脆くとも愛しき其の

作者:ヒサ

 寝る前の一時を手芸に費やすのが彼女の楽しみだった。かつて母から教わった編み物も、何年も経つうちに結構な腕前になっていた。
 それをこの日、パッチワークの魔女達が台無しにした。昔、母が編んでくれた長いマフラーは引き裂かれ、それと合わせるためにと彼女が作っていたセーターも糸くずに。
 セーターは、また新たに作れば良い。けれどマフラーは、それを形作っていた古い毛糸は、糸どころか繊維にまで崩れてしまった。
「──……」
 突然の事に彼女は目を見開いて、
「……お母さん」
 今にも泣き出しそうな声で呟く。それから、彼女が状況を理解するのを待っていた、元凶である第八の魔女・ディオメデスと第九の魔女・ヒッポリュテへ目を向ける。
「──何、するのよ。……あんた達何してくれてんの、お母さんが編んでくれたのに、もう編んで貰えないのに、折角私に遺してくれたのに! 何てことするのよ、大事にしてたのに、これしか無いのに、返して、戻して、返してよ……っ!!」
 激しい感情のままに彼女はわめき散らし、怒り顔のまま涙を零す。魔女達へ詰め寄り、手近に居た片方の胸ぐらを掴むように伸ばした彼女の手は、しかし届くより先に止まる事となる。
 彼女の胸を、魔女達の鍵が貫いた。虚空にある彼女の手が衝撃に一度震え、そののちに力を失くす。
「私達のモザイクは晴れなかったねえ。けれどあなたの怒り」
「オマエの悲しみ、悪くナカッタ」
 魔女達が笑う。気を失った彼女が倒れる傍に、二体のドリームイーターが現れた。薄着に長いマフラーをぐるぐると何周も巻きつけた幼い子供と、黒いセーラー服を身につけた十代前半と思しきひとがた。二体とも、胸から顔にかけてが多量のモザイクに覆われていたが、その手足や長さのある髪を見る限りは、おそらくどちらも女性なのだろうと思われた。

「パッチワークの魔女達に依る事件が起こるようだ。手を貸して欲しい」
 常と変わらぬ凛々しい声でそう言ったナディア・ノヴァ(わすれなぐさ・e00787)が、眼前のケルベロス達へスッと頭を下げた。彼女の後方に控えていた篠前・仁那(白霞紅玉ヘリオライダー・en0053)は、第八、第九の魔女に依るその事件の詳細を皆へ伝えるべく、開いたメモ帳へ目を落とす。
 襲われるのは二十代前半の女性。何年も前に病で亡くした母が彼女へと遺した手編みのマフラーを駄目にされた怒りと悲しみの心から、二体のドリームイーターが生み出される。ドリームイーター達は、失った事の悲しみを他者へ訴え、その悲しみを理解し得ぬ者を怒りで以て殺すという。
「なのであなた達には、被害に遭うひとが出る前に、このドリームイーター達を倒して来て欲しい」
 敵達は女性の家の近所、静かな夜の町を徘徊し獲物を探す為、接触する事は難しくない。周囲は住宅が建ち並ぶが、そちらの被害等は、戦いながらとなるが近場の公園へ誘導できれば抑えられよう。仁那は現場周辺の地図を提示し告げた。
「敵から上手く怒りの感情を引き出して貰えれば、あなた達を狙って追って来る筈。あとは、振り切ったりしないよう気をつけてくれれば、大丈夫だと思う。
 ……とは言っても、それであなた達の被害が大きくなってしまう可能性もあるから、町のひと達が巻き込まれないようにはして欲しいけれど……無理をし過ぎる事も無いように、して貰えると嬉しいわ」
 どうか気をつけて、とヘリオライダーは顔を上げてケルベロス達を見つめた。


参加者
ナディア・ノヴァ(わすれなぐさ・e00787)
ヴェルセア・エイムハーツ(ブージャム・e03134)
ジエロ・アクアリオ(星導・e03190)
奏真・一十(寒雷堂堂・e03433)
ヴィルベル・ルイーネ(綴りて候・e21840)
井関・十蔵(羅刹・e22748)
エトヴィン・コール(徒波・e23900)
ウーリ・ヴァーツェル(アフターライト・e25074)

■リプレイ


 街灯の淡い光のみでは心許ないと照明を持った。闇に目を凝らす事の方に慣れているのかヴェルセア・エイムハーツ(ブージャム・e03134)などは、どことなく収まりが悪そうな様子だったが、ともかく各人視界は良好。いつでも刀を抜ける態勢のナディア・ノヴァ(わすれなぐさ・e00787)が後方の警戒についた。
 被害者の自宅方面へと進んで行くと、啜り泣きと思しき微かな音が耳に留まる。獲物を誘うそれを頼りにケルベロス達は声の方へと進んだ。
「ねえ」
 そうして灯りの中に姿を視認出来る頃、彼らを呼んだのは幼い子供。
「あのね、死んじゃったお母さんが昔作ってくれたマフラーが、失くなっちゃったの」
 哀れを誘う涙声。だがその姿はモザイクまみれの異形。
「だそうだが十蔵さん」
「ああん?」
 落ち着き払った調子で同僚からそう振られた井関・十蔵(羅刹・e22748)がドリームイーター達を、大変に柄の悪い雰囲気で睨みつける。あるいはガンを飛ばす。
「なら代わりに俺の小汚え雑巾くれてやろうか? おめえの持ってたのと大して変わらねぇだろ?」
「……なんですって?」
 返る声は激情に歪んだ。もう一体の異形が一息に距離を詰めて来、上げた片手が爪を立てるような形で振り下ろされる。
「無きものに縋り挙句の果てに八つ当たりとは見苦しい」
 だがそれが十蔵へ届くより前に奏真・一十(寒雷堂堂・e03433)が間へ割り込んだ。
「我々に訴えて何とする。つまらん駄々はやめておけ」
 鈍い音を伴い、攻撃の勢いを削がれ戦慄する敵が退くのを許さず。一十は鈍くきらめく大剣を振るう。モザイクの奥、衝撃に呼気を押し出された娘の呻きは、ヴェルセアが放った炎竜がかき消した。
「そう。お兄さん達は解ってくれないんだね」
 子供の声が冷たく落ちる。彼女の首にだけある真新しいマフラーが伸び、前衛達へ鞭のように振るわれた。勢い余って近くの家の塀が派手に崩れるに至り、雷壁を成すべく杖をかざしていたヴィルベル・ルイーネ(綴りて候・e21840)が首を捻る。
「これどうなんだろ、もうちょっと煽っといた方が良いのかな。ピンポイントで殺しに来るくらい」
「ベルちゃん、それで僕に来たら凄い痛そうなんだけど」
 既に痛いし、とエトヴィン・コール(徒波・e23900)が困り顔を見せる。敵を観察していた者達や、二体共の攻撃を受けた一十には、怒りを示す娘の方は護りを重視し動き、悲しみを訴える子供の方はその逆と判断出来た。おおごとになる前にとウーリ・ヴァーツェル(アフターライト・e25074)が盾役の傍へ光の盾を遣る。
「なら早う行こ、町壊れるわ」
「クリュ、彼らの手伝いを頼むよ」
 ジエロ・アクアリオ(星導・e03190)が己が小竜へ水の護りを指示し、目的地へと足を向ける。
 誰もはぐれぬよう、鬼に掴まらぬよう、また、振り切らぬよう。彼らは予め確認しておいた公園を目指し駆け出した。


 結構な近所迷惑を振りまく敵を盾役達で惹き付けて、無事目当ての公園へ連れて来た。最後はエトヴィンが吼え掛かるようにして敷地内へ追い込んだ。
 たとえ野次馬が居たとて状況を察して、あるいは物理的に道を塞がれ寄りつくまい。静かな園内で、ケルベロス達はドリームイーター達と対峙する。
「あんた達に私の気持ちなんて解らない。何年分もの思い出ごと奪われた私の怒りなんて解らない!」
 敵は未だ冷めやらぬ感情を喚く。似たような文言は既に道中耳にしてはいたが、周囲を気にせずとも良くなった今であればとヴィルベルが肩を竦めて見せる。
「それで簡単に失くなっちゃうような思い出なら大した事無いんじゃない」
 敵達は、初めに侮蔑を吐いた十蔵と、大剣を振るい割り込んだ一十ばかりを狙っていた。未だ差し迫ってこそいないが、二人の負担の大きさを捨て置くのは危険。
「そもそも母親の手編みなど、私なら恥ずかしくて着けられんがな」
 それに、万一にも逃がすわけには行かない。二人を倒して満足されでもしては困るのだ。むごい言葉に嘲笑の色を乗せてナディアが追撃を。
「似たようなものなら沢山あるからねえ。あまり拘り過ぎるものでも無いよ」
「そうだね、古いの処分出来て良かったんじゃない? 心おきなく新調出来るよ」
 本心とは乖離した暴言を幾つも飛ばす。そう敵の気を散らす間に彼らは態勢を整えた。まずは有する治癒の力で娘を支えんとする子供を狙う準備を。娘がそれを妨げるよう動く事は承知の上だが、幸い子供は娘の傍を離れない。背後に隠れるのでは無く。ケルベロス達の得物も容易く捉え得る距離だ。踏み込んだジエロの拳が敵の胴に刺さる。
「さて」
 子供の意識が逸れた隙にと、十蔵の草履が砂を擦る。彼が跳べば虹の尾が呪詛を織り、狙い定めた娘の方を毒した。
 盾役達は既に結構な疲労を抱えていたものの、ここまで護りに徹していた為もあり、退く必要は未だ無く。皆が憂い無く片方を相手取れるよう、もう一体の抑えと惹き付けを続行する。その彼らを、サーヴァント達が継続して治癒に専念する事で支えた。
 辺りへ今一度雷壁が巡る間に、ウーリが敵の動きを縛る術を放ち。
「お前達、当たるなよ」
 ナディアが直後、空に喚んだ刀剣を敵目掛けて降らせる。射手としてその狙いは正確で、警告は形だけのものではあったが、
「勘弁して貰いてぇなあ、寿命が縮むっての」
 ギリギリを掠められる前衛達の心臓には優しく無かったと思われた。
「──大人しくしてろヨ?」
 広さがあり人気の無いこの場において、心配事の殆どを手放し得たケルベロス達の良いようにと調えられて行く敵。その一体を捕捉して、ヴェルセアが口の端をつり上げる。宣告に危険を察して逃げを打つ標的をしかし寸前で竜砲の衝撃が捉えた。子供が洩らした呻きは、ままならないと憂うよう。幼い手が胸元のモザイクへ伸びるところにエトヴィンが動き、手にした刀で敵の傷を抉るよう斬り払った。
「ごめんね」
 柔らかに詫びる声とは裏腹に痕は鋭く。傷を、枷を、癒せども癒えきらぬほどにまでと深く。屈する事を厭うた子供が再度修復を試みたが、大きく残った綻びに爪を立てる如くジエロが呪詛の花を撒く。痛みを糧に大輪が咲く。
 敵の抵抗を無に帰してその動きを鈍らせれば、より動き易くなる。小細工無しで正面から殴り合っていたようなものを、敵の火力と機動力を減じ、此方の傷を癒しきるだけの余裕を保ち得るよう。無論不運や油断があれば判らないがひとまず息吐く事は許されて、ケルベロス達の緊張が僅かに緩む。
「というか彼女ら程度で怒りとか無いよね」
 ゆえだろう、何気ない調子でヴィルベルが口を開いた。
「どうよエト、あのしょっぱい怒りっぷり。あれならうりやナディアの方が余程」
「ベルちゃん、気持ちは解るけど流石にそれは。あの子達だって元々は」
「おいお前達、ふざけるのは──」
 友人達が常の調子で長話に突入しそうな気配を感じナディアが止めに入る。
「人として怒ってんのと鬼を比べちゃ可哀相だよ」
「あー」
「おい誰が鬼だ」
 が、方針転換を余儀なくされた。
「なあウーリ、後で少し付き合って貰えないか」
「任せて、二人共鬼と遭うのをご所望のようやし」
 夕陽色の目を柔らかく細めた彼女の微笑みは大変上品で穏やかで。
「──あ、後で僕らの方が可哀相な事になる予感がする」
「後で俺らが本当の悲しみを見せてあげるよ……」
 男性二人の目は明後日の方を向いた。
「いやあ、仲良しだねえ」
 なお、彼らの様子にジエロは微笑ましいものを見たとばかりに目尻を下げており。
「あいつらよく戦いながら漫才出来るナ」
「ヴェルセアさん、それ以上はよろしくない」
「口は災いの元ってな」
「何を言うか、私だって無差別に仕置いたりはしない」
「だからこそ触んねぇのが一番安全だと……忙しかろうによく聞こえてたな御頭」
 微笑んだ上司に顧みられ、老人が難しい顔で唸ったとかなんとか。
「ヒール間違われとう無かったら真面目になー?」
「「はーい」」
 一方ウーリはバール片手に友人達をせついていた。その凶器の出番は今回は無い、筈である。少なくともそれを武器として振るう技の予定は今日の彼女には無い。
「──まあ、俺らが大変な目に遭う頃には君らはもういないんだよねぇ」
 ごちてヴィルベルは凪いだ翠眼で彼女らを見遣り、敵を縛す黒薔薇を喚ぶ。娘の姿をした敵とは違い、子供は方々へ攻撃をまき散らしており、ケルベロス達は負荷を分散出来つつあった。
 だが。呪詛に阻まれ身の修復もままならない子供はしかし娘に度々庇われており、彼らは随分手を焼く事となる。娘からの挑発を初め、此方の動きを妨げるもの達へは早々に手を打って行った為に、彼らにとってそれらは障害とはなり得なかったが、それでも彼女達は痛みを分け合いひたすらに粘る。
 長引けば此方の傷も嵩む。指示に従い負担を引き受けるサーヴァント達が少しずつ弱って行き、とうとう傍の老人を庇ったクリュスタルスが倒れる。その愛称を囁き零した青年は、
「……もう暫しの辛抱かな。あちらも辛い筈だからね」
 ほどなくそう言って微笑んだ。事実敵方の傷はどちらも深く、子供の方などは既にぼろぼろで。
 苛むように聞こえ続けていた嘆きが止んだのはそれからすぐの事。遺された娘の怒声ばかりが恨みを吐くよう渦巻き続ける事となった。己の理解者などいない、お前達に痛みは解らない、などと、呪詛が延々と。
「魔女共はいい仕事をしたもんだナ」
 ヴェルセアの声は飄々と、ただ少しばかり呆れにも似た色が交ざる。『彼女』を襲った苦痛を察する事はケルベロス達には容易く、けれどだからこそ、聴覚を嬲り続ける不快が煩わしい。
「ビリビリにしてやるヨ」
 わらう声。鎌が閃いて、獲物を刻んだ。敵を、より、大剣と虹の使い手達へ執着させる行為は誰もが承知。ここまで来て退くものかと、彼らは実に軽やかに。
 そして暫しの後に、満身創痍の『怒り』は跡形もなく溶け消えた。

「全くお前達はいつもながら」
 終えてまず、ヴィルベルとエトヴィンが女性陣に折檻された。その中で友人に倣い愛の鞭(渾身)を振るったウーリの迫力は、力尽きたてつちゃんが未だ姿を消してお休み中だった事とは特に関係無い、かどうかは余人には不明。
「手当……は、彼ら自身で出来るから良いか。私自身が手を借りねばならないね」
「ならばサキミ、ジエロさんを頼む」
 呼ばれた小竜は指示に従い治癒を為したが、傍の主の傷はスルーした。ので、背を向けられた青年が薬瓶を取り出すと。
「待て一十、蓋を開けるのは俺が離れてから」
 負傷者が一人逃げた。
「おイ、安否確認いつ行けるんだヨ」
 待ち惚けも出た。


「では此処は任せるからな。しっかり務めろ」
「へいへい」
 被害者を訪ねるという若者達を見送って後、十蔵は荒れた公園を癒す為に舞う。花の散る中、竹光もまた祈った。
 粗方終えて老人は息を吐く。微かに重いそれには、『彼女』の気持ちを解り得るのは同様に年若い者達だけであろうとの思いが交ざる。
「どんなものであろうが『物』は所詮物、ってな」
 彼の声は夜の静けさに吸い込まれて行く。
「それが遺された者を縛りつけるとあっちゃあ、遺した方も辛かろうよ」
 なあ竹光。円い目で先達を仰ぎ見るシャーマンズゴーストだけがそれを聞いていた。

 荒れた町並みを治しながら辿り着いた女性の住居を彼らは訪ねた。
「どちらさまですか」
 呼び鈴に応えた声は物憂げに濁る。夜分ゆえもあり、まずは女性達が自分達の立場と訪ねた目的を明かした。
 招かれた室内には、件の残骸が散乱していた。片付けを始めていたらしく、部屋の中程に毛糸屑を集めた小山がある。作業を手伝いながら事情を語るケルベロスの声に耳を傾ける女性には、外傷や記憶の混乱などは無いようで、であれば良いのだとヴェルセアが頷いた。任された仕事は無事遂げたという事。
 集め終えた糸を前に、女性が束の間手を止める。悩み、迷い、重石に抗う如く彼女の手が、ごみ箱へと伸ばされかけ。
「あなたがこれを大切にしていた。だからあいつらが目をつけた」
 淡々と断じる声がしかし裏腹に、その手の主を慮る。失礼、と大きな褐色の手が彼女の上着に残っていた繊維を掬い上げる。それらは、白い柔らかな手にある可愛らしい巾着袋に移された。宝石か淡雪でも扱うように、そっと。
「……ありがとうございます、手伝ってくれて」
 彼女が口を開いた。視線は床へ。手は、凍り付いたように動かないまま。その様にジエロが嘆息しかけ、今は彼女を萎縮させてしまいかねぬと留める。先程葬ってきた激情の、生まれた元とは思い難い姿に彼は、彼女のものと同じ痛みを知っているからこそ、言葉を紡げない。それは肉体のものと違う、いずれ痛みが薄れる事があったとて、癒えきる事は無い傷だから。
 そして、同じ痛みを知っているからこそ、傷ついた心に寄り添いたいと願う者も居た。
「形見、だもんね。へこむよね、そりゃ」
 何より沈黙が良くないとばかり、声を発したのはエトヴィン。
「けどほら、君の編み物の技術はお母さん譲りなわけだし、それも形見だと思うんだよね」
 聞き手側の準備が足りなければ受け取り得ぬほどの強く明朗な言葉は、けれど、
「だから、君が無事で良かったよ」
 顔を上げた彼女が面食らうほどに、まっすぐな安堵を結んだ。
「これは、元には戻らんかもしれんけど」
 ウーリの指が、口を締めた巾着を撫でる。
「思い出は、無事なんやないかなぁ」
「然り、あなたに遺されたものは物品だけではなかろう。記憶は、捨てぬ限りは在り続けるものである」
 一十の視線が示したのは、戦いなど知らぬ女性の手。だが、たこや擦り傷の痕を幾つも抱えたそれは、彼女とその母がつくったもの。
「今は辛いだろうが、手芸は続けて欲しい」
 その手へナディアが、慈しむように触れた。持ち主次第で幾らでも新しいものを作れる手を、そっと撫でる。
「──形を失くしても、残るものがあると思う」
 ヴィルベルの声は独白めいて。彼女の苦しみそのものを解るとは言えない、だからその届かぬ距離を埋めるかのよう。
「それが何かはきっと、当事者にしか判らない。でも、『そう』なのだと俺は思ってる」
 そうであって欲しいと、声は願望を孕んだ。それが、彼女にも洩らさずきちんと与えられる祝福であれば良い。
 棄てなくとも良いのだと、望まずそうはしないで欲しいと、彼らは願い。一杯に膨らんだ巾着袋がそっと、彼女の手へ返される。
「これがもう要らんようになっても、覚えといたって欲しいなあ。ずっと大事にしてたのは、あんた自身やもの」
「いつか貴女に子供が出来たら、その子の為に作ってやってくれ」
 彼女の母がそうしたように、と。それに小さく頷いた彼女は、真っ赤な目をしていたけれども微笑みを見せたので、ケルベロス達はようやく安心して腰を上げる事が出来た。

作者:ヒサ 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2017年11月20日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 6/キャラが大事にされていた 0
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