花冠の休日~五月雨に芽吹く

作者:七凪臣

●何でもない一日の、何でもない始まり
 窓から見上げた空は薄鼠色で、今にも雨が降り出しそうだった。
 一日の始まりに見る景色なら晴天の方が良い――が、近ごろのラクシュミ・プラブータ(オウガの光輪拳士・en0283)はそうでもない。
 街の外れに不思議と居心地の良い場所を見つけたからだ。
 そこは人の営みに隣接する廃墟。復興する必要性もないままに、時に置き去りにされてしまった地。
 殆どが原型を留めぬ灰色の瓦礫たちだが、一棟だけ建設途中で放置されたマンションがある。マンションといっても、骨格ばかりの「成り損ね」だ。
 どれくらいの高さを目指したのかは分からないが、とりあえず床面は5階層分だけ整えてある。部屋を区切る壁も、床も、コンクリートむき出しのままだが。
 ラクシュミがそこに踏み入ったのは偶然だった。
 今日と同じに、薄暗い日。けれどラクシュミはそこで、アスファルトに根を張り花を咲かすスミレを見た。
 ――なんて、力強いのでしょう。
 可憐な花に目を奪われながら、強かさに心を打たれた。
 向上心に富むラクシュミにとってその場所は、未来が兆す象徴のような場になった。

●花冠の休日
「一人でぼんやり思索に耽ったり、大切な誰かと静かに語らうのに、とても適した場所なんです」
 細く降り出した雨を仰いだ後、ラクシュミは穏やかに微笑む。
「ショウブも香ってくるんんですよ。近くに水辺があるんでしょうね」
 この日、誕生日を迎えたオウガの女は、おっとりと特別な一日へケルベロス達を招く。
 忙しない日々に、潤いと憩いを与えてくれる場所だと。
 荒廃の象徴のような処なのに、未来を感じられる場所なのだと。
 自分のこれまでを振り返るのも良いだろう。
 心許なさを憂いたって構わない。
 聞き手が必要だったら、声をかけてもらえれば飛んでいく。
「でも、最後は必ず。前へ進もうと思えます。きっと、絶対」
 小さな雫を髪飾りのように纏いながら、ラクシュミは幸せそうに目を細めた。

 祝いの言葉は要らない。あなたの心に灯が点ってくれさえしたら――。


■リプレイ


 雨は細く静かに、けれど確かに降っている。
 灰色の廃墟は薄暗がりに沈む遺物のようだ――いや、正しく『遺物』なのかもしれない。時の流れから切り離された、という意味で。
 エントランスと呼ぶには未完成過ぎる四角い空間で招き主に相対したイッパイアッテナ・ルドルフ(ドワーフの鎧装騎兵・e10770)は頭を垂れる。
 ――誕生日おめでとうございます。
 万感の込められた礼に、ラクシュミはたおやかな微笑みで返し、「さぁ」と先を促した。
 踏み入れた途端、イッパイアッテナの脳裏には様々な光景が蘇り、眼前のそれと重なる。
 廃棄された場所とは、相応に馴染みのあるイッパイアッテナだ。
 そして――。
(「プラブータへ行ったあの時も、本当はもっと――」)
 一つの月と一つの太陽の下に断崖と荒野が果てしなく続く不毛の惑星は、おおよそヒトが生きるに相応しいと思えぬ劣悪な眺望だったのを、イッパイアッテナは覚えている。
(「……我らの」)
 齢三十を過ぎてなお、イッパイアッテナの背丈は地球人の子供と同等だ。何故なら、彼はドワーフであるから。
 自分たち種族にも、もっと様々に為せた事があったのではと、イッパイアッテナは記憶を漁り彷徨う。
「お前はどう思う?」
 今にも崩れそうな窓際で問い掛ける先は、ミミック――相箱のザラキ。答える声を持たぬ匣は、主に寄り添うように蓋をかたことと浮かせて応えた。

「直接浴びるんは体が良くなってからにしとき」
 雨が好きなんは知ってるけど――と前置かれた美津羽・光流(水妖・e29827)からの戒めに、ウォーレン・ホリィウッド(ホーリーロック・e00813)は伸ばしかけていた手を引く。
「……うん、わかってるよ」
 故あってウォーレンの体調は芳しくない。今も雨が降り入る際に敷かれた毛布の上で、光流に肩を預けてようやく体を起こしていられる状態だ。
 それでもウォーレンは、つい雨を求めてしまう。
「何て言えば、いいのかな。取りこぼしたものが、また帰ってくるみたいで嬉しい……そんな、感じで」
 困ったような、それでいて嬉しさが滲むウォーレンの声に、光流は大切な人の身体を揺らさないよう肩を聳やかす。
「俺にはただの上から降ってくる水やねんけど……」
 一拍の間をあけ、ウォーレンの頤を掬って光流は目を細めた。
「レニにとっては特別なんやろな――けど、大丈夫や。俺がついてる」
 熱を帯びた赤い眼差しに、橙色の瞳が緩く見開かれる。
 ――助けられなかった命があった。
 ――守れなかった命があった。
 ――……自ら手にかけた命があった。
 たくさん、ころした。デウスエクスでも、命は命、とウォーレンは捉え、奪う罪の重さに苛まれ、苦しみ、押し潰されそうになる。
 しかし光流は、それを分かった上で、『ついている』と言う。一人で背負う必要はないのだと、救いの手を差し出す。
「……光流さ、ん」
 傍らの温もりにいっそう寄りかかり、ウォーレンは『雨』が零れ落ちる目を幾度も幾度も瞬いた。
 優しさに、愛情に、護られている。此処は昏い冥府の水底ではなく、地球という陽の差す場所。
「そう、だね。うん。これからも、なすべきことをなすよ。また雨になるその日まで」
「せやせや。為すべきことを為さんとな」
 多分に水気を含んだウォーレンの語尾を、光流は軽やかに笑って解き流す。
「とりあえず、今は俺といちゃいちゃするんはどやろ?」
 珍しい直截な誘いだ。思えば、頤は変わらず攫われたまま。絶好のシチュエーションに、曇っていたウォーレンの顔に晴れ間が兆す。
「そういう光流さんは……何だか珍しいね」
 否やを唱えるつもりはない。
 触れる吐息のくすぐったさに、ウォーレンは「ふふ」と笑って目を閉じる。
 雨は降り続ける――が、雨に負けぬと豪語する男は、伴侶と誓った人の頬に、瞼に、唇に口付けの雨を降らす。


 冷たいコンクリートの壁に寄りかかり座る隠・キカ(輝る翳・e03014)の膝の上には、ロボット型の玩具がひとつ。『キキ』と名付けたそれの平らな頭を撫でて、キカはそっと目を閉じた。
 水の匂いがする。
 花の香りもする。
「うん、さみしくないね」
 瞼の裏に浮かんだのは、空の青と息吹く命たち。置き去りにされた灰色の世界は、這う緑に飾られるよう、存外に孤独を感じずに済んでいるのかもしれない。
「……きぃは、どうかな」
 ゆるりと開けた目に菫を映して小さく笑ったキカは、我が裡に問う。
 ――パパ、ママ。
 ――きぃね、中学三年生だよ。15歳に、なるんだよ。
 竜人であった父。機人であった母。喪ったのは、遠い或る日。
 ちっぽけな番犬は、ちゃんと大人になれているだろうか?
(「ママみたいに」)
(「パパみたいに」)
 キキの左手を取り、それから右手を取って、向かい合わせに抱き上げて。キカは儚く澄んだ歌声を響かせ始めた。
 知っている。どれだけ問うても返事はないことを。だから代わりに、歌うのだ。もう居ない人を想う歌を。
 透明な声が、雨に染みて煌めく。理不尽めいたことの多い世界は、まだこんなにも美しいと知らしめるように。
「だいじょうぶだよ、キキ。きぃは、だいじょうぶ」
 幼げな口振りで、強く呟き、キカは遠く微笑む。
「すてきな大人になれるって、信じてるから」
 その為にも、もう少しだけお休みして。それからおうち(日常)へ帰ろう――。

 上の階から聞こえる少女の歌声に、肥後守・鬼灯(度徳量力・e66615)は耳を傾ける。
 不思議と心鎮まる音色に、鬼灯の裡も静かに凪ぐ。
 雨にけぶる一区画向こうの外界は、いつもと変わらぬ風情で佇んでいる。
「、……」
 口にしかけた名前をそっと飲み込み、鬼灯は目を細めた。
 あそこに、鬼灯の日常があった。恋し恋された人と共に過ごした日常が。
 されどその人との道は、既に分かたれた。
 空虚さが無いと言えば嘘になる。しかし積み上がった思い出には感謝しかなく、心がざわつくことはない。
「僕は大丈夫です。だから、安心して下さい」
 雨へ聞かせる呟きは、ただの独白だ。それでも鬼灯は腕に巻いたブレスレットを丁寧に撫で、穏やかに微笑む。
 異なる道を歩み始めても、大切な人であることに変わりはない。ならば、彼女の心も穏やかであることを鬼灯は望み、願い――祈る。
 不意に吹いた風に煽られた雨粒が、鬼灯の白い髪を飾り、薄い光にキラと輝く。やがて毛先から地面に染みるそれに宿るのは、彼の女性への感謝の念だった。

 なんだっていいさ――そう常々嘯く男は、自身の髪と同じ色の空を見上げ、呼気を放つ。
 人の営みの狭間、灰色の谷間。
 誰も彼もに忘れられた片隅めいた場所では、耳に残る響きがいつもより大きく感じて、『なんだっていいさ』と言い切れない心地になる。
 とどのつまりが、落ち着かない。
「なあ、姐――ラクシュミ」
 一年前は呼称に迷い『姐さん』と声をかけた女を、今年の霧島・奏多(鍛銀屋・e00122)は名前で呼んだ。
「はい、何でしょう?」
 花のように微笑む女だ。裡に膨らむ残響を呑み込めたなら、彼女のように『此処』を落ち着く場所だと思えるのだろうか?
(「俺は――」)
 あの夕から、ちゃんと『未来』とやらへ進めているのだろうか?
 足踏みし続けてはいまいか?
 どれだけ齢を重ねても見えないものは視得ない。そうであるならば――。
「一つ、聞いて貰っていいか?」
 前置いて、是の言質を取ってから差し出すのは『誕生日おめでとう』のひと言。
 今、こういう場所で。口にする方もされる方も最適なのは、きっとこういう言葉なのだ。
「要らないとか言わんでくれよ?」
 神妙な面持ちで続けた奏多へ、祝いは不要だと語っていたラクシュミもクスリと笑う。
「気遣いならば、要りませんが。そうでないのでしたら、喜んで受け取ります」
 祝し、祝され。
 福音は、雨音に安らかに共鳴する。


 雨に吹き曝されている階段をゆっくりと上がった。おそらく非常用になるはずだったそれは、今や最も傷みが激しく、用途を為さなくなる日も遠くあるまい。
 辿り着いた天辺は、天井がないだけの中途階層。ただ、空から降る細雨を遮るものはなく、初夏の香りが濃い。
 ――いっそ心地よい程だ。
 常から傘など差さぬ粗雑な男は、しかし足元に咲く菫色に歩みを止めた。
「この花は何てんだ」
 無骨を隠さぬ尋ねに、ティアン・バ(羽化・e00040)は傍らを見上げる。が、開いた折り畳み傘が視界を邪魔した。小雨に濡れるのはそれなりに好きだけれど、風邪をぶり返すのはよくないと差していたのが徒になったが、僅かに傾ぐ手間も悪くはない。
「菫じゃないか」
 傘と同じくらい緩く首を傾げて応えると、レスター・ヴェルナッザ(凪ぐ銀濤・e11206)が「そうか」と短く呟く。
 数年前なら花の事など気にもかけなかったと、名を知ったばかりの花を眺めてレスターは思う。
 廃墟の静寂が身に馴染む生き方をしていた。楚々とした野花など、気付かず踏みつけていたかもしれない。だが今は、灰色の世界の隅の色彩を、訥々とした少女の言の葉も、心地よく感じられる己がいる。さながら、雨に潤される地の如く。
 『過去』と『先』しか見ようとしなかった男が、『今』を気にかけるようになったのは――。
「あの菫は、お前に似ていたな」
 今日を共に歩む娘は、灰色でありながら、日々に彩と安寧をレスターに与えてくれる。
 華奢な割に強かで、日々成長してゆく姿は、廃墟に根を張る花そのもの。
「そう? 菫にたとえられたのははじめてだ」
 男の率直な感想に「似てた?」と反芻するも、ティアンの胸に訪れるのは温かな歓び。珍しく、男の眦が緩んでいたからだ。
「ティアンが、今、日々、君の隣でそう在れるのは。何度も、色んな人に、命を繋がれたおかげ」
 抑揚のない声にも、幸せが咲く。
「途切れずに在れるように、君が見守って、時に導いてくれた、おかげ」
 ――踏み荒らすことなく。
 ――手折ることなく。
 ティアンの唇がまろやかな弧を描き、白い頬にも淡紅が差す。傘を叩く雫も、優しく歌っている気がした。
 ティアンの脳裏に、柄に花細工の咲く剣の墓標が浮かぶ。
(「君の住む、あの街にも」)
 風に揺られて、雨を吸い上げて、芳しく香るやわらかな花が、たくさん咲けばいい――いつか、いつか、いつか。
(「きっと綺麗なことだろう」)
 ティアンは夢見る瞳でまだ見ぬ明日に『今』を重ねる。その横顔に、レスターは地に足をつける心地を噛み締めた。
 過去も、在る。先も、視る。けれど今のレスターはそれだけではない。
(「花薙ぐ風雨を遮る強さも、『今』の己は求めている」)
 変革は、灰色の空が齎す五月雨のようにしずしずと。けれど、確実に。

 湿り気を帯びた髪から、ぽたりと雫が滑り落ちた。
 道連れにされて、ゼレフ・スティガル(雲・e00179)の視線も落ちる。
「……」
 群れて咲く小さな花に、雲にも水晶にも似る眼が吸い寄せられた。
 寒々として仄暗い殺風景な空間に在っては、控えめな菫も酷く鮮やかに見える。もっと間近に見たい衝動に駆られるままに、ゼレフは膝を折って体躯を丸めた。
 鼻先を擽る香は、雨風が運んできた別の花のものだ。だが箱庭のような光景と相俟って、すっと心に染みてくる。
「……ああ、とても綺麗です」
 屈むゼレフの隣、無機と有機の融合に感嘆を零した藤守・景臣(ウィスタリア・e00069)は、そのまま歩みを進めて、窓になりそこなった四角い空白から曇天を見上げた。
 垂れ込める鈍色は、風雲急を告げる前触れのようだ。だが西の一画が僅かに薄くなっている。
「じき、天使の梯子の如く光が零れてくる筈。その光景は、さぞ綺麗だと思いませんか?」
「天使が降りてくるのだっけ」
 ふふ、と笑う景臣の声に、変わらず目は菫へ遣ったまま、ゼレフは「浪漫だねぇ」と軽口を叩き――此処と自身を照らし合わす。
 住人も居ないがらんどうの廃墟は、底が抜けそうなくらい草臥れた『成り損ない』だ。
「何だか親近感、感じちゃうね」
 紫煙は燻らせておらずとも、顔が笑みを象っているのが分かる相棒の口振りに、景臣は眉を下げて耳を傾ける。
 ゼレフは調子を変えず、語った。
 昔、湖のほとりで見た光景に似ているのだと。そこでは、すっかり白くなった獣の骨を苗床にするみたいに草花が咲いていたのだ、と。
「もしもさ、僕らも」
 過去の光景から『今』へ心を移すよう、すっくと立ち上がって景臣と目線を並べたゼレフは、一切の否定を含まぬ藤色の奥に未来を視る。
「何処へも至れなかったとしても、あんな風に小さい花を咲かせられたら。それも悪くないかなって思うんだ」
 大望からは程遠い、ささやかな願いだ――しかし。
「知っていますか? 草花は可憐な外見に反して存外にしぶといものです」
 ゼレフを見返す景臣の口角は緩やかに、けれど強さを秘めて上がっていた。
 ゼレフの言う通りに、自分たちが何も為せず、何処へも至れなかったとしても。大切な誰かの傍らで、咲き誇れていたならば――。
「それはきっと、満たされているという事なのでしょう」
 より多くを掴み取る為に足掻くことは、ケルベロスとして『正しい』。されど、手の届く範囲の安寧を守れたならば、それは一個人として誇らしく幸せなこと。
「だから僕は、今この瞬間がとても幸せですよ」
 衒いなく、景臣が笑む。
 一切の気負いを感じぬ彼の姿に、ゼレフの肩に知らず入っていた力が抜けた。
 何をも為せず――刃届かぬ侭に獄炎は潰えど、妄執は残った。
 だが急いて騒ぐ内があろうと、等身大の在り様は赦される。そのことを体現するかの如き景臣の微笑は、彼が冠する花を思わせて。
(「どうか、枯れることのないように」)
 景臣の黒髪に結んだ雫が楚々と弾く光に、ゼレフは密やかに続く明日を祈った。

 いったい何時の頃からここに建ち、どれだけの時を過ごしてきたのだろうか。
 ひび割れに根を這わせ、緑の葉を茂らせるのみならず、小花まで咲かせた剥き出しのコンクリートをしげしげと眺め、御堂・蓮(刃風の蔭鬼・e16724)は思いを馳せる。
「……これ、成長と共に植物が割るんだよな」
 可憐な形に反する力強さに零れた嘆息に、蓮水・志苑(六出花・e14436)はころりと笑い――差し出された傘に紫の瞳をぱちりと瞬かせた。
「え?」
「雨が、漏ってる」
 天井とは言い難い灰色から染み出す雫から、蓮は志苑を守る。登ってきた階段はまだ上階へと続いているようだったが、おそらくひとつ上で工事は止まってしまっているのだろう。
 存外に近い雨雲は、一応の隔てを以てしても遣り過ごしきれぬ雨を二人の元まで齎すようだ。
「ありがとうございます」
 気遣いを授受して身を寄せた志苑は、そこで見上げた男の貌に思案する。
「蓮さんは、雨はお好きですか?」
 静かな空間が似合いの男だ。雨との相性も悪くないかもしれない。けれど僅かの逡巡の後に寄越された応えは。
「そうだな、この時期は本が湿気るのでな。そういう意味では苦手だ」
 祖父の商う古書店に入り浸ることの多い蓮らしい答えに志苑は遠慮がちに笑う。
「あんたは……?」
 ――が、続いた問いに眼差しを遠くした。
「雨……水は悲しいものを思い出すので苦手でした」
 どんな季節でも、その時その時を常に楽しんでいるように見えていた志苑の答えに、蓮は僅かに瞠目し、だがすぐに得心する。
 悲しいもの。それは、もしかしなくても、彼女の兄を奪った――。
 何をか察した蓮の眼差しに、けれど志苑は淡く、そして気丈に微笑み返す。
「でも、今は。今は、ええ――雨は命を育み、それらを浴びる生き物や草花はとても生き生きとして。静かに降る雨は慰めのようでずっと聴いていると落ち着きます」
「……そうか」
「それに、こうして雨のお出掛けも風情があります」
 ――世は、悲しいことばかりではない。
 ――止まない雨がないように、心も何れ晴れるのだ。
 持ち前の好奇心をまぶした視線で、志苑は蓮を見上げて来る。
 ――嗚呼、何と彼女らしいことか。
 込み上げた感嘆のままに蓮は志苑の肩を引き寄せ、手を取った。
「……本を湿気らせる雨は嫌い、だが。あんたと見る雨は、嫌いではない」
 ずっと、ずっと。隣に居たい――そう願う心の発露は、朴訥でありながら灯った想いの一切を隠さぬ、素直な言葉となって五月の大気にまろび出た。
 包み隠されぬ蓮のまっすぐさに、志苑の琴線が震える。蓮の想いは、手の温もりにも表れていた。自身のそれよりほんのり熱く感じる大きな掌を、志苑も躊躇わず握り返す。
「ええ、私もです」
 目を背けたくなる光景は、ある。でも、でも、蓮が隣に居てくれたら。どんな景色だって志苑は受け止められるし、闇の中にだって光を見出せる。
 美しい風景なら、尚更に。
「ね、蓮さん」
 ひとつの傘を二人で分かち、厚い雲の向こうを見晴るかす。
 変わらず雨は止まないけれど――。
「明日はきっと晴れるでしょう」


 夕刻を過ぎ、遠い街並に眩い灯が灯る頃。
 垂れ込めていた雲は薄らぎ、時折、月の光が微かに透け出す。
「やはり地球は美しいですね」
 無限から有限へ。命の在り様を変えて三度目の節目の日を、ラクシュミは穏やかに振り返る。
 同じ場所で過ごしてくれた皆々にとっても、有意義な一日になったろうか?
 そうであってくれたのならば――。
「とても幸せな一日でした」

作者:七凪臣 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2020年5月14日
難度:易しい
参加:12人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 3/キャラが大事にされていた 2
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