灰風一夜

作者:雨屋鳥


 見上げる月に翳りはなく。
 見下す月に悪意はない。
 であるならば、もはや宿命などなく、この研鑽に意味はない。
 ならば、何のためにあるのか。そう問われたのならば、伏見・万(万獣の檻・e02075)は、旨い酒の為だ、とのらりくらり宣うのだろう。
「……んだ、こりゃ」
 万は埃臭い壁に肩を預け、言った。
 厭に鼻につくと、廃工場に忍び込んだはいいものの、そこにいた存在に逸ったかと彼は顔をしかめた。
 デウスエクスの気配に満ちた場。じわじわと体内の獣が、目に見えぬ侵食に危険信号を放つ。
 辺りを埋める実験機材。明らかに空気から隔離されたガラスケースは、おが屑が引かれ、まるでペットショップのゲージを思わせる。
 だが、その中には何も入っていない。空っぽだ。
 几帳面なのだろう、並べられたフラスコ等には、薄く埃が纏っている。
 白衣にガスマスクをつけた、鼠の獣人がそこに立っていた。破れた窓から月を見上げている。振り向く視線がぶつかった。
「おい、てめえ。……俺と会ったことあるか?」
 言い知れぬ既視感を感じて、万はそう、声をかけていた。
「……いや、残念ながら知らない顔だ」
 そのデウスエクスは、灰色を思わせるような陰鬱さで答える。
 答えて、少し息を吸い込んだ。
「だが、君はウェアライダーだね。なら、丁度いいか」
「……あ?」
 そう告げると、唯一埃を被っていないトランクを開きながら、名を名乗った。
「私はイチヤ。これでも研究者でね」
「まあ、……少なくとも、ミュージシャンって格好じゃあねェわな」
「ああ、その通り。門外漢だとも」
 何かの装置を素早く操作する。
 放たれた。何が。見えぬ何かが。
 瞬く間にこの場を、空間を蹂躙し、充満していくのを直感で感じる。
「グラビティ・チェイン。それによって引き起こされる病を、造り、研究していたんだ」
 まあ、望む実を結ぶことはなかったが。冷めたように睨む万に、イチヤはそう笑った。
「育てていた種は、別の花だったという事らしい」
 告げた彼に、万は情のひとつも動かさない。ただそれを敵と見定め、壁から肩を離す。
「感傷に浸ってるトコ悪ぃが――くたばってもらうぜ、センセイ様よ」
 万は牙を鳴らし、拳を握った。
 この戦いは、何を生む事もない衝突なのだろう。既に終わった物語の、あとがきのあとの話。終われなかっただけの戦い。
 終止符はまだ。


 万がデウスエクスと遭遇し、一人戦闘へと突入する。
 そんな予知と共にダンド・エリオン(オラトリオのヘリオライダー・en0145)はケルベロスを招集した。
「場所は、郊外の廃工場。設備は完全に停止していますが、デウスエクスの拠点となっていたところを万さんが発見する、という次第です」
 到着は、戦闘開始直後か。恐らく到着後すぐに戦闘へと転じる必要があるだろう。
「敵は恐らく、自分の持つグラビティ・チェインを変質させ、病という概念として操っています」
 装置は、その切っ掛けにすぎない。破壊しても意味はない。
「万さん一人では、恐らく勝利することは難しいでしょう」
 彼が大人しく敗走してくれる訳もない。
「万さんの助力と、デウスエクスの撃破をお願いします」
 ダンドはそう告げて、ケルベロス達を送り出していった。


参加者
伏見・万(万獣の檻・e02075)
月隠・三日月(暁の番犬・e03347)
玉榮・陣内(双頭の豹・e05753)
エヴァリーナ・ノーチェ(泡にはならない人魚姫・e20455)
ウィルマ・ゴールドクレスト(地球人の降魔拳士・e23007)
バラフィール・アルシク(闇を照らす光の翼・e32965)
グラハ・ラジャシック(我濁濫悪・e50382)

■リプレイ


 ああ、既視感の正体はそれか。
 伏見・万(万獣の檻・e02075)は吐く息に得心を混ぜて吐き出した。
 いつか取っ捕まって、研究材料にされかけた記憶を思い出す。逃亡の際得た情報、名前。――イチヤ。
「図らずも、礼参り」
 絞られた口端が笑みに上がる瞬間。工場の割れた窓。それを甲高い烈音共に突き破られた。
「は、下らねえ」
 月灯りに知った顔触れを一瞥し、彼らが脚を着けるのを待たずして、万は駆け出した。
 床が震え、体を押し出してくれる。調子が良い。奥底に眠る獣達が、喰らわせろと叫んでいる。
「まあ、テメェが何かも知ったこっちゃねえ!! 引き千切って、噛み砕いて殺してやるよ!」
 肉薄。
 距離を取ろうとしたイチヤを追う豪烈な鈍器。竜の力を噴出し、万の剛力すら振り回すハンマーがイチヤの胴体を、その残像を捉える。
「いや、怖いね」
「ああ?」
 素早く屈み、竜鎚を凌いだイチヤへと、眼光鋭く万が叫ぶ。
 暴れる鎚から片手を外し、己の首の皮を剥ぐように五指を立て、引き裂いた。噴き出す筈の血はなく、ただ黒が首から肩へ、腕の先へ染め上げる。
 黒が膨らみ、牙が広がり。腕を喰らったように竜の顎が開く。
「まだ早ぇよ」
 竜が呑み込んだ。


「大事ないか、伏見殿」
 月隠・三日月(暁の番犬・e03347)が駆け寄るなり、怪我の有無を見たのに万は、やや迷惑そうにその視線を払いのける。
「今一発殴っただけだ、何も始まっちゃねえよ」
 それより。
 過ぎる影に舌打ちの音。
 玉榮・陣内(双頭の豹・e05753)はそれを逃さなかった。
「ありゃ、長引かせんのは厄介だぞ?」
「ああ」
 直撃せず、削れているが軽微。手応えを伝えた万に、陣内は怒りと僅かな享楽を滲ませて告げた。僅かに痺れる指先に犬歯を立て、痛覚を確認する。
 まだ、ちゃんと痛い。鉄の味に笑み。
「望むところだ」
 ウイングキャットの尾から摘んだ火灯る向日葵をケルベロスチェインに絡ませる。纏う足りぬ拘束具に意味があるのか、万は問いはしない。
 目を閉じた。燥ぎ回る体内の獣が隠れたその鼠を嗅ぎ分ける。
「こちらも、そのつもりで参りましたから」
 よく知る声に、そうかとぞんざいに返す。
「聖域をここへ――、さて、どこへ行かれたのでしょうね」
 レフィナード・ルナティーク(黒翼・e39365)の言葉は、探すそれではなく、万への確認だ。
 万が捉えると確信している声。
 万は瞼の裏に透ける、レフィナードが施したのだろう守護陣の光に、欲する所をよく知る奴だと、笑う。声の返事代わりに、イチヤに意識を集中させていく。
「逃げれる、なんざ思っちゃねえわな」
「まさか」
 獰猛にその捉えた気配へと投げた言葉に、グラハ・ラジャシック(我濁濫悪・e50382)の放った言葉が後を追う。
「そんな怠い事されんのは勘弁だぜ」
 埃の積もる床を蹴り、重厚な質量と共にグラハの体が跳ね上がる。踏み込みの衝撃は腹の底を震わせるように重いというのに、ドラゴニックハンマーを操るその姿には軽さすら感じ取れる。
 ケルベロス全員の目を盗み姿を眩ませたならば即座にゴッドサイト・デバイスを起動し、居場所を捕捉できる。瞬時に1km以上を移動しないのであれば逃げられはしない。
 獣鬼が歯ぎしりをするように、砲撃形態へと変形した竜鎚の砲哮を、グラハは迷いなく工場の一角、イチヤの隠れた設備へと撃ち込んだ。
「――ガッ!?」
 建物ごと震える衝撃。粉塵を纏い飛び出したイチヤは、しかし、既に回り込んでいたグラハの姿に反転、しようとしたそこへと砲撃形態のままの鎚の乱雑な横殴りに、容易くその矮躯は吹き飛んだ。
 と同時、放った右腕に強烈な痛みが走る。血管の内側を小指ほどの大きさの何かが無理やり抜けていくような。心臓が鼓動を打つたびにそれが全身に放たれていく。
「病……病ね」
 鎚に仕込んでいた発火装置による炎を払い去り、立ち上がるイチヤを睨む。
 この痛み、放置すれば成程一時間も立たずに命をも奪うだろうそれ。確かに、それは目の前の存在の成果物に他ならない。だが。
「それで結局、お前は何やるってんだ、テロか何かか?」
 僅かに見えた首が黒く染まっている。明らかに生来の色ではない。自らをも病毒に侵されながらも、それを武器として振るう意味は。
 問うたグラハに、しかし返る言葉の意味は知れない。
「何を為すもないさ。遺すだけだ」
「なんだ」
 ――そりゃ、と返しかけたグラハへとイチヤは一足に肉薄する。素早いが脅威は感じない。それでも。
「ちっ」
「悪いが、だからと今更命を全うするつもりもないのでね」
 グラハの振るった鎚を潜り抜けたイチヤの通る後に、火炎を纏う鎖が波打ち、灼光の火花が散った。グラハが気を引いた隙を陣内が突いた一撃が虚空を裂いた。
「遺す?」
 病を、だろうか。
 まるで、病を自分の所有物とでも言うようだ。エヴァリーナ・ノーチェ(泡にはならない人魚姫・e20455)は、己を蝕む強烈な眠気にも似た目眩を、オウガメタルの放つ暁光に溶かしながら、疑問に思う。
 囚われている。そうエヴァリーナには見える。
 病を見つめた末に囚われ、その病に利用されている。意思なき病に従っている。本来、見るべきものを見失っている。
「――私がするべきこと、は」
 癒やすこと。
 オウガメタルのそれとは違う光が、彼女の指先から足元へと溢れ、陣を描き出す。溢れるは空が零した涙の如き光。
「祝福のキスを」
 ウィッチドクターの努めと誇り。軽く握る手の内にあるのは、揺るがぬ決意。


 体を覆うその光にバラフィール・アルシク(闇を照らす光の翼・e32965)は、踏み込んだ足先の感覚を忘れていた事を知った。
 守らねば。そう思っていたというのに、十全な状態であることを失念していたとは。バラフィールは、失笑を堪えきれなかった。僅かに肩を震わせれば、全身の力が抜ける。無理に動かしていた体に余裕が生まれる。
「感謝します」
 手に馴染む木の感触を握り直す。避雷針、その先端に嵌められた赤石が澄む輝きを見せる。
「よく、動きます、ね」
 張り巡らせた赤い鋼糸の縛りを擦り抜けたイチヤにウィルマ・ゴールドクレスト(地球人の降魔拳士・e23007)は感心したように言ってのけた。
 直後、誘導した抜け道の空間を爆発させたウィルマは、その先の攻撃を駆け抜けた三日月に譲る。
「さ、て……」
 三日月は反発した床にほんの僅かに隙間を空け、滑るように跳躍する。風を切る。構えた惨殺ナイフの刃を空間を分かつように、迫るイチヤの首や眉間ではなく、胴体へ。一歩横へ逸れた体を追い振り上げ、突き出しては引き戻しながら振り払って、地面に這うように避けるイチヤへと跳躍の勢いを残す蹴りを叩き込む。
 軽い丸太を蹴り上げたようにイチヤの体が浮いた。
「――」
 息を吸う。三日月は、その好機にしかし、一歩体を退いた。ここから踏み込めば、射線の邪魔になる。
「ぁ、ぐッ」
 慣性に従うだけでは、攻撃の餌食になる。イチヤが設備の角を無理に掴みその勢いを削いだ、しかし、その瞬間を紅蓮の槍がその体に突き立っていた。
「愚策、とは言えないでしょうね」
 手にした杖のその先から、赤光を放ったバラフィールは、瞬く宝玉に、少し目を眩ませながら言う。回避の行動が仇となり、全身にその光を纏い吹き飛んで、壁に激突したイチヤ。それに巻き込まれて、壊れた散らばった器材を一瞥する。
「是非とも研究内容をご教授いただきたいものですね」
 体内を巡るものを狂わされている。既に戦闘開始から時間は過ぎているが、事前に対策を練らなければ、負けないまでもどれ程の長丁場になったことか。
 病。グラビティ・チェインに作用する病。
 バラフィール自身、ドクターだ。イチヤの研究に興味はある。それは『病魔』として召喚されるそれと関わりがあるのではないのかと。
 放置され戦闘の余波で壊れたトランクにあったのは噴霧装置と注射器。
 残留物を回収できれば、研究を知る手掛かりになっただろうが、今はもう瓦礫に紛れてどこにあるのかすら分からない。
「遺す、というのが自らの研究に対してではないのは、分かりますが」
 この場を見れば分かる。研究所などと言える場所ではない。
「残っているのが、彼だけだというのなら」
 バラフィールは、治癒の雨を降らせて仲間を回復する。
 息が苦しい。
 今更か。
「……根絶させていただきます」
 瓦礫と化した設備を踏み越え、彼はイチヤを追う。


 世界が回る。こみ上げた吐き気を抑え込み、三日月は逃さないとイチヤへと駆ける。
 病の進行、重症化。肉薄する度に重くなっていく体に三日月は、彼よりもより接近し攻勢に出る二人のケルベロスを思う。
 狂月病の研究者。そのイチヤに向かう万と陣内。その両者ともがウェアライダーであり、その病の影響も集中しているだろうという予想に、意識を割かざるを得ない、というべきか。
 鎖を振るう陣内の腕に伝う血は、巻きつけた鎖がその毛皮を裂いたのか。
「ちょこまかと、くたばりやがれやぁッ!」
 黒顎が、竜鎚が、破壊を撒き散らすその只中に万がいる。
「助太刀に――っ」
 傷が開けばまたたく間に黒に染まり傷を縫い止めるイチヤへと猛攻する万に合わせて、攻め入ろうとしたその瞬間に、殺気が三日月の首を貫いた。形のない牙が気道と、頸動脈を裂いたような感覚。
 万の眼が、三日月を睨んでいる。
「三日月殿?」
 だが、それは息を呑むよりも早く途絶え、犬鷲が傍を駆け抜けた後に追い付いたレフィナードの声にハッとする。
「いや、大丈夫だ、ルナティーク殿」
 それより、と三日月はレフィナードが攻勢へと出たという事実を確認した。
 補助へと回っていた彼が攻勢に動いた。
「いたちごっこは終わりです、畳み掛けましょう」
 頷いて三日月が駆けていく。
 レフィナードとて、万の様子には気付いていた。その上で放置することにしたのだ。
 これ以上手を貸したならきっと彼は気に入らないだろう。それに、必要もないと知っている。
 三日月が一気に近づき、碧の嵐風を纏う刃を振るった。
 それは慈悲の色。しかし、戦の場においてそれは反転する。無慈悲なる剣閃、四の風刃。
「……っ」
 嵐を纏う刃が裂いた傷は、黒に染まるよりも早く錆びついて塞がらない。
 怯む暇も与えず、焦げぬ熱が地獄よりウィルマの手の中に這い上がる。
「狂月病は、もうあり、ません、が――」
 蒼炎の剣を投げ放つ。
「まだこう、して形を残って、いるん、ですね」
「うん、狂月病は終わっていないよ」
 エヴァリーナは断言した。
 原因は排除した。ウェアライダーは絶対制御コードから開放された。だが、その後遺症を遺す者は少なくない。刻まれた記憶が狂月病と同じ症状を起こさせる事もあるだろう。
「まだ、そこに患者さんがいるのなら――」
 刹那、鋼糸がエヴァリーナを引き寄せ、言葉を遮った。と同時に、背後からの攻撃にウィルマが風を弾き吹き飛んだ。
 錐揉みするように瓦礫へと突っ込んで、ウィルマは血咳を吐く。心配したのか、否か、ヘルキャットが尾を振り覗き込む。
「ひ、ひ……運の悪い」
 背後、――味方から受けた攻撃に、驚きと愉快さを覚えながらウィルマは立ち上がりながら、イチヤへと迫る獣を見た。
 万は、呼吸をしていた。
 万は、揺れている。
 息を吸っているのか、吐いているのかも分からない。ただ呼吸をまだ続けていることだけは分かる。文字の一つ一つを浮かべる度に、その知識を全て放り投げたくなるような頭痛が襲う。
 一秒ごとに何故走っているのかを思い出し、一歩ごとに体が内側から湧き上がる獣に食い破られた一瞬前を思い出す。
 一呼吸ごとに蘇生を繰り返す幻想に、次は死なないと決める。
 死にたくないと叫ぶ。
 全てだ。全て――、全て喰らわなければ、この獣に喰われる。あれは味方だ、それは敵だ。だからなんだ、全部だ。全部喰らう。
 赤い血が見える、青い心臓が見える。飲み込む黒い喉が見える。
 喰らえと。
 喰らえと、喰らえと。
 叫ぶ。


 月に狂う獣は醜い。
 だが、その狂いを拒絶する情にも疑念を感じていた。
 月に狂うこの幸福感はなんだというのか。己が己でなくなり、吹き荒れる嵐の中に真裸で立ち竦み、口に注がれる熱した鉄砂に溺れていくだけの苦痛に、しかし、拒めぬ温もりは確かにあった。
 その醜さを知りたかった。
 その一心で螺旋忍軍の一派にまで取り入り、研究を進めた。結局、彼らは絶対制御コードへの抵抗策を探していたのかとも思うが、別離した今となっては、真実は知れない。
 万と陣内を、ともすれば陶然と見る。
「醜いな」
 嫌悪を零す。だが、マスクの下に笑みが浮かんだ。
 黒豹となった陣内が、鎖を操ることも忘れ、その爪を光らせる。その腕に爪を立てる猫を振りほどき、迫る。
「ああ、全くだ」
 頭の中をかき混ぜられるような不快感。
 何もかも壊してしまいたくなる衝動。
 容易く砕けた壁を目にしたときの――。
 覚えている。
 苦しさを。快楽を。高揚感を。
「それを、遺したいとは思わない」
 思い出す。悪夢の甘露を。
 翡翠の羽が腕の傷に突き刺さっている。鎖に絡めた花が火炎巻く。陣内の腕を焼きながら炎の拳が、イチヤの交差した腕を焼き焦がした。
「――」
 衝撃に後ろへと弾かれたイチヤの腕は限界だったのだろう。瞬くに炭化しながらも、満足気にイチヤが口を開く、その寸前。
「ぅ、ルせえッ!!」
 万が、この世全ての音を殴打するがごとく、声を張り上げた。
 それは、己の中から響く声を払ったのか。それともイチヤの言葉を遮ったのか。
 ただ、真っ直ぐにイチヤを見た万は、走ることなく、とはいえ、緩慢とは言えない速度で歩み寄る。イチヤは、足を一歩退くだけで動かない。
「テメェが正しいかどうかなんざ関係ねえ、テメェのケッタクソ悪い実験にも、感傷にも、付き合ってやる気はねぇ」
 胸倉を掴み、宙にぶら下げるように、イチヤの体を持ち上げていた。
「正直どうでもいい、ただ、テメェを喰らう。それだけだ」
 掴み上げた万に、イチヤは割れた窓へと視線を向ける。
 ここからでは、月は見えない。
 語る。
「私は、月に狂える獣でいたかった」
「知るか」
 答える。
 禍竜がイチヤを飲み込んだ。
 空になった右手が脱力し、体の横に揺れた。


 三日月が、最初にイチヤの立っていた場所へと手を合わせているのを、万は無感情な眼で見つめていた。
 結局、この戦いは何だったのか。
「――ただの他人の後始末だろ、はっ、胸糞悪ィ」
 誰のか。
「はあ、知るかよ」
 自問に呆れた返事をした万は、スキットルの蓋をひねる。
 上る酒の香りに、一気に流し込めば、アルコールが喉を焼いて、腹が冷えては騒ぐ。
 瓦礫でスキットルの底を叩く。
「今はそれが、俺の仕事ってか」
 甲高いその音に、万はもう一度酒を呷る。
 ここからなら、月はよく見えた。

作者:雨屋鳥 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2021年1月23日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 5/感動した 0/素敵だった 1/キャラが大事にされていた 0
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