抱擁

作者:藍鳶カナン

●竜胆
 冷たい水飛沫が朝の風に舞った。
 谷川の水面に明るい青紫が散る。摘んだばかりのリンドウの花々。
「ああ……朝露を含んだ花を見せてやりたかったけど、あれじゃ……」
 朝露なんてわかりゃしないね、と弱々しく呟いたのは老いた女だった。
 石だらけの川原に倒れた彼女には、流れていくリンドウの花々を視線で追うのが精一杯。
 花を摘んでいた谷の上から滑落して強く打った頭からは血が溢れ、川原を濡らし、谷川に落ちた青紫の花々を追うように水面へ紅を溶かす。
 もう手を動かすのも難しいのだろう。だが彼女は何とか一枚の写真を取り出した。
「あき、ほ……。ひいばあちゃんね、今日あんたに逢うの、とっても楽しみに、してたよ」
 秋穂――そう書かれた写真は愛らしい赤子のもの。
 名からして、昨秋産まれた曾孫なのだろう。
 早咲きのリンドウ。透きとおる朝露を含んだとびきり綺麗な秋の花々を飾って、秋の名を持つ曾孫を迎えるつもりだったのだろう。だけど。
「ひいばあちゃんね、去年より大きくなったあんたを、抱っこするのを、ずっと……」
 掠れた声が風と水音に消える。彼女は曾孫を抱くことなく、そこで死を迎えた。
 ――程なくして。
 不思議な影が現れた。人のような魚のような。
 人魚を思わす姿をしたそれは死神『エピリア』。深海魚めく二匹の死神を伴うエピリアは微笑みを湛え、死したばかりの遺体へ歪な肉の塊を埋め込んだ。
 遺体がひとのかたちの肉塊へと変化していく。死したはずのそれが蠢きだす。
 作成した屍隷兵(レブナント)へ、エピリアは変わらぬ微笑みのまま告げる。
「あなたが今、一番会いたい人の場所に向かいなさい」
 ――会いたいひとをバラバラにできたら、あなたと同じ屍隷兵に変えてあげましょう。
 ――そうすれば、ケルベロスが二人を分かつまで、一緒にいることができるでしょう。
 屍隷兵は頷いた。
 エピリアが姿を消すのと同時に、屍隷兵は深海魚めいた死神達を連れて歩きだす。
 朧でまばらになってしまった記憶と想いを掻き集め、逢いにいく。
 小さくて、愛おしい命をその手に抱いたなら、その、ぬくもりを――バラバラに。

●抱擁
 リンドウの花と、死神の影――。
 藤守・景臣(ウィスタリア・e00069)が抱いたのはそんな予感だったが、
「このような事件が予知されるとは……」
「僕は寧ろ景臣さんのカンが鋭いんだと思ったけどね」
 予知を語った天堂・遥夏(ブルーヘリオライダー・en0232)は狼耳をぴんと立て、改めてケルベロス達に向き合った。
 冥龍ハーデスが創造術を生みだした屍隷兵は、螺旋忍軍によるデータの収集や研究を経て今や複数のデウスエクス勢力に利用されるに至ったという。
 今回予知されたのは死神『エピリア』によって作成された屍隷兵の事件だ。
「彼女は、屍隷兵は――そのまま谷川沿いを下って、自宅へ向かう。お孫さん夫婦が遊びに来るんだよ。秋穂ちゃんを連れてね」
「……逢わせるわけには、秋穂さんを抱かせるわけには、いきませんね」
 菫青石の瞳にも声音にも苦渋を滲ませた景臣が応じれば、遥夏は深く頷いた。
 屍隷兵は知性や記憶をほとんど失っているが、死神『エピリア』にそそのかされた通りの行動をとろうとする。多くの記憶が零れ落ち、それでもなお強く心に残った愛しい者を引き裂きに向かう。
「それが現実になる前に、あなた達で彼女を撃破してあげて」
 彼女は既に死している。彼女は元には戻れない。
 けれどせめて、彼女が小さく、愛おしい命を、その手にかける前に。

「近隣への避難勧告は手配済み。ヘリオンで急行すれば彼女が谷川沿いを下ってくる途中で捕捉できるから、ヘリオンから直接降下して戦闘をしかけて欲しいんだ」
 彼女が亡くなった場所より下流であるため、川原も開けており、戦うのに支障ない広さがあると遥夏は続けた。
 屍隷兵の戦闘力はさほど高くはないが、深海魚型の死神二体が盾となる上、屍隷兵自身の攻撃が多重の毒や治癒の阻害を齎すものであるのが厄介なところ。
「けど、あなた達なら彼女がその手で惨劇を生む前に眠らせてあげられる。そうだよね?」
「ええ、遂げてきましょう。……必ず」
 迷いなく応えた景臣はそっと瞳を伏せた。
 孫や曾孫がいる歳ではないが、彼には娘がいる。
 この世に生まれてきてくれた娘を初めて抱いた時の、眩いほどの幸福感。
 成長し、腕に感じる重みを増していく小さな命の、どうしようもないほどの愛おしさ。
 娘はもう少女から女性となる年頃で、だけど彼女が赤子だった日々のことを今でも鮮明に思い出せるから、彼はきつく目を瞑った。
 幼子の成長を、『彼女』もその手で知りたかっただろう。
「――それでも、抱かせて差し上げるわけには、いきませんから」
 目蓋を開き仲間達を見回して、出発しましょう、と景臣は皆を促した。


参加者
藤守・景臣(ウィスタリア・e00069)
ゼレフ・スティガル(雲・e00179)
シル・ウィンディア(蒼風の精霊術士・e00695)
ルーチェ・ベルカント(深潭・e00804)
天宮・陽斗(天陽の葬爪・e09873)
御船・瑠架(紫雨・e16186)
神野・雅(玲瓏たる雪華・e24167)

■リプレイ

●飛沫
 ――早く、速く。一秒でも、速く!
 朝の空翔けるヘリオンから跳べば爽涼たる風というより水の流れを突き抜ける心地。
 曙光に映える山の緑も両側から緑と岩肌が迫る谷間を流れる川面も一顧だにせず、冴ゆる青の双眸で唯一点を見据えた神野・雅(玲瓏たる雪華・e24167)は、川原への着地と同時に跳ねた水飛沫が竜翼に触れるより速く地を蹴った。
 鋭い眼差しの先には人型の肉塊のごとき屍隷兵と深海魚めいた死神達、
「悲劇は終わらせよう、少しでも早く」
「それが僕らの仕事だからねぇ。――Sei pronto?」
 重花丁子の刃文踊る一刀で雅が描いた月弧の剣閃が死神の片割れを捉えれば、殲滅される心構えはできたかい、と言いたげに敵へ微笑したルーチェ・ベルカント(深潭・e00804)が流れるように宙へと舞う。
 水辺の風を貫く流星、手負いの死神を狙った蹴撃に無傷の片割れが割り込んだが、川原に蹴り落とされた怪魚の両脇を藤守・景臣(ウィスタリア・e00069)とゼレフ・スティガル(雲・e00179)が一瞬ですり抜ける。水飛沫の合間に青紫の花を探すのは全て終えてから。
 悲しむ貴方を愛する。
 もしも、死神がそんなリンドウの花言葉を解して彼女を屍隷兵に変えたというのなら。
「尚更許しはしません。あなた方の主を――あなた達、死神を」
「確かに、許しがたい皮肉だね」
 断罪の雷のごとく閃く刀身。下がり藤透かす鍔の先、刃に霊力を凝らせた景臣の雷刃突が雅の初撃を浴びた死神を貫けば、間髪容れずゼレフが躍らせた銀の刃が護りを破られた魚を斬り刻んだ。舞い散る魚の血飛沫を突き抜けた光は御船・瑠架(紫雨・e16186)が靴先へと宿した流星の煌き、星の重力を叩き込まれた死神が川原に落ちた、瞬間。
「お願いします!」
「任せて! あなたを絶対、止めてみせるから!!」
 ――世界樹よ、わが手に集いて力となり、束縛の弾丸となり、撃ち抜けっ!!
 瑠架の声に応えたシル・ウィンディア(蒼風の精霊術士・e00695)は気丈な瞳でまっすぐ屍隷兵を見据え、森の朝露めいて輝く魔力弾を撃ち込んだ。途端に芽吹いた魔力の蔦や蔓が見るに堪えない姿に変えられた老女を縛り三重の麻痺を齎す枷となる。
 皆が怪魚の死神達を屠るまでの間、屍隷兵を抑えるのがシルの役目。だが、
『アキ、ホ……逢イ、ニ……』
 肉塊の顔にぞぶりと開いた口から声が洩れ、肉塊の指先にぞぶりと突き出た異形の爪から濁った毒液が滴った。
 蔦に縛られながらも元が老女とは思えぬ力強さで揮われた腕、その先の巨大な爪がシルを狙うが、我が身を呈した景臣がそれを受けとめる。骨肉抉る衝撃は黒き外套が激減させたが幾重にも染む毒が彼を冒し、怪魚達が放つ怨霊弾が爆ぜ前衛陣に更なる毒を振りまいた。
「何ということを……!」
 生前の面影も窺えぬ姿に変えられた老女、屍隷兵として揮う禍々しい力。
 直接それらを目の当たりにすればローザマリア・クライツァール(双裁劒姫・e02948)の瞳にも死神エピリアへの憤りが燃え上がる。狙うのは皆と同じ、エピリアの僕たる魚。
 連携して戦う意志はあれどこの場の誰とも心繋がぬ身では流れに乗り切れず、敵の後手に回ったローザマリアが石化の魔法光線を撃ち込んだ次の瞬間、同じ理由で流れに乗り損ねた天宮・陽斗(天陽の葬爪・e09873)は己が本分を果たすべく癒しの光球を生みだした。
「必ず支え抜くから、まずは死神共に引導を渡してやってくれ」
「ああ、背中は任せたぞ!」
 満月めく光球、癒し手の浄化を乗せた輝きが最も深く毒に冒された景臣を癒す様に頷き、烈風のごとき勢いで雅は牙剥く怪魚へ斬り込んでいく。盾たる仲間達に隙を埋められながらシルが描く星の聖域と陽斗が生み出す鼓舞の彩風に護られ背を押され、皆の攻勢が間断なく重ねられてゆく。
 この事件予知のきっかけとなったのは景臣だが、屍隷兵を利用する勢力の蠢動そのものは雅が予感していたものだ。一秒でも早く終わらせるという彼女の強固な意志と精鋭ぞろいの申し分ない戦力で戦いの主導権を握ったケルベロス達が、敵勢を圧倒した。
 屍隷兵めがけて翔けた流星、シルの蹴撃を満身創痍の死神が遮るが、
「庇われたった構わないよ、その分だけ」
「君達と遊ぶ時間が早く終わる。そういうことだからねぇ」
 金が縁取るモノクルの奥で紅瞳を細めたルーチェが即座に得物を揮う。
 曙光よりも眩くルーン輝く斧に叩き潰され、怪魚の片割れが霧散した。
 盾たる死神の消滅にも構わず屍隷兵が爪撃を揮うが、標的となった少女は蒼翼に彩られた外衣の援けを得て飛び退る。
「いいジャケット着てんな、シル」
「ありがと陽斗さんっ!」
 癒しは不要と見て取った陽斗が握り込むのは竜の槌。死者とは、労られ、惜しまれながら見送られるべき存在。それを歪め貶める死神達への苛立ちをも込めて、彼は残った怪魚へと砲撃を叩き込んだ。
 疾く失せよ、冥府へと。
 ――不死たる彼らに自分達のみが与え得る、真実の死をもって。

●抱擁
 清々しい水辺の朝風を、迸る瘴気が澱ませ濁らせていく。
 曾孫の名を呼び続ける屍隷兵の全身から溢れだすそれは大気を震わす慟哭にも似て、清い風を染め変える。己に降りかかる瘴気は空をも絶つ刃で斬り裂いたが、仲間の盾として引き受けた澱みが景臣を侵食した。
 威力そのものは脅威ではない。
 だが癒しを阻む深い穢れは、身体のみならず心の傷まで爛れさせていくかのようで――。
「――まだ折れりゃしないだろう?」
「……ゼレフさんこそ。先に折れては駄目ですよ?」
 眉一つ動かさぬ友の胸裡を掬って笑ってみせたゼレフが、景臣めがけて躍りかかる怪魚の牙を己が腕で受けとめる。褪せた冬色に護られた彼にとっては掠り傷も同然、此方は任せて彼女を――と琥珀レンズ越しの眼差しで友の意を受け取って、景臣は迷わず標的を変えた。
 大丈夫。心の傷とくらぶれば、この焔が齎す苦痛などほんの刹那のこと。
 幽けき紅蓮、灯し火を思わす彼の焔が愛しきものを求める屍隷兵の身の裡を灼き切るのとほぼ同時、淡雲にけぶる青空めいた彩でゼレフの焔が踊る。
 ――つかまえた。
 薄青の炎の腕が怪魚を潰しその全てを消し去れば、
「あとは彼女を、彼岸へ送ってやるだけだ」
「ええ。安らかに眠れる処へ、彼女の魂を」
 痛ましげな眼差しで屍隷兵を見つめた陽斗が彼女の瘴気を七色の爆風で押し返した。彩風越しにも確実に狙いを定め、瞬時に距離を殺したローザマリアが肉塊の傷を斬り広げ彼女の縛めを深めていく。
 彩風に高められた力も乗せて、ひとかけらの躊躇いもなく雅も己が刃を揮う。
 胸奥に燈るのは亡くした友の面影。愛するひとを手にかけるなど老女には絶対にさせたくなくて、ぶつり裂けた肉塊を更に斬る手応えに感じる心の軋みを殺して、淡々と得物を振り抜いた。彼女は既に死んでいる。そう己に言い聞かせるけれど、
「……何度斬っても慣れねぇ」
「この先も、きっと慣れることはないのでしょうね。雅さんも、私も」
 月喰島から屍隷兵の縁が繋がり続ける雅の言葉に応えつつ、瑠架も呪いで研ぎ澄まされた刃でまたひとつ彼女へと裂傷を刻む。最早命を救えぬ相手をもう一度殺めるための行為に、己が心を苛まれながら。
『アキ、ホ……』
 事前情報のとおり屍隷兵の戦闘力は然程高くない。
 爪の毒も瘴気の穢れもシルの星の加護や陽斗の浄化が打ち消すが、曾孫の名前を繰り返す彼女の声が胸に痛い。後衛へ波濤の如く寄せた瘴気を桜枝の振袖で払いのけた瑠架が跳ぶ。陽斗を庇った景臣が瘴気ごと裂く勢いで烏羽の刃を揮う。
 旋刃脚と血襖斬り。想定以上の鋭さで命中した技に二人の視線が一瞬絡む。
「つまり……」
「敏捷攻撃はより避け難いみたいですね」
「成程ね。そうと判れば、遠慮なく弱点を衝かせてもらうよ」
 彼らの言葉に笑みを深めた刹那、音もなく跳躍したルーチェが鮮烈な流星となって敵へと落ちた。深々と胸を抉られた屍隷兵めがけてローザマリアが因果応報の刃を閃かす。神速の剣閃から迸る真空波が老女を無慈悲に斬り刻む。
 けれど技とは対照的に、ローザマリアの唇からは限りなく優しい声が紡がれた。
「貴方の曾孫さんは……大丈夫よ。だから、おやすみなさい」
 私達が見守るわ――本当はそう言いたかった。だけど。
 皆の意も確かめず勝手に『私達』と一括りにするのは憚られたし、まだ一歳にもならない秋穂を一生見守れるはずもない。その場限りになりかねない言葉は辛うじて呑み込んだ。
 自分達が見守らずとも、秋穂には亡き老女の孫夫婦という両親がいる。
 秋穂は両親に慈しまれて育ってゆくだろう。老女が曾孫の行く末を憂える要素は無い。
 憂いなどなく、唯ひたすらに愛おしんだだけ。
 逢いたいと、この手に抱きたいと願っただけ。けれど、だからこそ純粋な。
『アキ、ホ……ヒイバアチャン、ガ、抱……』
「愛しいひとを置いてゆく――貴方のその悲しみを、忘れない」
 どれほど手を伸ばせど指先ひとつ触れ合えない。
 彼岸と此岸に愛するひとと別たれる別離を識りながら、琥珀を重ねた銀の瞳に彼女と己が炎を映してゼレフは、白夜の輝き燈す鉄塊剣を振り落とす。戻れぬ岸へ、彼女を送るべく。
「ただ、会いたいって気持ちだったのにね」
 翳した手の指に煌く指輪。
 大好きな、大切なひとに逢いたいと希う気持ちは痛いくらいに解るのに、彼女を秋穂に『逢わせない』ためにシルは世界樹の弾丸を放った。異形の爪からは変わらず毒が滴るが、蔦や蔓に縛められた肉塊の腕も脚も深い痺れで最早ろくに動けない。
 その腕に、何も抱かせてはあげられない。
 ――ごめんね、こういう風にしかできなくて。

●竜胆
 憐れに思う。
 だけどそれは、彼女に訪れた本来の死と、死に際の想いまでのこと。
 この屍隷兵は屠るべき敵にすぎないと冷徹に峻烈に割り切って、非情に徹してルーチェは冴え渡る技を揮い続けた。情なら優しい仲間達がきっと存分に注いでくれる。だからこそ、己は感情の波に呑まれぬ氷の錨となる。
 ――深潭へ堕ちてお出で……。
 微笑のまま揮う漆黒の刃の突きで明星を、描く裂傷で三日月を、肉塊から迸る血で黎明を顕して、戦いの明けへ大きく踏み出した。彼に続く瑠架の刃にも迷いはない。けれど。
『アキ、ホ……』
「あなたの願いを阻む私を赦してくれとは言いません。恨んでくれていいですよ」
 それが救いとなるのなら。
 彼女へ向ける紫の瞳と声音には隠せぬやるせなさが滲む。己が刃はひとびとを護るための一振りでありたいのに、こうして彼女を殺めるために揮う矛盾がひたすら苦い。
 顕現した幻影竜が灼熱の炎を迸らせた。せめて送り火となればと願うローザマリアの竜語魔法に続いて、白銀の翼煌く靴で馳せたシルの蹴撃も焔の軌跡を描く。
 先達よ、と陽斗は人生の先輩たる老女に呼びかけた。
 胸によぎるリンドウの花言葉は、愛情、そして、寂しい愛情。
 今の彼女の胸には寂しい愛情が満ちているだろうか。心は渇きに苛まれているだろうか。
「だが、その渇きは癒えん。歪められた今のあんたの衝動は」
「ああ、その通りだ。死体は死体に還れ。そして――」
 縛めの中で藻掻く彼女へ陽斗が見舞うのは星の力を秘めた蹴撃、時神の砂時計を手にした雅は己が胸に萌した花言葉、正義をもって、世界で唯ひとり雅だけが揮える時空魔術を織り上げた。異空間へ繋がる門が開く。
 願わくば、魂は愛する幼子のもとへ向かわんことを。
 恐らくは最後の力を振り絞ったのだろう、大きく揮われた腕を抱きとめるようにゼレフが押し留めれば、生じた隙を逃さず景臣が彼女の懐へ踏み込んだ。
 生前の面影など何ひとつ持たぬ屍隷兵、だが烏羽の刃が裂いた肉塊の奥から何かが覗いた瞬間、彼は息を呑んだ。愛らしい赤子の、写真。
 指先が冷える。心が凍る。
 おまえの身代わりに死んだ妻はおまえが殺したも同然だと胸の奥で誰かが囁く。
 ――また、こうして、命を奪うのか。
「迷うな、ここに居る」
「……ええ、大丈夫です」
 だが凍れる時を友の声が融かしてくれた。更に融けた何かが眦から零れるのを堪え、彼は彼女の最後のひとしずくを斬り裂いた。
 ゆるゆると肉塊が崩れ、朝の光に融けるよう消えていく。
 亡骸が屍隷兵に変じる際に呑み込まれたのだろう写真が、ひらりと川原へ舞い落ちた。

 骸を残したまま果てる屍隷兵もいるだろう。
 だが、この屍隷兵は撃破すると消滅する。それは事前に判っていたことだ。
 倒せば元に戻る、或いは、撃破後にヒールで遺体を綺麗にできるかもしれないといった、そんな奇跡を望むことすら初めから叶わぬ戦いだった。
 花は実を結び、やがて朽ち果てるもの。
 だが亡骸さえ残らぬこの在り様は、彼女の生のみならず、ゆるり朽ちゆく自然の摂理まで歪め貶められたような気がして、陽斗は遣り場のない憤りを募らせる。
「せめて、この写真は……」
「御家族のもとへ届けたいですよね。リンドウの花と一緒に」
 写真を拾い上げた陽斗の呟きに頷いて、瑠架はそっと手を合わせた。どうか安らかに、と天へ祈る。
「リンドウは誇りと愛情の花だしね」
 屍隷兵ではなく、あくまで生前の老女へと哀悼を捧げて、ルーチェも亡き彼女の想いが、愛情が、花を通じて秋穂へ届くようにと願いを馳せた。
「――死神エピリア! ひとの想いを弄ぶんじゃないっ!!」
 喉が裂けるほど叫んでも当の相手には届かないと識りながら、シルは心のまま谷間に声を響かせ、大切な約束を証す左手薬指の指輪を撫でる。大切なひとを想う気持ちは誰にも譲れない、まして死神などに穢されていいものではないから、指輪ごと抱きしめるようその手で強く胸を押さえた。
 少女の声を背中に聴きながら、くそったれ、と死神に悪態を吐いた雅は、リンドウの花を求めて視線を彷徨わせた。一歳にもならぬ秋穂は曾祖母のことを覚えていられないだろう。
 けれど、青紫の花を見るたびに曾祖母を、彼女の愛情を感じられるように。
 ――彼女の魂が、秋穂を護ってくれるように。
 涼やかに白い水飛沫が爆ぜる川面に顔を覗かす小さな岩、そこに引っかかっていた青紫の花々を掬い上げたのはゼレフだった。彼女がその手で摘んだ花に違いない。
「一輪、僕に譲って頂けませんか?」
「勿論。……さあ、いこうか」
 望まれるまま友に花を手渡し、谷川の上流へ足を向ける。
 かつて腕に抱いた温もりは既に遠く、けれど仄かな光のように淡く残る愛しさを連れて、似て異なる傷を抱える友へ寄り添う。
 血の跡が『そこ』を教えてくれた。
 花を手向け、景臣は静かに目蓋を閉じる。戦場だった下流よりも随分と近い水音と飛沫が戦いの熱を優しく冷ましてくれるようで、そして何より、傍らの穏やかな温もりが、涙まで凍ってしまえば良いと思った心を融かしてくれるから。
 微かに潤みを帯びた声音で、小さく感謝を紡いだ。

作者:藍鳶カナン 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2017年9月24日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 1/素敵だった 0/キャラが大事にされていた 7
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