楽園

作者:藍鳶カナン

●時計塔広場
 春の空を見上げれば、青空を背にした美しい時計塔の姿が瞳に映る。
 時計塔を中心とした大きな広場を囲むのは、街のひとびとにこよなく愛される店々だ。
 硝子のショーケースに地中海料理を基調とした洋風総菜が並ぶ洒落たデリカテッセンに、外国の美しい風景写真集を専門に扱う古書店、極上スペシャリティの珈琲豆を自家焙煎したオリジナルブレンドが人気の珈琲専門店などの、いずれも日々の暮らしにささやかながらも特別な彩りを添えてくれる幾つものお店達。
 中でも冬の一時期入院していた店長が復帰した珈琲専門店は、街の常連客は勿論のこと、転勤などでこの街を遠く離れたかつての常連客達も次々と店長を祝いにやってくる、幸福な賑わいに満ちていた。
 街のつくりの関係で、広場を通り抜けなければ駅などへ大回りを強いられる住民も多く、街のひとびとにとって日々の暮らしの中で時計塔広場を歩むのは当たり前のことだった。
 ――ある日、時計塔広場がデウスエクスの襲撃に遭うまでは。

●楽園
 時計塔広場を囲む幾つもの店舗、その多くは奇跡的に無事だった。
「けれど、広場中央の時計塔が破壊されて、広場も抉れたり瓦礫が山になったりの酷い状態でね。周りのお店も店舗が無事とはいえ店の入口前がそんな惨状なもんだから、通常通りの営業ってのは難しいんだって」
 店のひとびとは勿論、時計塔広場自体が生活道路の一部同然になっていることもあって、街の多くのひとびとが困っているという話。
「で、ヒールでの修復依頼が来たんだ。手が空いているひとがいれば、力を貸してあげて」
 天堂・遥夏(ブルーヘリオライダー・en0232)はそう語り、ケルベロス達を見回した。
 終わった後は、珈琲専門店から『是非うちで珈琲タイムを』とのお招きがあるのだとか。
 暖かな雰囲気に満ちた店内か、修復されて心地好い春の風吹く広場に出したテーブル席、好きな場所で楽しめる珈琲は店のオリジナルブレンド、『楽園』か『雪解け』のどちらかをお好みで。
 一番人気の『楽園』は、甘く華やかなチョコレートを思わす香りに、芳醇なコクと甘さがまろやかに後引く余韻、そして南国の果実めいた酸味が絶妙なハーモニーを奏でる逸品で、春の限定ブレンド『雪解け』は、何処か花にも似た香りにナッツのごとき香ばしさのコク、そしてベリーを連想させる酸味が軽やかにとけあう逸品だとか。
 どちらもブラックがお勧めだけど、『楽園』ならカフェオレもとびきり美味だという話。
 もちろん珈琲だけでなく、一緒に美味しく楽しめる品も三種の中から一品どうぞ。
 ひとつは朝摘み苺たっぷりの苺タルト。苺達の下にはカスタードとホワイトチョコの二層クリームが秘められて、それらをアーモンドの風味豊かなさくさくタルトが抱きとめる。
 ひとつは春色のプリムラの花で飾られたレアチーズケーキ。爽やかなレアチーズの風味がたっぷりの純白を彩る春の花々、そこに甘酸っぱい甘夏ソースをかけて花ごと召し上がれ。
 ひとつは鴨ハムとカマンベールを全粒粉のパンで挟んだホットサンド。プレスされ直火で焼かれた香ばしいパンの間で蕩けるカマンベールが鴨ハムにとろり絡む味わいが後を引く。
「か・も・ハ・ム・カ・マ・ン・ベ・ー・ル……!!」
 苺タルトやレアチーズケーキの話でもぴこぴこしていた真白・桃花(めざめ・en0142)の竜しっぽがここでぴこぴこぴっこーん! と大反応。更に遥夏が追撃した。
「選べるのは珈琲二種類からひとつ、そしてスイーツとサンドの計三種から一品だけ。但し希望者にはおまけに苺大福ひとつ付けてくれるって話だよ」
「い・ち・ご・だ・い・ふ・く……!!」
 個人の好みにもよるが、果実の種子から生まれる珈琲はフルーツ菓子とも好相性。
 そして我らがあんこの親和性はとびっきり。つまり苺大福と珈琲は意外に合うのだ。
 珈琲を楽しみながら友人や恋人とゆっくり語らうのも、古書店で購入した写真集を開き、アラスカの大自然でカリブー達とオーロラを見上げるのも、モルディブの水上コテージから何処までも青く透きとおる海へと跳び込むのも、先に覗いてきたデリカテッセンで見つけた檸檬と小海老のリゾットを帰りに買ってみようかなんて想いを馳せるのも、きっと。
 ささやかながらも特別な、愛おしいひとときになる。
 さあ、破壊されてしまった時計塔広場へいこうか。
 きっと誰にとっても愛おしい、楽園のひとときを取り戻すために。


■リプレイ

●光風
 天地に祝福が満ちていた。
 春空に輝く陽は祝福めく光を降らせ、地では癒しに祝福された時計塔が時を刻みだす。
 時計の針が再び廻り始めた広場は街路樹の花水木が咲く日を待つばかり、けれどゼレフが傾けた杯からは一足先に花めく珈琲の香気が咲き広がった。香ばしいホットサンドを齧れば熱々カマンベールと鴨ハムの旨味が溢れる痺れるような美味、思わず緩む瞳に映る友の顔も陶然たるもので、
「……変な顔していました?」
「いやあ。分かるなあ、って」
 我に返った景臣が面映い笑みで訊けば、返る笑みも寛いだ吐息に融けた。
 柔くミルクに融け甘く綻ぶ香りに華やぐ酸味、楽園のカフェオレが見せてくれた桃源郷は花咲くレアチーズと一緒に蕩かし、北国生まれの友と開く写真集はロシアへの旅の窓。
 銀世界の彼方で雪化粧に埋もれるのは丸いクーポルを冠った聖堂、薄らと灰味がかるよう褪せた雪を捲れば芽吹きの緑が草原に広がって、野苺やアンゼリカの花々に彩られた春から初夏へ向かう。
 きっとこうして、楽園になっていく。
 春空を背にした時計塔は幻想仕掛けで機械仕掛け。
 美しい時計塔のもとでシィラの足取りが弾めば、愛らしいリボンと淡く煌く金の歯車柄で彩られたパニエ入り衣装もふうわり弾んだ。胸元で金の羅針盤踊らすペンダントは眸からのサプライズプレゼント。
「とても可愛らしイ。今日の装いにそのペンダントも似合っテ善かっタ」
「ふふ、嬉しいです。私服姿の眸さんのお隣を歩けたことも!」
 朝摘み苺と春色の花で華やぐテーブルを囲んで語らうのは先程の広場散策の話。
 贈り物が誰の手で着けられたかは二人で分かち合う秘密、楽園のブラックとカフェオレもタルトとレアチーズも、二人で分かち合えばきっと、楽しみも二倍の幸福仕掛け。
 青空から降る光、光と遊ぶ風。
 輝く春に楽園を見出した連れに冱つる袖を引かれ、雪解けを連れたキースが見る果実色の瞳にも春めく光。淡く緑も香る風に花の香咲かせる珈琲を含めばナッツのごとき香ばしさにベリーを思わす酸味、すっきりした透明感さえ覚え、勧められた楽園を口にすれば。
「……雪に融けた身体が徐々に春を迎える、そんな味」
 雪が融けて楽園が見られるのかと灰青の瞳が緩む様にイェロも笑って、
「俺もじんわりあったかいの、おいしい」
 華やかなチョコレートを思わせる珈琲の香りに芳醇なコクと甘さの余韻が南国的な酸味を連れてくる楽園から雪解けへ至る。いずれも珈琲豆そのものから引き出された香りや風味。珈琲の世界の深さを感じつつ、桜めいたアーモンドの花が咲き溢れるシチリアの春から青く透きとおる氷に彩られたバイカル湖の冬まで、本の世界をめぐる。
 ――美しい珈琲だな。
 深煎りを好むグレッグが雪解けの味わいに口許綻ばせれば、
「解る! 豆が極上で口当たりなめらか、クリアな美味しさの珈琲ってそう感じるよね」
「偶にはいいな、浅煎りも」
 彼の苺タルトと己のホットサンドを切り分けていたノルがぱっと顔を輝かせた。
 雪解けが浅煎りの幸せなら楽園は深煎りの幸せ、大好きな相手と美味しさを分かち合える珈琲タイムはノルにはまさに楽園で、自身もカフェを営む彼が優しい店だとこの店を評する柔らかながら真摯な表情に、大切な相手の新たな一面を見てグレッグの眦も緩む。
 甦らせた『楽園』を見渡し、笑み交わす。
 ひとつ、ひとつ。
 自分達が頑張ってきたことは、無駄じゃない。
 珈琲専門店とくれば珈琲好きを誘いたくなるのが人の情。
 けれど珈琲以外でも何だってあなたと一緒がいいと悪戯に笑むクィルに、私もと眦緩め、彼が手招くテーブル席にジエロも腰を落ち着けた。光が芽吹くような春風が遊ぶテーブルを彩るのは楽園のカフェオレに雪解けに、
「ジエロはタルトでしょう? これで一口ずつ交換こ出来ますもんね」
「おや、お見通しだね。勿論交換こは大歓迎だとも」
 胸を張る少年の前に花咲くレアチーズ、瞳を細める青年の前に朝摘み苺のタルトが揃えば溢れるような春の気配に、二人で重ねた三度目の季節のめぐりを想う。
 めぐるたびに愛おしさを増す、特別なひととき。
 淑女の振舞いが少女を彩ったのも僅かな間だけ。
 楽園のカフェオレと苺タルトを味わった途端ラグナが満開の笑み咲かせ、
「俺、こんなに美味しいカフェオレも苺タルトも初めてだ!」
「こっちも美味いぞ。……急いで大人にならんで良いからな」
 彼女らしい声も咲けば、雪解け味わう千梨の口許にも幸福な笑み。
 もう暫くリードさせてくれ、なんて願いつつバレンタインの礼を贈れば、みるみる輝きを増す少女の瞳に砂漠の星空が映る。
 満天の星、光流れる天の川。
 砂丘に縁取られたサハラの星空の写真集。王子様の星はここにあるから。
 見るたび千梨を思えるな、と本を抱くラグナに、彼は面映く笑み返した。
 ――思い出すまでもないくらい、傍にいるよ。
 美しい朝焼けに染まるドロミテの名峰、ヴァレンナから望むコモ湖に、宵の灯りを水面に映す水の都のカナル・グランデ――。少し古びた頁をアザリアが捲るたび、懐かしさを燈す微笑でルーチェが語る思い出が、少女の胸に燈る世界へ瑞々しい風を吹き込んでいく。
「今だけは、リアがルーチェ兄様を独り占めなのね」
「そうだよ。今だけは……僕の時間は、君のものだ」
 胸をときめかせて杯に口をつけるけれど、楽園の扉はアザリアには今少し早かった模様。こっちを試す? とルーチェが雪解けを差し出せば、
 ――これって、兄様が飲んで……!
 途端に少女の頬から耳まで薔薇色が咲くから、『兄様』も弾けるような笑みを咲かせた。アレキサンドライトみたいに彩を変える彼女とのひとときは、彼にとっても楽しい時間。
 春空めざす塔の頂で、誰かが燈した幻想が時告げる鐘の音を空に響かせた。
 大地を花で潤すような雪解けを味わって、眩しげに塔を仰ぐ年若の同族に揶揄い交じりの笑みを向け、
「――なぁ、天堂君。楽園ってのは何だと思う?」
「ぶっこんでくるよね巴さん! んー……涯てなき夢が許されるところ、かな」
 楽しげに狼耳をぴんと立てた彼の言葉とともに、春の珈琲をもう一口。興味津々な相手の眼差しに返せる答えをまだ巴は持たないけれど、いつか楽園と呼べる代物ができたなら。
 自慢話を語る、約束を。

●吹花
 雪解けの珈琲に綻ぶ花の香りが、舌に、心に春を咲かせてくれる。
 まだ背伸びは無理みたいと春乃が照れ笑いしたけれど、それはアイヴォリーが甘い朝摘み苺で彼女を誘惑する好機。タルトとレアチーズをあーんと食べさせ合い、互いの頬が蕩けるように緩んだなら、二人で世界の春へ旅立ちを。
 純白のオレンジブロッサム咲き溢れるアンダルシアから、妖精の花ブルーベル咲き満ちるアイルランドの森へ。頁を捲るたび現れる春景色はどれも美しいけれど、
「わたくしにとって一番鮮やかな春は、春乃と出逢った、あの、水彩の色をしています」
「うん、わたしも――あの水彩の色は、きっと、ずっと、忘れない」
 瞳を、言葉を交わせば、互いの胸に咲く瑞々しい彩も重なった。幸せな縁を結んだ春。
 雪に代わるような純白の水芭蕉、光咲くような流金花。
 わたし達の、春のいろ。
 手紙越しでなく逢うのは初めてのこと。
 けれど絃の角で鈴飾りが鳴ればシレネッタは迷わず笑みを咲かせ、癒しで時計塔を潤した御褒美を一緒のテーブルで。
 花咲くレアチーズに苺大福が添えられれば、困るわそんな、素晴らしすぎて! と少女が大感激。甘党なんすねと笑ってホットサンドを頬張り、雪解けを含めば、彼の裡にも春咲く心地。
 俺ね、あなたが栞に返事をくれて嬉しかったです。
「今日逢えたことも、これって小さな奇跡だと思うんすよ」
「ふふ、事実は小説より奇なりと言うでしょう、本の虫さん!」
 緩く睫毛を伏せて語れば悪戯に返る笑み。あなたを知りたいと請われた娘が語るのは。
 むかし、むかし、あるところに――。
 楽園のカフェオレと雪解けを其々片手に、熱々のホットサンドで空腹を満たし、苺大福をデザートに携えたなら、アリシスフェイルとスバルは写真集という名の扉を開く。
 光の加減と海の深さで鮮やかに色を変えるエーゲ海の青に見惚れて、深い断崖に抱かれた北欧のフィヨルドから一気に大西洋が広がる様に思わず二人で歓声をあげ、
「良いよねぇ、空と海が交わる景色!」
「ね! どうしようもないくらい心惹かれるわ」
 遥か水平線、青の境界へ心で翔けて。
 次いで開く旅の扉の向こうは夜の空。
 息を呑むほど圧倒的な星の輝きはハワイのマウナケアから望む星空、鮮麗で明瞭で今にも星が零れてきそうなのに、感じるものは――果てしなさ。
 知らない光景、遥かな果てしなさ。
 写真集だと不思議と身近に感じられるそれらを、いつか、きっと。
 実は珈琲好きの桃花は、初挑戦だという友にいそいそとほっぺちゅーをした。
「ふふふ~。初めての珈琲が美味しく飲めるおまじない! なの~♪」
「良かったですね、ロゼ。それでも不安なら私から口移しで」
「それはダメ! 私、頑張って世界を拡げるんだから……!」
 雪解けの春を味わい瞳を細めるアレクセイも慣れたもので、冗談めかした彼の言葉に頬を薔薇色に染めつつ、ロゼは意を決して楽園のカフェオレを口に運ぶ。
 蕩ける香りに誘われ一口含んでみれば、珈琲のコクも苦味もミルクの風味にくるまれて、まろやかな幸せになって満ちていく。
 ――美味しい!
 私にも飲める! と歓喜を咲かせたロゼに、おめでとうとアレクセイが御褒美の苺大福を差し出せば、たちまち愛しい瞳と笑みが輝きを増して。
 彼女こそが、彼の楽園。
 笑うと途端に、表情が甘く崩れる店長だった。
 歓迎の笑顔に心が晴れわたるような嬉しさを覚えたのは、彼の笑顔を取り戻したカルナも病魔退治の話を聴いた灯も同じ。ブラックでと注文しかけた少女は彼と目が合って、
「もっ、もちろん飲めますよ大人ですから!」
「い、いつか僕も飲める様になりますから!」
 胸を張って彼から尊敬の眼差しを浴びたけれども、結局テーブルには仲良くカフェオレが並ぶ。甘夏の煌きで彩られた花咲くレアチーズを頬張れば灯の髪の花まで輝くよう。口中でさくり崩れるタルトが苺とクリームの幸せを溢れさせれば、カルナはすかさずカフェオレの楽園で受けとめて。
 幸せ交換こすれば、広がる楽園は何処までも。
 機械仕掛けで幻想仕掛けの時計は、時計師の眼で見ても至極快調。
 瞳を細めて塔を仰げば春風に頬を擽られ、エトヴァは楽園の珈琲を口に運んだ。胸の裡に燈るのはオーストリアアルプスの雪解け水に潤された春の草原、そこに佇む街。
 ――あの人は、元気でやっているでショウカ。
 深く甘やかな香りに芳醇なコクと甘さが後引く余韻。
 楽園に甘酸っぱい春色の花添える、春のひととき。
 声が聴こえた気がした霧雨の夜に泣き崩れ、目が覚めた瞬間、真っ先に――。
「なんて、ロマンチストが過ぎるかな」
「浪漫は満ちて溢れて、内から外から自分を潤すくらいでちょうどいいの~♪」
 おかえりなさいと桃花にほっぺちゅーされれば、照れくささと一緒に啜ったスプーキーの雪解けはひときわ春の香り。苺の甘酸っぱさや大福の甘さと奏でるハーモニーも目が覚めるようで、だから自然に思えた。
 何処かでミモザを買おう。家族に、そして。
 店内は柔らかな光に満ちていた。
 明るい飴色のパイン材を使った調度を一瞥、偶々見えた知己の様子に小さく息をほどき、律は雪解けの花咲く香りを胸に満たす。ぱらりと紙の音が響いたなら、アラタの指が駆ける頁の海原にシルバーグレーの尻尾が翻った。
 花に彩られ甘夏の煌きを纏ったレアチーズが滑らかに蕩けて、深く甘やかで芳醇な楽園と高らかに調和を唄えば、アラタも指先のネブラスカオオカミと一緒に駆けて、遥か彼方へ、まだ見ぬ地平線の向こうへも羽ばたいていけそうな心地。
「良い店だな!」
「そうだな」
 飛びきり満足げな笑みに律が返した同意は心からのもの。
 誰にとっての『楽園』で『雪解け』なのか。恐らくそれは店主の、そして、この店に集う皆にとっての。誰かのを祈り己が目指す幸福であり、旅路へ漕ぎだすのを促すもの。
 景気づけのごとく苺大福を齧る。たとえ動機が我欲であっても。
 楽園は、多い方がいい。

●楽園
 淡い光で織られた幻想の魔法陣、定刻にそれが現れる時計塔広場は童話の世界を思わせ、夜が進呈した分も苺大福を堪能する宿利が語る光景は、秘密の伝承を解き明かすよう。
 ――私の行きたい処は。
 たとえば、樹々の緑と白岩の懐に限りなく透明なブルーグリーンの渓流を抱く阿寺渓谷、白神山地に秘められた夢見るようなコバルトブルーを湛えた青池。
「君が連れて行ってくれる?」
 雪解けと苺大福の歓喜に咲く宿利の笑みが悪戯っぽい期待を帯びたなら、勿論とばかりに暖かくなったらねと返る笑み。擽ったく笑って、夜くんが行きたい処は? と問いを重ね。
「俺が行ってみたい処は……」
 楽園の香りに誘われるよう触れたのは、異国への扉の一頁。塩湖、とだけ囁いて。
 世界に塩湖は数多あるけれど、彼が指したのは標高3700mに坐する天空の鏡。
 見霽かせばきっと世界すべて空になった心地。明け暮れの彩に、夜には星に包まれる。
 鴨の旨味と熱く蕩けるカマンベールが絡み合うホットサンドは絶品で、それならこちらも絶品だろうと苺大福に手を伸ばしたところで、蓮は連れの実家が老舗和菓子屋であることを思い出す。珈琲好きであることも。
「連城さん、珈琲を好むようになったきっかけとかあるんですか?」
「きっかけは……それこそ和菓子と違うイメージを求めて、だとか」
 改めて訊かれれば些か最中も悩むところ。劇的なものがあったわけでなく、多彩な魅力を知るたび少しずつ惚れこんで。今は珈琲の香りと共に本を読む時間が至福。
 ――なかなか良いものでしょう?
 深く甘やかに香る楽園の杯を軽く最中が掲げたなら、そうですね、と素直に蓮も頷いた。花のように香り立つ雪解けは、心を解きほぐしてくれる。
 今は書を紐解くよりも、互いの言の葉を紐解くほうが趣深い。
 仕事の報酬は楽園への招待状。
 どうやら俺の舌は春を求めてるらしいと眼差しを和らげたアベルの手には雪解けの香りが咲き、手許では春色の花咲かせたレアチーズに甘夏ソースの煌きも咲く。
 良かったらシェアします? と笑みを咲かせた怜がホットサンドを切り分ければ、とろり溢れだすカマンベールに鴨ハムの熱い肉汁が滲み、一口齧ればもう堪らずに、楽園の珈琲でほうと一息ついた時にはもう、彼女の分は皆おなかのなか。
 爽快な食べっぷりに破顔したアベルが己の苺大福も勧めれば流石に怜も遠慮したけれど、
「……半分ずつなら構わんだろ?」
「――仕方ありませんね」
 瞳と燈る炎が嬉しさに輝くのは隠せない。
 時告げの塔を癒しで潤せば、春告げの珈琲がやってきた。
 雪解け片手に香ばしいホットサンドを楽しみ、蕩ける幸せ指先まで伝わせて捲る写真集。ムジカが開いた世界は楽園に最も近い島、フェルナンド・デ・ノローニャ。明るい島の緑も碧く透きとおった海も宝石のごとく輝く南国の海。
 故郷にも繋がる海。懐かしむ日が来るなんて思わなかったけれど、
「いつか市邨ちゃんと一緒に見れたらいいなって……」
 思えるようになったのが、不思議。
 彼女が故郷を懐かしみつつ語るのは初めてで、
「――うん、一緒に見れたら良いね」
 心ほどけるよう笑んだ市邨は、蕾が咲き初めるように綻んだムジカの口許へ春色の花咲くレアチーズを放り込む。瞬いた彼女が笑み咲かせれば、楽園の珈琲の香りもひときわ甘さを増す心地。
 俺にとっての、楽園。
 いつかの日にも、君の幸せな笑みが見られたら良い。
 明るい彩で春を教える花々にミルラは顔を綻ばせ、甘夏の滴を落としたレアチーズを軽く一口。そのまま杯を傾けたなら甘やかな楽園の香りが溢れ、熱い珈琲に蕩けるレアチーズが楽園のコクと相俟って、切ないくらい幸福な余韻を引いた。
 至福の表情を見られたか、店長にも嬉しげな笑み。
 皆と取り戻した彼本来の日常を見れば、眦を緩めずにはいられない。
 ――この手が届いて、良かった。
 瞳が合えば店長は満面の笑みで、次いで瞳が合ったミルラと安堵の笑みを交わす。見渡す店内は光と木のぬくもりと皆の笑みに満ちていて、炯介の笑みも深まるばかり。
 時計塔は災難だったけれど、店が無事だったのは幸いだ。
 手塩に掛けたであろう店が幻想化してしまうのは忍びない――と誰かが言っていた言葉を想いつつ、噂の苺大福に手を伸ばす。楽園と合わせれば、
「本当だ、意外とありだね」
 苺の瑞々しさも大福の甘さも、華やかな幸せに昇華された。
 スマートフォンの画面に収めたプリムラの花が輝くようで、胸の奥がつきりと痛む。
 幸せ咲かせるレアチーズと一緒に頼んだのは楽園の珈琲。甘やかに香るそれを口にすれば芳醇なコクの奥からほろ苦さが覗き、ハンナの眦が微かに震えた。
 永遠を願った恋も終わるのは一瞬で、
「……この苦さに慣れたら、本当の大人に、なれるのかしら」
 ほろりと零せば、南国の果実を思わす酸味。
 嗚呼、本当に、この珈琲のような恋だった。
 けれど楽園を唇に流し込むたび、心にまで優しい熱が届くよう。
 大人へのきざはしをひとつ昇って、明日から、きっとまた――。

作者:藍鳶カナン 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2018年3月14日
難度:易しい
参加:53人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 13/キャラが大事にされていた 0
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