五月病事件~安らかさに包まれたなら

作者:秋月きり

 窓から燦燦と陽光が降り注ぐ。朝が来たのだ。
 心地の良い五月晴れの日差しを浴び、しかし、野々宮・治子は動き出す事の出来ない自分を発見する。
 答えは簡単だった。4月の新生活開始と共に、共に過ごしだした恋人が身体を放してくれないのだ。
「もぅ。駄目だったらぁ」
 寝ぼけ混じりの舌っ足らずな口調でそれを咎める物の、相手からは反論はない。ただ、柔らかな温もりが治子を包み込むだけだった。
「遅刻しちゃう……。けど……」
 もう少し、この時間に甘えていたい。
 それがどのくらいになるか、治子には判らなかった。もはや、就職氷河期を乗り越え、ようやく入社した会社よりも、彼の温もりを甘受する方が大切にも思えた。
 ――恋人の名前はお布団と言った。

「ゴールデンウィークも終わり、世間もようやく落ち着きを取り戻した……だったら良かったんだけど」
 リーシャ・レヴィアタン(ドラゴニアンのヘリオライダー・en0068)の言葉は何処か苦々しく、むしろ「やだなぁ」と言うカジュアルな感じで呟かれた。
「ジゼル・クラウン(ルチルクォーツ・e01651)さんを始め、多くのケルベロスのみんなが調査した結果、五月病の病魔が大量に発生している事が判ったの」
「五月病……」
 それは如何なる病気なのか。ウィッチドクターでもあるグリゼルダ・スノウフレーク(ヴァルキュリアの鎧装騎兵・en0166)は興味津々と輝く瞳を剥ける。
「私たちの知る五月病だと、大体新社会人とかが一か月の新生活と、ゴールデンウィークの休みを経て、仕事とかへ向ける気力を失う事なんだけど、病魔によってそれが増幅されている感じね」
 もちろん、五月病なので死傷者が出るような事態は無さそうだった。社会的な死はともかくとして、との但し書きはこの際、目を背ける事にした。
「みんなには病魔を倒してきて欲しいの」
 病魔さえ倒せば、五月病に苦しむ被害者を救う事が出来る筈だ。
「今回、みんなにお願いしたいのは野々宮・治子さんと言う名前のOL。今年大学を卒業した所謂フレッシュマンね。彼女はお布団から出ず、惰眠を貪っているわ」
 その為、彼女が独り暮らしする2DKのマンションに尋ねれば接触は簡単に行える。ただし、眠さのあまり、居留守を使う事は考えられる。
「ドアとか窓を壊しちゃってもヒールで治せるから、そこは実力行使でもいいわ」
 その上で病魔を引き剥がし、これを撃破する必要がある。
「……と言うわけで、そこはグリゼルダにもお願いしたいの」
「はい。大丈夫です!」
 元気な返答に「よろしい」と満足げに微笑んだ後、言葉を続ける。
「病魔は1体。眠気を誘う病魔だからか、羊に似た女の子を思わせる外見をしているわ。攻撃も眠気を誘うものが多いから、対策をして行った方がいいかも」
 気休めにしかならないと思うが、病魔は皆の心を折りに来る筈だから、そう言う心構えも大切になると、リーシャは告げる。
「それと、五月病は再発しやすい病気だから、病魔撃破後は、救出した治子さんの話を聞いてあげるなどして、再発しないようなフォローが出来るといいかも、ね」
 これはあくまでアフターケアの領域だから、対応は皆に任せるけど、ケルベロス達のフォローがあれば、彼女が立ち上がる原動力になる筈。
 その思いを告げ、彼女はいつも通りケルベロス達を送り出す。
「それじゃ、いってらっしゃい」


参加者
星黎殿・ユル(聖絶パラディオン・e00347)
六条・深々見(喪失アポトーシス・e02781)
ソラネ・ハクアサウロ(暴竜突撃・e03737)
秋津・千早(ダイブボマー・e05473)
イーリィ・ファーヴェル(クロノステイシス・e05910)
芹沢・響(黒鉄の融合術士・e10525)
遠野・葛葉(ウェアライダーの降魔拳士・e15429)
ヒマラヤン・サイアミーゼス(カオスウィザード・e16046)

■リプレイ

●夢見るお姫様
 ケルベロス達の朝は早い。日も昇らない早朝からヘリオンを駆り、問題のマンションの前に辿り着いた一同は、予定通りと手筈の確認を行う。
 時刻にして午前5時半。一般的な会社が8時から9時ぐらいに始業開始とすると、7時前後には全てを終わらせる必要があった。そうでなければ、病魔の被害者である野々宮・治子に遅刻と言う社会人失格の烙印が押されてしまうのだ。
「そろそろ、5月病病魔が動き出すと思っていたけど……」
 とは、六条・深々見(喪失アポトーシス・e02781)談。五月病病魔を予見した彼女だったが、まさか本当に現れるとは思っていなかった、と言う何とも言えない表情を浮かべていた。
「管理人さん、やっぱり不機嫌だったね」
「そりゃ、この時間だものなぁ」
 しみじみとしたイーリィ・ファーヴェル(クロノステイシス・e05910)の呟きに、秋津・千早(ダイブボマー・e05473)が静かに答える。二人の隣人力を駆使した合鍵受け取りの交渉は、結果だけを見れば上々であった。
「訪問の話を夜の内につけていて僥倖でした」
 事件の懇切丁寧な説明は夜の内に行い、朝、鍵の受け渡しだけをお願いする。時間に余裕があってよかった、とソラネ・ハクアサウロ(暴竜突撃・e03737)は胸を撫で下ろしていた。アポイントメントは社会人として常識。今頃、管理人さんは二度寝の心地よい安らぎに包まれているだろう。
「あとは無事、病魔を倒して治子ちゃんに社会復帰して貰うのですよ」
「連休明けで本調子じゃないって気持ちは判るもんな」
 ぐっと握り拳を作って意気込むヒマラヤン・サイアミーゼス(カオスウィザード・e16046)に、芹沢・響(黒鉄の融合術士・e10525)が同意の声を上げた。
「大丈夫じゃ。我らが騒げば病魔とて即座に退散するであろうな」
 遠野・葛葉(ウェアライダーの降魔拳士・e15429)の心強い台詞に、おーっと沸くのは星黎殿・ユル(聖絶パラディオン・e00347)だった。その言葉を引き継ぐべく、次の語句を紡ぐ。
「うん。頑張ろう」
「はいっ」
 控えめなグリゼルダ・スノウフレーク(ヴァルキュリアの鎧装騎兵・en0166)の意気込みに、一同もコクリと頷くのだった。

 そして、ドアノックの音が響く。
「返事はない。ただの居留守のようだ」
 深々見の溜息に、そうだろうなぁ、と一同は同時に苦笑いを浮かべる。チャイムも、呼びかけも、そしてドアノックも効果を為していなかった。留守、と言うわけではないだろう。出かけるのには早過ぎる時間だし、何より、ヘリオライダーの予知が在室を告げていたのだ。
 九割九分、夢の中なんだろうなぁ、と思ったが、誰もそれを口に出さない。改めて口にする必要ない程、皆、同じ意見を抱いていた。
「開けるよ」
 イーリィが合鍵を差し込み、がちゃりと錠を回す。
「あーっとっ。男の人は入っちゃ駄目だよ!」
 妙齢の女性の部屋。しかも、一人暮らしを始めて一か月程度の部屋とは言え、見られたら困る物もあるだろう、とユルの武士の情けの元、千早と響は廊下に待つ形となった。黒彪の悲しげな、或いは同情的な鳴き声が小さく響く。
「治子さんもこんな形で誰かを部屋に上げたくなかっただろうな」
 千早の同情的な台詞に響も「だな」と同意を示す。目覚めた時、彼女がどう思うか。少なくとも嬉しいと感じる事は無いだろうな、とは思う。
「俺もこんな形で独り暮らしの女性の家に上がり込むとかしたくなかったぜ」
「判る」
 もう少しロマンを夢見る事は許されないのか。いや、許されるだろう、との問答は、横合いからの声に掻き消された。
「なに馬鹿な事を言ってるですか」
 ヴィー・エフトを肩に乗せたヒマラヤンが呆れたように肩を竦めている。浮かぶ半笑いは、それでも男性陣らの意見は判るから、との配慮だろうか。
 どうやら部屋の物色……もとい、片付けは終わったらしい。見られて困る物は2DKのもう一室に放り込んだ、と応える彼女は二人を寝室へと手招きする。
 寝室と思わしき和室には、部屋の主がいた。否、正確には横たわっていた。
 丸めた掛け布団に抱き着き、幸せそうな笑顔を浮かべている。窓から差し込む朝日も、鳴り出した目覚まし時計もなんのその。夢の世界から戻って来る様子は無かった。
「さっきからゆすっていますが、やはり起きません」
 ソラネが首を振る。ならば……とフライパンとお玉を台所から持って来た葛葉を皆で押さえる一幕もあったが、その騒動でも彼女が覚醒する様子は無かった。 やはり、病魔に侵されたが故、通常の手段では起きる事はないのだろう。
「仕方ない。駐車場へ運び出そう」
 このまま戦闘に突入すれば、部屋を荒らしてしまう。ヒールで治癒出来るとは言え、避けれるなら避けた方が良いだろうと、誰となくに上がった提案に、皆が頷く。
 脱力した人間を動かすのは大の大人でも難しい。そんな訳で、怪力無双を発動させた響が肩を、イーリィが足を抱え、外へと運び出す。さすがにパジャマ姿のままアスファルトの駐車場に転がすのは可哀想なので、すかさず敷布団を抱えた千早が、その後に続く。
「グリくん、準備はいい?」
「任せて下さい!」
 いつもの騎士鎧の上に、施術黒衣を羽織った姿のグリゼルダが力強く頷く。
(「ああ、ちょっとフェチっぽいなぁ」)
 ぶかぶかの施術着姿は、ユルの脳裏にその手の趣味の人があるなら喜びそうだなぁ、との思考を過らせたが、口にしない事にした。
 まだまだグリゼルダには純粋なままでいて欲しいのだ。

●病魔出現
 どさりとアスファルトの駐車場に敷布団が敷かれ、その上に治子の身体をそっと横たえる。掛け布団を探して手が虚空を薙ぐ事二度程。諦めた彼女は惰眠を貪る事にしたのか、再度すーすーと寝息が零れだす。
「ここまでしても起きないのかー」
 病魔恐るべし、と深々見の言葉に、誰しも気持ちは同じだった。
 残り時間を考えると、もはや一刻の猶予もない。病魔を駆逐し、治子を助ける必要があった。
 グリゼルダが手をかざし、病魔召喚の儀を行う。――治子の胸から光が溢れるのと、それが現出するのは、ほぼ同時だった。
 病魔出現。召喚の儀が成功した証拠は、それが形作る事で告げられる。
「手筈通りにグリゼルダさんは治子さんを安全な処へ。後は病魔の撃破を」
 ソラネの言葉に従い、グリゼルダは治子の身体を抱き上げると、光の翼を展開。明けの空へと飛翔していった。
 同時に。
「――っ?!」
 イーリィ、響、葛葉、ヒマラヤンの4者から呻き声が零れる。病魔――羊を思わせる少女の姿をしたそれは、眠たげに目を擦ると、甘い吐息を彼女達に吹き掛けたのだ。脳裏に浮かぶイメージは羊たちが飛び跳ねる牧歌。襲い来る脱力感に歯を食いしばって耐える。
「羊さんは大人しく眠りに着きなよ」
「病魔とは言え、小さい子と戦うのはあまり好きではないのですが……」
 応戦と飛び交うはユルが放つエネルギー矢とヒマラヤンによって召喚された緑色の粘菌、そしてヴィー・エフトから投擲された戦輪だった。突如自身に飛来したグラビティに表情を曇らせた病魔は、抗議替わりなのか、新たなグラビティをケルベロス達に叩き付けて来る。
「……とまぁ、その攻撃は予測済みなんだけどね」
 眠りのイメージを叩き付けられた深々見達前衛に視線を送りながら、イーリィがにふりと笑う。眠りのイメージを叩き付けられながらも、ケルベロス達の誰もがその眠気に敗していない。勿論、ケルベロス達の精神力が一般人を遥かに超越している、と言う事もあるが。
「減衰、困りものだよね」
 深々見、ソラネ、千早、そして3体のサーヴァントからなる6枚の壁は、減衰を引き起こすのに充分な人数だった。勿論、イーリィの行う紙兵による補助を始めとしたケルベロス側のエンチャントも威力を減らしてしまうが、その代償を以ってしても、病魔の攻撃を削れるのは大きいと判断する。
「シュルス!」
 複数を対象とした回復が望めないのであれば、手数を増やすまで。彼女の号令の元、サーヴァントのテレビウムが仲間を励ます動画を再生した。
「ピリっとするぞ!」
 葛葉もまた、減衰を警戒し単独ヒールを紡ぐ。癒しへと転換した闘気は先の攻撃で傷ついた深々見の身体を癒す。
「ん、ありがとう」
 短い感謝の言葉と共に紡がれるのは、流星の煌きを帯びた蹴りだった。深々見の跳び蹴りは病魔を貫き、短い悲鳴を上げさせる。
「鉄は刃、鉄は鎧、鉄は血。戦を制する者とは、すなわち鉄を制する者なり。案ずるな。残さず余さず、全て食らってくれる」
 続く千早が召喚したのは、己が血液を触媒とした巨大な鉄杭だった。投擲の動作の後、槍の如く病魔を穿つ。
 貫かれ、内部を食い荒らされた病魔から悲痛な叫びが木霊した。
「趣味悪いぜ」
 闘気の弾丸を放ちながら、響が表情を歪める。病魔の外見は必ずしも、本質を表すものではない。デウスエクス同様、外見が幼子であろうと、実際に年齢が一致しているとは限らない。だが、頭で理解していても、何処か罪悪感を覚えてしまうのも事実だった。
 サーヴァントの黒彪も千早に鋼色の属性を付与しながら、短い鳴き声を上げる。響に向けられたその声は、何処かを庇う色を帯びていた。
「眠気の具現、それが彼女なのでしょう」
 弱体化光弾の引き金を引きながら、ソラネが独白する。主に応える様に、仲間に属性付与を施すギルティラの咆哮が重なった。

●安らかさに包まれたなら
 戦いは、目に見えて善戦だった。
「やはり、五月病が深刻な病ではないから、だと思うのです」
 ヒマラヤンの独白はおそらく、的を得ていた。病魔は病気の症状が重い程、そして根治が難しい病気程、強力になる傾向にある。死傷者の出ない五月病であれば、その力が弱くとも不思議ではない。
 だが。
「――いえ、皆さんの作戦勝ちかと」
 戻ったグリゼルダの呟きは、むしろケルベロス達への賞賛だった。バッドステータスへの耐性付与と、減衰による二重の壁は、病魔が引き起こす病を寄せ付けていない。そこから零れ、ようやくケルベロスに到達した一撃は、盾役の千早や3体のサーヴァント、が請け負い、その傷はイーリィ、葛葉、そしてグリゼルダと言う三者の治癒により即座に回復している。
 そして、病魔はユルとヴィー・エフトの補助の元、深々見やソラネ、響とヒマラヤンの猛攻によってその身を削られていた。
「人数に任せた戦い、と言えなくも無いけどな」
 響の言葉は若干の自重混じりに紡がれる。自身を含めたサーヴァント使いとサーヴァントはそうで無い者に比べ、幾らかの優劣が発生してしまう。今回は手数の多さが優に傾いていたが、いつもこう上手く行くとは限らないのも事実だった。
「――【氷結の槍騎兵】と【悪戯猫の召喚】を除外し召喚! ぶった斬れ! 『蒼氷の猫武者』ッ!!」
 しがらみを振り払うよう、響が上げた声は氷属性の猫武者を召喚する。退魔の鳴き声と共に振り下ろされた青白い刃は病魔の身体を切り裂くと、その端から凍結させていく。
「我が魔力、汝、救国の聖女たる御身に捧げ、其の戦旗を以て、我等が軍へ、勝利の栄光を齎さん!」
 合わせてユルが召喚した御霊は救国の聖女の力であった。戦旗を振りかざすその雄姿は、乙女と呼ばれた輝きを以って、ケルベロス達にまとわりつく悪しき力を取り払っていく。
「ぜんぶ ゆめのなかで なかったことになるから」
 ユルに続く歌声は、少女の口遊ぶ夢物語だった。イーリィが奏でる声は、仲間達の負った傷を忘れさせる、優し気な嘘。
「――――っ!」
 木霊する金切り声は病魔から発せられていた。炎を孕む暴言は自身を傷つけたケルベロス達へ注がれていた。
「やらせませんよ」
 斬霊刀とガントレットを交差させ、炎を受け止めた千早がにやりと笑う。その火傷も即座に葛葉によって治癒が敢行され、目に見える傷は全て塞がっていた。
 そして番犬達が牙を剥く。
「コード・トーラスには、こういう使い方もあるのです!」
 ヒマラヤンの闘気が紡ぐ巨大な拳は、病魔の身体を打ち砕き。
「王には冠を、剣には牙を、この王剣に――迷いなし」
 ソラネの抜刀は稲妻の如き鋭角を病魔に刻んでいく。
 そして。
「野々宮、がんばれ……! あたしもがんばるから、がんばれ……!!」
 深々見の視線は病魔ではなく、それに侵された少女へ向けられていた。
 布団が恋しい気持ちも、何もかも投げ出したくなる気持ちもわかる。自宅警備員である自分には痛い程判ってしまう。
 だが、それでも人間は現実に立ち向かわなければならない。そう、生きていくためにも、生活費は必要なのだ。
「このまま全部、なくなればいいのに」
 深々見の右腕は病魔の頭を鷲掴みする。明日を望まない圧縮された憂鬱は彼女の思考を、細胞を侵し、自壊へと導いていく。動きたくない。働きたくない。その思いが毒となり、身体を自死へと向かわせたのだ。
 やがて、病魔は光の粒子となり、消滅していく。
「さぁ、起床の時間だよ」
 深々見の独白は、治子に届いたかどうか。
 皐月の風の中に、消えていく。

●慌ただしいいつもの朝
 ばっと目が覚める。柔らかく自身を抱きしめていた筈の布団――なぜかちょっと薄汚れていた――は恋しかったが、それでも朝が来る。
 見上げた壁掛け時計は7時半を指していた。出かける準備を考えると、ギリギリの時間であった。
「――遅刻っ!」
 やがて、いつもと同じ、慌ただしい朝が始まる。
 少し違うとすれば、部屋の中央には美味しそうな匂いを立てる朝餉が用意されていたり、畳まれたスーツやらハンカチなどが準備されている事だった。
「……妖精さん?」
 治子の疑問の声に、彼女以外いないこの部屋で答えがある筈も無かった。

「無事、出勤となったみたい」
 慌ただしく駅の方に掛けていく人影を見送った深々見は、ほっとした表情を浮かべていた。そして早起きだった事を今更思い出したように、ふわっと欠伸を零す。ああ、お布団に帰りたい。
「寝直してぇな」
 彼女のそれが伝染したのか、響も欠伸を行っていた。早起きは苦手ではないが、久々にそれをやると辛いのも事実だった。
「一言、アドバイスが出来れば……と思っていたけど、ま、次の機会にしましょう」
「ですねぇ。まずは今日の出勤が大事ですよ」
 千早の呟きに、ヒマラヤンが応える。猫の如く目を細める彼女の視線は、はるか遠く、小さくなってしまった治子に注がれていた。
「お料理、食べて頂ければ嬉しいのですが」
「大丈夫じゃろう。あれだけ美味しそうな料理を前にして、食さぬわけにいかぬわ」
 用意していた朝餉はソラネによる料理と、葛葉が作ったおかゆだった。美味しい物を食べれば憂鬱な気持ちなど吹き飛んでしまう。五月病さえも吹き飛んでしまえばいいと用意した御馳走は、良い方向に転んだだろうか。
「働かざるもの食うべからず。食べたんだから働いてくれるよ。きっと」
 料理談議に華を咲かせる二人に、イーリィも交わり、にふりと柔らかな微笑みを浮かべる。
 姦しいそんな様子に、グリゼルダは微笑を浮かべる。野々宮さんの朝が無事、守られてよかったと。
「そー言えば、今回、貴重なグリくんの召喚シーンがあったよね」
「……いえ、そんなに貴重ではないと思うのですが」
 メモリに永久保存したから、と向けられたユルの微笑に、思わずお茶を濁してしまう。サブジョブとは言え、ウィッチドクターの矜持は多少なりともあるし、求められればその力を使わない理由もない。決してレアなわけではない。多分。
「さて。ヘリオライダーに連絡つけて帰ろうぜ」
 陽光の下、明るくなり始めた一日を背にしてケルベロス達は己の住処へと戻っていく。
 誰しもが、待ち受けている寝床に思いを馳せていた。

作者:秋月きり 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2017年5月28日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 5/キャラが大事にされていた 0
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