温かいお茶も淹れるから、存分に享けるといいよ」
「用意がいいのね……って、受けるじゃなくて、享ける?」
 意味深に微笑む夜の言葉の響きを掬って、るりは全身で冷たい波飛沫を享けた。
 洗われ、視界も魂も雪がれ、心を解き放たれる想いで見霽かす、初めて識る、青。
 ――祓い給え、清め給え。
「……それは、かみさまに?」
「そう。海神が渉る神域なのかもと思ってね」
 波飛沫の音に小さく重ねられた夜の祝詞にひとつ瞬けば、八柳・蜂の瞳は海へ誘われて、けれど春色を見つければ、一緒に冷たい飛沫をたっぷり浴びて桃花と笑い合う。波に重ねて明かすのは、海に還って、海月になる夢。だけど。
「いつか生まれる楽園を楽しんでからじゃなきゃ、海月になれなさそう」
「ああん、楽しみつくしてくれるまで還しませんとも~!」
 返るのは飛びきり嬉しげなほっぺちゅーと、リフレイン。
 ――いっしょに、いこうね。
 楽園という言葉が、ティアンの胸裡に濃紅の椿を咲かせた。
 冬の朝の記憶を手繰るように桃花を呼ぶ。あの子は世界に解き放たれたけれど、
「もう新たな幸せとして還ってくることはできないの、かな」
「あの子はもう全部自由だもの、あの子自身が望むなら、きっと」
 還ってくるの。この場所ではなくとも、この空のもと、この海の繋がるどこかに。
 この、同じ星の、上に。
 還ってくるといいねと笑んだスプーキーが昔語りを紡ぐ。海兵達は船上で、少年時代を、故郷の家族を、子供を、愛おしく語るものだから。もしかしてあのランプにそれを、
「聴かれてしまっていたのかもしれないね?」
「それはもう、夢の中の言葉まで聴かれていたに違いないの~」
 掛けられた上着の中で笑った桃花が、何かを察して祝福めいたほっぺちゅーを彼に贈る。
 釣られてティアンも目元を和ませた。けれど海へと眼差しを返したなら。
 遥か青と蒼の境界を見霽かせば、心の扉を閉じることなどできはしない。
 開かれる。どうしようもないくらい。
「……君も、帰りたい?」
「――帰りたいし、還りたいよ、とても」
 今にも魂翔けしそうな心。そこへ燈った夜の声に応える間も、ティアンの瞳は水平線から逸らせない。彼方へ、彼方へ。愛しき日々、慕ったひと達の許へ。
 もう還れないと、識ってはいても。
 ――私が還りたい場所は、何処だろう。
 彼女に倣うよう青と蒼を見霽かせば、夜の胸裡にも郷愁が滲んだ。
 痛いのか苦いのか切ないのか分からない。何も遺さず、ただ此の世から消えられたならと願うのに、まみえる世界そのものに息衝く力強い生命に引かれて、惹かれて。
 波飛沫に洗われる。唯、純粋な想いが露わになる。
 世界はこんなにも、美しくて、眩い。
 彼の心が己の胸に響いた気がしたのは、きっと、同じ瞬間に同じ想いがラカの胸を貫いたから。想像以上に波飛沫は激しく荒々しくて、手を伸ばすまでもなく花色の髪から爪先まで洗っていく。世界から惜しみなく与えられたよう。
 掌に結ばれた透明な滴に、空の青と海の蒼が映る。眩くて暖かい、世界のかけら。
 遥か彼方へ、心のかけらを解き放つ。
 ――其処へ行くのはまだ怖いから、もう少し、待っていて。
 嵐を越えた船員達が目にしたのはきっとこんな空だったんだろう、と。
 暴走という名の嵐の海に身を投じ、荒れ狂う海の底から戻ってきた男が笑う。
 勲の瞳に晴れた眩しさが戻ったこと、それを嬉しいと素直に言える可愛げには火岬・律は縁遠く、けれど胸裡にはかつて抱いた羨望が甦って、
 ひときわ大きく爆ぜた波飛沫に、すべて断ち切られて浚われる。
「ハ、お高そうなスーツが台無しじゃねえか」
「……お互い様でしょう、服は」
 波飛沫の冷たさに破顔した勲は、律が睨み返す様にいっそう笑みを深めた。
 青い空に目を背け、戻らぬものに縋り続けて。
「――でも、もういいんだ」
 あの深い水底に、俺の欲しいものはない。
 確と言葉にすれば、水底に無いなら、と可愛げのない後輩が言を継いだ。
 あの青と蒼の境界の彼方に、あるいは、我々の生きる陸に。
 ――いずれ、見出せるのかもしれない。

作者:藍鳶カナン 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2018年10月17日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 2/素敵だった 7/キャラが大事にされていた 0
 あなたが購入した「複数ピンナップ(複数バトルピンナップ)」を、このシナリオの挿絵にして貰うよう、担当マスターに申請できます。
 シナリオの通常参加者は、掲載されている「自分の顔アイコン」を変更できます。