けものの亡骸

作者:吉北遥人

 何度も何度も洗って、手はとっくに清潔そのものだ。それでも少女は濡れた手でまた石鹸を掴んだ。
「最悪、最悪! こうなるならあの猫、触んなきゃよかった!」
 指先、爪の先を念入りにこすりながら、少女は毒づく。
「道端であんなふうに転がってたら、車に轢かれて死んでるに決まってんじゃん! もう生きてるわけないのに……しかも何、あの気持ち悪い虫……!」
 その虫に触れてしまったことでも思い出したのか少女がぶるると身を震わせる。泡を水で流すや、その手で石鹸をまた掴み――取り落とした。
「あはは……私のモザイクは晴れないけど、あなたの『嫌悪』する気持ちもわからなくはないな」
 鏡越しに映った魔女と自身の胸を貫く『鍵』を、少女は認識できただろうか? いずれにせよ次の瞬間には、少女は女子トイレの床に崩れ落ちている。
 それと入れ替わりに立ち上がったのは、虎並みに大きな体の、モザイク模様の四足獣。
 眼球の垂れ下がった、傷口からモザイクのウジがわく猫だった。

「動物を轢いちゃったときは警察や、しかるべき役所へ連絡すればいいんだけど、そのまま放置されるケースも多いね。風化してぺちゃんこになるまで放っておかれた死骸を見たことがあるけど、惨いものだったよ」
 ため息をつくティトリートだったが、九十九折・かだん(泥に黎明・e18614)の視線に気づいて表情をあらためた。話すべきことは別にある。
「この事件は『嫌悪』の感情を奪うドリームイーターの仕業さ。そのドリームイーターじたいはもう現場にはいないけど、『嫌悪』から具現化した怪物型が生徒たちを襲おうとしてる」
 怪物型ドリームイーターが出現するのは公立高校の女子トイレ。時間は午前八時台――朝のホームルームが始まる前だ。登校したばかりの生徒で賑わう廊下や教室に、その怪物が現れたら大惨事となる。
「怪物がトイレから廊下に出るあたりで、君たちは現場に到着できるよ。戦闘もその廊下で行うことになる。戦いになれば怪物――『猫の轢死体』の嫌悪感は、爪でひっかいたり、モザイクのウジ虫を撒き散らしたりしてくるね」
 猫本体もモザイクも、感触や臭いは本物と変わりない。さらにモザイクを浴びれば不快感が残ってしまう。
「気持ち悪さで戦いにくい敵かもしれないけど、無視はできない。撃破をお願いするよ」
「なあ、その被害者の女子って」
 説明を終えたティトリートに、かだんの声がかかった。
「なんで猫の亡骸に触ったの?」
「えっ、さあ……そこまでは予知じゃわかんなかったよ」
 その返事に失望するでもなく、かだんはただ「そう」とだけ呟いた。


参加者
カロン・カロン(フォーリング・e00628)
白神・楓(魔術管理人・e01132)
スズナ・スエヒロ(ぎんいろきつねみこ・e09079)
明空・護朗(二匹狼・e11656)
リリス・セイレーン(空に焦がれて・e16609)
九十九折・かだん(泥に黎明・e18614)
渫・麻実子(君が生きるといいね・e33360)
唐見・イェンネ(落葉・e38023)

■リプレイ

●現れたる亡骸
(「そういえば」)
 三階の廊下で、唐見・イェンネ(落葉・e38023)はふと思った。
(「学校に入るのって、初めて、だわ……」)
 廊下の片側に教室が連なり、反対側の窓からは校庭が見える。学生にとっては当たり前の光景のすべてがイェンネにとっては新鮮なものだ。これが、生徒たちが足音激しく階段を駆け下りているという状況でなければ、なおよかったのだが。
 事前の連絡に、学校側の対応は迅速だった。指定した時間通りに教職員たちが誘導を行ってくれている。
 この様子なら避難も間もなく完了するだろう――階段付近で生徒たちを誘導していたスズナ・スエヒロ(ぎんいろきつねみこ・e09079)が、視界の端に異形を捉えたのはそのときだった。
 視線の先、女子トイレのドアを蹴り開けて、まず前肢が現れた。続けてのそり、と四足獣――魔物型ドリームイーターが全身を見せる。
「……すごい見た目ですね」
 話には聞いていたが、実物はそれ以上だ。猫のものと思えぬ巨体は血と埃に汚れ、その表面を、点滅するモザイクが濁流のように這い回っている。片方の眼球はだらりと垂れ下がり、暗く澱んでいた。
「立ち止まらない! 下へ急いで!」
 生徒の中から悲鳴があがった。魔物の姿を見せないよう立ち位置を変えつつ渫・麻実子(君が生きるといいね・e33360)が叱咤する。イェンネもひとつ深呼吸してから避難を後押しする。
「ここからは、私達の仕事……。危ないから、離れていて頂戴、ね……」
「先生さんも、生徒たちといっしょに」
 教師に告げる明空・護朗(二匹狼・e11656)の足下で、白いオルトロスのタマが、現れた魔物を威嚇するように低く唸った。それに呼応したのか、あるいはその向こうを逃げる生徒たちに狙いをつけたのか、魔物が一歩踏み出す。
「そっち行っちゃうのか? ほれ、にゃんちゃん、一緒に遊ぶぞ」
 気さくな呼び声が魔物の注意を引いた。
 もう生徒たちが避難を終えた反対側の廊下、手を叩いて呼びかけるのは白神・楓(魔術管理人・e01132)だ。まるで野良猫を相手するような無警戒な姿に、魔物が残った方の目を細める。
 直後、巨体の輪郭がぶれた。
 バネのようにたわんだ脚で廊下を蹴るや、左右にフェイントを仕掛けながら楓へと跳躍する。常人の目では追えぬ速度――だが、楓の横から飛び出した九十九折・かだん(泥に黎明・e18614)の掌が、魔物の顔面を鷲掴んだ。
「……」
 間近で浴びる腐臭にも、頬を浅く裂いた爪にも眉ひとつ動かさず、かだんは腕を振り抜いた。投げ飛ばされた魔物が、中空で体をひねって廊下に降り立つ。巨体に似つかぬ見事な着地だが、すでにその足元では薔薇の蔦が伸び生えていた。
 見る者を虜にするように艶やかに舞い踊るリリス・セイレーン(空に焦がれて・e16609)から伸びた幻想の蔓薔薇が、魔物を縛めるように甘い芳香を漂わせる。それから逃れるように爪を振るう魔物に、肉薄したカロン・カロン(フォーリング・e00628)の拳が突き刺さった。
「結果はどうあれ、差し伸べられた手を利用するなんて、悪い子ねぇ。魔女のせいとはいえ不義理すぎるわよ?」
 拳に残る、肉袋を殴ったような感触を確かめながら、カロンは言った。壁に叩きつけられながらも敵意の衰える様子がない魔物に、窘めるように笑いかける。
「いらっしゃい、同胞だったモノ――同じ猫としてお仕置きしてあげる」

●うごめく
 今のやりとりの間に、一人を除いて生徒たちの避難は完了していた。
 女子トイレに倒れている、被害者である女子生徒。彼女だけは動かす方がかえって危険ということもあり、戦いが終わるまでその場に残す方針となっている。
「もえさかれ、えんゆ!」
 だから、戦闘の余波を絶対にそちらには向けさせない――女子トイレを遮るように立ったスズナが撃ち出す狐火が、地を走った。火弾は魔物の足下に到達した瞬間に炸裂し、爆炎とともに魔物を宙に持ち上げる。
 直後、浮いたその体にめりこんだのは、麻実子の戦術超鋼拳だ。続けてしなるような回転蹴り――天井近くに跳躍してからの急降下による重い連撃が、湿った音をあげて巨体を廊下に叩きつける。
「猫は好きなんだけどね」
 痙攣しつつも起き上がる巨体に、麻実子が複雑そうに呟いた。
 魔物――『猫の轢死体』は元となった嫌悪感が死骸なだけに、ゾンビと呼んでも差し支えない外見だ。これを猫と見るかそれ以外のものと見るかは、価値観しだいだろう。
「確かに酷い姿……。でも……痛々しくて、なんだか、可哀想、ね……」
「死んでないにゃんこだったらモフり放題だったんだがなぁ……」
 黄金の果実の光を前衛陣にもたらすイェンネが、悲嘆に顔を曇らせる。楓も悲しげな表情だったが、こちらはベクトルが違うようだった。誰にも聞こえない程度に小声でぼやいてから、一息に踏み込む。
「……?」
 振り抜いた刀は魔物の負傷箇所を正確に抉った。魔物を蝕む状態異常が目に見えて拡大する。だが、楓が疑問を抱いたのは自らが放った絶空斬に対してではない。魔物がまったく回避をとろうとしなかったのだ。もう動けないほど負傷しているのか? いや……。
「カウンター狙いか……!」
 楓が敵の意図を察したときには、魔物は彼女の懐に突撃していた。触れ合うかといった間合いで突如激しく首を振る。
 それは濡れた猫が水分を振るい落とす仕草に似ていたが、撒き散らされたのは水ではなく無数のモザイク塊だ。ケルベロスたちに当たり損ねたモザイクが窓ガラスを割り、壁にめりこむ。
「うっわ! 服に入ってくるなよ!」
 至近距離で受けた楓も無視できぬダメージを負ったが、それ以上に無視できないのは直後の不快感だった。着弾箇所から拡がる、ぞわぞわと何かが肌を這うような感覚に、楓は反射的に体を手で払う。
 鳥肌を立てて生理的嫌悪感と格闘する楓に、魔物が再び詰め寄った。折れた爪を高々と掲げる。
「――痛いの痛いの、飛んでいけ」
 楓に到達するのは魔物の爪よりも、護朗の癒しの光の方が早かった。
 光がモザイクウジ虫を駆逐する一方、爪を神器の剣で受け止めていたタマは、返す刃で魔物の脚を切り裂いている。そこにミミックのサイも加勢した。箱の内側から立ちのぼるエクトプラズムを凶器と変えて振り回す。石化の力を秘めたそれを、魔物は跳び退って回避したが、着地の際、負傷した脚がふらついていた。
(「死んでるとわかってて、なぜ触れたのかな」)
 精彩を欠きだした魔物……ではなく、とうに死んだ猫の姿に、護朗が連想したのは発端となった女子生徒のことだ。
(「諦めたくなかったんじゃないかな」)
 もしかしたら生きているかもしれない、と。生を願ったのではないか。
 実際のところは訊ねてみるまでわからない。だけどもしも、自分が同じ立場なら……。
(「……諦めたく、ないな」)
 果敢に戦うタマを――妹を見て、護朗がそう思ったとき。
 サーヴァントたちが魔物から一斉に距離をとった。
 魔物のモザイクが不気味に、より強烈に点滅を開始したのだ。体勢からしても先ほどのモザイク放射をまた行うことは想像に難くない。
「あなたも好きでそんな姿になったわけじゃないのにね」
 もはや体中から湧き出るウジ虫と一体化したかのような獣に向けるリリスの声は、どこか淋しげだった。またモザイクを放たれる前に、そして何より安らかに眠ってほしいという想いをこめて、リリスが黒色の魔力弾を撃ち出す。
 トラウマボールは狙い過たず魔物に着弾し、巨体を揺るがした。だが魔物は倒れない。残った片目でリリスを睨み――モザイクの発光が頂点に達した。
 次の瞬間、モザイク塊は無数の礫となった。先ほど以上の規模となって後衛陣に襲いかかる。
 ガラスというガラスが砕け散り、天井や壁を無数の弾痕が抉っていく。女子トイレに向かう流れ弾をスズナやカロン、麻実子が身を挺して食い止める。
 そんな破壊の坩堝の中、リリスにはモザイクが一粒も届かなかった。彼女のウイングキャットはタマとともに、癒し手である護朗とイェンネを守っている。では、リリスの前に立ちはだかっている影は――。
「かだんちゃん……」
「怪我はないか、リリス」
 かだんが首だけを捻って振り返ったのは、自らの姿を、綺麗な彼女には見せまいとしたためか。
 リリスに殺到したモザイクのすべてを引き受け、かだんの全身は夥しい傷によって朱に染まっていた。加えて目には見えないウジ虫のうごめきが絶えず全身を苛んでいるはずだ。なぜこうも平然としていられるのか。
「大丈夫。慣れてるから」
 無言の疑問に答えるかのように言って、かだんは視線を前に戻した。
 そこにはこちらを睨む魔物がいた。リリスを狙った攻撃を邪魔されたからだろうか。
「……そんな姿、晒す事はないだろう」
 嫌悪の筵に、なる事は、ないだろう――両腕を広げ、かだんは怒れる獣に呼びかけた。
「私は、墓だ。お前を受け入れに来た」
 魔物の脚が廊下を激しく蹴った。最初のようなフェイントもなく、真正面から突撃してくる。
 原始的な突進に相対するかだんもまた、廊下を蹴った。近付いた磁石の異極のように、両者が音をたてて衝突、がっぷりと組み合う。
「亡骸への嫌悪か。無いと言えば嘘になる、が――私は、お前を、決して嫌わないであげる」
 じりじり振り下ろされる爪を腕一本で押し止める。じわじわ押し込んでくる巨体を全体重で食い止める。触れ合った箇所からモザイクが乗り移って来るが――かだんに恐怖はない。むしろ安心感すらある。
 嫌悪や忌避など、亡骸で飢えを満たしていた過去に置いてきた。
「腐ったお前と血塗れの私、汚さにどれほどの違いが」
 かだんが緩く首を振る。違いなどない。あえて言うなら――。
「私は未だ、生きているよ」
 鋭く旋回したかだんの脚が、魔物の横腹に突き刺さった。一瞬の間隙を突いた蹴撃に魔物が横倒しに転がり……受け止められる。
「さあ、お仕置きの仕上げといきましょう」
 苛むうごめきにも、今まさに乗り移って来るモザイクにも、カロンの笑みは曇らない。
 兵士として渡り歩いた年月。血と硝煙、死やウジ虫。平和において際立つ異常こそ、カロンの日常だ。今さら恐怖するに値しない。ましてや大きな猫など。
「そう、怖くなんてないのよ――慣れてるもの」
 魔物がかざした爪を、カロンは容易く振り払った。直後、遠心力を乗せた脚で、カロンは魔物の下顎を蹴り砕いている。
 のけぞった魔物の、垂れ下がった眼球がぶつっとちぎれる。
 それが廊下に一度跳ねてから消えたときには、巨体の方も、夢だったかのように消えてなくなっていた。

●その心は
「気がついた?」
 身じろぎする女子生徒を驚かせないよう、護朗は努めて静かに訊ねた。
「気分はどうかな。どこか痛む?」
「え……誰?」
 意識ははっきりしているようだった。カロンがケルベロスだと教えてあげる。
「轢死体なんてお嬢さんには刺激が強かったかしら。災難だったわね」
 カロンの言葉に少女は最初わからぬげだったが、その目に徐々に理解の灯がともる。倒れる前、自分が何をしていたか思い出したのだろう。
「なあ、ひとついいか?」
 壁に背を預けつつ、皆が気になっていた問いをかだんが切り出した。
「なんで猫の亡骸に触ったの?」
「なんでって、そのときは死んでるなんて――」
 反射的に答えかけて、少女は口を閉ざした。うつむいて、自嘲するように息を吐く。
「死んでるって、普通気付くよね。ほんとバカだ私。よけいなことして、そのせいで気持ち悪い思いして」
 少女の述懐は後悔と自責にまみれていた。
「最初っから触らなきゃよかったんだ!」
「ううん……」
 否定はか細いが、確信に満ちていた。イェンネがちらっと少女と目を合わせる。
「気持ち悪いとは言っているけれど……本当は、ただ、助けたかっただけ、なのよね……」
「それは……で、でも死んでたんだから何の意味も――」
「猫は可哀想だったけど、君が気付いてくれて、触れてくれて、嬉しかったと思うよ」
 例え死んだ猫が何も感じないとしても――麻実子は微笑んで続けた。
「その優しさは穢されるべきじゃないと思うんだ」
「そうです! 普通の人だったら見過ごしてもおかしくないのに。助けなきゃと思っての行動なら、それはとても尊いことだと思います。よろしければ、悪い霊がつかないようお祓いをさせて頂ければと」
 いそいそとスズナがお札を取り出す。それを横目に楓が口元をほころばせた。
 気まぐれでも同情でもなく、優しい気持ちでその手は伸ばされたのだと。
「できたら私たちでその猫を埋めてあげたいけど、場所はどこかしら?」
 リリスの質問に、私も行きたいと前置きしてから、少女は答えた。
「場所は――」

作者:吉北遥人 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2017年9月21日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 1/キャラが大事にされていた 5
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