梅雨の風がナザク・ジェイド(甘い哲学・e46641)の髪を撫でる。
もう硝子さえ無い拉げた窓枠越し、煌々と夕日が差していた。
燃えるような色を湛えながらビル間に吸い込まれゆく様は、言葉にし難い美しさで。
―――あと一階上がれば、屋上だったはず。
もう少し上がってもいいか、とナザクの足が一段登る。
何となく。
本当に、ただなんとなく。
「……綺麗な夕日だ」
何故か心惹かれるように此処へ来た。
『かわいいこ』
歌うような声がする。
夕方ゆえか、女性の……否、絵に描いた母親のような甘い声。
まるで子供を可愛がるような、撫でるような。
いっそ、幼い子でもあやして―――……。
『かわいい、こ』
「……っ!?」
耳元だった。
耳元。今、そう、己の耳元で声がした。
革手袋に包まれた手で、反射的にナザクは己の耳を撫で振り返る。
背を泡立てるような言いようのない不安を拭いたくて。
でも。
「はっ――……なん、なんで」
『いいこね……わたくしの、かわいいこ』
ぐい、と距離を詰める女の肌は恐ろしいほど白く。
“いいこ”と紡ぐ真っ赤な唇が脳に焼き付くほど、白く。
ゆっくりと伸ばされる手に、抗えない。逃げようにも体が動かない。
ぼたりと、女の腹からモザイクの落ちる音。
あぁなぜ。なぜ。なぜ。
艶やかな黒絹嵌めた手でナザクの頬を撫でる女は―――“あの人”に、似ている。
蕩けるようなその笑みは、夜の帳に似る。
●よるがくるよ
緊急招集されたケルベロスの後方、ヒールの音が迫る。
後から慌てて走ってきた漣白・潤(滄海のヘリオライダー・en0270)が追い抜かした。
「あのっ、あの、お願いします!先にヘリオンへ……!」
振り返り手招く先はヘリオン一機。
いそいで、と紡いだ声が説明を始められたのは、きった息を治め離陸準備が整った頃。
「す、すみませ……ナザクさんが、デウスエクスの襲撃を受けます」
ただ簡潔に潤は言う。
件のデウスエクスはドリームイーターである、とも。
「予知に見えてすぐ連絡したのですが……すみません、一歩遅く」
連絡がつかない意味合いを、集まった全員が知っている。
一刻の猶予も無いことも。
時刻は夕方。夜になる、ほんの少し前。
現場は近々取り壊し予定の廃ビル。
人気は無く、近付く者もいないため人払いの心配は一切ない。
「ドリームイーターはナザクさんを“かわいいこ”……と。慈しむようでした」
年齢の概念薄いデウスエクスだからこそ、ナザクさんの見た目にも年齢にも頓着しないのでしょう、と言いながら潤は続ける。
「見えた限り、最初は殺意がありませんでした」
“最初は”。
引っ掛かる物言いに首を傾げた者がいれば一つ頷き返し。
「事が起これば、何をするか分かりません。ですのでどうかお気を付けを……」
ぎゅっとメモ持つ爪先白くなるほど握り締めた指に僅かな震え。
切り替える様に顔を上げた所で深々と一礼。
そうして運転席へ着き、僅かに後ろを振り返る。
「皆さん一緒に、お帰り下さい。……お待ちしております」
静かな声と同時に、浮遊感。
参加者 | |
---|---|
光宗・睦(上から読んでも下から読んでも・e02124) |
三笠之・武蔵(黒鱗の武成王・e03756) |
グレッグ・ロックハート(浅き夢見じ・e23784) |
アスカロン・シュミット(竜爪の護り刀・e24977) |
空野・紀美(ソラノキミ・e35685) |
不入斗・葵(微風と黒兎・e41843) |
錆・ルーヒェン(青錆・e44396) |
ナザク・ジェイド(甘い哲学・e46641) |
●あなたをおもう
ハッ、と短い呼気がナザク・ジェイド(甘い哲学・e46641)の喉を抜ける。
恐怖と。
驚愕と。
僅かな、絶望。
望洋とした瞳でナザクを見つめる鳥籠の君は艶やかな微笑みを湛えたまま。
妙に幸せそうな微笑みであるように見える。未だ頬滑る指はただ優しい。
ゾッとするほど。
でもその姿が。燃えるような夕日に照らされる彼女が。あんまりにも美しいから。
戦慄くナザクの唇が、ぽつり。
“――そんな泣きそうな顔をしないでくれ”。
無意識だった。
しかしそれ声になる前に、七つの足音が空気を攫う。
「敵前でボーっと突っ立てんじゃねぇよ!」
見知った声と己に迫る風切り音。
ナザクは反射的に半身捩って身を庇えば、やはり見知った黒い鱗で。
大翼広げた三笠之・武蔵(黒鱗の武成王・e03756)が泣きそうな顔で笑っていた。
「しっかりしろ、阿呆ナザク!」
鋭い蹴りもグラビティ伴わなければ番犬にとって戯れも同じ。
自身が不安と緊張の狭間から引きずり出される感覚にナザクが口角を上げたその時。
全てを、押し潰すような殺意。
『あなたは、だれかしら』
全身から汗の噴き出すような感覚。
いくら。いくら、最初から殺意を向けられなかったとはいえ。
相対するはデウスエクス。コードネーム デウスエクス・ジュエルジグラット。
――通称、ドリームイーター。
『わたくしの、こ』
「武蔵!」
「……あ゛っっ?!」
逆鱗に触れるとはこういうことである。
ずどん、と重い音。鱗裂き骨軋み肉を打つ一撃。
鋭く撃ち抜かれた武蔵の目には、全てがスローモーションに見えた。
己が盾役で良かったと思う。生半可であれば意識が喰われていたかも分からない。
後悔あるとすれば、こちらへ手を伸ばす泣きそうな顔の悪友に応えられないこの一瞬。
彼の背から恐ろしいほど暗い瞳で己見つめる女は、やはりデウスエクス。
今まで相対したものと変わらぬ一体のドリームイーターなのだと。
そう確信しながら、武蔵は瓦礫目掛け吹き飛ばされた。
これ一瞬のこと。
本当にこの一連は、一瞬のこと。
癒し手の不入斗・葵(微風と黒兎・e41843)が頬掠め飛んだ武蔵にハッとする。
「っ、武蔵お兄さん!」
踵を返した葵が急ぎ武蔵の下へ走れば、止まった空気が廻りだし。
「あんたの事情は、知らない」
グレッグ・ロックハート(浅き夢見じ・e23784)が一歩踏み出すのは葵と真逆。
主の意を汲み素早く溶けた白銀のオウガメタルがグレッグの拳を包み。
「しかし、友人に手を出すのなら……見過ごせない」
低く朗々と、鋼の拳引き絞った天使は言う。
ひどく静かな言葉と裏腹に半身を白銀としたグレッグの拳は深く重く、女はよろめく。
三重に引き裂かれた鳥籠の君纏う薄い防御層。
踏み込んだのは空野・紀美(ソラノキミ・e35685)。
『あぁ……!』
「わたしたちはお手伝いにね、来たんだよー!」
体傾けた鳥籠の君を利き手の拳で差して。
ピンと立てるのは人差し指と親指。指先に集い絡まる射手座の加護にウィンクを。
「だからね、ナザクさんっ!遠慮なく!」
ばきゅーん!と鳥籠の君撃ち抜いた愛らしい声が、ナザクを呼ぶ。
強く照らすようなグレックの言葉。初対面ながら紀美の真っ直ぐな優しさにナザクの心が揺れれば、すぐに女は勘付いて。
『わたしの、わたしの……かわいい、こを』
どろりと蜜より重い言葉がナザクの心を聴覚から絡め取る。
ゆるりと頬撫でる黒手袋が、紫苑の瞳を覆った直後。
「悪いがナザクは返してもらう。……俺の大事な妹が、世話になっているんでな!」
踏み込んだアスカロン・シュミット(竜爪の護り刀・e24977)は母を知らない。
赤子の頃に別れ、記憶すらも無いのだ。
それでもアスカロンは感じていた。
ナザクの頬に指滑らせる女のソレが、自身の知る愛情とは遥かに程遠いことを。
「国護の血を引く者として希う――」
りん、と輝くアスカロンの呪具手甲。
空気から生じる様に滲み生まれたのは黒き一矢。
「その怒り……その復讐心……闇の光となり対象を貫け!『花影』!」
言葉は引き金。在りもしない弦から放たれた一矢が、鳥籠の君の傷口を尚深く。
『っ、あぁ……わるいこ、ばかり!』
白い頬に滴る赤。血濡れの肩口。
徐々に重ねられる傷に鳥籠の君の表情が引き攣れば、ナザクの意識が現実を見た。
「俺は」
自分が忘れてはならないこと。大切なことがある。
紫苑を瞬かせナザクが口開きかけた時、女との間に光輝く盾壁一枚。
「親御さんにそっくりの姿で惑わせるとか卑怯だよ!」
ナザクへ盾壁の加護授けたのは光宗・睦(上から読んでも下から読んでも・e02124)。
鳥籠の君とは真逆の鮮やかな色羽搏かせ、声を上げる。
「そーいうの、許さないから!」
そう。これは許されざる行い。
限界まで見開いた目で歯噛みする女は、ナザクの思い人とは別人なのだ。
『ひどいこ。あぁ、ひどいこ……きゃっ!』
「ナーザクちゃん」
流星の一蹴が女とナザクを引き離す。
蹴りの主、錆・ルーヒェン(青錆・e44396)の外套がナザクから夕陽覆う様に泳ぎ。
月とも宝石ともつかぬ黄金の瞳を弓形にしたルーヒェンが長身を僅かに屈め覗き込む。
「世界が燃えてるみたいだねェ」
逆光。
「そうだな」
何てことの無い言葉。非日常の中、まるで日常のように。
窓の外、遠く烏が鳴いていて。
『わたくしの、かわいい――』
「なぁ……それ、他人の空似って奴かい。それとも変身能力?」
砂埃に汚れた裾を払う。
今日初めて。初めてナザクは、女の顔を見た。
『あなたはわたくしの、』
未だ渦巻くものも、吐き切れないものも、呑み下せないものとてある。
それでもナザクの体は銀の雫を引き抜いて。
「何れにせよ……趣味が良いとは、言い難いな」
「だからしっかりしろって言っただろ、阿保ナザク!」
後ろから飛ぶ活は武蔵のもの。
傷は塞がれ、悲しきトラウマも葵の小さな手に救われた今、武蔵は友のため叫ぶ。
「大体、いなくなられちゃ張り合いがなくなって困るんだ!」
「そうか」
踏み込みは軽口と同じ重さ。
白銀の刃に滴る呪詛の声はナザクにとって耳慣れたもの。
その刃でただ滑るように。それでいて針の穴通す繊細さで突き切れば。
『どうしてっ……!どうして、かわいいこ……!』
泣きそうに歪む君の顔が、同じ痛みで胸を刺す。
●ゆうひがねむる
こんなにも物悲しいのは夕日の所為だ。
もう誰の血かも分からない赤が、廊下を染める。
ルーヒェンが限界を超える可動域から繰り出すスパイラルアームが、女の盾を削り。
「ハハ。ママ。オカーサン……俺は知らないケド」
がちゃりと戻した腕を振るうルーヒェンの瞳は、決して鳥籠の君を離す事無く。
「アンタの“アイし方”は大事にしてあげらンないなァ!」
『わるいこは、いらないわ……!』
返す様に揮われる一撃が、叩き付ける様に睡眠の様な暗示をかける。
間を縫うように鳥籠の君斬りつけるナザクにも他とは違う悲しみの瞳向けるだけで、鳥籠の君の一撃に容赦も慈悲も無い。
「無茶すんなつってんだろうが!」
『あぁあああっっ!』
「だからっ、そういうのホント危ないんだって!」
ナザクを庇う武蔵がその背を叩けば、鳥籠の君は“かわいいこ”を想い嘆く。
そうして嘆くように顔を覆った鳥籠の君の一撃はほぼ不可視。
何かが空気切る音のみが判断材料。
危ないのはそっちだよ!と傷多い武蔵を庇った睦が頬膨らませれば、悪りぃなと笑う黒鱗の竜人が苦笑い。
「……問題ない」
ふーっと深く息吐き出したナザクはと言えば、どこか遠くを見ていた。
傷だらけの身で一体何が問題ないのだと誰もが思う。
しかしその胸中で渦巻き続ける葛藤はナザクだけの戦い。だからこそ危なげな背を、心を、少しでも支えられればいい。此処へ集まった誰もが、そう思っている。
「葵、頼む!」
「うんっ!……――くるり廻りて風よ吹け、」
各々の思いで立つ皆の下、硝子の無い窓から雨の気混じりに風が吹く。
幼い葵の声は歌うよう。
ナザク達前衛の間を洗うような風が傷も精神負荷も拭い去り。
「清き微風導いて……くるり……ゆらり……」
風に躍った葵の二つ結びが揺れること幾度目か。
齢一桁と幼いながらも精一杯の背伸びで、葵は気を張り続ける。
「お兄さんは渡さないよ!」
「ああ、そうだな」
狙い撃つような鳥籠の君の一撃を、グレッグは紙一重で躱す。
躱した勢い殺さぬまま走ったのは壁面。じゃり、とエアシューズが砂礫を踏み。
クリスマスローズが夕朱に染まる。
「逃がさない」
「ナザク、道は俺達が創る!」
同時、逆側から回り込んだのはアスカロン。
薄蒼い桜花の刃を静かに構え、グレッグの一蹴に燃え立つ傷目掛けて居合い抜く。
『やめて、やめて!……さあおいで』
誘う女―鳥籠の君―の声が、傷付いた身を癒し仄暗い盾を張った時だった。
その盾へ、鮮やかな空色が突き刺さる。
「そーいう守りにはいっちゃうの、許さないんだからっ」
「そーそ、今はちょーっと肉食な感じのがいいんじゃない?」
コバルトブルーの上を走る、紀美の巨大なネイル筆。
至近距離、ニッと笑った睦のガントレットが高らかに吼えれば。
『あぁっ……!』
薄い盾は瞬く間に拉げ、硝子より脆く弾け飛ぶ。
ケルベロスの連携は確立され、対策は細部にまで及び徹底していた。
思いは強く。
「刀が無くとも、この身一つで十分だっ!!」
どっと武蔵が床を蹴り飛び立つ。
滑るように飛ぶのは天井ギリギリ、前を行った者の頭上を越えて。
「過干渉は嫌がられるぜ、おばちゃん!」
鳥籠の君の眼前で急降下と同時の着地。
腹のモザイクごと、鳥籠の君の細い身を刃と化した翼で切り刻む。
羽搏きは悲鳴さえ殺した。
数多零れた赤の上。かつりかつりと、コンクリートを鉄が打つ。
知らぬ間に女を見下ろしていたのはルーヒェン。弓形の瞳で微笑んで細い鉄指を突き立てるのは白い胸。
海より深い髪色が隠した口元の問いも囁きも、女しか知らず。
「―――……“お食べ”」
『―――ぁっ』
紅の唇が震える。
ナザクと似ているようでどこか違う、紫色の瞳が瞬いた。
鳥籠の君の口端伝う赤は唇よりも夕日よりも鮮やかで。
『わたくしの……』
「彼女も、貴女のようだった」
帳降ろされる夕日の、最期の閃光。
ずぐり。
ナザクが手にした白銀を、モザイクが伝う。
『わた、くし、の』
「俺を愛し、育ててくれた。母のようなひとだった」
“母”と呼んだナザクに、鳥籠の君は己が事のように微笑んで一歩。
ナザクもまた、ゆったりと一歩。
二人の距離が縮まれば縮まるほど、噎せ返るような無数の花弁が立ち上る。
まるで夢幻。
黒纏う二人と真逆の真白い花弁が、深々と刺さりゆく白銀も何もかも、隠し通して。
どれほどの痛みか。それでも鳥籠の君は抵抗する力も無いのか身を任せ、ただ。
まるで受け入れる様に飲み込むように、ゆっくりと。
「……さようなら」
『いいこ、ね』
●よるがきたよ
艶やかな容貌の女は、彼女は、花と散った。
繊細な音を立て落ちた鍵を、ナザクがそうっと拾う。
精巧な白薔薇が咲く黄金の鍵。ちいさなちいさな、鍵。
「―――、―――――――」
呟きは巻き起こった風が攫う。
彼女が熱の無い指先で最期に撫でた自身の頬を、ナザクの指が這う。
眉間の皺は、ちくりと傷んだ傷口のせい。
きっと。
帳降りた空には星。
燃え尽きた世界に残ったのは、自分達。
「ナザクお兄さん、無事で良かった……お帰りなさい」
「ん。……腹、減ったな。なんか美味いもんでも食いに行こう」
「……おう。っし、焼肉食いにに行こうぜ!」
振り返り葵の頭を撫でるナザクは、皆の知っている顔だった。
武蔵にも皆にも、常と変わらない声色で話すナザクが空元気なのは丸分かり。
それでも、乗ってやるのが上策か。
「ったく、財布に無理させ過ぎんなよ?」
「……力を貸してやってもいいんだが」
微笑み零したアスカロンとグレッグの視線柔らかく、支援はいるかと問う言葉に滲む気遣い。
「いいねェ。ナザクちゃんの奢りかなァ?」
笑ったルーヒェンの足取り軽く、鋼のヒールが寂れた床を軽やかに奏で。
鮮やかな髪飾り揺らす紀美と睦は同じテンションで微笑みあう。
「わーい!ゴチになりまーす!」
「いいの?じゃあ後で歌えるとこも行きたいかなー」
日常だった。
番犬となったナザクが今まで積み上げたものが、此処にある。
「あぁ、今日ばかりは私が奢るよ」
「よーし、奢るって言ったの後悔するくらい高級肉腹いっぱい食ってやるからな!」
力抜けたナザクの肩を勢い良く叩いた黒鱗の手は、誰よりも温かかった。
並んで歩く影は末広がり。
ゆるく柔く、月明りに伸びていく。
作者:皆川皐月 |
重傷:なし 死亡:なし 暴走:なし |
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種類:
公開:2018年7月7日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
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得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 5/キャラが大事にされていた 3
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