とこしえの花

作者:七凪臣

●簪屋
 郷里へ走る最終電車を男が降りたのは、車窓の山並に揺れる花を見たからだった。
「ひっそり咲いた藤の下、だったっけか……」
 最初に留まった駅で降り、男は街灯乏しい山道を黒い革靴で歩く。
「そこに居るのは、簪屋。白に黄、紫に紅。あらゆる色の藤を飾った簪を売るっている……、っつ」
 履き慣れぬ靴なのだろう。小石に躓いた足元に舌を打ち、男は少しでも身軽になろうと、首元をきつく締めつけていた黒のネクタイを乱暴に引き抜き、適当に放り投げる。
 しんと静まり返った、何処とも知れぬ山中だ。風にでも浚われたら、夜闇と相俟り、探し出すのは難しいだろう。でも、男はそんな事を気にした風もなく、ヘッドライトが照らした藤を求め彷徨う。
「藤の簪は、二世の誓い。決して離れない――その約束の証」
 茂る木々を鳴らす青嵐に、少しだけ伸びた毛先を遊ばせ。男は虚ろな眼差しで四方を塞ぐ闇に光を探す。
「お代は買い求める者の命……いいじゃないか」
 されど、彼が出逢ったのは光に非ず。
「私のモザイクは晴れないけれど、あなたの『興味』にとても興味があります」
 知らぬ間に彼の背後に居たのは、興味を奪う第五の魔女・アウゲイアス。
 不意に聞こえた声に男は振り返り、黒のスーツの胸を巨大な鍵で貫かれ。
「……ち、か」
 失われる意識の狭間に呼んだ誰かの名は、誰の耳にも届かず。代わりに、黒とも見紛う紫の髪に艶やかな藤の簪を差したドリームイーターが顕現した。

●藤の譚
 藤に纏わる花言葉は幾つかある。
 その中でも霧島・奏多(鍛銀屋・e00122)が案じたのは、
『決して離れない』
「不死の花、とも言われるようですし。これに因んでいるのでしょう。永遠に共に……ロマンチックですね」
 リザベッタ・オーバーロード(ヘリオライダー・en0064)にそう言わしめる花言葉に関する逸話へ、興味を持った者に降りかかる凶事であった。
 果たしてその懸念は的中した。
 ひっそりと咲く藤の花に下に、決して離れぬ誓いの証となる簪を売る商人が現れる。ただし買える簪は、一人につき一つきり。何故ならお代が買う者の命だから。
 そんな噂に惹かれた男が人気のない夜分、ドリームイーターに襲われてしまうのだ。
「彼の『興味』を奪ったドリームイーターは既に姿を消していますが、新たに具現化した簪屋のドリームイーターはまだ現場にいます。被害にあった方の目を覚ます為にも、新たな被害者を出さない為にも。この簪屋を討ち果たして下さい」
 ケルベロス達にそう願い、ヘリオライダーの少年は必要事項を一つ一つ詳らかにしてゆく。
 敵が現れるのは、とある山中を走る道路沿いに咲く藤花の下。
 昼間でも日を遮るように枝を伸ばした杉の木に弦を絡めて垂れる花房を暖簾代わりに、男とも女とも知れぬ艶やかな簪屋は命を対価に商う。
「特に探す必要はありません。藤の下で、簪屋の噂話をしたり、存在を信じる素振りを見せれば、あちらから現れてくれるはずです」
 そして邂逅は即ち、戦端。
 命を対価というだけあって、簪を欲する者へ襲い掛かってくるのだ。
「あとはいつもの通りに対処して頂ければと思います」
 被害に遭った男は近くの道端に倒れているが、戦闘に巻き込まれる心配はない。それにケルベロス達がドリームイーターを撃破すれば自然と目を覚ます。
「ドリームイーターに遭遇した時は何処か虚ろな様子でしたが。アスファルトの上で意識を取り戻したら、我に返ると思います。そうすればきちんと己が身くらい処す方のようですから――」
 皆さんは、皆さんの心の侭に。
 そう言ってリザベッタは、ケルベロス達を藤咲く地へ誘う。


参加者
霧島・奏多(鍛銀屋・e00122)
繰空・千歳(すずあめ・e00639)
月織・宿利(ツクヨミ・e01366)
連城・最中(隠逸花・e01567)
アルルカン・ハーレクイン(道化騎士・e07000)
八上・真介(徒花に実は生らぬ・e09128)
御堂・蓮(刃風の蔭鬼・e16724)
藍染・夜(蒼風聲・e20064)

■リプレイ

●千変
「決して離れない、か」
 ただ星が美しいだけの闇に、人の手が作り出した明かりが灯れば、小花を連ねるぽってりとした紫が鮮やかに浮かび上がる。その移ろいをゆるり眺めた霧島・奏多(鍛銀屋・e00122)は、花房に伸ばしかけた手を引き戻し、問いの体で口火を切った。
「叶うというのであれば、何を想う?」
「私はそちらより、私の約束の証がどんな色になりますね」
 件の簪屋は、様々な色を扱うと言う。なら自分の目が留まるのは如何な彩になるのか。
「アルルカンさんの興味は其方でしたか」
 近くの木枝に小型のカンテラを括り付けたアルルカン・ハーレクイン(道化騎士・e07000)の言葉に、道脇に導のように灯りを配し終えた連城・最中(隠逸花・e01567)は眼鏡の奥の瞳を和ませる。
「けれど実際、簪を買い求めるのはどのような人なのでしょうね?」
 命を代償にしてまでなんて。正直、馬鹿げていると最中は思う。だが、想いだけではどうにもならないとしたら。
(「人は縋ってしまうのだ――きっと」)
 暗く沈んだ瞳にのみ惑いを映す最中の口調は、常と変わらず。故に御堂・蓮(刃風の蔭鬼・e16724)も聞き馴染んだ声音をさらり継ぐ。
「命と引き換えに手に入る簪……つまり、来世を約束するという意味なのか?」
 死してしまえば、買った簪を誰かに贈る事も能わぬだろうに。
「……死んだ後の事など分からない筈だ。誰かが証明したわけでもないだろう? 俺はむしろ真相の方が気に掛かる」
「蓮らしいね」
 古書を読み耽る努力家らしい年下の少年らしい言い様に、藍染・夜(蒼風聲・e20064)の表情は頬を緩める。が、風に歌った花を仰げば、男の視線は何処か遠く。
「来世まで続く契り……か」
 約束は、枷だ。未来を縛るものだ。
 それは胸に虚ろを飼う夜には理解が及ばぬ情。されど、だからこそ夜は触れてみたいと思う。
 ――生と死を越える程に揺さぶられる想いに。
「それにしても。己の命を対価に得る永遠……矛盾している気がするが、さて」
 ぼんやりと言い募る八上・真介(徒花に実は生らぬ・e09128)もまた、此度対する『敵』が産み落とされた所以を解せぬ一人。
「俺には分からないが、それだけ価値があると思う奴がいる――ってことだよな」
(「……それが、愛? 恋?」)
 己の裡に宿らぬモノに真介は首を傾げ、廻る銘々の『興味』に端を発した奏多は仄苦く笑う。
 だが、其れは自らへ向いたもの。何故なら、奏多には浮かぶ姿がある。ある上で、大人の男は躊躇うのだ。言葉にする事を。
 そんな男たちの奇妙な複雑さを、繰空・千歳(すずあめ・e00639)は明るく笑った。
「みんな、真面目ね。こういうのは浪漫よ。少しロマンチックだと思わない? 命を懸けてもあなたと共に、なんて」
 金色の眼差しは、花の香より甘く輝く。しかし、夢見るようであっても千歳も現実を視るに長ける『女』。
「――でも、そう思われるのは本当に幸せなことかしらね」
 至る結びは誰より、現実味を帯びた懐疑の形で。されど、誰かが応える解を見つけるより早く――。
「それこそ、人其々で御座いましょう」
 濃い木闇の奥から男とも女とも知れぬ人影が現れた。
「お出ましだね。さぁ、誘ってくれるかい? 俺の知らぬ永久の花苑へ」
 袖の一振りで緋色の毛氈を広げた簪屋のモザイクが散る眼を夜は見据え、最中は現実と虚構を隔てるレンズを懐に仕舞い込む。
 そして。
「まずは其方のお嬢さん、一本如何ですか?」
 並べた無数の簪から薄紅を択んだそれは、何かに惹かれるよう千歳へ迫った。

●開幕
 踊る薄紅の花を握り込み、刃代わりにされた留め針が千歳の脇腹を貫く。
 夢喰いの見事な早業に、アルルカンは遅れじと陽喰いと月喰いの二振りのナイフを手に舞う。
「形なき声だけが、其の花を露に濡らす」
 姿なき歌声に合わせた無音の剣舞は、白から黄に変わる幻の花弁を生み、花嵐となって簪屋を襲い。アルルカンの舞に誘われた最中は、軽やかに地に剣の切っ先で守護星座を描き上げた。
 発せられた光が、戦いに最前線で臨む者たちを照らす。それは自浄の守護を齎すもの。されど数えて六の前衛に、狙いは思うように果たされず。けれど貰い損ねた恩恵より、喰らった痛みを軽減する癒しに千歳は眼差しを強くすると、金色の果実を掲げた。
 ぽとり大輪の花が崩れるにも似た聖光の放射は、再び破壊と盾を担う者らを照らし。耀きが収まり切らぬ間に千歳の傍らから酒樽そっくりのミミック――鈴は、酒瓶型の武器を具現化して敵に殴りかかる。その隙に蓮は最中を補うべく霊力を帯びた紙兵を撒き、蓮が連れたオルトロスの空木は刃を口に低く疾駆した。
 始まった戦いは、既に目まぐるしく。その中に在って夜は、『噂話』が繰り広げられる間、終始黙していた月織・宿利(ツクヨミ・e01366)をチラと見た。
(「命と引き換えの、誓いの証……」)
 過去に家族を失くした宿利は、どうして自分だけが生き延びたのか今も解らずにいる。
『お前が消えればよかった』
 それは今は亡き母からの呪い。
(「だから、私は。護る為になら、この命など潰えようと構わない――」)
 心に立った波は未だ収まらず。だが気丈な娘は、真介が閃かせた白銀の槍の煌きに余韻の尾を断ち切ると、顔を上げた。
 炸裂する真介の眩い突撃を追う宿利の意識。そしてその仕草で彼女の思惑を察した夜は、簪屋の左肩が爆ぜた時には中空に居た。
「煌く星と舞う藤と――どちらが美しい?」
 夜が呉れてやるのは、脚を封じる蹴撃。流れた星光に、宿利のオルトロスである成親も神器の瞳を煌かす。
 求める結果が出難いなら、重ねればいい。
 自陣の利も不利も飲み込み、奏多も星辰の剣を振るう。攻手の隙に紛れ込ませた輝きは、千歳が先ほど受け取りそびれた祝福を授けた。

●果
 戦いを照らす光に紫髪を闇色に染めた夢喰いは千歳を狙う。
「願ったり叶ったりなのよ」
 鋼の左腕を盾のように展開し、機械人形の女は簪屋の攻撃を己が身に受ける。癒し手を担う奏多の支援も十分で、彼女の顔には余裕さえ滲んでいた。
「お返しするわ」
 鋭い一突きを貰った腕を、次は刃代わりに転じ、千歳は藤花が縫い取られた和装の胸元を切り裂く。そしてその気概に惹かれた宿利は、踏み出す間際に夜を見た。
 見交わす視線は、一瞬。けれど、多くの戦場を共にし、互いに高め合って来た二人にはそれで十分。
(「護る為に命潰えさせるのは構わない――けれど」)
 一度は封じた想いを再び胸に沸き立たせ、宿利は月とも立花とも思わせる衣の裾を払って敵に肉薄する。
(「永遠の約束を交わすのならば。そのひとに生きて、傍に居てあげてほしいと願うのは矛盾しているかしら……」)
「黄泉より還りし月の一振り、我が刃が断つは其方の刻を……!」
 辿り着かぬ解に代え、薙ぐ雪白の太刀筋は三日月を描き。散る光の花弁に、モザイクの欠片が瞬く。そして宿利がデウスエクスの脇を半歩分走り抜けた直後。
「不死なるモノに終焉を贈ろう――常闇へ落ちて散れ」
 簪屋の眼前には、既に夜がいた。
「白鷹天惺、厳駆け散華」
 宿利の間合いと速度を把握しているからこその、夜の厳き駆け。葬る刃は幾重にも閃き、無数の流星の軌跡を残して敵を千々に引き裂く。
「あ゛あぁっ」
 苦痛に仰け反る様は、風に撓る藤の花房にも似て。頭上に咲く紫も剣圧にたわんで撓んで、鈴影を地面に落とす。
「ぬしらはっ離れたくない者はっ、いぬのか!」
「、っ」
 苦し紛れかもしれない。簪屋が発した言葉に、蓮の眉宇が寄る。脳裏を過ったのは、父の姿だった。
(「離れたくない人」)
 父にとってそれは、蓮はあまり憶えていない母だろうか。
 母を喪って以来、父はあまり家に戻らなくなった。仕事が終わっても、フラフラとし。時々、無理をしている。
(「死にたいのか? 死んでどうする」)
 問いを投げつけるように、蓮はアスファルトを蹴った。
(「この簪の噂をあいつが知ったら……」)
 走る二頭のオルトロス、成親と空木を眼下に、蓮は形容しがたい未来ごと夢喰いを蹴り砕く。

(「永遠も、命を売ってでも離れ難いと思う人も」)
 金の懐中時計を握り締め、真介は意識を高める。
(「何もかも、俺には縁遠い」)
 生者は須らく死者と化す。美しき花もいつか散る――間際は、誰しも独り。
(「でも。何か奇跡があって。俺にも解る時が来たら……それは、良いことなのか。悪いことなのか」)
 欠いた綺麗な心を紫炎に燃やし、真介は己を戦場に縫い止める槍を耀かせた。
「疾く往け」
 前動作の殆どない一閃きは、速く鋭く。削った多大な余力と、『奇跡』の果ての自分はきっと今とは別物になってしまう予感を、真介は崩れ落ちる簪達に視る。
 ケルベロス達は、敵を力で圧倒した。されど、甘い言葉には少なからず心を震わせられた。
(「離れたくない、離れたくなかった――願ったことは、きっと一度もない」)
 影溶ける黒柄に星明りの刃を一度納め、最中は簪屋の懐に飛び込む。
(「……叶う筈のないものを、願える訳がない」)
「影無き刃――捕らえられるものならば」
 抱く諦念とは裏腹に、居合から繰り出される最中の斬撃は神の領域へと至り。紫電の煌きのみ散らし、デウスエクスを一刀両断する。
 血を啜った簪など、呪いと何処が違う。
 ――呪いは常に祈りと紙一重であることを最中は知っているけれど。
 何れにせよ、敵は既に瀕死に近いと奏多は見立てた。癒しで仲間を支えながら、ずっと具に判じ続けたのだ。間違いはない。
「今は、只」
 様々を飲み込んだ残滓を吐息に換え、奏多は銀を媒介に視線と掌の対角線上に状態そのものを変革する弾丸を象る。
「願いを、想いを、食い物にする輩を――倒すだけ」
 銀の一睡。奏多だけが持ち得る、時に同胞を癒す技。それで以て灰色の男は、夢喰いの命を終焉に近付けた。
「ぬしらは、欲っせぬのか!」
 多くを縛められ、創造した花を手から零した簪屋が言葉で攻める。
「所詮デウスエクスのまやかしですから」
 だが、アルルカンはそれを一笑に付した。
 不死の花、決して離れぬ約束の証。
(「我が身可愛さに、自分を選んだ私には……到底理解できないのでしょうけれども」)
 二刀の刃を繰り、アルルカンは血の香りに誘われるよう敵の間合いへ至る。
「ケルベロスとして倒すに限りますよ」
「ぬッ」
 理解できずとも分からなくないでない気持ちを心の片隅に、アルルカンが精緻に舞えば偽りの簪屋は死出の旅立ちの淵。
「――それに何より。命を対価にしてでも共に居たいという気持ちを弄ぶのは許せないもの」
 僅かに空いた間に、千歳が思った事を知るのは千歳だけ。ただ、何かを感じ取ったようにぱたたと寄った鈴へ千歳は笑みを一つ送ると、左腕を簪屋へ突き付ける。
「甘い甘い世界へ連れていってあげましょう」
 見る間にガトリングガン状に転じたそこから、千歳はカラフルな飴玉の如き弾丸を乱れ撃ち。
 弾け飛ぶモザイクの末路に懐かしい甘香を嗅いだ気がした千歳は、切ない痛みに胸を疼かせた。

●問
 ずっと一緒にいられるのなら。簪一つでそれが叶うなら――。
 この身なんて今すぐ投げ捨ててしまいたい。
「そう想うのは良いこと? 悪いこと?」
 責めるでなく、励ますでなく。春色の髪を揺らし首を傾げる千歳に、久嗣と名乗った男は濡れる瞳を静かに伏せた。
「決定権は、あなたの手の中よ」
 生きるも死ぬも。運命を定めるのは、他の誰でもない自分自身。
「……そう、ですね」
 久嗣の再起を願う千歳の言葉は、麻痺に凪いだ男の心に落ちた雫。小さな波紋を立てて、彼を常世へ引き戻す。
「俺も、現実を……ちゃんと受け止めます」
 ありがとうございます、と頭を垂れた久嗣は、まだどこかよろめきながらも明かりの灯る駅へと還る。
 不死と譬えられる花とて、真の永久に非ず。ずっと見つめていたくとも、叶わぬのが世の摂理。
 ならばせめて、と藤の花を見上げていた真介は、遠ざかる喪服姿の背中を眩く見た。
 久嗣の胸裡を真介が理解する事はないけれど。それが花と同じくらい、尊いものだというのは分かったから。
 不確かな未来と、守り続けたい約束と。
(「どちらの方が大事かなんて、未だ選べそうにはありませんが」)
「命あっての物種という言葉は、どちらにも当て嵌まることではないかと思いますよ」
 誰に聞かせるつもりもないアルルカンの呟きが、夜風と共に鈴の如き花房を微かに擽る。
 そっと漂う紫の薫りに、違え得ぬ約束を抱く男は目を細めた。

 二世の誓い、永遠。
 果たしてそれは、真に美しいものなのか。
(「不確かなもので生を、残された者の義務を、放棄する……なぜ、生きている身内を省みないのか」)
「現在を全うしないのに先を求める……俺には、分からん」
 間もなく、十七。若竹の如き蓮の吐露に「そうですね」と頷くも、一回り年長の最中の心は揺れる。
(「……解っている」)
 幾ら否定しても、最中の中に浮かぶ顔。つまりは、それが答え。
 ――離れたくない。
 だとしても。繋ぎ止める術など、無いのなら。
(「気付かないままでいれば、いい」)
 レンズ越しに藤を見上げる男の視界は、春霞のまま。

「……君に、離れられない人はいる?」
 問いの応えは、曖昧な笑み。つまりまだ己は夜に届かぬと宿利は知り、一抹の寂寥を微笑むと、寄越された同じ尋ねに藤へ伸ばしていた手を胸元へ遣る。
「私も……どうかな」
 母の呪縛からは、離れたとは言い切り難く。まだ見ぬ先で、大切な人と共に生きる約束を交わ日を迎えられたなら――。
「断ち切ることが出来るのかしら……」
「いつか君が伴侶を見つけて、幸せになれるよう願うよ」
 言って宿利の頭を撫でる夜の手は優しく。
(「いつか君も……生きて、幸せな約束を」)
 闇に溶けると知っていても、宿利はそう祈らずにおれず。だが、照らされた侭の花から暗がりへ流された男の瞳が視るのは、双子の片割れの影。
 血の繋がりは、絶とも消せず。定めこそ、生まれながらの枷。
「私は……何を絶てば良いのだろう?」
 自身の鼓動か、或いは。
 花房を揺らし続ける風への囁きへは、無論返る音さえ無い。

 約束も、枷も。
 私は要らない。

 離れる事なき永久。
 それは理想の様で――やはり、呪いの様で。

「俺は、どうするんだろうか」
 手に取り損ねた簪を思い、奏多は想う。
 自由で居て欲しいと願うのも真実。けれど、生涯繋ぎ止めてしまいたいとも。
 だのに。いつ訪れるとも知れぬ離別が過れば。
(「深入りさせたらいけない――しては、いけない」)
 其れが無様な足掻きと知りながら、直向な顔を脳裏に描き奏多はまた短く息を吐く。

 甘さも、苦さも。
 全てが綯い交ぜになった心たちを俯瞰して、蔓を他者に絡めて命を繋いだ花は、春の終わりと夏の始まりの夜にただただ無言で咲いていた。

作者:七凪臣 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2017年5月12日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 2/キャラが大事にされていた 7
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