心の中によみがえる

作者:OZ


 世は美しいとそのビルシャナは言った。
「そしてこの世は、今こそ全て」
 真紅のカナリアを思わせるその姿で、ビルシャナは続けた。
「過ぎ去ると書き、読めばそれは過去! 嗚呼悲しきかな、――しかし!」
 良く通る、歌声のような色の音。
 ビルシャナはたっぷりと間を置いた。
「生きるためにそのようなものは必要ないのです。記憶、過去、何の役にも立ちません。思い出などは、その最たるもの」
「ビルシャナ様、あたしは今を生きたいです!」
「実によろしい!」
 信者の一人が、酔ったように叫んだ。
「そう、大切なのは今をいかに生きるかということ! そのためには、過去を、思い出を捨てるべきとわたくしは説きます! これこそが真実であり唯一の真理!」
 ビルシャナの高らかな声に、解りますともと次々に信者が頷いた。
 発言の許可を求めるように上げられた手を、ビルシャナは静かに示す。示された信者は喜々として口を開いた。
「思い出に縋って過去に縛られ、今を嘆くばかりの人々を私も救いたいと考えます!」
「ふふ、よろしいよろしい。わたくしの見つけ出した真理を共に見る者がいて、わたくしも嬉しく思います」
 さあ、と楽し気にビルシャナは翼を広げる。
「今の世の美しさに、生きるための気高さに、思い出は不要。さあさあ、今を! 今を生きようではありませんか!」


「ああ、やっと見つけた。ハチ、少し時間をもらっても?」
 九十九・白(白夜のヘリオライダー・en0086)がヘリポートを訪れたハチ・ファーヴニル(暁の獅子・e01897)を呼び止めたのは、真昼の頃合いだった。
 梅雨も明けて夏の足音が聞こえ始めたこの頃は、やたらと暑い。
 足を止めた青年に人好きのしそうな笑みを返してから、白はようやく表情を引き締めた。
「ビルシャナが出ます。思い出を不要とし、過去を捨て、今を生きろと――そういった内容の教義を抱えた、悟りの」
 ぎくりとした表情を思わず浮かべたハチから、一瞬、白は視線を外した。
 恐らくそれは故意ではなかった。白はポケットに突っ込まれていたメモ帳を引っ張り出したに過ぎなかったからだ。
「場所は……今はもう使われていない元結婚式場。ビルシャナの見目は、人間サイズの赤いカナリア、といったところでしょう」
 攻撃手段は、と続き、すらすらと並べられる情報を、ハチはどこか遠くに聞いていた。
 不意に服のすそを引く感覚に、視線を下げる。
「……ついも行く」
 夜廻・終(よすがら・en0092)が、どこか強張ったような表情をしながら、そう告げていた。それからはっとしたかのように、終は「わたしも」と吐き出した言葉を訂正する。
 白はやりとりを見つめ、丁度良いと思ったのだろうタイミングで、再び口を開いた。
「今回、信者の数は多くありません。多くても五人と考えてください。そのためかは解りませんが、ビルシャナ自身も弱くはないようです。むしろ、自分の教義を貫くために、自ら戦闘を望むかもしれません」
 やはり、と言葉は続く。
「悟りのビルシャナに対して、俺たちができることは相変わらずひとつです。奴らが信者を率いてことを起こす前に、それを阻止する。……いつも通り、やってもらえますね?」
 白の言葉に、頷く者、頷かない者、――ハチと終は、後者だった。


参加者
ハチ・ファーヴニル(暁の獅子・e01897)
霖道・悠(黒猫狂詩曲・e03089)
ライル・ユーストマ(紫閃の斬撃・e04584)
クラル・ファルブロス(透きとおる逍遥・e12620)
城間星・橙乃(雪中花・e16302)
十六夜・雪兎(冬色アステリズム・e20582)
カロン・レインズ(悪戯と嘘・e37629)

■リプレイ


 けほん、と。
 誰かが咳をした。
 それにハチ・ファーヴニル(暁の獅子・e01897)ははっとして、足を止めて振り向いた。気付けば随分と足早になっていたようにも思えたからだ。事実、それはその通りだったらしい。
「……ハチ、すこし、早い」
「あ――、」
 どうやら咳をしたのは夜廻・終(よすがら・en0092)のようだった。集った面子の中でも一番歩幅が狭いのだろう終は、不意に歩みを止め振り返ったハチに向け、これ幸いとそう話しかけたらしい。
「そんなに急がなくてもたぶん、ビルシャナは逃げない」
「はは、そっスね! いやぁ申し訳ないっス、今回なんとなく気が急いてるっスね、自分!」
 笑ってみせたハチは仕切り直すように再び先陣を切る。そんな恋人の様子を後方からじっと見遣り、シグリットはほんの僅かに眉を寄せた。
「それにしても、本当に……」
 城間星・橙乃(雪中花・e16302)が常日頃浮かべている微笑みを、僅かに歪めた。
「聞いてはいたけど、思ってた以上に埃っぽい……」
 歩く都度、煙のように埃が立つ。彼女が顔を顰めるのも無理はない。
 他の面々もまた、口元を覆ったり、目の前にふわふわと漂う埃を払いのけたりと、中々に忙しかった。
 故に、一拍反応が後れた。
「なるほど、みなさまがケルベロス」
 音だけならば、姿だけならばそのビルシャナは美しかった。
 それが孕む、毒さえなければ。
「――ッ!」
「ああなに、驚かれることもないでしょう。わたくしは真理を掴みビルシャナと成った。ですので、こうなる予感はしていたのですよ。ただみなみなさまも、何か言いたいことがおありの様子。聞くだけ、お聞きしましょう」
 笑ったのだろう。使われていない結婚式場。恐らく『敵』がいるのは最奥だと踏んで歩みを進めていたケルベロス達に、しかしビルシャナは途中の、何でもない小部屋から声をかけた。
 ビルシャナの奥には、信者と思わしき人影が三。どの眼も、濁った力に満ち満ちながら、ケルベロス達を見据えていた。
「……『過去に囚われず生きろ』というのがお前の教義らしいな?」
 感情の読めぬ至って静かな問いを、ライル・ユーストマ(紫閃の斬撃・e04584)は発した。
「ふふ、仰る通りです。紫髪のお兄さん」
「……、まあいい。元よりお前にかける言葉の持ち合わせはないからな。お前が喋る前に喋らせてもらう」
 どうぞ、と笑ったビルシャナを越して、奥に控える人影に向けてライルは口を開こうとした。が。
「ああ、せっかくですからこの建物を歩きながら話しませんか。中々に、ここは美しい場所です」
 ビルシャナは悠々と身構えていたケルベロス達の間を通り抜け、信者を従えて埃の舞う廊下に歩み出た。
 今、手を出すべきではない。
 それは誰もが判っていた。


「――過去に囚われず前向きに生きるというのは間違ってはいないんだが……思い出は自分達の行動の積み重ねだろう。それを捨てるというのは積み重ねてきた『今の』自分を否定することにならないか」
 ライルの切り出したその言葉に、信者の女は苦笑にも似た穏やかな笑みをかんばせに乗せる。
「否定かもしれない、最初はあたしもそう思ったわ。でも気付いた。今は今でしかない、ってね」
「それは、その……ライルさんの言葉と同じになってしまいますが、間違ってないとは思うんです。だけど、」
 予想していなかった現状に、それでも成すべきことをとカロン・レインズ(悪戯と嘘・e37629)は口を開く。
「過去があるから今があるんだ。たとえ、どんなにつらくて苦しい過去だったとしても」
 カロンの言葉を、信者は変わらずに穏やかに聞いていた。
 だが、それだけだ。
 聞いているだけで、届いていない。悔しくなるほどにそれが理解できて、カロンの軟らかい耳が、意思に反して垂れようとした。だが端から諦めてしまえるほど、カロンは大人しいわけではない。
「っ……過去の否定は、あなた方が大切にしようとしている、今を壊すことと同じだよ。今を大切に生きようとする人がそんなことを、するのは……」
 橙の視線が悲し気に揺れた。一瞬言葉に詰まり、それでも彼は口にする。
「とても悲しいです」
「今、を。生きるコトに、重きを置く」
 軽く跳ねるように、霖道・悠(黒猫狂詩曲・e03089)が言葉を継いだ。
「其れは好いコト、だと思う。ケド、過去を全て。なかったコトに、見なかったコトにするのは。ちょい、違うンじゃねェ。かな。過去が在るから。今が在る。楽しいコトでも、ツライコトでも。忘れなくても。――もし、アンタらに。ツラく、哀しい過去が在るンなら。一緒に乗り越えられるヒト。探してこ? 俺でも好いケド、……なんつって」
 ど? と小首を傾げ、悠はゆるく微笑んでみせる。
 そうだね、と、悠の言葉を受けるように、十六夜・雪兎(冬色アステリズム・e20582)は頷いた。
「生きていれば、色んなこと起きるよ……ね。毎日がきらきらしたものばかり、じゃないし。確かに捨てちゃった方が楽……かもしれない。うーん、なんて、言えばいいかな。嫌な思い出や悲しいそれなら、捨ててしまえって、気持ちは解る。でも……その中にも、大切な何か、あるんじゃないかな。過去があるから未来があるんだもの」
 不揃いな足音が、埃を立てる。
 外に面しているらしい、長い廊下に点在する窓からは、細い光が届いていた。
「ねえ、ねえ? ビルシャナ。……過去を捨てて今を、って言ってるけれど、未来のことは? 人が生きる道は、過去と今だけじゃない。全部、引っくるめて大事……なんだ、と思うよ」
「そうですねえ。ふふふ、わたくしの返答は、みなさまが喋り終わるまでとっておきましょうか」
 不気味なほど落ち着いた返答をビルシャナは述べる。
 雪兎はそれに、声をなくした。
(「過去を捨てられれば、あの日の記憶を失くせれば。……痛いほど解るっスけど、今、口にする事じゃない」)
 ビルシャナを見つけようと意気込んだはじめとは違い、ハチは後方からやりとりをじっと聞いていた。言いたいことは――否、言うべきだろうことは存分に用意した。『説得』のための言葉は、用意した筈なのだ。
(「……なのに、」)
 やけに、口が乾いた。
「記憶、思い出、過去……どれも、今の自分を形作っているものっス。失くしても死にこそしないっスが、それを失えば『今』のあんた達は幻のように消えてしまうっスよ?」
 何故、今自分は苦笑すら浮かべられているのかと心の内で自問しながらハチは言う。その言葉に、ライルの言葉にも応じていた女が「そうかしら」と笑った。それがとても、癇に障った。
「ぜ、んぶ失くして空っぽの器になりたいと望むならともかく、今の自分を大切にしたいなら、傷跡も抱えて生きるべきと、自分は思うっスけどね!」
 思わず上擦った声を、ハチは誤魔化す。
「正直、自分とて失くしてしまえば楽になれるだろうって記憶はあるっスよ。でも、そうしないのは自分でいたいからっス。……本当にそれを失えば、きっと、自分は自分じゃなくなってしまうっスから」
 ハチが黙するのを待ってから、アルスフェイン・アグナタス(アケル・e32634)は言葉を落とす。
「忘れ去りたいと願う事は、それだけで悪とは断ぜまい。誰もが輝かしい過去を持ち合わせている訳でもないだろうからな」
 女は、そうねと再び笑った。
 その女に視線を合わせ、アルスフェインは穏やかさを崩さぬままに言葉を続けた。
「しかし、積み重ねた過去の上に人は成長するものだ。そう、人は成長する。目も覆いたくなるような過ちも、一度経験すれば二度は起こさぬだろう。過ちを繰り返さぬためのもの、それも過去の在り方だ。同時に、良い思い出というものは時を重ねてからも自らを励ましてくれるものだと俺は思う。……過ちも、喜びも、全て。いや、それすら忘れて赤子のように生きたいかい?」
 アルスフェインは静かに問う。問いの形に、女は今度ばかりは困ったように微笑んだ。
「思い出に拘らないのは賛成できるのよ。でも、何もかも捨てちゃうのは賛成できないかな」
 浅い溜息交じりにこちらも微笑み、橙乃は言う。
「今、そこの彼が言った通り、失敗は成功のもと、って言うじゃない。過去を捨てちゃったら成長できなくなっちゃう。過去があるから、今の自分があるのよ。過去を否定することは今を否定するのと同義だって思わない?」
 それにね、と橙乃は続けた。
「時間は連続的なものだし、過去、未来、現在って区別すること自体が……なんて言えばいいかしら、あんまり意味のないことにも思えるのよ」
 それとも、と、自身の言葉に、自身の胸がちくりと揺れた。
(「それともこれは、あたしが過去のことを忘れてしまったからくだらないと思うのかな……」)
 くだらないという否定の言葉を音にして使うことこそ避けて、橙乃は端的に告げた。
 それまでの言葉を聞いて、今まで黙していた青年がちらりと視線を送ってきたのが見えた。
「皆さん」
 ビルシャナとは違う、それでいて不思議と、良く通る声だった。
 クラル・ファルブロス(透きとおる逍遥・e12620)は語る。
「あたしには1年前より以前の記憶がございません。思い出など無く、自由に生きられる」
 ぱちりと、クラルはそこで一度大きな瞬きをした。
「――本当にそうでしょうか?」
 青年の信者は、その言葉に引き攣るように一瞬歩みを止めた。
「あたしには大切なものがありません。あたしには特別好きなものがありません。押し寄せる『自由』に覚えたのは、……圧し潰すような恐怖」
 刹那のうち止まっていた青年は、落ちた沈黙に殺されまいとするかのように、再び前を見て歩き始める。クラルもまた、続ける。
「今、皆さんが今を生きたいと願えるのは、良し悪しは別として、少なからず支える過去があるからでしょう。捨てる、失くすというのは、自らを見失うのと同等であると、無き者であるあたしは、考えます」
「……そうさなァ」
 ドミニクが投げるように言葉を放る。
「どンな思い出でも、過去でも、きっと、自分の土台になったちゅーことには変わりねェんじゃねェかな。だからこそ、変わりたいと、捨てたいと思うことができるンじゃねェかな。今を生きたいって、心から思えるンじゃねェかな」
 否定はしねェよ、とドミニクは苦笑した。
「それでも全部捨てちまったら、逆にからっぽになっちまってさ。どう歩いていけばいいか、今までどうやって歩いていたのか、わからなくなるモンじゃよ、案外。……ワシ、そうじゃったけェ」
 ビルシャナの、カナリアの足が、廊下を叩くたびに変わらず埃は舞っていた。
 空調の効いていない建物の中は、日本らしい湿度も相俟って、決して快適とは言い難いものだ。数秒の沈黙が続いた。
「なんで、過去を捨てたいんですか」
 灯が問うた。
 ハチの知る『灯』の、あっけからんとしたはつらつさのない、静かな声で。
「辛い記憶や、もう戻らない幸せが怖くて、夜に一人で泣いたり……したんですか」
「灯、」
 思わず声をかけたハチに向けて、灯は飽くまでも静かに笑んだ。大丈夫と、言外に語るように。
「でも、過去って消えないです。起こっちゃったことだから、消えないし……襲ってきたりもしない」
「……今は今でしかない、と同じで、過去は過去でしかないんだ、……きっと。……あなたたちの中では、違うのかもしれないけど」
 灯の言葉を掬い取るように、終がぽつりと、それだけ言った。
 ビルシャナは黙したまま振りかえることもせず、いよいよ近くなった大きな扉に翼をかける。軋みながら開けられたその先には、だだっぴろい西洋式の教会のようなものがあるだけだった。


「――みなさまとわたくし達の相違は、唯一です」
 ビルシャナは静かに振り向くと、再び微笑んだようだった。
「それはみなさまは過去というものに……或いは、過ぎた時の向こう側に、恐らくは『何かがあった』、『あるべきだ』と思っていらっしゃる。そこがわたくしたちは、違うのです」
 ケルベロス達に並んでいた信者達が、ゆっくりとビルシャナの横へと並ぶ。悲しそうな眼をした青年だけは、その行為を些か迷っている素振りこそ見せていたが。
「なにも、ないのですよ」
 その笑みはあまりにも空虚に見えた。
「わたくしたちには、悲しみもなかった。喜びもなかった。そう、ですから厳密に言えば――過去ではないのかもしれませんね」
 ぱちりと、鳥の瞬き。下から上へ向かって動く鳥の瞼が、ビルシャナがビルシャナであることだけを伝えていた。
「力ある虚ろだけが、『今も尚』降り積もり続けてゆく。……そうですね、絶望とでも申しましょうか? みなさまの言葉を借りて言うのならば、わたくしたちは、過去というものに絶望したのです。そう、それも理由のない、ただの絶望に」
 それならば、とビルシャナは続けた。
「『今』を生きる尊さの中に、過去を代名詞とする思い出など、はなから存在するべきではない。必要ない。何しろ絶望しているのですから!」
 酷く美しい声で、ビルシャナは笑っていた。
 ころころと綺麗に笑うビルシャナに、何の感情も露わさない信者達は下を向いていた。
「思い出を大事にして何が悪い」
 絞り出すような声で、笑い声を断つ。
 ライルだった。
「思い出の中、記憶の中でしかもう会えない人がいるんだ。もう俺以外誰も覚えている人がいないのに、忘れたりなんてできない。俺が今を生きようと思う力でもある。それくらい大切な人があんた達にはいないのか?」
「……ああ、やはり、『持つ者』には『持たざる者』は解らない。言った筈です。わたくしたちにはなにもないのだ、と」
 ビルシャナはそう繰り返し、そして。
「ああ、それでも『失くしたほうが楽だ』と思ったことがあると仰った方も……ああそう、そこのお兄さん」
 ハチを示した。
「失くしてみては、いかがです? 『持つ者』だとしても絶望と背中合わせでいるのは、自分らしく今を生きるためにはお辛いのでは?」
「っ、」
 肌の粟立つ感覚がした。
 呑まれそうな感覚と同時に、それでもハチをすくいあげるのは、肩に乗せられた柔らかな温度だった。
「聞くな、ハチ」
「シ、グリッ……」
 ハチの肩に乗せられた恋人の手のひらが、不意に力を帯びてぐいとハチを後方へと退かせる。
「今の自分があるのは過去の自分があったからで。どんなに辛い事も、どんなに悲しい事も、楽しい事も嬉しい事だって全部、大切な思い出だ。俺はそれを捨てたくない。捨てて否定したくはない」
「……そうですね、あなた達が本当に『持たざる者』なんだとしても、私は……」
 カロンがぐっと、拳を握る。
「私は、それでも、今を生きる人が、生きようとする人が、そんなことをするのは……やっぱり悲しいです」
 だから、止めると。
 そう暗に告げた途端、それは一閃した。


 あまりにも眩い光だった。空中の埃が、それを受けてきらめいていた。話が終わりならば、もう、良いですねと。ビルシャナが言ったのが聞こえた。
 星が落ちたように爆ぜ回る光に、ケルベロス達は一斉に応戦の態勢を取った。何の感情からか、誰かに襲い掛かるという非日常の重圧から逃れるためか、信者達が声を張り上げながらケルベロスに向けて猛進する。
 無力化を図るためにひとり、ふたりと手刀を叩き込み、さんにんめ、と視線を移そうとしたアルスフェインの目には、飛び掛からんとする女の背後から、変わらぬ微笑みに浸ったまま、確かな重さを伴う経文を唱えるビルシャナの姿が写った。
「なっ――」
「構わないでしょう、どうせこれも、今が過ぎれば、なくなると同義なのですから」
 錫を転がすような不可思議な声が衝撃波となり女を呑みこまんとした寸でのところで、アルスフェインが女を突き飛ばす。
「っ、忘れ去ることが、そう願うことは、やはり悪とは断ずまいよ。だが、今のは、違うだろう?」
 その場に女が残っていたならば即死もあり得ただろう。一瞬のうちに滲んだ冷や汗をそのままに、ケルベロス達はビルシャナと切り結ぶ。
 決着は早かった。
 数度の攻撃の応酬の後、ビルシャナは微笑むのを止めた。正確に語るのならば、ケルベロス達の攻撃を受けきった後、微笑むのを止めた。
 そうして翼を広げがら空きの腹を見せたビルシャナは、最期、高らかに嗤った。
「ああ、ではみなみなさま。わたくしを殺めたという過去をどこまでもいつまでも大切に持ち、どうぞどうぞ、この今を! 気高く生きてくださいませ!」
 ビルシャナを仕留めたのが誰の一撃だったか、それすらも解らなかった。

「……大丈夫、気絶しているだけだわ」
 橙乃が信者達の呼吸を確かめた後にそう告げた。
「……、」
「どうか……しましたか?」
「いえ、なんでもありません」
 クラルの唇が僅かに動いたのを認めて雪兎が首を傾げれば、クラルはゆるく頭を振った。
(「この方たちもビルシャナも、或いは、今を生きる術だけを」)
 凍ったような灰色の瞳が伏せられる。
 そうして、軽い音がした。
「……ああ、依頼に行ったら写真を撮ることに決めたの。ケルベロスとしての記録をつけようと思って」
 橙乃が言う。
 記録があれば、記憶を、過去を失くしても――。言葉は続かなかった。
「……逃げちゃ、いけねェよ。な」
 やけに埃っぽい空間の中、悠が言った。

作者:OZ 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2017年7月12日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 2/キャラが大事にされていた 3
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