追憶の桂花香

作者:七凪臣

●或る秋の日の物語
 畳の上に置いた濃紺の座布団の上に立ち上がり、喜寿も近いと思しき男は顔を歪めた。
「嗚呼、なんてことを……っ」
 開かれた、庭へと続くサッシ窓。
 彼の視線はその先、無残に切り倒された金木犀に注がれている。
「その金木犀は私の人生そのものなのに……私と共に歩んだ樹なのに……」
 押し寄せた悲しみに男はわっと顔を覆い、喉と肩を震わす。ようよう絞り出す声には、例えようのない悲しみが満ちていた。
 そして皺がれた細い指の隙間から垣間見えた、庭一面に無残に散らばったオレンジ色の小花に、彼は激高する。
「分からないだろう! 変わらぬ香りに、過ぎた日々を思い出す楽しみを! それがどんなに、僕の今を潤してくれるか!」
 職を辞し大きな変化のなくなった毎日を、子供の時分から過ごす家で、相応な平穏と共に穏やかに生きている男だった。
 その彼が、突然現れ金木犀を砕き折った『二人』へ、涙を流しながら地の果てまで呪わんばかりの怒りを吐く。
「なんてことを、なんてことを……君らは僕の耀きを奪って何が楽しいん――」
 ぷつり、男の言葉が途切れたのは。とつり、彼の心臓を巨大な鍵が貫いたから。
 代わりに響く、魔女の声。
「私達のモザイクは晴れなかったねえ。けれどあなたの怒りと、」
「オマエの悲しみ、悪くナカッタ!」
 新たに出現させた、金木犀の花で髪を飾った学生服姿の少年と少女の形をしたドリームイーターを前にして、第八の魔女・ディオメデスと第九の魔女・ヒッポリュテは満足を頷く。
 それは冷たい雨の降る、或る秋の日の物語。

●思い出の在処
 誰にでも大切にしているものが一つや二つはあるだろう。
 相模弘嗣にとってのそれは、小学校卒業の折に記念樹として貰った金木犀だった。
 彼にとってこの金木犀は自身の成長記録であり、思い出の在処でもあり。同時に、傘を被ったように整えられた姿と優しい甘い香りは、妻や子、嫁や孫たちに自慢できる誇りでもあった。
「相模さんの大切な金木犀を折って滅茶苦茶にしたのはパッチワークの魔女――第八の魔女・ディオメデスと第九の魔女・ヒッポリュテです」
 大切なものを破壊される事で生じる『悲しみ』と『怒り』を奪い新たなドリームイーターを生み出す魔女が起こす事件を語るリザベッタ・オーバーロード(ヘリオライダー・en0064)の表情は、憂いに沈む。
 何故なら、少年にも弘嗣にとっての金木犀と同じ品があるからだ。
 否、大凡の人は持っているのではないだろうか。懐かしさや優しさ、様々な記憶の拠り所となるものが。
 ともあれ生み出されたドリームイーターは二体。悲しみを表すセーラー服を纏う少女の姿をしたものと、怒りを表す詰襟学生服を身に着けた少年姿のもの。
 まずは悲しみのドリームイーターが金木犀を破砕された悲しみを語り、その悲しみを理解できなければ怒りのドリームイーターが怒りで以て相手を害す。対になる二体は戦いにおいても密な連携を取り、怒りは前衛を、悲しみは後衛を務めるのだとか。
「皆さんには、この二体のドリームイーターが一般の方々を襲う前に撃破して頂きたいのです」
 二体のドリームイーターが居るのは、弘嗣が住む家の庭先。
 典型的な日本家屋である弘嗣宅は広い庭を有し、ドリームイーター二体を相手取って戦うには十分。
「お庭を乱すのを厭うのであれば、面した道路まで誘導するといいでしょう。田園地帯にあるお宅なので、車や人の往来を気にする必要はありません」
 折しも冷たい雨が降っている。
 多少の衝撃音が響いたとて、近隣住民がわざわざ見に来ることはない。
「少女型の方は金木犀の涙を流し、悲しみを呪いの歌に変え、甘い囁きを癒しとします。少年型の方は金木犀の枝を剣として襲い掛かって来ると思われます」
 必要な事柄を語り終え、リザベッタは眉尻を下げて微笑む。
「藍染さんが危惧されていた通りになってしまいましたね」
 金木犀の降る雨日和。
 涙の雨も降るかもしれない。
 現実になってしまった藍染・夜(蒼風聲・e20064)の愁いを共に嘆き、リザベッタはケルベロス達をヘリオンへと案内する。
「せめてこれ以上の被害が出ないよう……皆さん、宜しくお願いします」


参加者
シャーリィン・ウィスタリア(月の囀り・e02576)
ケイト・クリーパー(灼魂乙女・e13441)
伽羅楽・信倖(巌鷲の蒼鬼・e19015)
藍染・夜(蒼風聲・e20064)
デニス・ドレヴァンツ(花護・e26865)
カロン・レインズ(悪戯と嘘・e37629)
鮫洲・紗羅沙(ふわふわ銀狐巫女さん・e40779)

■リプレイ

●冷たい雨
 橙色の小さな花は、星屑にも似て。樹を慈しむ想いと交われば、織り成される心柔いアラベスク。
(「それを微塵にするとは無粋も甚だしい――」)
「妖しが幾ら嘆いて見せども其の感情は彼のもの。もはや取り戻せぬ樹の生を貴様の死で以て償え」
 なんてことを、なんてことを。そう繰り返す少女が門扉を抜けたのを見計らい、藍染・夜(蒼風聲・e20064)は銀の槌に宵の軌跡を描かせ竜の砲弾を放つ。
 風に乗る秋の香に、癒される者は多くいただろう。まして長く寄り添い生きた者なら言わずもがな。
(「こういう輩は許せぬ」)
 他人が大事にするものを踏み躙る行為を厭うガイスト・リントヴルム(宵藍・e00822)は、込み上げる怒りを身の内に凝縮させ雨に陣笠を放ると、足を止めた少女に掴みかかり、漆黒纏う右手を容赦なく呉れてやる。
 衝撃に赤いリボンを靡かせ華奢な体躯が小枝のように飛び、水溜を跳ねさせた。立ち上がる顔やセーラー服は、泥に塗れる。
(「……二度も踏み躙るか」)
 金木犀を髪に飾る夢喰いを見据えるデニス・ドレヴァンツ(花護・e26865)の紫瞳に、苛立ちが密やかに滲む。この『敵』は金木犀を手折る凶行に加え、温かな想い出を紡ぐ姿で弘嗣の内側を汚しているのだ。情け知らずな行いに酬い、デニスは古の言葉を繰って呪いの光を発し、
「信倖、任せる」
 枝の剣を掲げて駆けて来た少年を伽羅楽・信倖(巌鷲の蒼鬼・e19015)に託す。
「嗚呼」
 応えは短く。前へ前へと走り乍ら左腕から長手甲を外した信倖は、青い地獄の炎を棚引かせて突撃を受け止め、貫かれる痛みを磊落に笑うと、両足と竜の尾で地面を強く踏み締め肉裂く牙の豪剣で叩き潰し返した。
「こんな真似して何が楽しいんだ!」
「ひどい、ひどい」
「わたくし達にお任せ下さい――ネフェライラ」
 怒りを吼えた少年を継ぎ少女がほろり零した涙に、薄翅が如き翼を広げ竜の娘――儚げな人の形を成したシャーリィン・ウィスタリア(月の囀り・e02576)と、彼女に従う冥府の神を思わせる箱竜が我が身を盾とする。
「助かる」
「いいえ、役目は同じですから」
 信倖から送られた礼へは睫毛をけぶらせ、シャーリィンも信倖を倣い虹煌かす蹴りで少年の気を惹く。その間にネフェライラは少女の前に立ち塞がると、そこから己が夜の属性を信倖へ注ぎ込む。
 信倖とシャーリィンが少年を抑え込み、他で一気に少女を殲滅する布陣。
 最前線に立つ者らへヒールドローンを飛ばしつつ、ケイト・クリーパー(灼魂乙女・e13441)は少年が振るう剣を目に、無の表情の裡で罪を詰った。
(「――イラつかせてくれるでございます。ソレはそんな扱いをしていいモノじゃないでございましょう」)
「疾く砕け散れ、残酷の夢幻――さぁ、戦争でございます!」
 冷たい雨にも奪われぬ熱を帯びたケイトの宣誓を、人の頭にぴんと立たせた耳に忍ばせ、溢れさせた巫力に銀の髪をふわり揺らめかす鮫洲・紗羅沙(ふわふわ銀狐巫女さん・e40779)は攻性植物に金の果実を実らせる。
 今回の敵は、紗羅沙の一番嫌いなタイプ。人の大切なものを奪い、あまつさえ自分の欲望の為に貪るなどと。
(「正直、愉快ではありませんね~」)
 紗羅沙の人を和ませる笑顔も、曇らざるを得ない。
 降り頻る雨に疾駆するケイトのライドキャリバー、ノーブルマインドも濡れる。
 ――まるで、弘嗣さんの涙のようです。
 心まで凍て付かせそうな滴を兎の姿に受け止め、カロン・レインズ(悪戯と嘘・e37629)は黒鎖で少女の身を縛り上げ。少女を少年が振り返ろうとした処を、宝石箱のようなミミックのフォーマルハウトが齧りつく。
「なんてこと、なんてこと」
 繰り返される悲哀に、一際濃い金木犀の香りが漂った気がした。

●追憶の桂花香
 これ以上、弘嗣の庭を乱したくはなかった。故にケルベロス達は二体が弘嗣宅の敷地を出角を待ち、迎撃掃討戦を開始した。
 一帯には、雨に押し流されたように金木犀の香りが漂う。無残に散らされた花の、最期の抗いのように。
「――推して参る」
 空を斬る剣閃で翔龍を生み、その鋭い爪牙が過去の幻影たる少女の喉首に喰らい付く様を金の眼で捉え、ガイストはクンと鼻を鳴らした。
 羽織る衣を一枚重ねる頃になると、よくよく鼻先を擽る香り。住宅街で出逢うと、匂いの元を探して首を巡らせる事も多い。
 大抵は何処ぞの庭で、その身を愛らしい橙色の小花で飾っている。或いは、小路に散らばる小星で、頭上の華やぎを教えられる事もある。
(「整えられた庭に咲く金木犀は趣があって好い」)
 雅を解さぬ武骨な竜の漢の胸さえ、温かなもので満たす花と香り。ならば庭主にとってはどうか? 答は考えずとも導き出せる。
(「彼の苦痛は、果たしてどれほどのものだったでしょう……」)
 伝え聞かされただけで、カロンの胸は締め付けられるようだった。
「大切なものって、失ってから初めて気付くんですよね……。私も時々、過去に戻れたらって思うことがあります」
 夢喰いへ偽りの耀きを撒くフォーマルハウトと射出した小動物とを同じ視界に収めて、カロンは少し勢いをなくした耳に感情を表す。
 夢喰いを屠ろうとする手は休めない。けれど放つ技の一つ一つに、苦さと痛み、怒りが滲む。度合いは其々。ケルベロスになって一か月の紗羅沙にとっては、怒りが一番だった。
(「色んなデウスエクスを見てきましたけど、今回の敵は一段と許せませんね~」)
 独特な間合いで運ばれる言葉は長閑でも、人の大事なものを眼前で奪っていくモノに対し燃やすものは紅蓮。
(「お姉さん、のんびりしてるって言われますけど~」)
「これだけはハッキリとわかります。邪悪というものは、『自分の欲望の為に、何の罪もない人を踏み躙って弄ぶ者』です」
 だからこそ、私も邪悪に立ち向かえる一人として、恐怖よりも戦える誇りが勝るのです!
 毛並豊かな自慢の尻尾が濡れて萎んでも、紗羅沙の心は凋まず。凛と背筋を伸ばした銀狐の巫女は、九尾扇を振るい仲間へ癒しを届ける。

「奪うだけではなく、それを刃として利用するか――敵ながら感心する趣味の悪さだな」
 巣食わせた怒りで少年の攻手を搦め取った信倖は、襲い来る枝刃を一瞥し、きっぱりと言い捨てた。
 形あるものは、いつか失う運命にある。とは言え、こんな形で失いたくなどなかっただろう。
 思う所はある。が、何を押しても邪悪は絶たねばならぬ。
 そして信倖と肩を並べて少年を相手するシャーリィンも、たおやかな姿の裡に断罪の念を飼う。
 常に身に纏う程、シャーリィンは藤の花を慈しんでいる。それが散らされるという事は、彼女にとって、胸に残る僅かな矜持を穢されるのと同義。
 大切なものを壊され憤るのは、物であれ人であれ――思い出であれ、愛情を注いでいるから。時に怒り、憎しみを抱くくらいに。
「弘嗣さまの『たいせつなもの』を穢さないでちょうだい」
 花に切なる願いを託す者として、弘嗣を解する女は敵を討つ。

 香気を帯びた雨が、ケルベロス達を濡らす。挙措の一つ一つにくゆる匂いに、かつて廃棄個体とされたケイトは原初の記憶を揺さぶられる。
 レプリカントとして目覚めた鉄屑の丘の上。そこから見上げた蒼穹は、彼女の記憶回路に鮮やかに焼き付いた。
(「もしソレが穢されたなら――赦せない」)
「ぶちかますでございます、相棒!」
 ノーブルマインドに唸りを上げさせ、ケイトは溜めた気力を傷付いたシャーリィンへと送り、戦線維持に尽力する。
 かつて機械であった者も、『心』を揺さぶられる戦場。しかしただ一人、夜だけは空虚と希求を裡に収める。
 夜が幼少時を過ごした住処にも、花溢れる庭があった。目を閉じれば、香る桂花を思い出す。
(「だが私に、懐かしむ思い出は無い」)
 おもかげに、落ちる人影は夜のもの一つ。他には誰も居ない。
 ――嗚呼、嗚呼。人を強くも、弱くもするという心を、知りたい。
 欲するモノはあれど、それを夜が貌に出す事はなく。代わりに、薙ぐ刃に力が乗る。
「更なる禍を呼ぶ前に、愁いを断ち。雨後の虹を待とう」
「そうだね」
(「自分にとっての大切――壊され、踏み躙られた瞬間の絶望と虚無」)
 鍛え上げた剣閃で嘆きの少女を凍てさせた夜の展望に、耐え難きものを思い描きデニスも頷く。
(「雨は――誰かの泪であるのだろう」)
 彼か、君か、或いは――。
 それでも、折れず。前を向いて生きていくのもまた、人だから成せる事。止まぬ雨がないように。
「だから君らには消えてもらうよ」
 妻が残した娘をこよなく愛するデニスは、少女の形をしたものへ、迷わず銃口を向けた。

●穢れ祓い
 可及的速やかに少女を撃破したケルベロス達は、殲滅対象を残りの一体へ移す。存外、動きの速い少年は、向けられる牙を器用に躱しもした。だが彼の意思は信倖とシャーリィンに縛られたまま。
「紗羅沙様、ご助力をお願いでございます。轟と燃えろ我が魂、その輝きを知らしめろ――! 回れ、燃ゆる魂の歯車よ。轢き潰せ、向かい来る攻勢の尽くを!」
 燃え立つオーラで模った巨大な歯車は盾と化し。
「お任せ下さい~、ケイトさん。これは護摩符のちょっとした応用なんですよー、可愛いでしょう?」
 愛らしいアザラシの形をした式神が、退魔の力を付与する。
 直前で痛手を被った信倖へ、二人の癒し手が費やす回復は不足なく。かくて信倖とシャーリィンが時間を稼ぎ出す為に失う余力をケイトと紗羅沙が補う事で、戦線は盤石を保ち続け。いよいよの時へ至る。
「さぁ、これが終いでございます」
 命運が決する瞬間を読み、ケイトはシャーリィンへ内なる蓄積を注いで満たす。
「ありがとうございます」
 癒し切れないダメージは確かにシャーリィンを蝕んでいる。だが残滓の余韻を感じさせず、シャーリィンは藤花を揺らし、足止めではなく滅する意図で葬送を司る女神の名を冠す聖斧を少年の頭上へ叩き付けた。
「許さない、許さない!」
 怒りを吼える少年をノーブルマインドが撥ね、ネフェライラがブレスを吹き掛ける。
「くそっ、酷い事をっ」
「……酷い事をしたのは、あなた達です」
 彼らが繰り返すのは弘嗣の言葉だと分かりつつも、カロンは矛盾を指摘し。意を決したように、誘いを紡ぐ。
「夜の空を見てごらん」
 直後、一帯が仮初めの宵の帳に包まれた。
「星が綺麗だとは思わない?」
 少年が空を振り仰ぐ事はなかった。けれど道を示すが如き光が、デウスエクスの身を貫く。
「あ、あ、あ……っ」
 カロンに続きフォーマルハウトにも食まれた苦痛に悶える少年を目に、弘嗣の怒りと悲しみまでも浄化されるよう紗羅沙は祈る。
「許さない、ゆる、さ、なっ」
 金木犀の枝の剣を手に、少年は足掻いた。
「手にした枝が泣いている」
 しかしそれがそもそもの間違いなのだと、夜は鋭く踏み込む。
「剣の聲が聞こえぬなら振るう資格など有りはしない」
 ――樹と希望を微塵にした報いを受けて散れ。
 白鷹翔。持つ名の通り、天を統べ空翔ける鷹が獲物を狙うが如き刃の閃き。そしてここより葬送の終局が幕を開ける。
(「……もしや、故郷にも咲いていたのであろうか」)
 幼い頃より知る香りに、ガイストの脳裏に一つの幻影が浮かんだ。それは庭主の気持ちに重なる、焼き払われ無残な姿となった郷里。だがガイストはかぶりひとつで感傷を振り払う。
 彼にとって、それはそれほど儚きもの。
 だが拳に籠る熱は変わらず。許せぬと思った相手へ、ガイストは渾身の一撃を呉れてやる。
「さぁ、終わりにしよう」
 ガイストの重い拳を喰らい足元が覚束なくなった少年の懐へ、デニスが走り込む。
「――味わってみるか?」
 訊ねはしても、逃がすつもりは微塵もない。デニスは無月の影より月を思わす銀狼を招き、その爪でモザイクの体を粉砕せしめた。
「ひど、い……ゆる、さ……なっ」
「そうか。ならば邪念ごと祓ってやろう」
 まるで、舞。石突に蒼の宝玉を飾った身の丈程ある片鎌槍を軽やかに捌き、信倖は夢喰いへ迫る。
 原型を失いかけた様は、風前の灯そのままに。信倖の一挙手一投足に揺れて、雨を吸い。
「散るがいい」
 雷奔る突きを胸に受け、弘嗣の思い出を写し取ったデウスエクスは髪に咲かせた花を散らして無に帰す。
 残ったのは、放り出された枝と花と香り。だがそれらも雨に溶けるよう、形を失う。
(「桂花よ、」)
 伸ばした指先に落ち、そして消え逝く花を見守り、夜は祈った。
 ――高天原で再び咲き誇れ。

●光る残香
「また来年も花が咲くように……」
 四方に金木犀の枝や花が散らばる庭は、哀れな様で。今の自分に出来る精一杯をと紗羅沙がヒールを施そうとする――が、力が結実する前にカロンが「少し待って下さい」と留める。
「相模さんにお伺いしてからの方が良いと思うんです」
 カロンの言葉に、信倖も是を頷く。何故なら、ヒールは完全な修復ではないから。現実に虚構を混じらせてしまう。以前と同じを望むなら、避ける者も存在するのだ。
「その時は押し花なり、形として残す事は出来る。それに――」
 形は失えど、思い出は消えない。
 信倖が示す真理は、デニスも同じ。
「紗羅沙もそれでいいかい?」
 デニスの紳士な気遣いに、紗羅沙は陽だまりのように微笑む。
「ありがとうございます。また一つ、勉強になりました~」

 目覚めた弘嗣は、ヒールによる金木犀の修復を望まなかった。でも放置するのは忍びなく。ガイストの提案で、自らの手でケルベロス達は弘嗣の庭を片付けることにした。
 枝は拾い、絨毯を敷き詰めたような花はそのままに。
 すみません、と、ありがとう。二つを繰り返しながら涙を堪えられない老翁の為に、シャーリィンは祈る。
(「いつか……きっと。零れ落ちるのが、涙ではなく」)
 優しい香りを纏う、金色の星屑の花が彼を癒すみたいに。思い出が、心の中で咲き続けるように。彼女の願いは、弘嗣の背に手を添え続ける夜もまた。
「香袋や、小瓶に入れて楽しむ事も出来るよ」
 集めた花たちを、夜は弘嗣へ己が温もりを分かちながら差し出す。
 幾年の情を奪われた無念が、雨に洗われ昇華されればいい。弘嗣が忘れぬ限り、香りの記憶はきっと枯れることはないから。
 それに――。
「ほら、空一面に咲いたよ。金色の、花だ」
「ああ……本当だね」
 振り仰ぐと、雲間から金色の夕日が花降らすように光の梯子を降ろしていた。
「綺麗ですね」
「えぇ、本当でございます」
 雨上がりの光景にカロンは感嘆を零し、ケイトは濡れた髪をかき上げる。その一本一本にまで、金木犀の香りが優しく沁みていた。

 弘嗣から譲り受けた一枝を手にガイストは帰路につく。
『我も心を穏やかにする金木犀は好きだ』
 示した好意に弘嗣が破顔したのをガイストは思い出し、厳つい顔を僅かに緩める。
 枝についた花が漂わす香りは、晴れ渡る明日を予感させるものだった。

作者:七凪臣 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2017年11月1日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 2/キャラが大事にされていた 5
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