きみをこう

作者:ヒサ

 突然脚が動かなくなった。
 攣ったのだと少女が気付いた時には、体は沈み始めていた。
 思う通りに動けない。これでは彼に教わり始めたあの時のよう。彼女の思考が混乱する。初めに比べればもう随分と自在に泳げるようになっていたのにと。思い出すのは不自由だった頃の色濃い恐怖と、手を差し伸べて貰った喜びの淡い記憶。
 そうしてやがて彼女は悟る。己が練習の成果を彼に見せる事はもう叶わぬ事と。過ぎる練習の果てに暗く染まりつつあった海中へ、彼女は誰の目にも留まらぬまま消えて行った。

 『あなたに再び命をあげましょう』。そう、少女の前に現れた死神・エピリアは告げた。
 『会いたい人に会える体を。その人の体を八つ裂きに出来る爪を』。少女の遺体に何やら肉片を埋め込み、幼さの残るその体を異形──屍隷兵へと変えた死神は微笑みを絶やさぬまま続けた。
 『ちゃんと出来たなら、その人をあなたと同じものにしてあげましょう』。その言葉に、元が『彼女』であった事など既に判らぬ歪なヒトガタは、大きく損なわれた記憶の欠片を頼りに、最期の記憶に残っていた『彼』を目指してのろのろと歩き出す。
 デスバレスへ帰還する直前にエピリアは囁いたのだ。『二人、屍隷兵になったのならば。ケルベロスがあなた達を分かつまで、共に在る事が出来るでしょう』と。

「──けれど、一緒にさせるわけには行かないから」
 眉を寄せた篠前・仁那(白霞紅玉ヘリオライダー・en0053)はケルベロス達へ、屍隷兵に依る少年の殺害を阻止して欲しいと言った。
 件の屍隷兵は最早元の『少女』であるとは言い難い──彼女は救い得ない。だが少女が慕っていた少年の命は、危険に晒される前に護る事が出来るものだ。
「それで、彼女達はこう、街がある方へ向かって行くから……この辺りで迎撃して貰えるかしら」
 地図を広げた仁那の指が、海から市街地への道なき道を辿ってのち、海に面した岩場の只中で止まる。遊泳に適したエリアからは随分と離れているそこから、敵──屍隷兵と、エピリアが配下として残して行った魚の姿をした死神三体は来るのだとか。屍隷兵自体が機敏では無いこともあり彼女らの歩みは遅く、この岩場を越える前に接触する事は十分可能だ。
「……彼女は、街へ向かう事を優先するでしょうけれど」
 連れられている配下達もそれを援護するだろう。皆知能は高くなく、ケルベロス達であれば余程の事が無い限りは遅れを取らぬ程度の戦力と見て良い。しかし万一突破を許してしまえば、さほど時間を要する事無く件の少年が犠牲となる──彼は海にほど近い、街外れに住んでいるのだという。
 そうなれば、人目につかぬ夜とはいえ、一般的な中学生にとっては眠るに早過ぎる時間。まず間違いなく騒ぎになる。
「街に入れないように……人に遭う前に急いで済ますのが一番安全、と」
「ええ」
 出口・七緒(過渡色・en0049)の言に仁那が頷く。今回の屍隷兵は、螺旋忍軍の研究成果を元に生み出されたものだろう、とも。
「『彼女』には……独りで、亡くなって貰わねば、ならないわ」
 件の少年少女と歳の近いヘリオライダーの声が、低く落ちた。


参加者
ティアン・バ(心臓喰み・e00040)
ナディア・ノヴァ(わすれなぐさ・e00787)
罪咎・憂女(捧げる者・e03355)
神宮時・あお(壊レタ世界ノ詩・e04014)
ヒメ・シェナンドアー(白刃・e12330)
グレッグ・ロックハート(泡沫夢幻・e23784)
服部・無明丸(オラトリオの鹵獲術士・e30027)
弦巻・ダリア(空之匣・e34483)

■リプレイ

●きみを見つける
 雲の陰に月はまだ細く、裏腹に波の音は荒々しい。不穏を湛えた海を望む岩場に辿り着いたケルベロス達は辺りへ目を凝らす。
「照明……は警戒させてしまうでしょうか。先に見つけたいところですが」
「なら少し待って貰えるか」
 首を捻る罪咎・憂女(捧げる者・e03355)に応じたナディア・ノヴァ(わすれなぐさ・e00787)が闇を見渡す。ほどなく彼女は海の方へ足を向け、他の面々が音を抑えつつ続いた。
「──スタンバイ完了、フラフラして来るって」
 通話を終え携帯電話を片付けた出口・七緒(過渡色・en0049)が伝言を囁く。街を見回り件の少年の護衛をと申し出た仲間からの連絡だった。耳にした者達が安堵して、有難い、とグレッグ・ロックハート(泡沫夢幻・e23784)の吐息が穏やかに紡がれる。
「あちらがただの散歩で済むよう、頑張らなくてはね」
 ヒメ・シェナンドアー(白刃・e12330)の微笑みは不敵な色を交ぜて。万一、など許す気は元より無いが、備えてくれる者が居る事自体がこの上なく心強い。

 歩を進めて行くと、波音が耳につくようになる。湿った風に頬を撫でられながら彼らは、海水を滴らせた彼女達──屍隷兵と死神達に出遭った。
 ヒトと同じ形をしているというだけの、ヒトならざる姿。水を含む足音は重く、異形の頑強さが察された。少女の面影など、ありはしない。
「……普通に生きた人々の安寧さえ」
 憂女の声が低く、不愉快とわだかまる。普通の死を奪われた少女を取り巻く死神達へ向けられた鋭い刃のような緋瞳は、ほんの少しだけ、違う色をも灯して鈍ったけれど──取るに足らぬ塵芥とて逃がしてはやらぬと戦意は十分。
「────……」
 制御がおぼつかぬのか身を揺らめかせながら、声ならぬ声を零す屍隷兵の姿に、神宮時・あお(壊レタ世界ノ詩・e04014)の目が憂うよう伏せられた。責められるべきは彼女では無いのにとばかり。
(「……ですが、送って、差し上げ、ませんと」)
 しかしやがて、透明に真っ直ぐに、大きな瞳が彼女を見た。どうか『彼女』は、罪に汚れる事無くきれいなままで。
 特に身を潜めるでも無く、敵意をぶつけるでも無いまま距離を詰める。ある程度のところで照明を一つ二つ、光量を絞り淡く灯した。幾らか薄らいだ闇の中、ケルベロス達の動きゆえにか、死神達の挙動に逡巡の色が見えた。が、屍隷兵の足が緩まぬのは此方を気に掛けていないのか単に情動が見えぬゆえか。ともあれ進ませるわけには行かぬと彼らは物理的に道を塞ぎに掛かる。
 それでも反応は無い。なれば力ずくより他には、と何名かが得物に手を掛ける。
「──よくぞ参った鬼どもよ!」
 だが抜き放つより早く、服部・無明丸(オラトリオの鹵獲術士・e30027)の声が夜気を打った。
「しかしおぬしらの路は此処で終い、往くも戻るも叶わぬと心得い!」
 夜闇さえも裂く如き力強い声。事情を知らぬ者達の耳にまでも届きかねぬそれに、ヒトであった『彼女』の心を案ずる者達は周囲へ目を遣るが、ティアン・バ(心臓喰み・e00040)によって速やかに場の空気は常人の立入を拒む張り詰めたものへと変じた──いざとなれば立ち回りつつ領域を補える者もまだ居る為、気に掛けるべきは照明の使い方くらいで済むだろう。
 そして凛とした声は、それ以上の効果を生んだ。威嚇するにも似た色は、本能に訴え得たのだろう。視線すら遠く『彼』だけを見ていたのであろう彼女がしかし足を止め、ケルベロス達へ淀んだ目と警戒を向けて来たのだ。邪魔をするのなら、と言わんばかりの害意。
「君の名前を教えて貰えるかな」
 緊張の中、特に激しい視線を向けられた無明丸を庇うよう割り込んだ弦巻・ダリア(空之匣・e34483)が目だけで挨拶を投げ、問うた。だが、返ったのは唸りに似た音だけ。
(「……もう言えないのかな」)
 『もう聞けない』可能性も過ぎったけれど、目を逸らす。
「ごめんなさいね、キミはどこへも行かせられないわ」
 『彼女』はきっと今の己が為さんとする事を肯定しない。そう信じ、せめて、と向けるケルベロス達の刃の意味。『彼女』を想い嘆く彼らの胸の痛み、それゆえに揺れる眼差しの色。そうしたもの達が、ほんの少しでも構わない、未だ彼女にも届き得るのだと信じたかった。

●きみを縛るもの
 屍隷兵の拳を受けたダリアが大きく退がる。空いた路を埋めに動いたフローネ・グラネットが、澄んだ紫にきらめく盾を掲げた。
「お護りします──シールド最大展開!」
 前は二人が、後ろは回り込んだヒメが、屍隷兵の動きを封じに掛かる。その合間、足元に爆ぜた照明弾が、敵達を惹くよう闇を照らし上げた。
「まともに受けるとあぶない。きをつけて」
 仲間の身を護る鎧を織りながらティアンが皆へ警告を。地を蹴ったナディアの足が気を纏い、敵を縛る鈍器と化した。
「暫く我慢していて貰えるか」
 いつまで? 今の少女をこそ護らんと策を弄する死神達を全て片付けるまで。ケルベロス達は散開する死神達をしかし好きにはさせぬと切り込んで行く。翼で潮風を捉え踏み込んだ憂女の手に依り抜かれた刀は、菫の軌跡と共に前衛の死神を斬り払い、流れた敵の身をあおとグレッグの蹴り技が立て続けに叩き伏せた。手応えは十分、敵の布陣が崩れる。その隙を埋めるよう、二体目の敵前衛が向かって来たが、ケルベロス達の前には癒し手を煩わせるほどでも無く。杖を振るった七緒の雷壁で不足な箇所は苧環が補う形で護りを固め対応して行く。
「っははは! 割れ落ちるまで付き合うて貰おうぞ!」
 笑う無明丸は後衛の死神を熱と凍気で翻弄する。雑魚の抑えならば一人で足りるとばかり、彼女は奔放に駆けた。屍隷兵共々、敵達を牽制する事で、前衛の死神に攻撃を集める者達もまた自在に動き得る。
 憂女の纏う流体が光を放つ。援護を受けて攻め手が駆ける。加護の雷撃がそれを加速して、屍隷兵の援護に動かんとする魚の一つを捉えて阻む。
 獄炎が弾丸となり爆ぜる。ばかりに留まらず標的の肌に盛る。グレッグが放ったそれは、立て直す為の空泳すら許さぬとばかり。その苛烈さは、彼の怒りを示す如く。
 責められるべきはかの少女では無く、それを変えてしまった者──裏で糸引く者。その駒たる魚共に砕いてやる心などありはしない。
「受けて貰うわ」
 ヒメの声が風に踊り、星が墜ちるに似て無数の刀剣が降る。呪詛にて獲物の牙を手折る刃が屍隷兵のみならず死神達をも貫いた。その間に屍隷兵の爪をかいくぐり戦場を渡ったナディアの炎は仲間達の想いを支えるかのよう熱持ち揺らめき、死神の一体を屠る力となった。

「何度でも言うよ。君の行くべき道はここには無い」
 幾度傷つけられようとも退かぬダリアの姿は、屍隷兵の目には脅威に映ったろう。情に震えるでも無く冷たく突き放すでも無くただ静かに諭し続けるその声をどう聞いているのかまでは、ケルベロス達には判らないけれど。
(「──祝福を」)
 祈りと共に柔らかくたゆたうのは海の色。屍隷兵の正面に陣取り続ける彼女の治癒は、その殆どが自身を保たせる為に費やされていた。同じ盾役達が庇ってくれる事は多々あれど、火力ばかりに突出した敵の攻撃を凌ぎ続けるのは容易く無い。
 幸か不幸か身を崩さぬよう振る舞う事は忘れはしていないようだが、さりとて怯む事無くケルベロス達を排そうとし続ける異形の手。傷にまみれたそれに深く肉を抉られてダリアは眉をひそめる。諦めない、と言われた気がした。
(「執着、執念、焦がれて、……それはきっと、とても大きな」)
 斯うなっても消えなかった『彼女』の想い。慕わしくて、共に在りたくて、だからきっと恋うて乞うたのだと。
 そんな風に思考が言葉の形を得るより先に、ダリアは眉間の皺を深めた。頭の奥がざわついて、意識が不快を訴える。振り切るように首を振った。同時に骨を砕かれた痛みが思考を引き裂く。
 案じたティアンが急ぎ治癒を為す。痛みを和らげ護りを強め、誰も打ち負けることの無いように。戦況を観察しつつ動く彼女には、今さえ凌げれば、と判る。死神を相手取る者達の方は危なげなく、敵射手のヒールは看過し、しかしそれ以上を許す事も無く自陣の被害を抑えながら戦いを進めていた。
 ほどなく屍隷兵の身へ治癒を妨げる毒が注ぐ。ウィッチドクターの術は、屍隷兵から意識を逸らす事を許されぬ者達にも、敵の数を順調に減らせている事を報せる助けになった。
「引き続き目を配って貰えるか」
「ん」
 杖を持つ青年へ言い置き憂女は刀を納める音を響かせた。緋い痩躯は宙を駆け、高速で再度抜かれた刃が泳ぐ魚を薙ぐ。援護に無明丸が、有難い、と笑んだ。
「このまま降して貰えるかのう!」
 一人では抑えがやっと、だが皆が居れば拮抗していた力を流れに乗せてしまえる。早く速く、伸ばした手から逃げる魚など殺してしまえ。かの獲物は屍隷兵の巨躯の向こう。仕留めるべく彼らは攻撃を撃ち放つ。
(「……はやく、***て、差し上げません、と」)
 声無きあおの呟きが幾重にもぶれた。『彼女』に何を贈れば良いだろう。あのひとに何を捧げれば報えるだろう。死はこんなにも間近で、己の小さな手にはそれを織り上げる力があるというのに。
(「──、di、forza」)
 岩を打つ音を刻み虚空を斬るのは死を呼ぶ鉛弾。仲間の援護に風を乗せ更に加速して少女は、祈りを刃と紡いだ。

●おわかれ
 そうして残るのは屍隷兵ただ一体。ここに至り凌ぐのではなく終わらせる為、ケルベロス達は流れのままに彼女へと照準を。
 しかし今一度銃を構えた木下・昇は刹那躊躇う。撃てば彼女をより苦しめるだろう。ケルベロスであれど、一撃二撃で終わらせようなど、今なお力の衰えぬ異形相手には無茶な話。これが本当に正しい手段なのかと、盲目では居られぬ心。
 これより他に道は無いのだと、知ってはいたけれど。
(「ですから、私達に出来る事は」)
 見知った青年が携えた光の揺らぎに迷いを見、憂女が走る。一人では不足、二人だけでも未だ、だから今此処にはもっと居る。
「助けて欲しい」
 刀を手に前だけを見据えて彼女は凛と、青年を呼ぶ──共に往こうと。
 この場の誰もが解っている。自分達の力は今、他ならぬ『彼女』の為にこそ。
(「俺達にはただ、終わらせてやることしか出来ない」)
 それより過去には届かなかった。悲劇は既に始まった。
(「せめて今の彼女を知らしめず……」)
「おまえが恋うた人の記憶には、せめておまえを人のまま──」
 この夜を悪夢として包み隠せるならば。儚いと知りつつも願う。叶える為に自分達が居る。それが最善と、ケルベロス達は信じた。
「──おまえはもう、分かたれてしまったから」
 ティアンの瞳が宙を映す。祈りは皆に残された傷を振り払い、眼前のただ一人だけと正しく向き合う為に。
「あぁぁああ────っ!」
 爆ぜるように距離を詰めた無明丸の拳が気を纏い屍隷兵の身を打つ。吐き出す音は、彼女が生きている証の如く。お前は最早違うものだと教えるかのよう、熱を孕んだ。
「────……」
 屍隷兵の喉が、潰れた音を洩らす。暴力としてつくりなおされた体は声を捨ててしまった。それでもその音を嘆きと聞いたのは、きっと耳の持ち主達の胸中ゆえ。爪の連撃を受けたあおはすぐさま身を立て直し、派手に噴いた血を見て治癒を為した。今ここで倒れても、きっと彼女の為に何も遺せない。
(「きっと、あなた様の、為の時、は、今では無い、です」)
 悲しいのだと、皆が言う。幼い金の瞳は、それを見ていた。あお自身の知る正しさは未熟ではあろうけれど、今ここに『彼女』の為の標は幾つもあった。
 苦痛の中でダリアは知る。屍隷兵の意識は最早自分達にのみ向けられていた。あんなにも恋うた、彼方では無くて。
 それは、きつく結んでいた彼女の唇をほどくに十分──ようやく、正しく向かい合う。苧環、と改めて援護の指示を紡ぐ声は、どこか和らいだ色をした。
「君を惑わした者は、僕達がいずれ地獄へ送るよ」
 そうして手を伸べる。看取りを望む声は導くよう。
 ヒメの刀が幾重にも屍隷兵の動きを縛る。苦痛の果てを、見えたその尾を逃さず掴まえるべく、淡い月光にも眩く輝く白が舞う。
「ボク達は、キミを全部は知らないけれど」
 無垢な恋を、他者を想う善性を。欠片しか知らぬ彼女を、それでも。
「キミの嘆きを、涙を、覚えておくわ」
 変わり果ててそれでも残ったその一片があれば十分だ。ヒメは、『彼女』同様に穢れ無き乙女の声は、何をも零さぬようにとばかり、低く震えた。
 自分達に出来るのはただ、彼女を殺す事だけ──『彼女』が貶められぬよう護る事だけ。
「だから、もうおかえり」
 柔らかく囁いたナディアの刀が煌々と燃える。少女がどうか迷わぬようにと、夜を照らした。
 静かな葬送の唄が風となる。それは、炎を盛らせる。
 終焉は速やかに。嵩張る想いに低く掠れたグレッグの願いに応じ、蒼炎が舞った。
 終わりはどこまでも静謐に。炎に包まれた彼女の亡骸は浄められるかのよう尽きて、消えた。

●きみのいない朝をまつ
「彼女の体を波から掬い上げた、その事だけは……覚えておきます」
 赦しはしない、肯定もしない、感謝など絶対にしない。けれど。そう、憂女の目が死神達の残骸を一瞥した。そののち彼女は皆にことわりを入れ、遠い砂浜の方へと足を向けた──せめて少女の私物くらいは、届けてやれるかもしれないと。
 合わせて転じた目は、知人の背が闇に紛れる様に気付いたが、そのまま視線を外す。彼には彼の在り方があるからと。
「焦げて……ちがった、融けてる。あぶない」
 戦いの跡に荒れた岩場を整えるべく、ティアンは地へと手を翳した。手すきの者が手伝いに向かう。
 事を終えて緩んだ夜の空気は海風に冷えていた。届く音は波のそれと、無明丸の勝ち鬨。身軽たろうとするかの如き彼女のようには行かぬ者達が、対照的に口を閉ざす。
 海へ目を投げるナディアは、もしも、と顧みた。例えばかの少女が恋うた相手が最早その手で殺す事すら叶わぬ者であったとすれば、想いは何処へ行くのだろう。
(「遺された方は……私は、どうするだろうか」)
 ごちて彼女は、指に揺らめく獄炎に目を落とした。
「──ならば良うございましたわぁー。……ええ、こちらはお陰様で何事も無くー」
 風に乗ったのは、連絡係を務めた青年の携帯電話からの通話音声だった。それは、かの少年を始め、街の平穏が脅かされずに済んだ事を報せるもの。
「……護れたか」
 グレッグがそっと、安堵を零した。かの少女が愛したものは害されなかった、変わり果てたその手をそれでも汚させる事無く終えられた、それは救いと言って良いだろう。
 そしてそれは、ケルベロス達が力を尽くしたからこそ勝ち得た、悲しみはあれども人の為の行く末。
「苦しみは、終わるよ。……あとは僕達が引き受ける」
「そうね、遺された人達のそれは、これからでしょうけど──」
 遠い空を見上げたダリアの声が穏やかに流れる。ヒメのそれは憂いに曇ったが、それでもそれは正しい苦難であると、優しい色を灯した。
(「いつか、遠い未来、まで、……どうかお待ち、下さい」)
 小さな手を組んだあおは祈る。命が巡るものならば、きっといつか、違う形で報われる時が来る。その時はどうぞ幸せに。罪無き少女の幸福を願う。
 その信仰は、限りある命を生きる者達であるがゆえのもの。今宵自分達の手で奪った命が今はただ安らかであるようにと、ケルベロス達は乞うた。

作者:ヒサ 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2017年9月5日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 4/感動した 0/素敵だった 1/キャラが大事にされていた 5
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