冒涜

作者:藍鳶カナン

●涜神
 神域に足を踏み入れた。
 鎮守の森の奥深く、永い歴史と由緒を抱く神社の、最奥部。
 一般には公開されぬ、神職のみしか出入りが赦されぬその神域は、この神社が祀る御神体そのものである楠の巨木を中心とした神苑だ。
 誰もいない、禁足地。
 凛と張りつめる大気は、透明度が高すぎて吸い込まれそうな心地になる湖の水にも似て、深い樹々の香りは、胸だけでなく魂までをも清々しく洗い流すような――気持ちにさせるのだろう、普通の感性を持つ者なら。
 だが今この神域に足を踏み入れた青年は、そのような感性を持ち合わせていなかった。
 戯れに処女雪を踏み荒らすがごとき風情で神苑の中央へと至り、樹齢千年とも二千年とも謳われる、誰もが畏怖に打たれそうな楠の巨木、御神木を振り仰ぎ。
 口の端を擡げ、高級な革靴を履いた足も擡げて。
 靴底でおもむろに、御神木の幹を踏みにじった。丁寧に、念入りに。
「涜神、涜聖……ああ、素晴らしく心地好い響きだ。冒涜というのも堪らないね。おかし、けがす。まったく、極上の悦楽だよ。神聖なものやら清浄なものやらを穢してやるのは」
 喉を鳴らし、彼は殊更愉しげに笑みを洩らす。
「最初こそ断固拒否の構えだったくせに、寄進額を聴いたらあっさり禁足地のはずの神域が御開帳。いい暇つぶしだ、金に物を言わせて神職やら聖職者やらを穢してやるのも」
 有り余る資産を持つことが窺える青年だった。
 だからこそ。
『なんて素晴らしいの。合格よ、その財力も揮い方も』
 不意に現れた緑の炎を操る女に、青年は燃やし尽くされた。
 炎彩使いと呼ばれるシャイターンのひとり、緑のカッパー。彼女が操った緑炎のなかから見上げる程に大きな人影が現れる。豪奢な金糸銀糸に彩られた錦の狩衣を纏い、純金の蒔絵細工の鞘に収まる短刀を手にした――新たなるエインヘリアル。
『ふふ。これはこれで煌びやかね。気に入ったわ。後で迎えにくるからそれまでその短刀で存分に人間を殺してらっしゃい。グラビティ・チェインを集めるためにね』
「貴女様の、仰せのままに」
 迷いなく応えてエインヘリアルが頭を垂れたなら、緑のカッパーはそのままふわりと。
 何処かへ消えた。

●涜聖
 禁足地の神苑で生み出されたエインヘリアルは、獲物を求め神社の拝殿前へ移動する。
 まず犠牲になるのは神社の参拝客や神職達。
「だけど、全速でヘリオンを飛ばせばちょうどエインヘリアルが拝殿前に現れるのと同時に現場に到着できる。あなた達にお願いしたいのは、即座に降下してエリンヘリアルに戦いを仕掛けること。そして、勿論、撃破をお願いしたいんだ」
 死者の泉の力を導く炎でエインヘリアルを生みだした炎彩使いは姿を消したあと。
 天堂・遥夏(ブルーヘリオライダー・en0232)はそう語り、避難勧告も手配するが、殆ど猶予がないのだとも告げる。
「だから、あなた達には敵が一般人に目を向ける余裕もなくなるくらいの猛攻勢を仕掛けて欲しいんだ。もしくは敵の性質を利用して気を惹くかだね」
 炎彩使いに選定された青年は炎に焼き尽くされた時に死んだ。
 新たに生まれたエインヘリアルは選定された青年とは別の存在だ。青年の記憶があってもそれは読み終えた物語のようにしか感じられない他人事。
「だけど――神聖なものや清浄なものを穢すのを好むって性質はどうやら同じみたいでね。あなた達の中に、敵に『神聖さ』とか『清浄さ』を感じさせることができるひとがいれば、一般人には見向きもせずそのひとを攻撃してくるはずだよ」
 敵が揮う得物は短刀、その能力は惨殺ナイフのグラビティと考えて差し支えない。
 つまり単体攻撃のみ。ゆえに、敵の気を惹くことができれば一般人に被害は及ばない。
「猛攻勢を仕掛けるのでも一般人が避難する時間は稼げると思う。けど、より確実に被害を防げるのはこっちだね。ただ、狙われるひとが危険なのも間違いないからね、どうするかはあなた達に任せるよ。複数名で気を惹けるなら危険度もいくらかマシになると思う」
 冒して、穢して、悦びを覚える。そんな相手。
「ちなみにポジションはジャマーなんだよね。まあ、色んな意味で厄介な敵だと思うけど、あなた達なら確実にこのエインヘリアルを撃破してきてくれる。そうだよね?」
 挑むような眼差しに確たる信を乗せ、遥夏はケルベロス達にヘリオンの扉を開く。
 さあ、空を翔けていこうか。涜神、涜聖、そして、冒涜のエインヘリアルのもとへ。


参加者
ティアン・バ(さりゆく・e00040)
八柳・蜂(械蜂・e00563)
天矢・恵(武装花屋・e01330)
ムジカ・レヴリス(花舞・e12997)
月杜・イサギ(蘭奢待・e13792)
ウィリアム・シャーウッド(君の青い鳥・e17596)
宵華・季由(華猫協奏曲・e20803)
シレネッタ・ロア(海の噛痕・e38993)

■リプレイ

●涜神
 天翔けることは神聖なる行為であるか否か。
 この世界で、この宇宙で――それを問うなら、答えは否だ。
 神聖とも清浄とも程遠いシャイターン達でさえもタールの翼で空を飛ぶ。ゆえに天空から舞い降りるだけでは神聖さの演出には今ひとつ足らず、防具に秘められた力を解き放つにはグラビティ同様に一手を費やす必要がある。
 ならば、効果が薄いと思われるものは切り捨てるまで。
 清らな風を突き抜け降下し、ケルベロス達がめざすは鎮守の森の緑に丹塗りの朱が映える神社の境内。錦の狩衣姿で現れたエインヘリアルが白い玉砂利を蹴散らした瞬間、
「清浄なら石でさえ踏み荒らしたいって訳ですかね? 随分とまあ、ステキな御性分で」
「ええ。悪い人、いけない人、ですね。――皆さん、逃げて!」
 散った白石と入れ違うようエインヘリアルへ襲いかかった白き波濤は、境内に着地すると同時にウィリアム・シャーウッド(君の青い鳥・e17596)が解き放った月の宝、無数の白き手が織り成す波を紙一重で躱した敵めがけ、八柳・蜂(械蜂・e00563)は黒き大蛇を奔らせ参拝客達へ声を張った。
『嗅ぎつけるのが早いな、ケルベロス。だが、おまえ達と遊ぶつもりは』
「あろうがなかろうが関係ないね! 行かせるか!」
「イヤな子ネ、貴方。だけど、アタシ達と遊んでちょうだいナ!」
 巨躯に絡み喉へと喰らいついた大蛇を振り払ったエインヘリアルが身を翻すよりも速く、真っ向から敵を見据えた宵華・季由(華猫協奏曲・e20803)が己が美貌で敵を捕える呪いをかければ、横合いから光風に舞ったムジカ・レヴリス(花舞・e12997)の脚が翻り、鮮麗な一蹴が狩衣越しに腕を捉えて穿つ。
 例えば、清らかな歌を唄い上げるパラディオンがいたなら、例えば、純潔なる乙女が己の無垢を強調してみせれば、容易に敵の気を惹けただろう。だが、
「――”祈りの門は閉さるとも、涙の門は閉されず”」
「ここの神様もレネの神様も汚させないわ! あなたにも、わたし自身にも!」
『ほう、巫女か何かか?』
 粛々とティアン・バ(さりゆく・e00040)の詠唱が響けば、境内に光が満ちた。
 咄嗟の判断でティアンが地上に開いた高き涙の門から天上の光輝が溢れて白装束を纏った彼女を照らしだし、その荘厳な輝きの奥からシレネッタ・ロア(海の噛痕・e38993)が白きヴェールに風を孕ませて、澄んだ声音と嵐のごとき恋の唄を叩き込めば、エインヘリアルの瞳に好奇が燈る。そこへ、
「神域を荒らすより、愉しい遊びをしようじゃないか」
「この紅は正義の誓いだ。誰も何も、お前には穢させはしねぇ」
 蒼銀の髪と銀糸煌く和装、更に漆黒の翼を風に踊らす月杜・イサギ(蘭奢待・e13792)が舞い降り両手の喰霊刀を暴走させ、斬撃に散る敵の血よりなお鮮やかな紅薔薇を髪に咲かす天矢・恵(武装花屋・e01330)が三対の紅翼も咲かせて降り立ち、凛とした風を纏い潔癖な正義を誇るよう毅然と見上げれば、
『成程、高潔なるケルベロス様を踏みにじってやるのも一興か』
 唇を歪めて哂ったエインヘリアルが短刀を抜き放った。
 穢す獲物を見定めた敵の戦いは確かに冒涜的なもの、金銀煌く狩衣の袖とともに閃く刃は胸糞悪いとしか形容できぬ惨劇を映しだし、革靴ならぬ漆塗りの沓を履く足は刃で斬り裂く相手を踏みつけるため翻る。
 たちまち血濡れていく境内を浄めるかのように舞うのはティアンとシレネッタが解き放つ真白な紙兵の紙吹雪。いっそう愉しげに双眸を煌かす男が放つ惨劇の魔法を蜂が盾となって受けとめて、呼び覚まされた記憶を堪えつつ、
「……こうやって、心も冒して穢していくわけですね」
「物理だけじゃなく精神的にも踏みにじりたいわけか、とことんムカつくやつだな!」
 悪夢ごと裂くよう月の斬撃を描けば、清らな羽ばたきで蜂の背を押すウイングキャットの風を追って跳躍した季由が流星となり、確実な狙いで降り落ちる。
「胸も心も清らかに雪いでくれる大気に満ちていた場所だろうに、勿体無いことを」
「ああ、だが無辜の一般人達の血が流れるよりはまだマシだ」
 鎮守の森から来る涼やかさだけがまだ清らな風に翼をはためかせ、狙い澄ましたイサギが空中から降らしめるのは敵の足を止める鋭い剣気の驟雨、機を逃さず跳んだ恵が紅の軌跡を引き、星の煌きと重力を叩き込んだなら、彼を蹴り落として踏みにじるべく漆塗りの沓先が翻ったが、彼を庇ったウィリアムが玉砂利の地に背を打ちつけた。
 踏みつけると同時の斬撃。
「ったく、俺みたいな善人には思いもつかねぇような戦い方をしやがりますね?」
『どうせなら、愉しくいきたいんでね』
 返り血を浴び愉悦に哂うエインヘリアルへ不敵に笑み返し、大きな足を跳ねのけ見舞うは月光斬。彼の剣閃が消えるよりも速く、癒しと自浄の加護を重ねるべく紙兵を風に踊らせ、シレネッタが敵へ言い放つ。
「汚すにしろ何にしろ、あなた、愛が足りないわ!」
『愛? 端から持ち合わせていないな、そんなもの』
「神聖なモノ、清浄なモノ。そう理解できるのに……愛せないのネ、貴方は!」
 加護を齎す紙兵が花吹雪になればと思うがそれは独自の技でも編み出さねば叶わない。
 だがシレネッタの望みを掬うように、真白な紙吹雪の裡から南国の花たる女が跳んだ。
 白き吹雪が純白のドレスを纏いライスシャワーを浴びるはずだった日の記憶を刺激する。巨躯の胸元へ閃かせたのは刃のごとき蹴撃、戦舞靴を濡らす鮮血があの日すべてを奪われた光景を呼び覚ます。ムジカの鏡映しのごとき姿をした『敵』の笑み。
 純真無垢な花嫁にはなれなかった。
 ――アタシと一緒でなければ、誰も死ななかったかもしれないのに。

●涜聖
 深く透明な、自然の息吹。
 自ずと身が引き締まるような、大きな何かに寄り添うような、神の域と呼ばれる地で抱く崇敬も慕わしさもティアンには馴染みのもの。だからこそ、敵が短刀に映しだす惨劇により深く心を穢される心地になる。
 ――忘れてくれ。
 そう言ったはずのひとの手が再び首へ伸びてくる。幾度も、幾度も。
 けれど己にしか見えぬそれが何かを識りながら、知らず喉をゆだねようとした、刹那。
「ミコト! ティアンを!!」
 清浄な風で彼女を包んだのは、純白の百合を飾る――些かふくよかすぎる翼猫。
「くっ、ダイエットさせておけばミコトも神聖っぽくなれたかもしれないのに……!」
「あら、神聖でなくても可愛いからいいと思うわ」
「うん。後でおなかをたぷたぷさせて欲しい」
 清らかになりきれない相棒を横目に季由が炎の蹴撃を敵へ見舞った隙、シレネッタが注ぐ眩い気。癒し手の力を乗せた二重の浄化に幾つかの腕が消え、残ったひとつも翼猫の加護で払いのけ、真顔で頷いたティアンは氷の騎士を解き放った。
「うふふ、わたしもたぷたぷしてみたいかも」
「とても気持ちよさそう、ですね」
 敵を貫き三重に氷を張らせた騎士に続いた蜂の耳に届いたのは、悪戯に、無邪気に弾んだシレネッタの声。躊躇わず手を伸ばせるひと達への羨望が胸に萌すのを自覚しながら、蜂は歪な型に変じた闇色の刃を閃かす。
 氷ごと抉るよう揮えば更に氷が増え、氷片が己の手套へも振りかかり――。
 途端、氷の煌きより眩い光が奔った。
「同じじゃねぇでしょうけど、気持ちは解りますよ、何となくね」
 彼女の心を察して軽い声音で掬ったのはウィリアム。
 誰かを殺すたび心の何処かが麻痺していく。今も星々微睡む愛しき刃に雷の霊力凝らせ、敵の狩衣ごと迷わず骨肉を貫いて。なのに溢れる血潮が手を濡らせば、麻痺したはずの心に微かな苦さが奔るのだ。
 ――この手で大切なものに触れるのが、どんなにか。
 だが一方、彼我の血にまみれたとて己が矜持と誓いは曇りなく輝くのだとばかりに恵は、誰より敵の血を浴びる位置から苛烈に攻め立てる。決して退きも怯みもしないと証すべく、跳び退る相手を追って懐へ跳び込んで、叩きつけた掌から幻影竜を顕現させる。
 密着したまま溢れさせる、灼熱。
「お前の遣り口には反吐が出るが、俺は散らねぇ。決してな」
『は! 面白い、踏みにじって散らしてくれる!』
 炎の輝き越し、天に向かって咲く薔薇のごとく仰いで睨めつけたなら、彼を蹴り飛ばしたエインヘリアルが短刀を揮うが、
「――今だ! 来い!!」
「エエ、斬撃の時は隙だらけだものネ!」
「確かに、やりやすい」
 大振りになった敵の挙動を好機と見た恵に応え、軽やかに玉砂利鳴らして跳んだムジカが烈しい炎の蹴撃を巨躯の背に浴びせ、彼女の影に紛れるようするり距離を殺したティアンが脇腹を掻き切れば、更なる炎が相手を焦がす。炎を煽るよう、漆黒の翼が羽ばたいた。
 空と呼べる高みを飛翔するのは狙撃手の恩恵を失うこと。ゆえに巨躯のエインヘリアルと真っ向から視線が絡む高さをイサギは翼で翔けるが、最も目につくはずの彼を敵は穢すべき獲物とは見做していない。
「私もよく『天使』と呼ばれていたものだけれどね」
『『堕』が抜けてるんじゃないのか、天使様?』
 流麗なその斬撃は呪詛を載せたもの。
 一辺倒とはいわずとも、初手から存分に呪いの斬撃を揮ってくる彼を神聖な存在と見做す相手がいるはずもない。敵に妖剣士や喰霊刀の知識がなくとも、呪われた刀の力は明らか。己の容姿で神聖さを演出できると踏んだイサギだったが――。
 美しき魔物の逸話など幾らでも存在する。
 世にはそれ自身が呪いを秘めた証たる美もあるのだと、磁器の身体を持つ機械人形として造られた季由は痛いほどに識っていた。
 光透かすよう艶めく白磁がボーンチャイナの名を持つとおり、ある種の美しい磁器を創る際に用いるのが骨の灰。普通なら動物の骨だが、彼に使われた骨灰は。
 硬質な美しさの贄となったのは。
 ――美に狂った果ての、穢れだ。
 胸に燈るのは七彩の薔薇を咲かせる天使の面影、だけど清麗なあの笑みに己が触れられる訳がない。本当なら傍にいていいはずもない。そう思うからこそ、
「心底腹立たしいね! 清らかなものを哂って穢そうとするお前がさ!」
 ひときわ強く輝く流星となって、冒涜のエインヘリアルを地に沈めた。

●冒涜
 恋する相手を神様とするなら、わたしは決して汚せない。
 届かない相手だから穢しようもないのだけど。と胸の裡でひそり吐露しながら、大いなる海に恋する少女は清らな癒しを揮い続けた。
 白いヴェールを靡かせつつ皆を支えるシレネッタ、彼女を穢さんと翳された刃から惨劇の魔法が迸るが、凍える身も心も包む黒を翻した蜂が己を盾と成せば、
「――……!!」
 極限まで圧縮され封じられた記憶が解凍された。
 優雅に翻る白。たおやかに伸べられた手はひとびとを誘い、口にするのも悍ましい目的で稼働するダモクレスの工場へ攫うためのもの。
 心無き機械であった頃の己自身が幾重にも心を抉る。
 大好きな子達と手を繋いで触れ合って。そんな幸福に手を伸ばすのが怖い。かつての腕は喪われ地獄化し、だから尚更、手袋なしでは触れ合えない。
 触れれば穢してしまいそうで、どうしても、後ろめたくて――。
 だが、想いに沈みかけた、刹那。
「蜂。忘れたいなら、忘れていいんだ」
「ありがとう、大丈夫です。たとえ忘れられなくても、きっと」
 まっすぐティアンが注いだ癒しの気が三重に彼女を浄めていく。微笑みで紡いだ言の葉はやはりまだ強がりで、けれど確かに力を得て蜂は、刃を手に再び敵の懐へ躍り込む。
 もはや戦場の風は完全に此方のもの、満身創痍になっていく敵の傷を空の刃で斬り広げ、自陣の追い風を加速させつつイサギが笑んだ。
 冒涜、清らかなものを暴く悦楽。
「それは裏を返せば、手に入らないものへの羨望ではなかったか」
『知らんね。炎に焼かれた男は死んだ。そいつを嘲弄したいならあの世とやらでどうぞ?』
 新たに生まれたエインヘリアルは選定された男とは別の存在。事前に聴いた通りだ。
 死んだ男の話など彼にはまったく他人事。誕生したばかりの彼自身はまだ、何かに羨望を抱き、それが裏返るほどの経験も時間も経ていない。
『そんな発想は己の中から出るものだ。手に入れられないのは其方だろう?』
「――……私には、興味のないことだ」
 返す言葉とは裏腹に、声音に苦さが滲んだ。
 己が穢れ果てていることを識りながら、何より大切な義妹にとっては誇れる兄で、天使で在り続けたいと灼けつくほどに希っている。
 そう。選定された男は死んだ。眼前の相手は男と同じ気質を持つが、男の罪業は男だけのもの。初めこそ天から降る裁きを演出するつもりでいたけれど、
「裁く――だなんて、お門違いだったわネ。アタシ達は力尽くで、貴方を止めるダケ!」
 御神木を穢した男へは、言葉も裁きも届かない。
 あの日、手を取ってくれるはずだったあのひとへ、ムジカの手が二度と届かないように。
 振り切るよう舞った彼女が見舞う旋刃脚、肘を貫かれた敵の手が止まった機を逃さずに、ウィリアムの左手が風を薙ぐ。薬指の煌きに淡く自嘲の笑みを洩らす。
 汚れ仕事に染めてきた、己が手で。
 ――大切なものに触れるのが、どんなに恐ろしいか。
「ホント羨ましいですよ。そんな怖さも識らず死んでいく、オタクの運命が」
 途端に織り成された魔法は彼だけの月の宝、溢れんばかりの白き手の波濤が今度こそ敵を呑み込み、逃れらぬ運命の終わりへ押し流す。
 空は聖域ではない。
 けれど、地上の汚濁に目を向けることなく天上の楽園で過ごす道が確かに恵にはあった。
 それでも、見下ろす地上に見つけた数多の光から眼を逸らせずに、優しい安寧の道でなく痛いほど眩いそれらと共に生きる道を選んだから。
「この地上にある輝きの何ひとつ、お前にはくれてやらねぇ」
「ああ、誰も何も、お前に穢させはしない!!」
 刀の露となって消え失せろ。
 恵がそう呟いた刹那には神速の一閃がその軌跡を描き終えていた。最大火力の斬華一閃、彼が深々と裂いた傷から派手にしぶいた血を、季由が咲かせた妖炎が煌かす。
 ――手に入らないなら自分の所まで堕とせばいい。
 脳裏に甦る悪友の言葉。時に甘く聴こえるそれを振り払う。
 この身に穢れが塗りこめられていても、心までは穢れないまま彼女を想っていたい。
 だからどうか、君は。
 強く祈るように愛しいひとを想い、猫を象る妖炎で、冒涜の化身たる敵を焼き尽くす。
 鎮守の森を渡り来た風が、全てを浄めていくように吹きぬけた。

 忘れてくれ。
 大好きなひとにそう言われたから、遠い日のことは誰にも秘密のまま。
 風に撫ぜられた喉を自身の手で辿る。あの日あのひとが、望みを遂げても構わなかった。共に生きて共に死ねたなら、ティアンだって譬えようもなく幸福なはずだったのに。
 最早叶うことのない願いは、あまりにも眩しくて。
 ――ああ、滅茶苦茶にしたいというのは、きっと、こんな感じ。

作者:藍鳶カナン 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2018年5月8日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 7/キャラが大事にされていた 2
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