レコンキスタ

作者:藍鳶カナン

●アノチェセール
 夢と現のあわいが蕩けて滲んで、融けあっていく。
 薔薇色の残照が空と海を染めて、菫色の宵が世界にするりと、ゆるりと紗をかけていく、魔法めいたひとときが、現の世界に夢の幻想を融かし込むような心地を誰もの胸に燈した。
 日没の直前、劇的な彩が世界を彩る、マジックアワーと呼ばれるひととき。
 昼ならば青い空と海に鮮やかに映えるだろう地中海沿岸を思わす白い街並みは、薔薇色の残照をほんのり映して、白い壁を切りとる青い窓枠のなかから、石畳の路に建つ街灯から、甘やかな蜂蜜色のあかりを蕩けさせながら、まるで世界ごとゆっくり菫色のリキュールへと溺れていくように宵を迎えるのだ。その様はこの海辺の地が、地中海沿岸の街並みを模したショッピングモールであることを忘れてしまうほどに、美しい。――そして。
 初夏の宵のこのひとときばかりは、モール自身も本来の己を忘れ、美しい異国の街並みの幻想的な宵の日常を演じ、ひとびとを買い物客ではなく、街の住人のように、あるいは街を訪れた旅人のように迎えてくれる。
 幾つもの店々は美しい民家を装い、幾つものカフェや料理店達は地中海沿岸の街のバルを装って。バルで振舞われる美酒や美食は店内でなく、幻想的な街並みをゆうるり散策しつつ楽しむもの。
 綺麗で小振りな硝子杯に美酒を揺らし、楊枝に刺したピンチョス仕立ての美味を摘まみ、涼やかで艶めかしい宵風を泳ぐよう、揺蕩うように初夏の宵を歩めばやがて、街が世界ごとブルーキュラソーに溺れていくようなひとときが訪れる。――それは。
 日没の直後、静的な青が世界を彩る、ブルーアワーと呼ばれるひととき。

 昨年の春に全面改装されたショッピングモールがはじめて迎えた初夏に、その宵の光景が予想以上に美しかったことから始められた、名前のない催し。
 だが、今年の初夏もと皆が楽しみにしていた矢先、デウスエクスの襲撃があった。
 絶大な力で蹂躙された地、破壊の痕跡が残る地を、ケルベロス達の癒しで潤して欲しいと多くのひとびとが望んでいる。ヒールでの修復を。
 ――ヒールでの、祝福を。

●レコンキスタ
 レコンキスタ――直訳では『再征服』となるそれは、ムスリム勢力の侵入と支配を許したイベリア半島をキリスト教国家が再征服していった、国土回復運動を指す言葉。
 現代のこの国なら、デウスエクスの勢力下にあるミッション地域の解放がレコンキスタと言えるだろうか。
「けど、このお仕事もある意味レコンキスタな気がするの~」
「この星を害する力の痕跡を、この星を愛する力で再征服――ってイメージかな。成程ね」
 真白・桃花(めざめ・en0142)が尻尾をぴこぴこ弾ませつつ語れば、狼耳をぴんと立てた天堂・遥夏(ブルーヘリオライダー・en0232)が、あなた達はどう思う? とこの場に集うケルベロス達を見渡した。
 何故『レコンキスタ』なんて言葉が出てきたかと言えば、ヒールでの修復を依頼してきた件のモールが、名前のなかった初夏の宵の催しを、修復後に『レコンキスタの宵』と称して催すことになったからだ。
 地中海沿岸の街並みを模したモールにとって、ヒールでの修復は間違いなく祝福となる。
 癒しで燈る幻想は海辺の地をいっそう美しく彩るだろう。訪れるひとびと皆に夢のようなひとときを贈るだろう。夢と現のあわいが蕩ける、初夏の宵にはなおのこと。
 破壊の痕跡を癒しの幻想で再征服して、蕩けるように酔わせてくれる宵へ泳ぎだそう。
 初夏の宵のこのひとときばかりは、モール自身も本来の己を忘れ、美しい異国の街並みの幻想的な宵の日常を演じ、ケルベロスたちを街の住人のように、あるいは街を訪れた旅人のように迎えてくれる。
 綺麗で小振りな硝子杯に揺らす美酒はどれにしようか。
 磨いた水みたいに透きとおる蒸留酒はアニスを香らせて、水に見えるのに水を注げば白く霞むことから獅子の乳と呼ばれるトルコのラク、ギリシャではウーゾ。あるいは極上にして蠱惑の甘さをくれる琥珀色のスイートワイン、キプロスの至宝と謳われるコマンダリアか、それともイタリアはアマルフィの太陽とレモンの恵みたっぷりな、飛びっきり冷たくて甘いリモンチェッロを注いでもらおうか。
 もしも小さなチョコレートの杯に出逢ったら、杯をそのまま召し上がれ。
 チョコレートの裡から溢れる濃厚なさくらんぼ酒は、ポルトガル生まれのジンジーニャ。
 酒を嗜めない者は白葡萄スカッシュで作られた酒精なしのサングリアを硝子杯にどうぞ。
 綺麗で小振りな硝子杯に美酒を揺らし、楊枝に刺したピンチョス仕立ての美味を摘まみ、夢のような幻想に彩られた初夏の宵を泳ぐように、揺蕩うように歩めばきっと。
 現の忙しなさに渇いた心も、夢の潤いで再征服されていく。
 そうしてまた一歩進むのだ。
 この世界を、デウスエクスの脅威より解き放たれた――真に自由な楽園にするために。


■リプレイ

●レコンキスタ
 薔薇色の残照が、世界に光と影を描きだす。
 影絵のごとく佇むオリーブの樹の梢が初夏の宵風に揺れ、翡翠色の果実から強くきらめく夏緑のしずくが滴って――石畳の街路に跳ねる寸前で、光の蝶になって羽ばたいた。
 そもそもオリーブの樹からして幻想か、と笑った巴が食むピンチョスは鴨のパストラミとグリーンオリーブ、燻製肉の旨味に重ねてぷつり弾ける果実から果汁ともオイルともつかぬ滴が溢れる様に現を確かめ、薔薇色の残照と菫色の宵にゆうるり溺れる世界を泳ぐ。
 昼には輝くほどに白い街並みも夢のごとき彩に溺れて、青い窓枠から、立ち並ぶ街灯から蜂蜜色のあかりが溢れる様も幻想めくけれど、石畳に色濃く長く、まっすぐに伸びた人影に確かな現を辿って、若き同族の名を呼んだ。
 軽く鳴らす硝子杯に揺れるは互いに白く煙る獅子の乳、これ絶品、と遥夏の指先でひらり踊る楊枝の先には花ズッキーニのフリット。倣って手にしたフリットを頬張れば、熱い花の裡から完熟トマトの旨味が白身魚の甘味に絡む鱈のトマト煮込みが巴の口中に躍り、アニス香る蒸留酒を傾けたなら、強い癖が海鮮の旨味を際立たせ、酒精が言の葉を誘う。
 極東の島国に創られた、地中海沿岸を思わす街並み。
 元より夢を顕現させたような景観の地であれば、襲撃前と変わらぬ姿には戻せぬ寂寥感も軽くなりはしたが、それでも、自分には呪われた手と感じるそれの癒しが幻想を燈すたび、平和が戻る歓びと一抹の寂しさが綯い交ぜになるようで。
 変化を恐れるわけじゃないが、と呟けば、
「無為に生きられる場所があれば良いと、そう願うのはエゴなのかね」
「寧ろ、それをエゴだと思うことのほうがエゴなのかも」
 願うことそのものを真に縛れるのは当人だけだから、と続けた遥夏が、巴さんも何処かで解ってるんだと思うよ、と挑むように笑み返した。
「永遠に変わらないのなら、それは死んでいるのと同じこと――ってね」
「……相変わらず衝いてくるよな、君は」
 痛い処を、とは口にせぬまま苦笑する。
 確かに、変わるのも悪くないと思えてきているのは、きっと。
 ――己が言動を罪と決めるのは、他人じゃなく、自分。
 過日に渓流で口にした言の葉が胸に萌した理由はあえて追わずに、ルーチェは巴や遥夏と杯を掲げ合うだけの挨拶を交わした。奇抜な造形が生まれるものとばかり思っていた幻想は艶やかな緑の蔓葉に深い紅玉色の葡萄を実らせて、トラットリアの店名を刻んだ看板を趣味好く彩っている。今宵はバルを装うそこで手にした杯には華やかなレモン色が揺れて。
 太陽の彩もレモンの恵みも鮮やかなリモンチェッロ、
「母国でだとそう心躍ることもないのに、異国で出逢うと飛びついちゃうなんてねぇ」
「ルーチェは甘いもの苦手なのにね。やっぱり望郷の念を誘われちゃうってことかな」
 故郷からは離れ、然れど間違いなく故国の街であるアマルフィから海を越えてきた美酒の杯を兄と鳴らして、ネーロも氷点下で冷やされてなおとろり滑らかな陽色の滴を傾けた。
 極上の冷たさ甘さ、涼やかに身の裡を翔けぬけるレモンの香りとほろ苦さ。
 それらとともに初夏の宵風に乗る心地で歩む石畳の路を幻想の細波が翔け、薔薇と菫色に溺れる白い街並みを影絵のゴンドラがゆうるり渡れば、青玉と紅玉の眼差し交わした双子の心も故郷へ翔けるよう。
 熱々のまあるいライスコロッケの芯から豚挽肉とトマトのラグーが溢れるアランチーネ、夏野菜のカポナータが懐かしい甘酸っぱさで迎えてくれるブルスケッタ、いずれもが一口で味わえるサイズで仕立てられた美味に舌鼓を打って、柔らかに青かび舞うゴルゴンゾーラ・ドルチェに蜂蜜マリネのオレンジを重ねたピンチョスにどちらからともなく微笑する。
 あの子が好きそう――と思い浮かべたのはともに、愛する妹の笑顔。
 大人になった妹も一緒に酒杯を掲げる、そんな未来を楽しみに生きるのも悪くない。
「今年の夏は流石に帰ろうか、ネーロ?」
「そうだね、星の子も連れて……皆で帰ろうか」
 兄妹三人揃って両親の墓前に、と自然に口にして、再び杯を掲げ合う双子の行く先で。
 幻想で生まれた白亜の噴水が、星の煌きを噴き上げた。
 清冽な水飛沫の代わりに降る幻想の星屑の煌きを潜り抜ければお次は華やかに降る幻想の花々に迎えられ、ルネサンス絵画から抜け出してきたような神話の花乙女達の幻想に二人で手を振れば、海咲の硝子杯で白葡萄スカッシュに沈む白桃とラズベリーが弾む。
 こちらも弾むように赤の髪を翻したジェミと一緒に笑みを咲かせたなら、
 ――乾杯!!
 気泡も楽しげに弾む白葡萄の滴は夏果実の風味も溶け込む幸せの味、
「私はまだ飲めないけど、お酒ってどんな味なんです?」
 訊かれたジェミはチョコレートの酒杯を傾けて、蕩けるように濃厚なさくらんぼの甘さと意外に強い酒気が指先まで広がる感覚に瞳を細めたけれど、
「お酒の味は雰囲気と、一緒に飲む相手で美味しくなる感じかな」
 今宵は彼女とともに揺蕩う幻想に酔う心地で笑み返す。海咲さんが大人になったら一緒に飲みましょう、その時は世界が真に自由な楽園になっていますように――と、未来の約束を結べば、ふわり眼の前を舞った幻想の花が、光に変わって、消えて。
 胸を衝かれる想いできゅっと目を瞑った。
 素敵なこの初夏の宵も、自分自身もいつかは消えるのだから、この心は幻想にはしない。意を決して目蓋を開き、唯ひとりの相手を見つめ、その手に己のそれを重ねて。
 幾度となく呑み込んできた言の葉を、確かに紡ぐ。
「私は、恋の相手として、海咲さんの事が大好きです」
 重なる手のあたたかさ、まっすぐ伝えられた想いに、海咲の胸が震えた。
 嬉しいと、間違いなくそう感じるけれど、胸の芯では氷波の絆が何より強く煌くから、
「――私はその想いに、同じものをお返しできません」
 海咲も自身の心を隠さず開いて見せた。大事なひとから思いをもらって、それに応えて。私の一番は、私の恋はそのひとのもの。だから、
 ごめんなさい。
 返った答えが胸に染み渡れば、瞳の奥に燈った熱が滴になって溢れだす。
「うん、うん……やっぱり貴女は素敵な子」
 こんなに優しくて誠実に、初恋を終わらせてくれるなんて。
「な、泣かないでください。そう想ってもらえて、とても嬉しかったのは本当です」
 私にとってジェミさんは憧れのひとなんですから、と続く海咲の言葉が心からのものだと解るから、ジェミは零れ落ちる涙をも、彼女が憧れてくれた最高の笑顔で彩ってみせた。
 ――ありがとう、私の初恋のひと。

●アノチェセール
 盛大に轟く爆音、壮絶にして膨大な炎熱が白い街並みを呑んだ黄昏を、夕陽で眩い朱金に煌く氷晶の嵐が翔けて――。随分と派手な戦いになりましたからね、と翡翠の双眸を細めて述懐するカルナに、それなら尚更盛大に癒さなきゃですね、と灯が奮起して。
 天使の極光や癒しの花々に潤された街並みは今、薔薇と菫色の魔法のひとときを越えて、優しく霞むのに何処か透明な、青のひとときに浸る。
 幻想の女神像が捧げる水瓶から溢れだした白葡萄酒も青く煌いて、精緻なモザイク模様を甦らせた石畳の街路にも水面を思わす波紋が揺らめいて、本当に遠い国に来たみたいですと居ても立ってもいられず灯が駆けだせば、破顔したカルナもすぐに追いついて、肩を並べて夢と現の、光と闇の狭間をゆく。
 蜂蜜色のあかりに誘われるままそれぞれ手に取るのは気泡が煌く杯とチョコレートの杯。軽く炙られて甘味を増した黄のパブリカと緑のズッキーニ、その間でぷりっと弾ける海老のアヒージョ、小さなフルーツトマトをくりぬいた器ごと食む豚肉と豆のフェイジョアーダ、一口で味わえる美味を摘まみながら広場に辿りついたなら、幻想の波間から跳ねたイルカが二人をお出迎え。
「あっ、カルナさんだけずるーい!」
「僕だけじゃないですよ、灯さんにもほら!」
 愛らしいイルカが口に咥えた薔薇の花冠をカルナへと差し出せば、イルカの尾びれが跳ね上げた水飛沫が真珠に変わって灯のもとへ降りそそぎ、受け取った幻想の宝物たちがふわり青の世界にとけて消える様に笑み交わす。
 ここは水の底の街、そんな夢にひととき浸れるなら、
「それなら私は人魚姫です! カルナさんは……タツノオトシゴダンサーとか」
「タツノオトシゴ!? もうちょっとカッコいい選択肢は無いのですか……!」
 春緑の天使の翼を広げる人魚姫が無邪気に胸を張るから、笑い交じりに言い返すカルナの胸の裡には不意に、少女のごとき無邪気な笑みを残して消えた、誰かの面影が甦った。
 ――灯さんが人魚姫なら、僕は何になりたいのだろう。
 萌した想いを呑み込むよう、チョコレートの杯ごと味わうジンジーニャ。
 噛み砕く酒杯から溢れるさくらんぼ酒、チョコレートのほろ苦さを連れて喉を灼いてゆく甘い酒を、大人の味ですね、と竜の尾を揺らしつつ語れば、何処か遠くを見るような彼を、酔っちゃいました? と見上げて灯は、酒精のないサングリアを口に運ぶ。
 気泡がしゅわり唄う白葡萄スカッシュに白桃が蕩け、ラズベリーが甘酸っぱく弾けた。
 麗しき美酒に溺れていくような世界を、涼やかで艶めかしい宵風が渡る。
 潮の香を孕む心地好い風で胸を満たせば柔い酒香も胸を擽るけれど、もう大人達の酒杯を羨望の眼差しで見ることはない。初夏を迎える前に大人の仲間入りをしたジェミは、
「エトヴァ、何飲もうか?」
「君は何にすル? ジェミ」
 新緑の瞳に嬉しさと誇らしさを燈して兄を誘い、頼もしげに微笑み返したエトヴァの瞳の先でリモンチェッロを手に取った。陽色が揺れる杯と触れ合うのはチョコレートの酒杯。
 葡萄酒から蒸留されたアグアルデンテ、ポルトガルのブランデーと呼ばれるそれに砂糖とさくらんぼを漬け込み寝かせたジンジーニャは、エトヴァが馴染むキルシュヴァッサーとはまた違った味わいで、
「この国で言うなラ、梅酒のような存在――ト、店の方が仰っておられましたネ」
「リモンチェッロもそんな感じだって聴いたよね」
 飛びきりの冷たさと極上のレモンの香りで迎えてくれる甘露に瞬いたジェミもそう応えて笑み返す。作り手ごとに異なる味と教えてくれたのは、先程行き合った同じ甘露を手にする双子達。
 自然と手が伸びたピンチョスは、蝶を模ったパスタ、ファルファーレと剥き身のアサリをトマトソースが彩るペスカトーレ、美味しいよ、と兄に勧めれば、こちらも見逃せまセンと返るのは、ジンジーニャと同じ国で生まれた甘い甘いエッグタルト。
 互いに美味を勧め合い、自然と杯を取り替えて。
 眩い陽色に鮮やかにレモンが香る美酒に眦を緩めたエトヴァは、ジェミがチョコレートの杯を齧る様に笑みを深めた。
「――美味しイ?」
「うん、とっても」
 それなラ、と手を伸ばす次の杯。酒精が身の裡に熱を燈せば、光と闇が緩やかに手を取り合う宵を渡る涼風が、ひときわ幸せで。祝福された時――と自然に心へと浮かんだ言の葉を染み渡らせつつ、エトヴァは雲を歩むような足取りの家族の手をとった。
 ふわふわと浮かびあがる心地のまま笑み返し、ジェミは彼とともに杯を重ねて。
 宵の青に征服されていく世界で幾度となく、酔いのレコンキスタを受け容れる。

●エンカンタール
 艶やかな黒大理石のプレートに、幻想の彩雲が踊る。
 アルテラシオン――流麗なスペイン語で『変化』と綴られたそれは、過日の黄昏、彼らが戦いの火蓋を切る寸前に、薔薇色の星霊甲冑を纏う敵によって爆破されたもの。昨年の春に全面改装という変化を望んだこの地は、此度も瑕瑾なき修復ではなくて、幻想による変化を望んだ。
 祝福を受けた街並みにと掲げ合う杯に踊るのは、白い雲と、弾ける気泡。
「キソラ、お酒、すき? くわしい?」
「好きが高じて、酒飲む店でバイトする位にはネ」
 特徴的なアニスの香りが強い癖を想起させる、白い雲を閉じ込めたような蒸留酒。迷わず傾けたキソラが破顔する様にティアンは瞬いて、お酒解禁されたら色々オススメさせてヨ、ティアンちゃんはリモンチェッロとか好きそう、と返った言葉に尖り耳をぴこりとさせた。白桃とラズベリーを軽く潰しつつ白葡萄スカッシュを味わって、迷い込むのは青の世界。
 香ばしく弾けるのはハーブと大蒜を利かせた米をおなかに詰めて焼いた鰯のファルシー、軽く熱を通した鮪と赤玉葱を甘酸っぱくマリネしたアグロドルチェ、出逢ったピンチョスを気紛れに摘まみながら、優しい青に浸る白い街並みに影絵を映して渡る、幻想のゴンドラを追いかける。
 幻想が描く澪をゆうるり辿れば、ティアンの足元にも幻想の光が波紋を生んで。
 これもいのちの航路だなと想いつつ、祭を訪れた旅人の気分でまたひとつ歩を進め、
 ――このひとときを取り戻せてよかった。
 ――ウン、ずっとこの彩りを残せたらイイ。
 彼女が紡ぐ言葉に頷き、キソラも足取り軽く、影さえも青に彩られる世界を渡った。
 大人になって、そうしていつか、
「番犬業がもし暇になったら、こんな青色の街まで旅がしてみたいんだ」
「イイね。オレももっと色んなソラを見て、撮ってみたい」
 そのときにはきっと沢山写真も撮る、と妹のような友が未来を語る姿に、キソラの双眸が安堵を湛えて緩む。たとえばこんな宵のアマルフィ、たとえばチュニジアンブルーで名高いシディ・ブ・サイド、あるいは、元より幻想的な青に彩られたシャウエンで。
 旅人同士としてばったり出逢い、撮りためた写真を見せ合う。
 ――そんな未来を、互いの心に抱いた。
 華やかな真紅に咲いた幻想の薔薇さえも、美しい青に染まって宵風に舞う。
 あえかな光になって消えゆく花弁にリモンチェッロの杯を掲げるひとの傍らで、わあ、と歓声を咲かせた周は、白い街並みを甘く優しく溺れさせていく青に見惚れて、まるで彼の、セルリアンさんのよう、と瞳に青を宿すひとを見上げれば、酒杯を傾けた彼が横目で流した視線と己のそれが重なって、大きく鼓動が跳ねた。
 昨年の秋、豊穣の甘味に溺れる宴で差し出された、薔薇色の封蝋で閉じられた手紙。
 一旦セルリアンの手に渡ったそれは周が結局ひきとってしまったから、彼の胸にはただ、意味深な印象が残ったのみ。けれど今宵こそはあの手紙の意味を聴かせてくれる気がして、穏やかな眼差しで時を待つ。
 硝子杯を握り、景気づけとばかりに周が飲み干したのは酒精のないサングリア。
 怖さを紛らせてくれる酒精はないけれど、溌剌と弾ける白葡萄スカッシュの気泡が確かに気持ちを後押ししてくれたから、ずっと曖昧にしていた彼への想いを遂に、口にした。
「すき、です……これからも、ずっとずっと一緒に居たい」
 震える声は気を抜けばひっくり返ってしまいそう。
 怖くて恥ずかしくて、知らず俯いてしまうけれど、とっても嬉しいよ、と返った声音が、そんなに怖がらなくてもだいじょーぶと続く。
 息を呑んで見上げる彼女と眼差しが重なれば、セルリアンは微笑んでみせ、
「キミのことが好きだよ、あまね」
 ――これからも、どうぞよろしくね?
 己が伝えた想いが水のように周を潤して、その顔に満開の笑みを咲かせる様を見守った。
 四季がめぐり、彼女が初めての酒を味わうときにも、二人で、ともに。
 薔薇色の残照と菫色の宵が蕩ける世界で出逢ったのは、黄金とも真鍮とも見ゆる鱗が煌く幻想の竜、ほんのり透きとおった幻想を追ううちに竜は薄れて消えて、気づけば世界は青に染まっていた。まるで魔法のようです、とヨハンが杯を手に取れば、透きとおった酒に水が注がれ、こちらにも白い霞の魔法がかかる。
 この地と貴方の誕生日を祝して、とクラリスが掲げてくれる杯に己のそれを合わせ、
 ――乾杯!!
 幸福の滴を身の裡へ落とすように杯を傾けたなら、強くアニス香り立つ獅子の乳は何処か薬草酒にも似て、医の道を志す身にしっくり馴染んだ。酒精が燈す熱が春を思わせたなら、真白な春を己に幾つも燈してくれた恋人が純白を纏った姿を思い起こし、
「この間の花嫁姿、凄く綺麗でした」
「!! やっぱり見てたの……!?」
 秘めておくつもりだった言の葉をぽろり零せば、大きく瞠られる撫子色の瞳。
 たちまちクラリスの頬へと甘い熱が燈る様にヨハンの照れも加速して、どうぞ、と上擦る声とともに差し出したピンチョスは、薔薇色と乳白と薄緑の彩りが美しいミルフィーユ。
 華やかな薔薇色は噛むほどに熟成された豚の旨味が溢れるハモン・セラーノ、柔く蕩ける乳白は濃厚なコクが後引く羊乳のチーズで、それらと瑞々しさが爽やかなキュウリが幾層も重なる美味は、天日干しの葡萄から生まれる美酒、極上の甘さ蕩けるコマンダリアにも良く合って。
 ぱちり瞬いたクラリスは、ふふ、と笑みひとつ。
 何処かの尻尾ぴこぴこ娘に倣って、あの日彼女へ花束を託けてくれたひとへ、不意打ちでほっぺちゅーを贈る。女神アフロディーテのキスよりも甘いと謳われるコマンダリア、この美酒より甘いかもね、なんて続けて、
「素敵なブーケをありがと、愛しの魔法使いさん」
 ――ねぇ、次はどんな色の日々を見せてくれる?
 幸せ燈る声音で問えば、甘い熱に呑まれていた彼女の魔法使いが時を取り戻す。
 熱の余韻はそのままに、けれど確かにヨハンは笑み返して。
 ――初夏に相応しい、色鮮やかな日々を。

作者:藍鳶カナン 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2020年7月4日
難度:易しい
参加:17人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 6/キャラが大事にされていた 1
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