かくしてぞ

作者:藍鳶カナン

●花酔
 初夏の緑溢れる山深く、渓谷にかかる橋を渡れば、薄桃色の花に彩られた神社がある。
 桜花にあらず、桃花にあらず。
 明るく陽光を透かす新緑から薄桃色の花房となって咲き零れるのは、藤の花。
 薄紫ではなく薄桃の花を咲かせる紅藤が、神社を抱きすくめるような森の樹々の樹上から花の瀑布の如く薄桃色を咲き溢れさせ、境内にある老いた紅藤の大樹が辺りへ大きく悠然と広げた藤棚からも、歓びそのもののような明るい薄桃色が溢れんばかりに咲き満ちる。
 夜に観るのもさぞや美しかろうと感じるけれど。
 陽の光が降るなかで降り仰ぐときに最も純粋な歓喜を覚える花――と、この神社の紅藤を愛するひとびとは口を揃えるのだとか。
 光降る、薄桃色の藤棚。
 花の天蓋を振り仰げば、明るい薄緑の葉を透きとおらせるような光と薄桃色の花の瀑布が降りそそぎ、こころとからだのすべてでそれを享けるような心地。
 光を透かす薄桃色は明るさを増すのに不思議と鮮やかさを強め、ふわりと甘い花の香りとともに泣きたくなるような歓喜でいっぱいにしてくれる。望むのなら咲く花よりもひときわ深く甘く香る藤の花酒を味わうこともできるけれど。
 花酒がなくとも咲き溢れる薄桃色の藤花を振り仰ぐだけで、心は眩むほどに酔えるはず。
 ひとめ見てこの神社の紅藤のとりこになり、毎年足を運ぶものは数多く。
 神社でも、昨年の藤花で仕込み、淡い金色に熟成されて香り高く仕上がった花酒を振舞う白磁の盃を揃え、今年の紅藤の花に逢いにくるひとびとを迎えるはずだったのだけれども。
 デウスエクスの襲撃で、薄桃色の藤花に逢いにいくための橋が落ちた。

●かくしてぞ
 かくしてぞ、人は死ぬといふ――。
「って詠まれた和歌みたいな心地らしいんだよね、そこの紅藤を楽しみにしてたひと達が」
「ああん分かりますとも、それだけの紅藤が見られるところってなかなかないもの~!!」
 このようにして人は死ぬのだ――と、鮮やかに心へ斬り込んでくる句から始まる和歌は、遥か万葉の時代、唯ひとめ見ただけの藤のように美しいひとにどうしようもなく恋焦がれる様を詠んだもの。
 だが今回は、咲き溢れる紅藤の花そのものに恋焦がれてそんな心地になってしまうひとが大勢いるのだと天堂・遥夏(ブルーヘリオライダー・en0232)がケルベロス達へ語り、皆と一緒に話を聴いていた真白・桃花(めざめ・en0142)の竜尻尾がぴこんっと立つ。
 何せ薄紫の花が咲く藤の名所は数多あるけれど、薄桃の花を咲かせる紅藤のみを思うさま愛でられるところとなると、そう多くはないはずだ。
 心待ちにしていたその紅藤に逢いにいけないとなると、
「ああん、そんなのもう焦がれて焦がれてどうしようもなくなるに決まってますなの~!」
「そんな感じだろうね。渓谷の橋を渡らず神社に向かおうとすると半日がかりらしくてさ、紅藤を観たいのに涙を呑まざるを得ないひとが沢山いるってことで、あなた達にヒールでの橋の修復をお願いしたいって話が来てるんだ」
 尻尾ぷるぷる震わす桃花に頷き、遥夏は「行ってくれる?」とケルベロス達を見回した。
 渓谷の橋を渡ることが再び叶うようになれば、神社を彩る薄桃色の藤花が迎えてくれる。
 薄桃色の花の瀑布が、光降る花の天蓋が歓迎してくれる。
 世界が惜しみなく与えてくれる歓喜。一片の迷いもなくそう感じられるだろう。
「きっとね、わかると思うの」
 ひとめ見てこの神社の紅藤のとりこになるひとびとの気持ちが。
 かくしてぞ――と、そんな風に、彼の地の花を、この世界を、恋焦がれるように想ってもいいのだと。そして、心をひらいて、世界が与えてくれる歓喜をうけとめていいのだと。
「疑問の余地もないくらい、世界が自分を歓迎してるって感じさせてくれると思うから」
 皆でその紅藤に逢いにいけたら嬉しいの、と桃花は尻尾をぴこぴこさせた。
 そうしてまた一歩進むのだ。
 この世界を、デウスエクスの脅威より解き放たれた――真に自由な楽園にするために。


■リプレイ

●あらたまの
 光る風が誘う。
 初夏の緑滴る渓谷には癒しに潤された橋が渡されて、幻想で生まれた真白な紙垂が光風に踊って神の社へ招いてくれる。朱の鳥居を潜った先は、光と花降る――歓喜の世界。
 明るい新緑が陽光を透かす。薄桃色に咲き零れる藤の花房を紗のように波のように揺らす清風に連れられ、足を踏み入れたのは花波の袖を悠然と広げる紅藤のもと。
 花の天蓋を振り仰いだ途端、アラタは光に満たされた。
 薄緑を透かした光が薄桃に咲き溢れる花の瀑布とともに降りそそぐ。
 圧倒的なのに限りなく優しくて、ふわりと風が渡るたびに花のひとひらひとひらを煌かすきらきらの光が溢れて零れて祝福みたいに降ってくる。甘やかな花の香満たした胸の奥では鼓動が高鳴って、さらさら唄う花の囁きにつられて身の裡に熱が燈る気がして。
「なあ桃花、これってなんだろう? アラタも恋をしたのかな!?」
「ふふふ~。きっと恋ですともー!」
 訊けば、新たな恋の祝福なの~とほっぺちゅーも降ってきた。
 幻想の紙垂が翻る橋、新緑に映える朱の鳥居。
 渡りて潜ればそれらが確かに境界なのだと思い知る。
 瞬きも呼吸も忘れ、永遠とも思える一瞬に心は薄桃色に降りそそぐ花の瀑布に呑まれ、
 ――ここは、どこだろう。
 ――本当に、此処はどこなのでしょうネ。
 知らず想いを溢したジェミは、きゅっと握ったエトヴァの手が握り返してくれる感触と、彼が穏やかに笑む気配に淡く息をつく。たとえ夢幻の異界に迷い込んだとしても、二人手を繋いでいれば迷いはしない。
 光風が香風になる。
 薄桃色の滝が波打ち花々に光をさざめかせ、香る風が彼らの髪を踊らせる。そういえばと伸ばされたジェミの指の先、
「藤の花咲くこの時季を『春の中の春』って言うんだって、何かで読んだよ」
「ならバ、春の中の春への道標……あるいハ、歓迎の意を頂いたのでショウ」
 己の髪に藤花ひとひら宿っているのに気づけばエトヴァは笑みを深め、
 ――君とみる花は、どれも鮮やかに映りマス。
 紡いだ言の葉で、大切な家族にこんな切望を燈した。
 疾く過ぎゆくな、春の中の春。
 四季めぐり南から北へ数多の花咲き渡る瑞穂の国。
 様々な花に出逢うたび色んな小国を渡り歩いている気分よ、と嘯く今日のレンカは紅藤の国の佳客、花の天蓋を振り仰げば輝く光と花々の波間に心を攫われる。
 光の歓喜。花の彩と香に満たされて。
 この花に恋焦がれるよう、誰かにまた恋をしたいと希う。
 たとえ、蔓が絡み喉を締めつけるとしても。
「桃花はどう? 誰かを死ぬほど愛したいと思う?」
「死ぬほど恋焦がれるのには憧れるかも~。けれど」
 恋する気持ちが、愛する気持ちになったなら――、
 内緒話めかして囁かれた続きの言葉に成程ねと破顔して、姉御肌な女も囁き返した。
 もし恋に悩むことがあれば、相談に乗らせてね。
 ――また逢えたね。
 仰いだ花の天蓋に目を細めれば、薄桃色が潤むよう蕩けてクィルの視界いっぱいに溢れる心地。光の滴躍らす花の紗は彩の絢爛と香の酩酊に溺れさせてくれるようで、初めて二人で観た花の季節がめぐりきたのだとジエロにも教えてくれる。
 三たびの春をともにするひと。傍らの少年の髪に触れ、
「ずっとここにいると、色が移ってしまいそう。……なんてね」
「今だけなら僕は藤の妖精になれるのかも」
 柔い薄桃の輝きを返す銀にジエロが眦緩めれば、綻ぶ笑顔を見上げたクィルが悪戯に笑み返すから、己より少し小さな手を引き、耳元へ囁きひとつ。
 ――君と来れて良かった。
 狡い。そう口を尖らせたいのに頬に燈る熱で叶わない。きっと頬は紅藤より鮮やかな紅。重なる眼差しの相手にも同じ紅を見つけ、僕も、と緩く笑み。
 ひとひら零れる藤。
 触れ合うぬくもりに同じ花を感じて。
 幸せだよ――と、言の葉にするまでもなく解り合う。
 光が踊る。花が踊る。
 花降る癒しで橋を越え、南国の花を連れた市邨は瑞穂の国の花のもとに至る。光降る花の天蓋のもと、きれい! すごいっ!! と声も竜尻尾も弾ます彼の花姫ムジカの手許では、淡い金色の酒が揺れて蕩ける光を生んだ。
 甘く馨る、贅沢な花の酒。
 盃を口許へ寄せるだけで、花の香に眩んで溺れる心地。
 掌中の光に薄桃の彩映して乾せば、酒精の熱が燈るとともに濃密な藤花の香が身の芯から花嵐を起こすよう。嬉しさ楽しさで満たしつくす、溢れんばかりの歓喜。
「ね、アタシの咲く色は、キミがいてくれるから光あふれて彩られるの」
 だが心のままに歓喜を享けたムジカの咲かせる笑みが、何より市邨の心を惹きつけ歓喜で満たしてくれる。強くて明るくて眩しくて。花の頬にくちづけ、熱燈るその手を握って。
「――君と一緒に居ると、世界が自分を歓迎してくれていると、俺も思えるよ」
 君と視る世界は、焦がれて止まない程に美しい。
 逢瀬を阻む現世の疵を癒せば、橋から常世へ渡る心地。
 否、花緑が至った処は。
「此奴ァ、桃源郷ならぬ藤源郷ってとこかい」
 明るい薄桃の藤が一面に咲き溢れて柔い光を孕む紗のごとく波打って、振り仰げば新緑を透きとおらせるような木漏れ日が花々をしゃらりと鳴らす風情で降りそそぐ。
 天女さえ、舞い降りてくる気がして。
 君が目に恋ひや明かさむ――と口をついた句を呵々と笑って、心の芯まで眩ますよう馨る酒ごと呑み乾した。恋焦がれつつ明かすのは長き夜ならぬ長き年。
 次に花咲く季節まで、繰り返し繰り返し想い出す。

●ひさかたの
 光る風が遊ぶ。
 甦った橋が纏う幻想は真白な紙垂、光風に遊ぶ白に招かれ、薄桃色の花の瀑布に出逢う。今年は俺が見つけた藤じゃないけどと紡ぐラカに笑みが燈れば、お前の藤も美しかったがと返す染には感嘆が燈る。
 零れる光さえ花香る気がするのに、盃から溢れる花の香はいっそう濃く甘く。
 酔い痴れるには充分すぎるほどだと呷る染の傍らで、ラカは少しずつ大切に盃を傾けた。咲き溢れる薄桃は春の曙の空のようで雲のようで、染まって、包まれて、
 世界に、二人だけになったみたいで――。
「……と、それじゃあお前が困るか」
「困る? いいや、二人きりの世界も存外悪くない」
 舞い降りてきた天女か、古の妖か。
 薄桃に溶け込みそうな風情だったラカがぱちりと瞬いて現に戻る様を惜しむよう笑って、染は本音とも戯れともつかぬ言の葉をほろ酔いの吐息に紡ぐ。
 伸べる手に重なる手。惜しみなく降る歓喜をともに享ける、
 まほろばの、ひととき。
 撒いた癒しの雨上がり。
 藤紫に馴染む蜂の瞳も、今日は柔く光を孕む薄桃に染まりそう。
 何かに焦がれる想いも馴染みあるもので、けれど明るく優しい薄桃の藤波を仰いで花酒を傾ければ、享けた歓びを己の胸の中にだけ閉じ込めてはいられない。
 だって。
 ――焦がれて焦がれて焦げちゃうかも。
 柔いほろ酔いの笑みで紡げば蜂蜜カラメルになっちゃう前に~と桃花からほっぺちゅー。心がひときわゆるゆるほどけて、いつもありがと、と唇からほろりと零れて、
「蜂は桃花さんが大好きよ」
「ああん、わたしだって蜂さんが大好き、大好きですともー!」
 酔っぱらいって駄目ね、と蜂がはにかむ隙も与えぬ曇りなきリフレインが、心へ届く。
 ――僕が羨望のあまり、かくしてぞ、ってなるくらい美味しく呑んでよ。
 薄桃の天蓋から巴に眼差し移して答えた遥夏の狼耳も興味津々に彼を向いた。
 花酒にも頭にも興味を向けられている気もしつつ享受する大人の特権。陶然となりそうな香りに紛らせ、俺は歓喜を授かるに値しない身分じゃあるが、なんて吐露を独り言めかすもさらりと掬われる。
 世界は優しいなんて言わないけど、と遥夏は前置いて。
「そんなに狭量でもないんじゃない? 自分で自分を縛っちゃうことないよ」
「君も――ぶっこんでくるよな、天堂君」
 彼が聞き流せないのは恐らく若さゆえ、そして十八歳のその手に盃がないのは世界でなく人の法の縛りゆえ。なら、巴を縛るのは。
 それならば。
 綺麗なものを旨く芳しいと想うくらいは赦される。
 初夏の緑を煌かせる陽光は美しく、渓谷の橋に注がれる癒しは優しい。
 癒しに潤された橋の先には夢幻のごとき紅藤の絶景。ナザクは休日の遊山気分だったが、紫狼にはこれもケルベロスとして皆の援けとなる仕事で、その報酬は。
 咲き満ちて、溢れんばかりの、歓喜。
 固形水彩パレットを手にした紫狼の筆先から、透きとおる光が、明るい薄緑が、柔らかな薄桃が紙へと滴り広がり咲いていく。その傍らでナザクが盃の花酒を軽く含めば、花の彩も香も身に染みていくかのよう。
「絵の良し悪しも判らんし、花の名前もさして知らんが――。この花は、良いものだ」
「……僕もそれなりに絵には自信あるけど、やっぱり自然の美しさには敵わないなあ」
 悔しいなあ。ああ、悔しい。
 そう呟く紫狼の声は言葉とは裏腹に嬉しげに弾み、彼の手許を見遣ったナザクの胸には、
 ――お前の絵も、嫌いじゃない。
 なんて言葉が浮かんだけれど、口には、しない。
 新緑を透かす光が淡い花色にあえかな煌きを踊らせる。
 けれども柔い風に揺れる花房は薄桃の色を重ねて深め、明るい歓喜そのものの彩りを成す藤波でディークスの眼を奪う。寄せる波のようそっと彼に身を添わせ、スヴァルトは恋人の口から語られる遥か万葉の時代の恋を心に映した。
 眩むほど香る酒より、彼とこの地の空気に酔う心地で、
「藤を抱くなら松でしょうか。ああ……でも、それでは当てはまりませんね?」
「他者を絡め取るより、咲き誇って魅せる姿に惹かれたからな」
 擽るような笑みで紡ぐ彼女を、己が惹かれて焦がれる花をディークスが腕に抱き込めば、自然とスヴァルトの手が腕に添えられる。絡み絡まれ、抱いて抱き込まれ。
 花香る唇を重ねあわせ、
 恋に酔い、疑問の余地なき歓喜に溺れる。
 豊かに広がる藤花の帳は嫋やかで、薄桃の滝は甘美な優しさを惜しみなく与えてくれる。かくしてぞ、と殉ずる死を恋着に炙られてか溺れるまま全て擲ってかと律は様々に心馳せ、松と成れなかった己の思考を閉じるよう眼を伏せた。
 ひととき浸る、遠い懐かしさ。
 芳醇な酒に口をつければ桃花の姿が目について。
「少し似ていますね、この花は――」
「めいっぱい歓喜を感じるとこかしら~!」
 互いに胸裡へ映したのは、薄桃の藤花にどこか通ずる、希望の花言葉を抱く花。かの花が青空に咲く様を描いた名画。どちらも私には眩しい、と言いかけたところで、彼は彼自身が想うほど利己的でも冷たくもないんだ、って律さんのこと聴いたの~と続いた言葉に小さく息を呑む。
 誰に、なんて、訊くまでもない。
 渓谷に二人で癒しを響かせた大正浪漫の旋律、纏う衣装に浪漫を宿したまま、光降る花の天蓋を仰いで感嘆の声をあげる。まるで、空にかけられた薄桃色のシャンデリア。
 お誕生日おめでとう、とロゼが笑みを咲かせれば季由の花酒に光が燈るよう。ありがとと笑み返し、初めての酒をそっと味わう彼に、美味しい? と彼女が訊ねたのは藤の花言葉を知るがゆえ。その花言葉は、
「――歓迎、か。……俺は果たして、歓迎されていいのかな」
 不意に季由の奥底の心の扉を開いた。
 骨灰磁器人形として創られた身に宿る骨灰の由来を思えば、己が、穢れた呪物のようで。
 だけど。
「季由がされてないわけないです! 季由は季由、穢れてるなんて私は思いません」
 迷わず彼の手をロゼが掬う。手も心も包み込むよう微笑んで、
 ――世界が歓迎しないならば私がします。
 まっすぐそう言ってくれるから。
 心の芯に燈った熱い何かが瞳に昇って、眦から滴になって溢れだした。
 だからこそ、俺は。

●かくしてぞ
 光る風が幸う。
 祈りのごとく心を籠めた癒しで潤して、橋を彩った真白な幻想の紙垂が光風のゆくさきを示してくれるまま、絃は夢幻の世界へ渡る心地で橋を越えた。
 新緑を透かして降る陽光はそれそのものが祝福に思え、花の瀑布が織り成す藤波に誘われ光降る薄桃の天蓋を仰ぎ見れば、
「――綺麗、だ」
 溢れた感嘆の吐息さえ自然とそんな言の葉になる、歓喜。
 かくしてぞ、と件の和歌が胸に萌せば自ずと笑みも浮く。唯ひとりに恋い焦がれて死んでゆける、そんな望みが叶うなら、どんなにか。
 唯ひとりを胸に燈す。
 確と瞳に収めたこの花の話を彼女にしよう。
 残り香を連れる彼女へ、花の香も連れて帰れたらいいのだけれど。
 深山の大気には馴染みある花の香が融け、花を訪う蜜蜂の淡い羽音も、さやさや唄うよう揺れる花波も知らないものではないはずなのに。
 甘やかな薄桃色が藤の家の主を幽玄の世界へ誘う。
 薄紫の藤の庭を発って至った薄桃の藤の許、色が異なるだけでこんなにも、と彩に溺れる心地で景臣が紡げば、だよねぇ、と緩い声音で応じるゼレフも溢れ降る歓喜を振り仰いだ。雲色に淡い薄桃を映す友が何処かあどけなく見え――。
 ふと視界から消えたと思えば、背に感じる馴染み深い熱。
 ちょっと貸して、と背中合わせに頭も預け合って、改めて思うさま仰ぎ見れば、ゼレフの視界いっぱいに広がる逆さ藤。薄桃の海原のようで雨のようで。
 光にとけて降りそそぐ彩に、酔わされて。
「ねえ現地人、ここはひとつ歌でも詠んでよ」
「……ゼレフさん。それ、無茶振りと言うんですよ?」
 背に感じた友の苦笑。前半だけ考えるからと甘えて、
 ――『いつまでも、こうしていたい』
 柔い眩暈とも陶酔ともつかぬ心地のまま紡いだ言の葉に続くのは。
 ――『藤の下、花染む君と、溺るるがまま』
 飴玉職人たる男が瑞典の軍籍にあった頃。
 酒の波間に映した光景を呑み込む宿し酒、そんな戯れが部隊で流行っていてね、と花酒を片手にスプーキーが紡ぐ昔語りを尻尾ぴこぴこ聴いて、今日は紅藤を映すの~? と桃花が彼の盃を覗き込む。凪いだ波間に、映るのは。
 あの頃は、酒に映して呑み込みたいものなど無くて。
 だけど、今は。
 衝動を堪えたのはきっと一瞬。ひらり舞い込んできた藤花が花酒を波立たせれば、
「ふふふ~。花入りクリスタルキャンディとかにしたらきらきらいっぱい映るかも~」
「綺麗だろうね。なら、そんな飴を生みだせるよう沢山紅藤を宿して呑むとしようか」
 一緒に笑って、紅藤の瀑布を宿して呑むべく盃を掲げた。
 かくしてぞ、僕は生きるのだ。
 一目ではなく何度でも、出逢うために。
 古の言葉で織り上げた魔力の帯に何処までも蒼く澄んだ水が重なり、橋を甦らせる。二人癒しに力を尽くした先程の光景も綺麗だったけれど。
 かくしてぞ、人は死ぬといふ――。
 眼前に広がるのは、そんな言の葉が胸を貫くような、薄桃色の花の瀑布。
 一目惚れは解らずとも焦がれ死にそうな感覚なら慶も肌身で識る。振り仰いだ花の天蓋、溢れんばかりの薄桃をめいっぱい享け、花にそう想うのも今日は分かる気がする、と傍らへ眼差し向ければ、一緒に見てくれてありがとうと返る声。
 美しい花に埋もれて死ねるなら、と真介が心の片隅で望んでいたのはもう過去のこと。
 今は彼がいてくれるから、花にすべて捧げようとは思わない。
 こちらこそ、と慶が微笑み返す。
「花酒のほうは来年だな。……また一緒に、来てくれる?」
「……ん、また来よう。また、一緒に」
 花に呑まれるのでなく、ともに愛でるために。
 愛おしい光景だった。
 初夏の緑滴る渓谷の橋を越えれば光と花に満ちる神域。眩い光は新緑を透かして和らぎ、なのに薄桃の花々の華やぎを深めて柔らかな花の瀑布を彩って。
 眩むほど香る酒に口をつければいっそう花の波間に揺蕩う心地で、生まれた時から美しい花々に囲まれていたフィストさえも陶然と紅藤に酔う。
「……なあ、御幸。またここに来たい。一緒に来てくれるかい?」
 もし再びデウスエクスがここを襲撃するなら飛んできたいほどだ、と恋人が明かす心に、彼は柔く眦を緩めた。それはきっと彼女にとっての誓い。
「うん、僕もここが気に入った。大切な場所が増えたね。一緒に、守ろう」
 ならばひとつひとつ大切重ねていこうと胸に刻んで、
 ――藤波の、ただ一目のみ、見し人ゆゑに。
 口遊む歌にそっと秘密を重ね、万葉の歌だよと軽く語った。
 今はただ、狐と竜の尾をそっと絡めて、花の酒をもう一献。
 天使の翼が光風に震えた。
 限りなく降るとも思える花の天蓋、見惚れて零れる吐息さえ艶やかな薄桃に染まりそうと仰ぐアイヴォリーの胸を、神を仰ぐような感覚が震わせる。光と同じように彼女の眼差しが澄み、花の彩に彼女が溶けいりそうだと感じた瞬間、夜は。
 光と花の洪水。神に抗うものを押し流し、神が愛しむものを掌中に収める為の。錯覚だと冴える理性よりそう感じた直感を迷わず掴み獲る。愛玩物を求めてか恋の相手を望んでかは知らねども、
「いずれにせよ……渡さないよ」
 浮かべるは淡い笑み、されど夜は強く指を絡めて手を繋ぎなおした。
 君が攫われないように、決して離さぬ楔を打つ。
「夜、――夜」
 確かめるようなアイヴォリーの声、花酒など比べ物にならぬほど夜を眩ませるそれを奪うようにくちづける。花の帳が神様の眼から隠してくれると伝える間もなくとも、甘さと熱に呑まれて眩んで、アイヴォリーのすべてが何より愛しい唯ひとりに染まる。
 呼吸がとまる。時の流れさえ止まればいいのにと痛いほど希う。
 いつかわたくしが絶えるなら、貴方に溺れて。
 ――かくしてぞ、と。

作者:藍鳶カナン 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2018年5月30日
難度:易しい
参加:33人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 10/キャラが大事にされていた 2
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