二藍の奏弓

作者:犬塚ひなこ

●紫炎の導き
 夜のしじまに響くのは美しく繊細な音色。
 月光が射す最中、青年は次の演奏会に向けて日々秘密の練習を重ねていた。家では無理をするなと止められてしまう故、街外れの人気のないこの辺りは絶好の練習場所だ。
 しかし、彼の人としての生は其処で途切れることになる。
「な、なんだ、この炎……」
 突然、紫色の焔が燃え上がったかと思うと青年の身体を焼き尽くしはじめた。
 無残に焼け焦げたバイオリンが地面に落ち、空虚な音を立てて壊れる。それと同時に青年もその場で呆気なく息絶えた。そして、倒れた彼を見下すのは炎彩使いと呼ばれるシャイターンのひとり――紫のカリム。
 紫のカリムは怪しく笑み、紫炎を操る。
 すると死したはずの青年が巨躯のエインヘリアルとして蘇った。
「あなたには素晴らしい音楽の才能がある。人間にしておくのは勿体ない程の……。だから、これからはエインヘリアルとして……私たちの為に尽くしなさい」
「はい、カリム様の仰せのままに」
 片膝をつき恭しく頭を下げた彼は立ち上がり、命じられるがまま夜の街へと向かってゆく。その手には魔力に満ちた武器として生まれ変わった禍々しいバイオリンと、鋭さを宿す弓が握られていた。

●弓奏
 やがて、街に辿り着いたエインヘリアルは破壊の限りを尽くす。
 集ったケルベロス達に向け、そのような未来を視たと語った雨森・リルリカ(花雫のヘリオライダー・en0030)は仲間達に阻止を願った。
「事件の要因になったのは炎彩使いと呼ばれる有力なシャイターンのようです」
 そのうちのひとりである紫のカリムは自分が放つ炎で音楽大学に通う青年を襲い、エインヘリアルに変えてしまった。巨躯のデウスエクスに変貌した彼はグラビティ・チェインが枯渇した状態らしく、人間を殺して力を奪おうとしている。
「一度は死んでしまった彼を本当の意味で救うことはできませんが……これ以上の被害が出る前にとめることはできますです!」
 急ぎ現場に向かって暴れるエインヘリアルの撃破をお願いしたいと告げ、リルリカは状況の説明をはじめた。
 エインヘリアルは一体。
 紫のカリムは既に何処かに消えてしまっているので、相手取るのは彼のみとなる。
「今からすぐに向かえば、エインヘリアルが街に向かおうとする直前……生前の彼がバイオリンの練習をしていた廃墟前で迎撃することができます」
 其処は元から人が寄り付かない場所なので周囲の目や気配は気にしなくても良い。相手もグラビティ・チェインを欲しているのでケルベロスの力を奪おうと襲い掛かってくるだろう。だが、万が一に敵を逃してしまうと街に被害が出るので確実に倒さなければならないとリルリカは告げた。
 エインヘリアルは魔に染まったバイオリンを武器として、星の力を行使して戦う。
「敵は楽器の演奏に使う弓を振り回したり、攻撃と回復の音色を奏でたりして襲ってきますです。皆さま、十分に気を付けてくださいませ!」
 しかし、仲間達全員が力を合わせて戦えば勝てない相手ではない。心配はしてないと伝え、リルリカは説明を締め括る。そして、そっと瞳を伏せた。
「バイオリンを振り回して戦うなんて、きっと生前の彼には考えられなかったに違いないです。どうか、大切だった楽器が血で汚れる前に……」
 彼を屠り、死という救いを与えて欲しい。
 そうすることでしか助けられないのだと語り、リルリカは番犬達を強く見つめた。


参加者
イルヴァ・セリアン(あけいろの葬雪花・e04389)
レイラ・クリスティ(蒼氷の魔導士・e21318)
神居・雪(はぐれ狼・e22011)
リノン・パナケイア(保健室の先生・e25486)
詠沫・雫(海色アリア・e27940)
鴻野・紗更(よもすがら・e28270)
ダンサー・ニコラウス(クラップミー・e32678)

■リプレイ

●夜に弓音
 月の光は宛ら、戦場という舞台を照らすスポットライトのよう。
 静かな夜長。この季節に相応しい南瓜のランプを掲げ、ダンサー・ニコラウス(クラップミー・e32678)は目の前の影に呼び掛ける。
「おはよう、あなた。今日はあなたの最後の音楽会かも」
「何だよ、お前ら。邪魔だな……」
 ダンサーが見つめる先に立っていたのはひとりのエインヘリアル。バイオリニストとしての未来があったはずの元人間。しかし彼は今、生前とは似ても似付かぬ巨躯のデウスエクスに変貌している。
「見つけましたよ、エインヘリアル」
「御機嫌よう、ここで止まっていただきます」
 レイラ・クリスティ(蒼氷の魔導士・e21318)とイルヴァ・セリアン(あけいろの葬雪花・e04389)は決してこの先へは進ませないと進路上に立ち塞がる。リノン・パナケイア(保健室の先生・e25486)も佇み、敵の姿を見据えた。
 鴻野・紗更(よもすがら・e28270)も彼が元はただの大学生であったことを思い、至極残念そうに肩を落とす。
「生前は、それはそれは技巧凄まじい音を奏でる弾き手であったのでございましょう」
「もうコイツは助けようがねぇんだよな……」
 神居・雪(はぐれ狼・e22011)も拳を握り、救えぬ命があることを噛み締めた。胸の裡は苛立って仕方がないが、雪は自分にもやれることをやるしかないと心に決める。
 するとエインヘリアルはバイオリンを構えた。
 それはまるで剣を扱うかの如し。とてもではないが繊細な楽器の弓を持つ様子には見えず、シュリア・ハルツェンブッシュ(灰と骨・e01293)は眉を顰める。
「楽器の正しい使い方ってのはちゃんと学ばなかったっていうのかい?」
 皮肉交じりにシュリアが言い放つと敵は怒りを露わにした。
「ごちゃごちゃと煩い奴らだ。仕方ないな、手始めにお前達の力を奪ってやろう」
 高慢な物言いで反発するエインヘリアルが構えた刹那、乱雑な、それでいて妙に心を惑わせる音色が響き渡る。
「気を付けてください、痛ましい音が来ます」
 はたとした詠沫・雫(海色アリア・e27940)は敵が先手を取ったことを悟り、瞬時に地を蹴った。後ろはお願い、とボクスドラゴンのメルに願った雫に続き、雪はライドキャリバーのイペタムに跨る。
 その瞬間、レイラやリノン、ダンサーに向けられていた音色の衝撃が雫と雪達によって防がれた。イルヴァは即座に行動した仲間達に信頼の眼差しを向け、自らも加護の力を顕現させてゆく。
「あなたが炎に依って悪意に身を染められたならば――わたしのもたらす冬は、それをあるべき姿へと還す力となりましょう」
 イルヴァはレイラに向けて破壊のルーンを宿し、魔術加護を打ち破る力を与えた。
 その間にシュリアが敵に肉薄して拳を振り下ろす。鋭い痛みが相手を穿ったが、すぐに敵は身構え直した。
 手強いと感じたシュリアと雫は改めて気を引き締める。
「貴方の周りにはどんな音が溢れていたのでしょう。楽しい音? それとも――」
 憎らしい音でしょうか、と呟いた雫はエインヘリアルの姿を瞳に映した。
 きっとその答えはもう知ることができないけれど、貴方に悲しい音を紡がせはしない。その為に引導を渡すと決め、番犬達は意志を強く持った。

●蒼の奏
 張り詰めた弦に弓が添えられ、妖しい調べが奏でられる。
 敵が自分を癒したのだと察した紗更は仲間に目配せを送り、地面を蹴った。
「いざ、参りましょうか」
 裡に宿る重力を破壊の力に変え、紗更は鈍い灰緑色の如意棒を振り下ろす。敵に巡った加護までは壊せなかったが、その一閃は的確だ。
 その間にリノンが仲間の援護を行い、イルヴァとダンサーが敵を挟撃する。雪が鋭い矢を放ち、イペタムが突撃していく機に合わせてメルが仲間に蒼き海の力を施した。
 更にシュリアが竜爪の一閃を放ったが、敵は身を翻して躱す。
「何だ、大したことないじゃないか」
 軽口を叩いたエインヘリアルは不敵に笑み、振り上げた弓で以て雪を穿った。激しい痛みが彼女を襲ったと気付いたレイラは皆に呼び掛ける。
「……! かなり強烈な攻撃です、皆さん、気をつけてください」
「これは暫く回復に徹した方が良いな」
 肩を竦めたリノンは溜めた気力を雪へと巡らせた。足りぬ分はシャーマンズゴーストのストーカーが受け持ち、仲間を支える。
 癒しを受けた雪は礼を告げ、弓を振るった敵を睨み付けた。
「その手に持ったのは武器じゃねぇだろうがっ!!」
 怒号と共に反撃に移った雪は心を貫く光矢を放つ。矢を放つ弓と楽器を奏でる弓。同じ名でも片方は音を生み出す為のものだ。
 こくりと頷いたダンサーも追撃に移るべく戦場を駆ける。
「あなたの音楽では踊れないかも」
 淡々と紡がれた言葉の一瞬後、振り上げられた竜槌から轟く砲撃が繰り出された。ダンサーが身を翻して射線をあけ、黒の瞳を雫に向ける。
 それが合図だと気付いた紗更が鋭い一閃で斬り込み、雫も身構えた。そして雫は花唇をひらき、歌を紡いでゆく。
「――水を起こす、詠」
 詠唱詩が夜の昏さの中に揺れた刹那、仇なす者を縛る大蛇の水流が現れた。オケアノスの名を抱くそれは捕われながらも激しく迸り、敵を穿つ。
「く……うざったいな」
 ち、と舌打ちをした敵は水の大蛇を何とか振り払った。そして、彼は昏い星を思わせる音色を奏で返す。
 雫がしかと音を受け止める最中、シュリアはその横を擦り抜けて駆けた。
 感じたのは音の歪みと禍々しさ。痛みは響いても心には響かないと断じ、シュリアは竜槌を振りおろした。
「耳を澄ませろ。その楽器の悲鳴を、本当の音色を」
 音楽があれば人は陽気に歌い踊る。きっと彼も素晴らしい腕を持っていたのだろう。だが、今は違う。勿体ねぇよな、と呟いたシュリアは噴射した竜の力を使って一気に後退し、いちど敵から距離を取った。
 レイラは仲間の声を聞き、その通りだと僅かに俯く。
 しかしすぐに顔をあげたレイラは翼を広げ、手にした杖に魔力を込めた。
「このまま次々とエインヘリアルにさせるわけにはいきません!」
 たとえ彼は救えずとも、この先の被害だけは食い止めたい。願うレイラは雷撃を巻き起こし、標的の動きを縛り付けた。
 其処に生まれた一瞬の隙を狙い、イルヴァは腕の杭打機を大きく掲げる。彼を相手取ることに戸惑いがないと云えば嘘になる。
 それでも、とイルヴァは凍気をその身に纏った。
「人々の魂も、心も、命も――悪辣なデウスエクスの思うままにはさせません」
 この力は人々を守る為のもの。未来に危機が迫っているのならば世界の敵となった彼は屠るしかあるまい。
 華麗に敵を翻弄して敵の後ろに回り込むイルヴァ。氷の衝撃が容赦なく与えられていく処へ、ダンサーが放つ蹴りが炸裂する。その後ろではカメラを構えたストーカーが流星を思わせる少女の蹴りと肢体を余すところなく撮影していた。
「ダンを撮ってないで癒して欲しいかも」
 指示をしたダンサーの願いに応えたストーカーは祈りを捧げる。紗更もさらなる攻勢に入り、一瞬で敵との距離を詰めた。
「少し、痛いかもしれませんね」
 掌に重力鎖を集わせた紗更はそれを白い花へと変え、ひといきに敵を貫く。
「痛ッ……何をするんだ、愚民共が!」
 紗更が告げた通り、かなりの衝撃を受けたエインヘリアルが呻いた。雪は生み出されたばかりの敵が戦い慣れていないと悟り、イペタムの背を蹴りあげて跳躍する。
「ったく、口の悪ぃ野郎だな」
 敵の言動に呆れながらも雪は素早く真後ろに着地した。瞬刻、敵が反応する隙すら与えぬ破鎧の衝撃が叩き込まれる。
 だが、敵も月の調べを奏でて自らを癒した。
 雪達が果敢に戦う様を見つめ、リノンは再び加護の魔法を紡いでいく。
「――力を」
 短い言葉の後に巡った力は仲間達が持つ呪の力を高めていった。リノンは静かに戦況を見極め、自分達の有利を悟る。
 そして、夜の狭間で繰り広げられる戦いは更に巡っていく。

●終止符
「ああ、腹が立つなあ! 何で僕がこんな目に……!」
 戦闘の最中、苛立つ男は感情を露わにして叫んだ。
 シュリアは敵が逃げぬよう、ダンサーやレイラと共に標的を囲い込む。
「さぁ……骨の髄まで楽しもうぜ?」
 戦いを愉しめば、後に待つのは灰となるだけの未来。八重歯を見せてニヤリと笑ったシュリアは気咬の弾を次々と撃ち放った。
 痛みに喘ぐ敵は再び癒しの音を奏でようとする。鋭い洞察力でそれを察したイルヴァは仲間へ呼び掛けた。
「紗更さん、リノンさん、お願いします」
「承知いたしました」
「ああ、分かった」
 彼等は加護を打ち砕く力を持ち、すぐに攻撃に移ることのできる二人。イルヴァの声に応えた紗更とリノンは其々に狙いを定める。
 リノンによる電光石火の一撃、そして紗更が放つ重力鎖。それが敵を貫く瞬間を見極め、雫は魔斧を強く握り締めた。
「あの方の奏でる音はまるで狂詩曲のようです。けれど……」
 妙に心がざわつきます、と呟いた雫は首を横に振る。そして、雫は海色の眸を細め、ひといきに駆け出した。黒く長い髪を靡かせ、刃を振り下ろした雫の一撃が重く響く。
 紗更は次の機会を窺い、敵を観察した。
「性質に関わらず、技巧と云うものは音に出るものです。ですが、今の彼にはそのような面影はなく……ただ、殺戮の魔と成り果てております」
「黙れよ、クソ共が!」
 すると怒りを湛えるエインヘリアルが激しく頭を振る。その瞬間、鋭い弓の一閃がシュリアに向けられた。しかし、すぐさま雪が飛び出して攻撃を肩代わりする。
「口が減らねぇってのはこういうことか」
 敵の悪口雑言に肩を竦めた雪はイペタムに攻撃を願い、自らの痛みを癒す力を顕現させた。豊かな恵みを与えるカムイの力が廻っていく中、ライドキャリバーは激しいスピンで敵を巻き込む。
 畜生、と悪態を吐く敵に、レイラは微かな口惜しさを覚えた。
 高慢だったとしても才能は本物。魔の手を逃れれば素晴らしい演奏者になれただろうことを思うと残念でならない。だが、彼に平穏な未来は訪れない。それならば、と気を引き締めたレイラは跳躍の勢いに乗って空へ飛翔した。
「足止めします、今のうちに畳みかけましょう!」
 天空から落ちる星のように繰り出されたレイラの蹴撃が敵の動きを阻む。頷きで応えたダンサーも仲間に続き、蹴りの一閃を見舞った。
「乱暴に奏でては駄目。弦が切れて、やがて途切れてしまう」
 ――まるで死にむかう命のよう。
 敵の音色をそう評したダンサーは黒い瞳に敵を映した。
 敵は傷付き、弱り果てている。
 逃走の懸念もあったがリノンや雫、紗更が気を張っているので万が一でも阻めるだろう。シュリアは仲間に信頼を抱き、終わりに向けて力を溜める。
「お前は人生を選択し、楽器で人を殺すこともできるが……楽器は主人を選択できねぇ、可哀想なお役目だよな」
 同情にも似た思いを言葉に変えたシュリアは一気に攻め込んだ。
 放つは閃光の銀。拳で叩き込まれた幻想は敵の脳を犯し、夢を視させた。それは舞台上で素晴らしい音楽を演奏する青年の未来。だが、所詮夢は夢。
「もっと演奏、したかった……」
 痛みに苦しむ彼が零したのは本音だったのだろうか。だが、その願いを叶えてやることは出来ない。
 イルヴァは唇を噛み締め、痛む胸を押さえた。
 生前の彼がどんなひとであったとしても、旋律に乗せた情熱と夢、想いは真実であったはずなのに。でも、それはもう戻らぬもの。
「せめてその旋律が血を帯びて歪む前に――」
 影の如き斬撃で敵を斬り裂いたイルヴァは心の裡で終幕を願う。
 雪は仲間の心情を肌で感じながらも、容赦も手加減も出来ないと拳を握った。
「イペタム、来い。一気にやっちまうぜ!」
 その呼び掛けに応じたライドキャリバーが主を乗せて疾走する。激しいエンジン音に乗せて雪が破衝で敵を貫いた。
 敵も最後の足掻きとして弓で雪を殴打し返す。だが、すぐに動いたリノンが満ちた気力を施して癒しにまわった。リノンは無言のままだったが、その援護は終始的確だ。
 そしてレイラは華麗に杖を回し、その先を地面に突き刺す。
「ここまでです。この場で果てて頂きます」
 ――無慈悲なりし氷の精霊よ。
 詠唱の直後に敵の真下に巨大な魔法陣が展開され、巨大な水柱が現れた。無慈悲な衝撃がエインヘリアルを襲う最中、雫とメルは最後の一撃を与えに向かう。
「終曲はもうすぐ。悲しい音はもう、終わりにしましょう」
「ね、本当のあなたはどんな音色?」
 ダンサーもストーカーを伴い、光の剣を振りあげた。無論、その問いかけの答えは期待していない。雫とダンサーによる連撃、そして匣竜と祈祷霊の連携が敵を貫いた。
「これまで、か」
 膝をついて呻く敵の命もあと僅か。紗更は掌に白き花を集わせ、終焉の一撃を見舞おうと決める。
「この結末が彼への、せめてものはなむけになりますことを信じて……」
 刹那、辛夷の花が周囲に散り、そして――。

●歪む音
 夜の闇にとけ消えるようにエインヘリアルは崩れ落ちた。
「どうぞ、おやすみなさいませ」
 その体が消滅していく最中、紗更は静かに瞳を閉じる。瞑目する彼に倣ってリノンも元は人であった彼を思い、沈黙した。
「シャイターン、かなり暗躍を続けておりますね……」
 レイラは真なる敵の行動について考え、傷ましさを覚える。イルヴァに頷き、これ以上の被害が出ぬよう願った。
「あなたが奏でた最期の旋律、わたし達が覚えていますから」
「同じく音楽を愛するものとして、貴方というバイオリニストがいたことを私は絶対に忘れません」
 イルヴァが両手を重ねて祈る姿に倣い、雫も青年へ送る言葉を紡ぐ。彼女の傍らにはメルがそっと控えていた。
 ダンサーは感情の揺らぎが薄い瞳で虚空を見つめ、掌を差し伸べる。その手が何かを掴むことはなかったが、戦いを思い返したダンサーは小さく囁いた。
「あなたの音、まだ耳に残ってるかも」
 ストーカーはそんなダンサーの姿すら確りと記録している。
 同じく、シュリアも地面に落ちたバイオリンの成れの果てを見下ろした。それを直してやりたくもあったが、ヒールを施しても完全に元通りにはならない。
 遺ったものはこれだけ。
 だが、残骸であってもそれは彼が居た証だ。
 雪はイペタムの背にあたる座席を撫でた後、落ちていた弓に手を伸ばした。
「……アイツの家族に届けてやらねぇとな」
 それがせめてもの手向けになると考え、壊れたままの楽器を手に取る。
 そして雪は戯れに弦に弓をあて、音を確かめてみた。夜の静けさの中に響いた音色は歪んで軋み、とても聞けたものではない。
「本来のあるべき姿に、あるべき音色に……とはいかねぇか」
 煙草を取り出したシュリアは番犬も楽な務めではないと零し、深い溜息を吐く。
 響いた音は何故だか、この先に巡る不穏を奏でているように思えた。

作者:犬塚ひなこ 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2017年10月16日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 1/感動した 0/素敵だった 0/キャラが大事にされていた 0
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