迷宮

作者:藍鳶カナン

●羽衣
 透きとおる羽衣を重ねるみたいやね、と誰かが口許を綻ばせた。
 春の宵が少しずつ初夏の艶めかしさを纏っていく様子を語ったその言葉は言い得て妙で、菫色の宵を流れる風は限りなく優しい薄絹のように、誰もが陶然となってしまいそうな心地好さで、ひとびとの肌を撫でていく。
 陶酔感をくれるような風に身をゆだねるのは花木も同じ。緑の小葉が羽根みたいに連なる葉が羽ばたくかのごとく風にそよぐ樹の梢からは、純白の花々が甘い香りと共に咲き零れて菫色の宵に揺れる。
 燈されたあかりに照らされ、幻想的な美しさで菫色の宵を彩るのは、ニセアカシア。
 針を思わす棘を持つことから、針槐――ハリエンジュとも呼ばれるその花木達は、遥かな高みから、あるいはひとびとが花に顔を寄せられるほどの高さから、満天の星よりなお多い甘き白花をたっぷりと咲き零れさせ、樹々の高低差を活かした植樹と錯覚を活かした造園の妙で、花の迷宮へ迷い込むような心地を楽しませてくれる庭園をつくりだしていた。
 だが、訪れるひとびとを庭園で待っているはずの樹々が、ざわりと動きだす。
 柔らかな薄絹めいた宵風から舞い降りた謎めく胞子にとりつかれ、ひとよりも少しばかり背の高い三本の若木が、大地から根を引き抜き、菫色の宵に解き放たれる。
 甘やかな花の香りに満ちる宵に彼らが向かうのは、ひときわ甘い香りがとける庭園の奥。
 幻想的な花迷宮のごとき庭園の奥で、ひとびとが甘い蜂蜜酒を楽しむ、ガーデンカフェ。

●迷宮
 蜂蜜の女王と呼ばれるアカシア蜜は、ニセアカシアの花から採れた蜂蜜だ。
「――と、初めて聴いたならきっと、戸惑ってしまう方も多いですよね」
 皆へと微笑んだセリカ・リュミエール(シャドウエルフのヘリオライダー・en0002)は、この国に渡来したばかりの頃にはこの花木がアカシアと呼ばれていたからだと語る。黄色の花を咲かせる本来のアカシアがこの国に持ち込まれたのは、その後のこと。
「もっともフランスなどでは黄色の花を咲かせるアカシアは『ミモザ』と呼ぶのが普通で、『アカシア』と呼ぶのはニセアカシアと聴きますから、その影響もあるかもしれませんね」
「ふふふ~。わたしはそっちに一票! かしら~?」
 真白・桃花(めざめ・en0142)は尻尾をぴこりと弾ませ、セリカの話に耳を傾ける。
 今回の事件が予知されたのは、大阪市内にあるホテルの庭園。
 大阪城の攻性植物勢による以前からの侵攻作戦の一環であることは疑いなく、庭園で花を咲かせていたニセアカシアの若木が攻性植物に変化し、庭園やガーデンカフェを訪れていたひとびとを襲うという事件だが、
「避難勧告は手配済みですから、庭園やカフェは勿論ホテルの周辺一帯が無人になります。皆さんにはホテルのすぐ近くの大通り、広い交差点にヘリオンから降下して頂きますので、気配に惹かれてきた攻性植物達をそこで撃破してください」
 黄昏から宵に移ろう頃合だが、街灯があるため視界は良好。
 敵は三体。そのすべてがジャマーで、足止めの範囲魔法に治癒を阻害する毒針、そして、傷を癒しながら自陣の護りを固めるヒールを揮うという。
「連携も取れていますから、皆さんも決して油断することなく、策と連携をしっかり調えて臨んで頂くよう、お願いしますね」
 無事に勝利できれば当然、庭園もガーデンカフェも無傷のまま。
 宜しければ是非お立ち寄りください、というホテル支配人からの招待を伝えて、セリカはどうぞゆっくり楽しんでらしてくださいね、と再び皆に微笑んだ。
 菫色の宵に、甘い光を燈すように咲くニセアカシア。
 甘くてほんのり涼やかで、なのに何処か官能的な香りを滴らせるその白花は小さな蝶にもスズランにも似て、花房となって咲き零れる様は白藤をも思わせる。華やかで可憐な花々が咲き溢れる庭園で花の迷宮に迷い込むような心地を味わうのもきっと楽しくて。
 庭園の奥のガーデンカフェで蜂蜜酒、すなわちミードを楽しむのもきっと楽しい。
 勿論この庭園の『アカシア蜜』からつくられた蜂蜜酒、世にはドライやミディアムもあるけれど、この宵にここで楽しめるのは、官能的な蜂蜜の甘さを堪能できるスイートミード。
 酒を呑めないものは冷たい蜂蜜ミルクが迎えてくれる。
 蜂蜜ミルクと言えばホットドリンクが思い浮かぶ向きも多いだろうが、冷たいほうがより甘味を感じる蜂蜜の特性ゆえに、ここでは冷たい蜂蜜ミルクが饗されるという話。
 花迷宮も蜂蜜酒も蜂蜜ミルクもきっと、たっぷり心を酔わせてくれるから。
 望まぬ変容を強いられたニセアカシア達を世界に還して、それから、菫色の宵に甘い光を燈すように咲くニセアカシア達に溺れるようなひとときを。
 そうしてまた一歩進むのだ。
 この世界を、デウスエクスの脅威より解き放たれた――真に自由な楽園にするために。


参加者
藤守・景臣(ウィスタリア・e00069)
キルロイ・エルクード(ブレードランナー・e01850)
隠・キカ(輝る翳・e03014)
シア・ベクルクス(花虎の尾・e10131)
御堂・蓮(刃風の蔭鬼・e16724)
霧咲・シキ(四季彩・e61704)
リリエッタ・スノウ(小さな復讐鬼・e63102)
ラグエル・アポリュオン(慈悲深き霧氷の狂刃・e79547)

■リプレイ

●羽衣
 菫色に透きとおる羽衣が、ひそやかに世界を抱いた。
 春宵の優しさに初夏の艶めかしさを潜ませる菫色の宵、戦場となった地はたちまち色濃い緑と甘き白花の迷宮に彩られる。幻想的な光と影、蕩ける花の香が織り成す花迷宮、そこへ幾重にも迷い込んだと錯覚した途端に撃ち込まれる毒の針。大きく癒しを阻むそれゆえに、戦いの序盤、暫くの間は守勢に甘んじなければならなかった。
 微細な氷の結晶を孕んだ光が強大な癒しを孕んで輝きを増す。然れど、
「敵すべてがアンチヒールを揮うジャマーというのが、これほど厄介だとはね……!」
 癒し手たるラグエル・アポリュオン(慈悲深き霧氷の狂刃・e79547)が揮う輝きは、その威力ほどに藤守・景臣(ウィスタリア・e00069)の痛手を拭えない。二重の浄化はあれど、浄化が効くのは治癒阻害が癒しを大きく弱めた後。
 花蜜は蜂蜜の女王となり、花そのものも天麩羅などで食されるニセアカシアは、
「元々、花以外の殆どが毒を持つそうですが……何とも苛烈な毒になったものですね」
「まったくです。耐えろよ、空木……!」
 吐息の苦痛を紛らすように笑み、景臣が銀月の光咲かす斬霊刀に心を重ねて己を癒せば、満身創痍ながら果敢に敵陣へ瘴気を放つオルトロスへと御堂・蓮(刃風の蔭鬼・e16724)が光風を凝らせた癒しの気を注ぐが、これも治癒阻害に威を減じられる。
 被弾しやすい護り手二人と一頭のうち、癒し手が二人を若干優先気味だと察すれば、範囲魔法の効率から前衛に狙いを定めていた敵勢は針の攻撃を神犬へと集中させてきた。景臣が受けた針も神犬を庇ってのもの。神犬が今も戦えているのは、被弾を分散できているのと、素早く撃ち込まれる針の斬撃、それが神犬にとって最も捌きやすい種の攻撃であるからだ。相性の悪いサーヴァントであれば限界まで追い込まれていてもおかしくない。
 氷が攻撃された時に効果を発揮する様に、治癒阻害はヒールされた時に効果を発揮する。癒し手当人の治癒阻害を浄化しておけば万全というものではないことを、
 ――オレは、肝に銘じておかなきゃならないっすね。
「手伝うっすよ、蓮!」
「ああ、助かる!」
 侮れぬ針槐の力を噛みしめながら、霧咲・シキ(四季彩・e61704)も敵への攻撃ではなく神犬への癒しの気を放つ。ラグエルが雷壁を重ねて展開するまでに手が回らず、神犬と力を分け合う蓮が初手に解き放った紙兵では十分に加護を得られなかったのも痛い。
 妨害手から三重の浄化か状態異常耐性の支援があればまた違っただろうが、妨害手二人が携えている癒しは自己回復のみ。然れど、二人は苛烈な範囲攻撃で敵勢を呑み込んでいく。
「三体が二体になるだけでも大分楽になるはずだ、頼んだぞ!」
「うん、きぃとミュルもがんばるから、今のうちに――みんな、おねがい!」
 仮面越しに敵三体を見据えたキルロイ・エルクード(ブレードランナー・e01850)が声を張れば彼の銃口も光と銃声で咆哮する。攻性植物達を抑え込む制圧射撃に続く眩い輝きは、隠・キカ(輝る翳・e03014)が真白なフェレットから変じた杖より放つ火球。
 味方が最初に攻撃をした敵、此方を最初に攻撃してきた敵、いずれを集中攻撃するのかで自陣の初手に迷いが生じた隙を埋めたのも妨害手二人の範囲攻撃だ。皆が『味方が攻撃した敵に狙いを合わせる』と考えていれば当然初手の機を逃してしまう。
 爆裂した炎が先にキカが招来した氷河期の精霊の氷とともに敵勢を蹂躙したなら、堪らず敵一体が羽根のごとき葉の癒しと護りで己と同胞を抱擁、二体が炎に巻かれながらも迷宮の魔法で前衛を呑むが、蓮と景臣が魔力を引き受けた瞬間、攻撃手二人が一気に馳せた。
「ええ、ならばこの羽根の葉の護りを――」
「思いっきり吹き飛ばすんだよ!」
 己を映した春色の手抜緒を通して握った愛刀、シア・ベクルクス(花虎の尾・e10131)が清冽な流水を思わす破魔の斬撃で敵陣を薙げば、天色の輝きと破魔の力を凝らせた超音速の拳でリリエッタ・スノウ(小さな復讐鬼・e63102)が、先から集中攻撃を重ねてきた一体を吹き飛ばす。破られた護りを散らす若木の懐へ滑り込むのは、静謐な黒。
 甘き白の花房が揺れる様に、今は藤色を燈す瞳にやるせなさが滲むけれど。
 銀月のひかりに空をも絶つ力を燈し、迷わず景臣は花木を斬り伏せた。
 ――どうかせめて、安らかな眠りを。
「お次は、左の敵を狙うとしましょうか」
「了解っす、まずはそっちの護りも崩すっすよー!」
 花木が世界へ還る様を見届けて翻る藤色の眼差しを追って宵風に踊るは電子ペン、迷宮の名残を柔らかに貫いた月色の道を狙い澄ましたシキが翔ければ、
「強面わんこさんにはわたしが耐性を重ねますなの、蓮くんはがっつり攻めて、なのー!」
「真白さん、お願いします!」
 神犬へ真に自由なる光を贈る真白・桃花(めざめ・en0142)、彼女のなかでその呼び名が定着しているらしいことに微かに眦を緩め、蓮は古書に宿る思念を己に降ろす。顕現するは赤黒い影の鬼、氷とともに敵の樹皮を裂いた豪腕の拳風が雷の痺れを齎したなら、
「いい加減おとなしくしてもらおうか、丹念に手入れをして差し上げるからよ」
 庭仕事はしっかり仕込まれたからな、と不敵に笑んだキルロイの足元から噴き上がるのも赤黒い猛威、怨嗟を滾らすがごとき劫火に搦めとられた木々は幾重にもその挙動を奪われ、今にも解き放たれんとしていた針が深い痺れでアスファルトにこつりと落ちた。
 もう一体は辛うじて羽根の葉の癒しと護りを展開させたものの、
「確かに、劇的に潮目が変わったね」
 敵の攻勢が緩む様に微笑したラグエルの雷杖が軽やかにアスファルトを打った瞬間、眩い輝きを噴き上げた雷光の壁が前衛陣に残る痛手を一気に払拭、その加護で迷宮の名残を振り切りながら、景臣が幽けき紅を踊らせる。
「幾度戦いを重ねても、慣れませんね。花を散らすという行為には」
「お気持ち、お察ししますわ。ただ花を愛でていられれば……と、私も思いますもの」
 然れど、感傷に矛先を鈍らすことがないのは彼もシアも同じ。
 心眼覚醒の破魔を乗せた景臣の紅が花木の羽衣を散らしながら逃げ場のない焔の海へ追い込めば、不意にその根元へ咲いたのはシアの愛刀の鞘を飾るのと同じ野紺菊か。菫色の宵に破魔の光を燈す花がニセアカシアの意識を捉えた刹那、薄く残っていた護りも散り消えた。
 迷宮の範囲魔法で逃げ場を隠しつつ、癒しを阻む針での集中砲火。
 範囲攻撃で牽制しながらの各個撃破を狙う此方の策と似た連携を乱されて、攻性植物達は瞬く間に劣勢に陥った。淡い白金の髪に柔い虹を踊らせ、キカも戦場を翔ける。揮う斧刃にルーンを輝かせ、
「ほんとは一本もこわしたくないけど、ごめんね……!」
「大切に育てられてきたんだろうけど、ひとを襲わせるわけにはいかないからね」
 花木の護りを三重に破る手応えが心を軋ませるのを堪えれば、不意に視界の端で金の髪が舞った。それはリリエッタの傍に顕現した女性のもの、少女が女性と左手を重ねれば一気に魔力が循環し、右手で翻す自動式拳銃に膨大な力を秘めた魔弾が装填される。
「――これで決めるよ、スパイク・バレット!」
 自陣最高火力を誇る荊棘の銃撃が、二体目の花木を世界に還した。
 瞬間、キルロイの姿が掻き消える。
 美しい花々を咲かせ、蜜源としても有用なニセアカシアだが、本来の植生を脅かすとして侵略的外来種にも指定されている植物だ。この指定には反論の声も大きいが、
「海外どころか他の星からの『侵略的外来種』になったなら、処理するしかないんでな」
 言うが早いか幾重にも閃いたのは、残像を連れたキルロイが揮う妖精剣。三重の追撃をも重ねる高速の斬撃が鋭い氷片とともに花木を深々と裂けば、反射的に撓った枝が瞬時に針を芽吹かせた。然れど、
「エルクードさん、後ろへ!!」
 反撃の瞬間に跳び込んだ蓮が己が身に針を引き受ける。漆黒と紺瑠璃の軍装で威を殺し、神器の剣を咥えた神犬が敵へ躍りかかった隙に御業を奔らせ、花木を鷲掴みにするとともに紙兵と雷壁の加護で治癒阻害を克服したなら、
「針も毒も、本来は純粋に身を護るためのものであったでしょうに……」
「戦えないひと達に向けられるよりはまだいいと思うべきかな。頼むよ、皆!」
 白花ひとひらが景臣の掌で踊り、ぱちりとピースが嵌まった途端、稲妻の竜が菫色の宵を翔けた。天の裁きのごとく降る雷竜は、罪無き花に望まぬ変容を強いた攻性植物という種族そのものへの憤り。蓮の傷も比較的浅いと金の双眸で見て取ったなら、ラグエルの掌中では深い雪をも散らす釦が鳴った。高らかに響く爆音は、さながら凱歌のごとく。
 氷や極光の煌きめいた彩で前衛陣の背を押す癒しの爆風、
「うん、終わらせるよ。一秒でも速く!」
 心も力も高揚させる風に乗って、裾が翻るのも構わず大きく脚を旋回させたリリエッタが電光石火の蹴撃を叩き込めば、景臣の雷竜やキルロイの劫火をも重ねた深い麻痺が、最後の敵から癒しの機も反撃の機も奪い去る。その大きな隙が招くのは、一気呵成の猛攻勢。
 炎に焼かれ氷に抉られ、皆の攻勢で枝葉を散らされていく若木の許へシアが躍り込む。
「何もなければ更に大きくなって、季節が廻るたび花と香りで酔わせてくれたでしょうに」
「20mになるのもザラだって聴くっすよね。本当ならそうなれたはずだけど……」
 炎に照らされる梢に咲き零れる白花はそれでもなお美しく、胸を締め付けられつつも揮う月の斬撃が深く若木を斬り裂けば、シアの言葉に頷いたシキの蹴撃が、宵と花木にいっそう鮮やかな炎の軌跡を描き出した。
「動いちゃだめだよ、もっと痛いから」
 優しく語りかけるキカの言葉が、眩い光の幻覚を織り成す詠唱となる。幻の輝きは無数の光に貫かれる夢をニセアカシアに見せ、花木自身のすべてを光に変えていく。胸に燈るのは今宵は傍にいない、七つの彩を咲かせる釣鐘草の花々。
 あの子がいつも力を貸してくれることが。
 あの子と心を通わせられたことが、どれほどの奇跡であるのかを。
 改めて心に染み込ませながら、キカは菫色の世界に還ってゆくニセアカシアを見送った。
 ――また生まれてきたら、きれいな花、咲かせてね。

●迷宮
 菫色に透きとおる羽衣が、ひそやかに庭園を抱いた。
 黄昏と夜のあわいのひととき、空も大気も染める菫色のリキュールへと溺れていくような心地になるのは、迷宮めいた庭園に咲き溢れる甘き白花の香りがシアを抱きすくめるから。
 大地や樹々の梢を飾るあかりが、深く澄んだ菫色の宵闇に白花を浮かびあがらせる。己の新緑の髪とそこに咲くミモザアカシアの花を柔らかに撫でる風がニセアカシアの白き花房を波打たせれば、ほんのり光る白い蝶の群れが羽ばたくかに思え、
「なんて素敵な非日常感なんでしょう……!」
 蜂蜜酒を口にするまでもなく、シアは幻想に酔う夢心地。
 深い森へ迷い込んでしまった気さえするのはきっと方向音痴ゆえ。なれどそれさえ今宵は好都合とばかりに花迷宮の奥へ、奥へ。
 だってすぐに抜け出してしまうなんて、とってももったいない気がしてしまうから。
 菫色の宵はそうっと夜の闇を連れてくる。
 遥か高みから、あるいは頬に触れる高さから、たっぷりと生い茂る羽根みたいな葉が深い影でキカを覆い、柔い光を燈すような白花が、蕩けるように甘い香りでキカを誘う。迷宮の彼方にシアの後ろ姿が消える様に少しどきりとしたけれど、玩具ロボのキキを抱きしめれば怖くない。
 きっとアリスも、と思えば足取りも軽く弾んで、極上の絹みたいな宵風に擽られるままに口遊むのは、春の夜の恋のうた。まだ恋を識らぬ少女はロマンティックな迷宮の逢瀬の夢を歌声に乗せ、腕の中にふわりと囁きかけた。
「春がおわるね、キキ」
 ――夏のにおいが、どこかでするよ。
 透きとおる蜜のような歌声が、羽根めく葉の羽ばたきにとけていく。
 菫色の宵に波打つ緑に揺れる白花を振り仰げば星屑か波の泡沫のようで、けれど甘い香を辿って瞳の高さに咲く花房に出逢えば白い蝶や鈴蘭みたいな花々が咲き零れ、誘われるまま顔を寄せれば、心まで光に蕩けそうな香りがシキを満たした。
 蜜蜂もこんな風に誘われてるんすかね、と笑みまで蕩ける心地になれば、ふと視界の端に光の繭を思わす一角が映る。蜂蜜酒のガーデンカフェだと気づけば、双眸も細めて。
「何だかほんとに、オレが蜜蜂になったみたいっすね」
 遥か高みから、肩に触れそうな高さまで。
 菫色の宵空から星屑が降ってきたように数多の白花を咲き零れさせる樹々にかこまれて、蜜色のランプのあかりが満ちるカフェには花と蜜の香りも満ちていく。
 冷たい蜂蜜ミルクを味わえば、感じる蜂蜜の甘さはひんやりとして、なのに舌よりも喉に豊かな風味を残し、リリエッタの指先まで優しく蕩けていくかのよう。
「これ、戦いの疲れも蕩けていきそうな気がするよ」
 この蜂蜜がお酒になるとどうなんだろう――と蜂蜜酒を傾ける大人達を見遣り、飲んだら翌日頭痛いって言ってるの聴くけど、みんなお酒大好きだよね、と不思議な心地で呟けば、
「それは体質的にお酒に弱いか、呑む量か呑み方に難があるんじゃないかしら~?」
「かもね。確かに私も、お酒が翌日に響くようなことになった覚えはほぼ無いかな」
 秘密を明かすみたいに桃花が笑み、ラグエルも少女へ穏やかに微笑んでみせた。
 白金とも呼びたくなるような色合いの蜂蜜は発酵と熟成を経て、柔らかな金色と甘やかな酒香を燈す。ひとくち含めば軽く眼を瞠る瑞々しさと、官能的な甘さが満ちて、弟と一緒に楽しみたいな、とラグエルは眦を緩めた。
 実年齢と外見年齢が乖離していたアスガルドの日々と異なるのは、次の春がめぐれば弟も確実に成人するということ。つれない弟だけど、来年はきっと一緒に、と吐息で笑んで。
 時の流れに、想いを馳せる。
 蜂蜜酒の瑞々しさと甘さが、再び踏み入る迷宮の花の香をより鮮やかにするかのよう。
 敵は敵だと割り切るキルロイも、この星に生まれたままの花なら穏やかな心地で美しさと風情を愛でられる。ほのかに光る星々が降るような花々を振り仰ぎ、甘い香りに心をも浸す想いで仮面の奥の目蓋を伏せれば、胸に燈る言の葉は。
 ――死に勝る愛情。
 重なるような足音に眼差しを向けたなら、同じ言の葉、ニセアカシアの花言葉をその胸に燈していたと一目で分かる景臣の姿。
 時間も忘れて彷徨ってしまいそうです、と微笑む景臣が何かを探し求めているかに思え、けれども彼の心へと立ち入ることはせずに、キルロイは確かな声音で言葉を紡ぐ。何故そう語ったのか、自分でもよく分からないまま。
「お前さんの求めるものに手が届く日が来ることを、俺からも祈らせてもらうよ」
「キルロイさん……ありがとう、ございますね」
 死神フューネラル――その名がふと胸を過ぎった理由は追わぬまま、景臣は言葉に感じた気遣いに微笑み返した。
 愛しき存在がこの手に戻らぬ絶望、それを象徴するような宿縁の相手。
 嘗て、カンギ戦士団の一員となった『その宿敵』に彼の手も借りて本懐を遂げた男から、『その宿敵』に挑むことさえ未だ叶わぬ男への、餞の言葉。
 迷宮の彼方へと去る男の背を見送って、景臣もまた満天の星よりなお溢るるような白花を仰ぎ見る。数多の花房を星の河のごとく踊らす宵風に誘われ歩めば、優しく頬を擽る高さで咲う花々に出逢い、挨拶するよう笑みを綻ばせれば、柔らかに揺れる白花に懐かしい面影が咲う様が見えた気がした。花言葉が再び、胸の裡へと燈る。
 死に勝る、愛情。
「……ああ、まったく、僕という奴は」
 美しい花々に癒され、甘い香りに心地好く揺蕩うのに、淡い寂寥感も抱いて。
 妻から贈られた、花を愛する心も、亡き彼女への愛おしさも、こんなにも鮮やかなまま。
 遥か高みから星が零れるように、あるいは視線に親しむ高さから光を溢れさせるように、菫色の宵を彩る花々は燈るあかりに甘く照らされ、自身も甘い香りを風に含ませて、巧みに仕立てられた花迷宮へ蓮を誘う。
 柔らかな薄絹めいた風とはまた異なる、優しい風のように添っていた気配が不意に緩んだ気がして振り返れば、思った通り、蓮水・志苑(六出花・e14436)は夏の夜空から星の河が零れてきたかのごとき花々を見上げていた。
「あんたそのままだと、本当に迷いそうだな」
 柔く笑み、手も柔らかに彼女の繊手を引けば、我に返ったらしい志苑が微笑み返す。
「ありがとうございます。貴方は何時も、こうして手を引いてくださいますね」
 将来という行く手に惑う迷宮に踏み込んだ時も、と続いた声音に、これからも己が彼女の標となれれば、と強く希う。烏滸がましいだろうかと案じたけれど、
「あんたも……俺が迷いそうなったときは」
「ええ、お互いが迷わないよう、こうして」
 望みを言の葉にすれば、あたたかなひかりのような応えと、何より確かに重ねた手を握り返されて、心にまでも標のひかりが燈る。彼女にも同じ標のひかりが燈っていると揺るがず思えて、蓮もまた改めて志苑の手を握り返した。
 深い花迷宮の奥へ誘われたとしても、もうきっと心細さは感じない。
 ――お互いが迷わぬよう、この迷宮の先からも、隣で一緒に歩いていこう。

作者:藍鳶カナン 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2020年5月13日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 3/キャラが大事にされていた 3
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