夏菫

作者:藍鳶カナン

●夏菫
 気づけば夏の夜は深更に至ろうとしていた。
 古都の情緒を色濃く残す町並みは、街灯さえも見た目は灯籠のごとく仕立てられている。
「ま、たまにはこんな夜歩きも悪かねえよな」
 心地好い夜風に落内・眠堂(指括り・e01178)は嘯いたが、最初は夕涼みだった気が。
 伽羅の香木、黒方の煉香、青磁の香炉。宵の口に訪れた薫物の店が思っていた以上に彼を熱中させ宅配を頼むほど散財してしまったのと、何気に入った小路で見つけた隠れ家めいた料亭で、頼んだ冷酒を呑むのを忘れるほど亭主との話に花が咲いてしまってこの時刻だ。
 夜風に連れられるまま漫ろ歩きと洒落込めば、水の気配に誘われて。
 ふらりと渡りかけた太鼓橋。その上から水の流れを眺めんとすれば、
「――!!」
 見下ろした水面ではなくそのほとり。
 水辺の散策路として調えられた広めの路に佇む女と眼が合った。
 艶めかしい夏の夜風に、不意に冷たい朝靄と菫が香るかのごとき錯覚。
 湧きあがる衝動のまま橋に手を掛け夜風に身を躍らせる。
 飛び降りると同時に、眠堂は女の許へ駆け寄っていた。
「……」
 掠れた声で花の名を紡ぐ。
 彼の眼前で、菫色の振袖を作り変えたと思しき外装を纏う女――ダモクレスが微笑んだ。
『いらっしゃい、おまえさま。ありがとう、私に殺されに来てくれて』
「菫――!!」
 漸く声を絞りだす。握り込む手の指、枷のごとき指輪が熱を帯びた気がする。
 だが眠堂も解っている。眼の前のダモクレスは『換装』するのだ。『換装』でいくら姿を変えても中身は端からダモクレス。彼女が開いた巻物から溢れだす数多の目玉も『換装』のために蒐集した人間の眼球の記録映像データだろうと推測することさえできるのに。
 記録映像データがグラビティで実体化したことさえ直感的に解ったのに。
 ――それでも、彼の、感情は。

●宿縁邂逅
「――ってのが今しがた出た予知でね。即刻ヘリオンを飛ばすから、眠堂さんの救援にすぐ向かえるってひとは急いで僕のヘリオンへお願い」
 天堂・遥夏(ブルーヘリオライダー・en0232)はケルベロス達にそう告げた。
 恐らくは敵の作為により眠堂とは連絡不能。時間的猶予もなく、全速のヘリオンで救援が駆けつけなければ、明後日あたりには彼が営む呉服屋に宅配されるだろう香木や煉香やらが彼の遺品となってしまう。
「そんなことにならないよう、彼を救援して、必ず敵を撃破してきて」
 現場はこれまた敵の作為と思しきものによって他者の気配は一切無い。
 水辺のほとりを散策するための広めの路であるそこには街灯の光も届き、深夜ではあるが視界にも問題無し。
「だから全力で戦いに集中して。っていうか全力でないと多分ヤバいから」
 敵は開いた巻物から数多の目玉を溢れさせて悪夢を呼び覚ます。
 菫の香りと涼やかな水流で微睡みに誘って自由を奪う。すなわち麻痺だ。
 双方とも範囲攻撃ゆえに威力自体は然程の脅威ではないが、問題は彼女がジャマーであること。しかも、強力なヒールに浄化を備えた自己回復能力も持っている。
 対策が無ければ皆の救援があっても苦戦は必至だ。
「あと、判明している情報はすべて伝えておくね」
 敵の名は『微睡みの菫』。
 巻物から溢れだす数多の目玉は、敵が蒐集してきた人間の眼球の記録映像をグラビティで実体化させたものだという。彼女は夢見る瞳を欲するダモクレスで、夢を追う人間の眼球を奪って己に『換装』するのだとか。
「但し、今回の彼女の目的はあくまで眠堂さんの殺害。だけど敵はものすごくケルベロスを嫌ってるみたいでね、あなた達が介入すればあなた達も当然攻撃対象になるよ」
 理由は不明だが、そもそもケルベロスに好意的なデウスエクスの方が珍しい。
「眠堂さんと敵の関係も判らなかった。全速でヘリオンを飛ばすから戦いの火蓋が切られる瞬間に介入できるはずだけど、眠堂さんの心情も判らなくてね。彼が心情的に戦える状態にあるかも判らないんだけど――それでも、あなた達なら彼を救援して勝利してきてくれる。そうだよね?」
 さあ、空を翔けていこうか。古都の情緒を色濃く残す町の、水のほとりへ。
 微睡みの菫と相対する、呉服屋の店主の許へ。


参加者
藤守・景臣(ウィスタリア・e00069)
ゼレフ・スティガル(雲・e00179)
雨月・シエラ(ファントムペイン・e00749)
落内・眠堂(指括り・e01178)
シィラ・シェルヴィー(白銀令嬢・e03490)
月霜・いづな(まっしぐら・e10015)
君影・流華(ウタカタノウタウタイ・e32040)
豊間根・嘉久(天ツ空・e44620)

■リプレイ

●夏の菫
 異界か幽世へ迷い込んだようだった。
 明るく朧な光を燈す街灯は古の灯籠の姿を纏い、眼前の敵は彼岸へ渡った娘の姿を纏い、夏の夜の深更に朝靄と菫が香るかのごとき錯覚に囚われた落内・眠堂(指括り・e01178)の心を眩ませる。
 ――命と夢だけじゃ飽き足らず、体まで、奪ったってのか。
 理性はそう判じているのに、身体が、感情が追いつかない。敵の、『菫』の手で解かれる巻物。溢れだす数多の眼球が己を害するためのものだとさえ解っているのに。
 枷のごとき指輪が、指を、魂を締めつける心地さえして。
 だが、襲い来る眼球の波濤の前に立ち竦んだ刹那、夜空から光が降り落ちた。
「眠堂、手助けに来たよ。キミの大切なひと達と一緒にね」
 視界に舞ったのは淡い金の髪、着地するや否や眼球の波濤へ躍り込んで眠堂の盾となった雨月・シエラ(ファントムペイン・e00749)が流体金属の粒子を解き放てば、同じく銀色の煌きが重なると同時、仄かな藤の香りが、あえかな熱孕む夏の夜風が眠堂を現に引き戻す。
「ふふ。シエラさんの仰る通り、助けに来ちゃいました。御無事で何よりです、眠堂さん」
「君の大切なひとの姿なんだよね? その姿で君に害を為す敵なら、戦う理由には十二分」
 術の名残たる銀光を引く藤守・景臣(ウィスタリア・e00069)が微笑み、此方へおいでと眠堂を引き寄せたゼレフ・スティガル(雲・e00179)が、敵との間に割り込みながら惨劇の魔力を叩き込んだなら、夜風に紙兵が舞い吹雪き、
「みんどうさま! お力ぞえにまいりました、ごおんがえしをさせてくださいませ!」
「ワタシも、託された想いの、分まで、精一杯、助けるから……!」
 迷い子の縁を花開かせるよう紙兵を放った月霜・いづな(まっしぐら・e10015)の許から跳ねた和箪笥ミミックがエクトプラズムの玉串で敵を急襲。誰から想いを託されたかなんて言わずとも伝わると信じて、君影・流華(ウタカタノウタウタイ・e32040)が黄金の果実の輝きで後衛陣を包めば、黄金の光の裡から蒼と白に煌くボクスドラゴンのブレスが迸る。
 竜の息吹を追いかけた光が前衛陣の足元に描きだすのは星の聖域、
「ええ。お帰りを待つ方々にただいまを言ってさしあげてくださいね、眠堂さん」
「眠堂の大切な相手なのだろうが、俺達ならその姿に惑わされることはない。力になろう」
 星剣の一閃で幾重もの加護を齎したシィラ・シェルヴィー(白銀令嬢・e03490)の胸元に小さな金の羅針盤が踊る。今夜のそれは眠堂を連れ帰るしるべとなるのだろうと思いつつ、豊間根・嘉久(天ツ空・e44620)が確たる狙いで零式鉄爪を揮えば、神経を冒し麻痺を齎す仕込み針が驟雨のごとく、敵へ、微睡みの菫という名のダモクレスへ降りそそいだ。
 闖入者達の正体を問うまでもなく敵が笑む。
 その手で涼気を帯びた巻物が波打った瞬間、
『ようこそ、招かれざるケルベロス達。群れなければ何もできない、半端な狗ども』
「俺の大切なひとたちに、触れるな。――菫!!」
 嫌悪とも憎悪とも取れるものとともに溢れだしたのは菫の香りと涼やかな流水、そして、反射的に景臣を庇った眠堂の裡から沸々と湧きあがる静かな怒り。沈着に努めようとも名を呼ぶ声にはどうしても情が滲む。前衛を呑む流水を押し返すよう氷結の螺旋を迸らせれば、
「なら、群れだからこそ叶う技を御覧に入れようか」
「ええ、いつでもどうぞ。行けますよね?」
「――ああ、行ける」
 微睡みへ誘う流水を笑みで突き抜けたゼレフが虚空に踊らす薄青が、景臣の地獄と眠堂の巫術を注がれ輝きを増した。夏の夜風に踊る薄青の炎の腕、それが敵を抱きすくめるように捕えたなら、息つく間もなく景臣が烏羽の刃に映した惨劇を突きつける。
『ケル、ベロス……!』
「……っ」
 苦痛に迸った声すら思い出を揺さぶるのか、眠堂の眦が微かに歪んだ。
 敵と理解してなお眠堂がその名を呼ばう声に滲む情、そして、『換装』するダモクレス。
 彼と敵の関係はそれだけで察するに余りあった。悪夢に呼び覚まされた幻肢痛が奔るのを堪えてシエラは、無垢なる左腕と地獄と化した右腕で竜の槌を制御する。シエラが右の腕を誰にも触れも触れさせもできないのと同じように、誰もが癒えない傷を、触れられたくない痛みを抱えているのだろう。きっと。
「……なのに、キミがそれに触れて呼び起こすというのなら、その報いを受けるべきだよ」
 夏夜に凛と声が響くと同時、竜の砲声が轟いた。

●夢の菫
 怪談というより怪奇譚へ踏み込んだようだった。
 美しく微笑む女が巻物を手繰るたびに数多の眼球が溢れだし、菫の香りと涼やかな流水がその心地好さで此方を絡めとりにかかる。彼我の攻防を重ねるたび夜風に踊る菫色の振袖、今の眠堂の身の上を思えば、そこからも縁の深さが窺えて。
 ――もしも、わたくしの大切なだれかの、命と姿がうばわれたなら。
 萌した途端にレトリバー尻尾の毛が逆立つ想像を振り払い、いづなは祓えの御業を喚ぶ。
「燃しきよめ、流しそそぎ、吹きはらいたまう――阿奈清々し」
 炎に燃され水に雪がれ風に払われて、ゼレフを苛んでいた悪夢の過半が霧散する。
「ありがとう、これでまた駆けていける」
 何かが風のように砂のように指の間から、否、指ごと零れ落ちていく悪夢。残ったそれを掌に刃の欠片を握りこんで堪えれば、琥珀レンズ越しに獄炎を幻視した。炎を燈されたのか炎に融かされたのか。地獄に奪われゆく思い出、その元凶に抱く想いが息を吹き返した今、立ち止まってなどいられない。
 世界を秘めた靴、旅駆けるための靴に流星を燈してゼレフが夜風を翔ければ、続けざまに眠堂が透ける御業を奔らせる。流星の煌きの名残ごと鷲掴みにする華奢な肢体。だが愛しいかんばせからも胸元から覗く木製の臓物からも眼を逸らさずに、彼は『菫』に訴えかけた。
「誰かを殺すことなんて、その身の主は望んじゃいない。もう離してやってくれ」
 されど、
『ねえ、おまえさま。おまえさまはこの『パーツ』のすべてを識っているとでも言うの?』
「――!!」
 くすりと笑んだ『菫』の頬を撫でて見せ、彼女は癒しの朝靄で己を覆い隠す。
 眠堂の識る菫は夢見がちで正義感の強い娘だった。
 生家で命を奪われかけた彼を救い出してくれたひと。ケルベロスに憧れて、けれど覚醒は叶わず、なのに街を襲ったダモクレスへ迷わず向かっていったひと。
 ――ケルベロスになりたい。
 彼女の夢は眠堂の身で叶った。大切なひとの喪失ゆえの、覚醒で。
 だが、もしも……と眠堂の思考が負に傾きかけた、刹那。
「こころないことばで、みんどうさまをまどわせは、いたしませぬ!」
「心も、身体も、傷つけさせはしない! それが、彼女の、願いだって、思うから……!」
 朝靄が晴れた瞬間に跳び込んだいづなが縛霊手の一撃で霊力の網を咲かせ、流華の想いと心のままに黒き鎖が襲いかかる。敵が癒しに手を割くなら彼女達癒し手が打って出る好機。
「足止めがキュアされるなら、こっちの命中精度を上げるほうがいいかな」
「ええ。決定的な弱点もなさそうですし、お願いします」
 戦況を見極め頷いたシエラが星屑めいた煌きを振りまけば、覚醒された超感覚を何よりの武器とした景臣が銀月の直刃を存在ごと透かした。霊体のみを冒す斬撃の標的はそれまでに受けた縛めの殆どと痛手の多くを朝靄の彼方に消し去った敵。
「流石、三重のキュアだと綺麗に消えるねえ。ヒールの威力も相当なものだし」
「彼方の癒しを抑えて、此方の火力を底上げして……押し切りましょう!」
 賛嘆する間にゼレフが掌中に生み出したのは極小の星、撃ち込まれた星が爆ぜて神殺しのウイルスを振りまいた次の瞬間、凛然と笑んだシィラが七彩の爆風を咲かせる。仲間をどの術で支援すべきかは即座に弾きだせた。
 敵が巻物を手繰るより速く、灰鷹の翼に幾重もの彩風を受けた嘉久が雷を迸らせる。
「これ以上、奪わせるな」
 諦観にも似た何かを纏うのに双眸に宿る闘志は苛烈、怒りを源とした雷撃が怒號となって敵を打ち据えれば、眠堂も雷獣を喚ぶべく袱紗から符を滑らせた。一瞬だけ心を侵食した、根拠なき負の思考を切り捨てる。
 もしも、菫の。
 焦がれど届かぬ憧憬が裏返ったのだとしたら――なんて。
 夏の夜風に浮かびあがった数多の眼球、波濤となって襲い来るそれに呑まれたなら、呼び覚まされた幾重もの悪夢が景臣の心を貫いた。地獄化した記憶は朧で曖昧で、なのに喪った最愛の妻の、殺される前の笑顔だけは鮮明で。
 その眩さゆえに苛烈に心を灼くけれど。
 突然の爆破音が彼の意識を引き戻す。シエラのサイコフォース、そして箱竜の突撃、
「景臣さん、すぐに、癒すから……!」
 それらが敵の体勢を崩した隙に、流華のたどたどしい言葉が流麗な唄声に変わる。
 ――リン リン リンと鳴る花。風に揺られ 陽を受けて 健気に咲いて。
 君影の母から贈られた流華のための鈴蘭の唄。夜風に共鳴し癒し手の浄化を乗せたそれが彼を抱擁すれば、歌うよう踵を鳴らすシィラの舞が招いた光の花々が幾重もの悪夢の最後のひとかけらまで浚っていく。
「ありがとうございます。怯んではいられませんね」
 ――粗相のなきよう。
 礼を紡いだ声をそのまま景臣が詠唱に繋げれば、眠堂の呪符とゼレフの地獄の炎が踊って敵を取り囲む。囲いの中で戯れるのは風精達、遊び相手を求めて彼女らは、菫色の袖を翻す女へ纏わりつく。
 無傷で、なんて奇跡は望まない。
 けれど誰もが、必要以上に敵を傷つけることのないよう意識しながら戦っていた。たとえ戦いの果てに美しい衣もろともすべてが消えるのだとしても。
 ――最期まで、美しいままに。

●終の菫
 夢幻から現実へ立ち返るようだった。
 夜風に浮かびあがる数多の眼球が呼び覚ます悪夢、菫の香と涼やかな流水が誘う微睡み、悪夢と微睡みに抗いながら与える痛手も縛めも朝靄の彼方に消えゆくけれど、朝靄の癒しが神殺しのウイルスで薄れれば、加護と強化を重ねた此方の攻勢が上回る。
「……まだ、まだ……踏み込める!」
 夢のように、されど鮮烈に奔る幻肢痛を星の加護で克服して、一気に彼我の距離を殺したシエラは巻物すら潜り抜ける勢いで限りなく敵へ肉薄し、至近から痛烈な一撃を叩き込む。砕けた木製の臓物のかけらが夜風に散る様にシィラが瞳を細める。
 ――優しい、優しいひと達。
 眠堂を慮ってシィラは特に気を配っていたけれど、彼女のみならず誰ひとりとして、敵を揶揄するような物言いをする者はいない。憤りを露わにすることはあっても、相手を貶める言葉を口にすることもない。姿だけでも、彼の大切なひとのものだと識るから。
「皆さんを最後まで支えさせてくださいね。――カーテンコールは、お気に召すまま」
 紳士なテディベアの手を取りくるり踏む三拍子、幾重にも幕を開くよう視界を開く加護を受け取って、ゼレフは幾度目かの神殺しの星を撃ち込んだ。
「それ以上、穢すな。奪うな――二度と」
「ああ。今こそ、その身体を『還す』べき時だろう」
 胸元に爆ぜて彼女を冒す星、そのウイルスを更に深く浸透させるべく、嘉久の手で杖から戻った鶯が夜に飛翔し、敵の四肢を翔けめぐる。癒しの朝靄も彼女を覆い隠すこと叶わず、戦場の風は終焉に向けて加速する。
 幾度悪夢を、あの日を見せつけられたことだろう。
 敵が操る夢見る瞳は、致命傷を負った菫が消えたあの瞬間、手が届かなかったあの瞬間を繰り返し眠堂に見せつけた。だからこそ理性は鮮明なのに感情は揺れる。けれど、溢れ来る菫の香と涼やかな流水の誘いから浅緑の巫術服が彼を護った。無意識に袖から滑らせた符に流るる黄金、顕現した黄金の融合竜が流水を相殺すれば、
「眠堂さん、最後はあなたが!」
「そうだ、往ってこい、決着へ」
 機を見出したシィラの、嘉久の声が彼を後押しする。
 頷いて敵と向き合えば、彼女の魂がそこにないと解っていても、菫へと語りかける言葉が口をついた。
「なあ、贄の淵から俺をたすけてくれた、その手で、皆を救うはずだった手で」
 ひとを殺めるなんて、苦しいだろう?
「いま、楽にしてやるからな。――菫」
 袱紗から滑りでた真白な符は、眠堂だけでなく景臣とゼレフの手にも滑りこむ。
 三枚の符に閃いた稲妻が夜風に凝って雷獣となり、雷の波が敵を逃さず呑み込みその命を最後まで呑み尽くす。頽れるまま彼女が口を開く。
『おまえさまに、真――』
 だが、その声音に不意にノイズが奔った。
 ノイズの奥から浮かびあがった声に眠堂が目を瞠る。
 考える間もなく駆け寄り、頽れた身体を抱き寄せる。
『……あなた、は』
 それだけだった。けれど、まるで、不要なものとして深層へと沈められたデータが不意に浮かびあがったかのような、その声の響きは。
 ――あなたは、生きて。
 あの日の、彼女の最後の言葉に、限りなく、
「菫……!!」
 そう思った瞬間には、眠るように目を瞑った彼女を抱きしめていた。
 眠堂の腕の中で、彼女の身体も、菫色の振袖も、光になって世界に還っていく。

 ありがとう、愛しき日々を。
 ごめんな、あの時、手が届かなくて。

 水のほとりから通りへ戻り、太鼓橋をゆるりと越える。
 ――みんなと漫ろ歩いて帰りたい。
 救援への礼に続けて、眠堂がぽつり零した願いに、
「うん、ワタシも、皆と、たくさん、話しながら、歩きたい」
 何時の間にか零れていた涙を拭った流華が力一杯賛同し、初対面であるがゆえに逡巡した嘉久を華やかな笑みでシィラが招く。
「こうして一緒に戦ったんですから、もうしっかり仲間ですよね、眠堂さん?」
「ああ。命の恩人との縁、粗略にしたかねえからな。付き合ってもらえりゃ嬉しい」
 ならばと嘉久が頷き、それじゃあ私もとシエラが夜風に金の髪を踊らせた。終業式なんて言葉は忘れて、灯籠みたいな街灯燈る石畳の路をゆるゆると。
 眦を緩めて笑む眠堂はいつもどおりで、けれども。
 ――大人は、すなおには、ないてはいけないのだと、できないのだと。
 彼を見上げ、その背を護るよう歩むいづなの胸裡を察して、ゼレフがぽふりと少女の頭を撫でる。綺麗事とは思えど、彼の重荷を共に支えられればなんて自然と思い浮かぶのは、と同い年の友へ眼差しをめぐらせれば、辻の祠にその姿。
 お参り? と問いたげな皆の様子に景臣は苦笑して、
「一見祠に見えますが、自動販売機なんですよ、これ」
 ほら、と掲げてみせた冷たい緑茶のペットボトルを眠堂の頬にぴとりと寄せた。
 ――おかえりなさい。
 ――ただいま。
 燻る熱を鎮めてくれるような冷たさと、微笑む彼の言葉に、眠堂はほんの少し泣きそうな心地になりつつ笑み返す。
 見ておられますでしょう? と、いづなが夜空を仰げば。
 皆を撫でるように流れる夏の夜風に一瞬だけ、淡く、淡く菫が香った気がした。

作者:藍鳶カナン 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2018年7月28日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 1/素敵だった 4/キャラが大事にされていた 6
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