病魔根絶計画~吐息すら奪う魔

作者:ヒサ

 湿った咳の音が続く。苦しむ患者がうずくまる寝台が血の色に染まる。
「母さん、しっかり。ゆっくり息を」
 マスクで口元を覆った息子の手がその背をさすった。連日見舞いに訪れる彼は母の代わりに家人の世話を引き受けていた為にひどく疲れた顔をしていたが、母の苦痛にに比べれば、と気遣う言葉だけを掛け続けていた。
「ありが……、ごめ、っ──!」
 母の声は止まぬ咳にかき消された。息子の顔が痛ましげに歪む。
「大丈夫だから、少しでも休んで。母さんが元気になってくれるのが一番だから」
 家で待たせている弟妹が寂しがって泣いている、などと今の母に聞かせるわけにはいかない。日を追う毎に言葉少なになりつつある彼は、せめてと目を細め笑んで見せた。

「あなた達に『結核』の根絶をお願いしたいの」
 病院の医師やウィッチドクター達がその為の準備を整えた事を篠前・仁那(白霞紅玉ヘリオライダー・en0053)はケルベロス達へ伝えた。
 ミッションにも挙げられているこの病の患者達が、現在とある大病院に集められている。この病魔を喚び出し殲滅する事が出来れば、以降この病に苦しむ者は現れなくなるだろう。
「なので、あなた達には重病のひとの病魔を倒して来て欲しい」
 症状が軽い者達を癒す事は難しく無い。が、酷い苦しみをもたらす強力な病魔への対処には、作戦を練った上であたる事が望ましい。今回対応して貰いたい患者は、とある家庭の母。老人ほどでは無くとも体力があるとは言い難い四十代の女性で、激しい咳に伴う息苦しさや酷い倦怠感等に襲われているらしい。多忙な父に代わり高校生の長男が見舞いに訪れているが、家では幼い弟妹の面倒も見ている為に、母が苦しみ続けているのと同様に彼もひどく疲れきっているという。
「だから、出来れば、病魔を喚び出す前に二人を励まして貰えないかしら」
 病魔を召喚する前に、その患者と交流する事で、一時的に病魔への耐性を得る事が出来るという。耐性を持つ者は、病魔の攻撃に依るダメージを抑えられるようだ。ケルベロスの頼もしさをアピールしたり親身になったりすることで、重い症状に対する不安や家族を想うがゆえのストレスを和らげを彼らを安心させてやれれば良いだろう。戦いでの有利のみならず、彼らの今後の為にもなる筈だ。
「あなた達ならば、まず負ける事は無いと思うけれど。患者さん達の為にも確実に、済ませてくれると嬉しいわ」


参加者
藤守・景臣(ウィスタリア・e00069)
クィル・リカ(星願・e00189)
ベルンハルト・オクト(鋼の金獅子・e00806)
神宮時・あお(壊レタ世界ノ詩・e04014)
シア・ベクルクス(花虎の尾・e10131)
葛篭・咲(珈琲ロマン・e12562)
アルテナ・レドフォード(先天性天然系女子・e19408)
グレッグ・ロックハート(泡沫夢幻・e23784)

■リプレイ


 彼らが病室を訪ねると、迎えた息子の顔に安堵の色が見えた。母子が挨拶を口にしかけたところで母親が咳き込んだ為、ケルベロス達は急ぎ二人の傍へ。
「失礼する」
 赤色を零す患者の傍でグレッグ・ロックハート(泡沫夢幻・e23784)が手を差し伸べヒールを施す。傷ついた体組織だけでも癒せれば苦痛を和らげ得るのではと考え──否、思考より先に気遣いゆえに体が動いたと表すのが適当だろうか。
「母さん、無理に喋らない方が良い」
 ややあって咳が幾らか落ち着き、息子がほっと息を吐いた。でも、と言いたげな母親を見、神宮時・あお(壊レタ世界ノ詩・e04014)がおずおずと筆記具を差し出す。良ければ、との意図は伝わったようで、息子が母に代わって礼の言葉を口にした。
「差し支えなければこちら、替えさせて頂きますわ」
「手伝います」
 室内の棚から出て来た予備の布団襟カバーを受け取りシア・ベクルクス(花虎の尾・e10131)が母子へ微笑みを向け、葛篭・咲(珈琲ロマン・e12562)が逆側へ回り込んだ。慣れているのか二人は手際良く作業を進め、娘はそのまま患者の世話に、少年は汚れ物を引き取る。血痕に目を留めた彼の瞳が苦痛を堪えるよう一瞬翳った事は、少なくとも母子は気付かなかった筈だ。
「すまない」
(「そこは『ありがとう』が良いな俺としては」)
 使用前を探し出し使用後の始末を引き受けたノル・キサラギへ、友人であるグレッグが囁く。籠めた意は同じであった為にその青い目は、笑顔で背を叩いて行った友人の言にきょとんとする事になったのだが。
「よければこちらを。少しずつでもお摂り下さい」
 布団を整え直したところで、アルテナ・レドフォード(先天性天然系女子・e19408)が患者へホットレモネードを差し出す。その間に息子の手へは咲から花籠が渡され、患者の視界に入る位置を探し窓際へひとまず置かれた。
「──大変。ごめんなさい、ね、あなたの……」
 そうして落ち着き一息吐いた患者が、グレッグの白いコートに赤い汚れがあるのに気付き目を瞠った。掠れを残す声が息苦しげに謝罪を紡ぐ。動揺などあればまた咳が増えかねないと数名がかりで宥めた。
 また、謝罪の宛先である青年は目を瞬いたが、
「大丈夫だ」
 眼差しを和らげ首を振った。吐かれた血の痕は、苦しむ彼女に寄り添えた印のようなもの。洗えば落ちる、と言ってやると彼女はようやく幾らか落ち着いたようで、再度の謝罪を。
(「……なるほど」)
 それを穏やかに許しながら、青年は胸中でごちた。
「御二人のお名前を伺ってもよろしいでしょうか」
 暫しして、患者の容態も多少安定した事を確認し、まず藤守・景臣(ウィスタリア・e00069)が改めて挨拶を。仲間と分担しつつ各人を紹介して後、二人へ問うた。
「カエと申します」
「俺……僕はタカヤです」
 彼らに倣い名を告げ、患者は手元の紙に『華枝』『孝也』と記し示した。素敵な名前ですね、から始まり、今日は良い天気ですね、等と世間話を振りながら、ケルベロス達は母子の様子を観察し。
「孝也さん、よければあなたも如何ですか?」
 備えてあったコップを見つけ、水筒を片手に水場前からアルテナがレモネードを勧める。それは良い、と率先して彼の背を押したのは母親だった。寝台の傍に居るケルベロス達が頷くのを確認し、彼は小さく頭を下げ水場の方へ。そちらに居た者達と話し始める彼の姿に、母親はほっとしたよう息を吐いていた。
「……お辛かったですよね」
 その様に、クィル・リカ(星願・e00189)の声が零れた。息子が母を励まし続けたように、母は息子への心苦しさに堪えていたのだと解る。
「でもそれも今日で終わり、です。……俺らが終わらせます」
「退院したら何をなさいます? 順調に行けばクリスマスをご家族と過ごせるでしょうし、その準備に追われてしまうでしょうか」
 咲が控えめに、それでも断言して、拳を握る。景臣は穏和に先の事を口にして、無理は駄目ですからね、と患者へ微笑み掛けた。想像が追いつかないのか未来の話に戸惑う彼女へグレッグは、言葉の一つ一つに力を籠めるかのようゆっくりと、紡ぐ。
「咲が言ったように、病魔との付き合いは今日で終わる。だから……夢を見ても良い。それは、現実に出来る事だから」
 繰り返し、伝え。患者を見上げたあおが辿々しい手つきで、仲間が口にした約束を今一度形にするよう、信じて欲しいと綴る。口元を抑えた母は考え込むように目線を揺らしてペンを手に取り、しかし手は止まる──応えたい思いはあれど、相応しい言葉が見つからぬとでも言うかの如く。
 逡巡の後に彼女はまず、礼の言葉だけを記した。その瞳が優しい色をしている事に、覗き込んだ者達が安堵する。底に残る悲しげな色は、これから自分達が祓ってやれば良い。
「洗って来ますね」
 やがて空になったコップを持って咲が踵を返す。入れ替わりに寝台脇へ来たアルテナが、彼の背を見送るよう水場の方へ視線を遣ったまま、母親の傍へ屈み口を開く。
「立派な息子さんですね」
「……ありがとうございます。私には過ぎた──」
 罪悪感を抱いている様子である事が判る、憂えた声を聞き咎め、彼女はそっと首を振る。
「治られたら、息子さんを誉めてあげて下さい」
 子を持つ親の気持ちは、例えば彼女には解らずとも。慕う誰かの為に尽くす気持ちならば知っていた。相手が喜んでくれれば満たされるし、好意を返してくれれば嬉しい。それはあなた自身にも覚えのある想いの筈だと、息子を育てた母親である患者を優しく見つめ、アルテナは微笑んだ。

「コップを洗わせて貰えますか」
「俺洗うよー。おかわり要る?」
「ああ……、温まって頂いた方が良いですよね」
 スポンジ片手にノルがコップを引き取る。続いた問いに、咲は寝台の方を窺い頷いた。
「お母様のご様子は如何でした?」
 息子との会話を中断したシアが尋ねて来た。落ち着いている事を伝えると、息子の表情が緩んだのが判った。
「ずっと、案じてらっしゃいましたものね」
 それにシアが目を細める。祖母を病で亡くした己の記憶と重ねた彼女は、彼があの悲しみを味わう必要は無いのだと懸命に、親身になって彼を励ましていた。
「お母様が病と闘っていらしたように、貴方もずっと、ご家族の為に闘って来られたのですもの」
「そう、ですね。家の事も大変だったでしょう。心身共に疲れましたよね」
 貴方も、と彼らは労いの言葉を贈る。きっと弱音も愚痴も押し込めて来たのだろうと。頑張りましたね、と囁けば、急に息を詰めた息子が俯いた。口元を押さえた彼に母親が気付く前にと近くに居た者達で壁を作る。ベルンハルト・オクト(鋼の金獅子・e00806)の視点からは、息子が潤んだ目を幾度も瞬く姿が見えた。
「せめてお二人がしっかり休めるように、俺らは全力を尽くします」
「貴方の為にも……いえ、貴方の為にこそ。お母様の健康を取り戻して見せますわ」
 誠意で以て言葉を重ねると、ぐ、と堪えた呻きが洩れて。
「その涙は恥じるべきものじゃない。貴方が力を尽くした証だ」
 ベルンハルトが言えば、息子は涙の滲んだ目を複雑そうに少年へと向けた。まだ早い、と感情を抑え込み、ややの後に口を開いた彼曰く、少年は自身の弟と同年代らしく。
「といっても弟は君ほどしっかりしてないんだけど。三年? 四年?」
「? 俺の事ならば先日十二になったが」
「え」
 弟を持つ兄は目を瞠り、その視線が少年の頭の上から爪先までを一往復した。その後、慌てた様子で少し下がる。
「っと、ごめん。ならあっちの子は……あ」
「ああ、彼女は俺と同……うん?」
「──ちょっ、母さん!」
 彼らが寝台の方へ視線を遣ると、何やら母親があおを抱き締めていた。傍に居る仲間達が穏和に見守っている様子からしても異常事態というわけでは無いようだが、当の少女はひどく戸惑い硬直していた。励ましの言葉を綴っていた筆談用の紙がその手から零れ、慌てて息子が寝台の方へ駆け寄る。
「そんなに締めたら駄目だって、その子カナより細いんだから」
「え、あ……ご、ごめんなさい!」
 どうやら妹と重ねられたらしいあおは、息子の介入に依り解放されて座り込んだ先の床で裏返った紙に『だいじょうぶ』『です』とつたない文字を書きつけていた。
 そこから暫し母子の間で話が弟妹の成長に及ぶ。その内容自体は大変微笑ましいものではあったのだが、
(「やはり親子は共に居なくてはな」)
(「何としてもお母様をご家族へ返して差し上げなくては」)
 ケルベロス達は静かに決意を新たにする。この母子はこのような当たり前の事すらもろくに話せぬほど今まで追い詰められていた。そしてそれはきっと家で待つ子供らも同じ。病が如何に多くの人を苦しめるか、如何に多くの幸せを奪うか、知っている者達は特にひどく心を痛めた。
 だが此度は、彼らの手があれば救えるのだ。母子が落ち着くのを待ちながら、彼らは戦いに臨むべく改めて気を引き締めた。

「こちらをどうぞ。廊下も暖められてはいましたが、やはり此処よりは冷えますから」
 見舞い品や私物を膝や手に抱えた母子へ召喚からの手順を伝えた後、車椅子に乗せられた母親の肩へ景臣は上着を着せ掛けた。次いで彼は傍に控える息子を顧み微笑む。
「お母さんを守ってあげて下さいね」
 クィルが黒衣の襟を正す。シアとグレッグがそのすぐ傍で敵の出現に備える。咲とノルが母子の離脱を助けるべく彼らと戸口の間に控えた。ベルンハルトとあおとアルテナは、いつでも動けるよう開けた場所に散開する。出口・七緒(過渡色・en0049)が無人となった寝台を折り畳み終えた音が響いて、準備の完了が報された。


 現れた敵へ即座に距離を詰めたのは、刀を携えたシアとアルテナ。眼鏡を外した景臣が続き、炎の揺らめきを映した瞳で標的を見定め斬撃を浴びせる。
 手応えは想定よりやや鈍く、繊維質の体組織が自ら繋ぎ直すかのよう蠢くのが見えた。敵が唸り血にも似た液状の毒がまき散らされ、合間を縫うようグレッグが鎖を振るう。動きを縛ったところへあおが蹴りを叩き込み、ベルンハルトが放つ光を重ねる。敵が、害を撒くことそのものを封じてしまえと彼らは動き、クィルの詠唱が追いかけた。
「──あなたはもう動けない」
 暗示を謳い、獲物の身を蝕む。それらは正しく作用しているように彼らには見えたが、敵に堪えた様子が窺えぬ事を訝しんだ。情動など元より期待出来ぬ相手ではあるけれど。そうして暫しの後、敵が防御に長けているのだと気付く。
「お待たせしました」
 病室の扉を開け、母子を室外へ案内し終えた咲が戻る。以降の退避はノルが引き受けたという。まず前衛の護りを固めるよう努めていた七緒が安堵に小さく息を吐いた。
「頑張りましょうね」
「頼りにしてる」
 同じ癒し手としてか、言葉と共に品良く笑んだ少年はしかし敵が放つ、毒霧めいて濃い細菌の群れを見、その頬を微かに引きつらせた。だが七緒と目が合って、急ぎ微笑みが繕われる。
「……俺が見落としてるトコとかあったら、教えて、ね」
 青年に依る頼り方の具体化を最後に会話が終えられた。あとは現状への対応の為に。少年の手が祈りを紡ぎ、雷を纏うシアの刀へ破呪の力を与えた。
 敵が護りを固めたとて、ケルベロス達の力量があれば抗し得る。雷刀が防御を破り、アルテナが放つ薬が敵の治癒力を低減させる。敵の抵抗を制して紅い炎を振るうグレッグの胸を焦がすのは先の誓い。必ず救うと約束した。だから少しでも早く、と心が張り詰めて。
「ただいま!」
 母子の安全を確保してのち戻った友人に見咎められて、射手への援護に矢を放ったその肘でトンと背中をつつかれる。
(「大丈夫だよ」)
 経過時間の割に負傷の少ない彼らの姿ゆえもあったろう、ケルベロス達を信じる声を他の者より沢山耳にする機会を得た青年は、金の目を柔らかく細めた。彼らはただ、力を惜しまず出しきればそれで良い。
 敵が散布した毒を、景臣が振るう花の色が流れを御して散らし。大きな背に庇われたその陰から飛び出したベルンハルトが刀を抜いた。不意をつく形となった事に少年の気はやや咎めたが、機を活かす事には意味がある。
「Ich bin──」
 敵の体に刀身を差し込んで、中から壊す如く呪を紡いだ。『彼』とは違う、自分に遺された数少ない、けれど尊い、刀を扱う力で以て標的の『肉』を斬り抉る。
(「『こんなもの』が親子を引き裂くなど、許してなるものか」)
 病がただ『在るだけ』だとするならば、とは冷めて思えど、それでも不可避の別れは未だ先で良い筈と。重ねた傷に動く事もままならなくなりつつある敵へ、あおが更に砲撃を撃ち込んだ。淡々と手を重ねる少女の胸には、少しの息苦しさと淡い温かさが灯り揺れた。
(「これ、が、済めば、……お二人は、笑ってくださる、でしょうか」)
 ごく近くなれど未来を夢見る、その意味を少女自身はきっと未だ知らなかろうが。今はそれをただ、前へ進む力と成した。
「──っ、はぁ……」
「大丈夫ですか」
 危ない場面は無いながら、敵にはひどく粘られて、やがて咲が小さく疲労を零す。見えぬ傷が嵩んだろうかと、自身は纏う護りゆえにさほど堪えぬ為にアルテナが案じ、攻める手を休め治癒を助けた。その心配の一端である敵の強化は、クィルの竜爪が早々に砕き。
「今でしたら行けるかもしれませんね」
 敵の様を観察した彼は、己の持つ二杖へ目を遣った。隙を無視し得ぬ大技とて今ならば、と思えるほどには、敵の動きは鈍りきっていた。
 ゆえに、と加速する彼らの前に病が斃れ消滅したのは、それからすぐの事──母子の信と未来を負うケルベロス達には、木偶と化した相手など最早敵とは呼び難いものだった。


「もうマスクを外しても大丈夫ですよ」
 急に楽になった事に戸惑う母親とその様を見て落ち着かぬ様子で居た息子へ、咲が声を掛ける。言葉の意味を咀嚼してようやく母子は安らいだようだった。
「お疲れ様で御座いましたわ」
 明るい声でシアが言い。勝ち得た結末に、良かった、と彼らは喜びの声を、笑みを零す。母子は礼の言葉を繰り返し口にした。
 落ち着いた頃、これならば年末年始を家で過ごせるだろうと再び話に挙がり、あ、と息子が声をあげた。
「母さん、後で親父に電話してくれる? あと丸木さんのとこに鶏頼まないと。今年は予約して無いから」
「頼んでないの? しかもお父さんも休み取れてないの?」
 捲し立てるような息子の言に母親が戸惑う。今の今まで彼らの家の予定には、今年のクリスマスは存在しなかった様子。
「俺じゃ丸焼き出来ないし。やっぱそれは母さ──」
 入院費やら何やらの色々があった為もあろう、それを当然の事とばかり続けられた彼の声は、しかし半ばでその目からぼろりと涙が零れた事で途絶えた。当人が一番驚いた顔をしていたが、ほどなく開き直ったようにハンカチを取り出し顔に当てると静かに嗚咽を洩らし始めた。
 彼も弟妹も、母の手料理や母の居る家庭に飢えていた──元は当たり前に有し得ていたからこそ、尚更堪えていたという事。つられて目を潤ませた母は、手を差し伸べるかどうか迷う如く片手を浮かせた。その躊躇に、彼女の背へ手を遣った景臣が囁く。
(「貴女が、行ってあげて下さい」)
 きっと、少年にとっても母は特別だ。同年代の娘を持つ父である彼は、そうっと子の肩へ触れる白い手を優しく見つめた。
 病の後遺ゆえに細く小さい体をそろりと動かす彼女の唇からはもう咳は出ず、睫は含んだ涙を散らした。今までを耐えたからこそ報われた彼らを凄いと、クィルは思う。
「……あお」
 静かに涙する二人を見ていた少女へ、グレッグが遠慮がちにハンカチを差し出した。気の利いた言葉は生憎出て来ず、少女もまた不思議そうに視線を動かし青年を見上げるのみ。やがてその停滞に気付いたベルンハルトが近付いて来、宙に浮いたままのハンカチを少女の頬へ当てた。涙がひとしずく吸い上げられる。安堵の色を微かに滲ませる青年を、傍で友人がそっと見守っていた。
 一気に実感を得て気が抜けたのだろう、そのうちに息子は涙声で母親へ愚痴──弟が母の分をとっておくのだと毎度食事を少なめに摂ろうとするので苦労させられたとか、妹は母が快復したら見せるのだと言って絵を量産し続けた為にお絵かき帳にされた片面白紙のチラシがとんでもない量溜まっているだとか、働きづめの父はたまの休みにひたすら眠り背中や腹を弟妹達の昼寝ベッドにされても苦情を言うどころか寝返りの一つも打たずに起きてから関節を鳴らしまくって煩かっただとか──をぶちまけ始めた。第三者には割と平和な内容だが、当人は言葉の通りにとても苦労したと思われるそれを、母親は最後まで聴いて。
「ごめ──」
 声が途切れたところで、同様に涙を含んだ声で応じ掛けた母親はしかし、はたと気付いたように途中で言葉を切る。
「──ありがとうね、孝也。皆の事も、私の事も」
 それから、彼女が幸せそうに目を伏せる様を見てアルテナは、ようやく本当の意味で緊張を解き得て表情を緩めた。
 何かあればまた自分達が力になるから、と母子へ改めて伝える事が出来るようになるまでにはもう暫く掛かりそうで。その原因たる幸福ゆえの涙に、ケルベロス達はもう暫しの間寄り添っていた。

作者:ヒサ 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2017年12月14日
難度:やや易
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 5/素敵だった 1/キャラが大事にされていた 0
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