桃花の誕生日 アクア・ヴィテ

作者:藍鳶カナン

●めざめ
 澄みきった高原の大気に、明るい鳥のさえずりが響き渡った。
 明るくさえずる声はいきいきと楽しげで、いのちを持つ本物の鳥の声としか思えなかったけれど、実のところはバードコールの音色。親指の先ほどの小さな木片、ころんとまあるいウッドビーズみたいに磨かれたそれに挿したボルトをきゅるりと捻って鳴らすそれは、少し慣れれば高く明るい声でさえずる小鳥そっくりの音を響かせることができる。
 けれど、このバードコールの音色がひときわ楽しげに、いのちのやさしさとあたたかさをもってさえずるような気がするのは、きっと、使われている木片が命の水を、ウイスキーを育んだ樽から切りだされたものだから。
 命の水――アクア・ヴィテ。
 その誕生は奇跡のような偶然だったのだろう。
 葡萄酒か何かの醸造酒を蒸留して生まれた美味なる滴に、いにしえの錬金術師は命の水を意味する『アクア・ヴィテ』という名を与えた。命の水の名はフランスのオードヴィーや、北欧のアクアヴィットなど様々な蒸留酒の名に継がれ、スコットランドやアイルランドではラテン語のアクア・ヴィテをゲール語に訳した『ウシュク・ベーハー』から変化していった『ウイスキー』の名に継がれたという。
 美しい自然と澄んだ湧き水に恵まれた地だとひとめで感じられるその地は、高原に広がる森を越えた先、山の麓にあるウイスキー蒸留所。そこに併設されているカフェのテラス席で撮ったという動画、SNSに上がっていたそれを眺めながら開けるのは、森の新緑にも夏の緑にも思える綺麗なグリーンのボトル。その蒸留所で生まれたウイスキーだ。
 透明な金色の光が、硝子杯に躍った。
 瑞々しい香りが森を思わせ、一口含めば透きとおるようなフルーティー感が、森の香りと磨いた水みたいに麗しい酒精の風味とともに膨らんで。喉へ落とせばすっきりとキレのよい余韻が爽やかに翔けぬける。
 液晶画面に映るその地の息吹そのものがめざめるような、シングルモルト。
 真白・桃花(めざめ・en0142)は尻尾ぴこぴこしつつスマートフォンに手を伸ばし、
『ウイスキーありがとうなの、とっても美味しいのー!』
 先月その蒸留所に行ったらしい弟から届いた誕生祝いの御礼メッセージを送信。
 返った『現地で呑むともっと旨い』という言葉に惹かれるまま蒸留所のサイトを覗けば、春色尻尾がぴこぴこぴっこーん! と跳ねた。
「ああんこれは! ぜひとも行かなきゃ! なの~!!」
 彼女の瞳にまっさきに飛び込んできたのは、冬季限定と銘打たれた、
 ――ウイスキーとショコラのマリアージュカフェ。

●アクア・ヴィテ
 高原を走る列車に乗って辿りつくその地は、物語への扉を開いて至った別世界のよう。
 森の深緑と湖の澄んだ青、レンテンローズの花々に彩られた地は、遠い西洋の浪漫息づく麗しきレトロ建築がいくつも残る、古くからの別荘地だ。森を越えた先、山の麓には美しい自然と澄んだ湧き水を活かしたウイスキー蒸留所があり、
「そこの命の水とショコラをね、みんなで楽しみにいきたいの~!」
 尻尾ぴこぴこ御機嫌で、桃花がケルベロス達をかの地へ誘う。
 蒸留所見学&試飲ツアーに参加したり、ショップでお土産のウイスキーやバードコール、ウイスキー樽から作られた燻製用チップを購入したり、バードコールのさえずりで鳥たちを呼んでみたりと、楽しそうなことはいろいろあるけれど、メインのお楽しみは何といっても冬季限定の『ウイスキーとショコラのマリアージュカフェ』。
 美しい自然を眺められる蒸留所併設のカフェ、そのテラス席は街中のオープンカフェでも見かけるパティオヒーターでぽっかぽか。そこで例えばこんなマリアージュをどうぞ。

 秋の紅葉と深い霧が印象的な蒸留所で育まれた、赤味がかった琥珀色のウイスキー。
 甘いバニラや熟れた果実の香りを持つ熟成感たっぷりのシングルモルトには、甘味濃厚な干し柿のピュレを加えたミルクガナッシュの生チョコレートを。
 海沿いの地でピートを焚く蒸留所で育まれた、明るい琥珀色のウイスキー。
 潮の香りや独特のスモーキーフレーバーを感じる個性的なシングルモルトには、ほんのりソルティに仕上げた燻製のクルミを包んだダークチョコレートを。
 そしてもちろん、この蒸留所で育まれた金色のウイスキーのお相手も。
 この地の森と湧き水、近隣に幾つもある果樹園の息吹すらも感じるシングルモルトには、瑞々しく甘酸っぱい林檎のコンフィを包んだホワイトチョコレートを。

 人気ショコラティエがこのカフェのために創ったショコラと、様々な蒸留所でつくられたシングルモルトウイスキーとのマリアージュを楽しめる――というコンセプトで、酒を嗜めないものは珈琲や紅茶でショコラを楽しむことができる。
 珈琲や紅茶にミルクコンフィチュールを落とすのもおすすめだとか。
「お砂糖入りミルクにウイスキーを加えて煮詰めたコンフィチュールで、アルコールは確り飛ばされてるから、お酒が無理なひともウイスキーの風味を楽しめるって話なの~♪」
 蒸留から生まれた美味なる滴。
 錬金術師がそれを命の水と呼んだのは、それが不老不死の霊薬だと信じたからだとか。
 けれどわたし達ケルベロスにとっては、かの地で味わう命の水はきっと、限りある命を、その生を、より輝かせてくれるものだと思うから。
 命の水で、こころを、いのちを潤しにいこう。
 そうしてまた一歩進むのだ。
 この世界を、デウスエクスの脅威より解き放たれた――真に自由な楽園にするために。


■リプレイ

●アルキュミア
 清澄なる世界に解き放たれた。
 温めた湧き水で仕込まれた麦芽が糖化と発酵を迎える甘やかな香り、金色に輝く蒸留釜が幾つも聳える蒸留室へ入った途端に押し寄せる圧倒的な熱気と酒香、樽の森を思わす静謐な貯蔵庫に森々と満ちる芳醇なウイスキーの香り。蒸留所内のいずれの香りもがアラタの胸を躍らせたけれど、だからこそ、森に抱かれた山の麓、澄みきった冬空の許のカフェテラスへ跳び出した解放感がたまらない。
 透きとおる冬の陽射し、豊かで清らな大地。ほんのりウイスキー香る大気も、鳥の囀りも澄んでいて、
「って、鳥じゃないな! 桃花のバードコールか!」
「ふふふ~。ウィリアムさんが誕生日特権で何でも買ってやるって言ってくれたから!」
「ま、うちのハニーに買うお土産と一緒にね。ハッピーバースデイ、桃花」
 綺麗にまあるく磨かれた樽の木片と銀色のボルトが桃花の手で鳥の囀りを唄う。その様に彼が機嫌よく笑えば、ウィリアムさんは今日も夫婦円満ね、と微笑む蜂の声。
「小鳥じゃなく蜜蜂が呼ばれてきました、なぁんて。お誕生日、おめでと。桃花ちゃん」
「ああんはっちーもお誕生日おめでとう! なの~!!」
 笑みを咲かせた娘達が手を取りあえば、そんじゃ蜂にも誕生日特権だな、とウィリアムが片目を瞑る。普段は妻のための青い鳥も、今日はハッピーバースデイな娘達の青い鳥。
「折角の誕生日だしね、桃花も皆も、こっちで乾杯しないかい?」
「流石スプーキー、眺めも暖かさもばっちりな特等席じゃねえですか」
 秋の終わりと冬の始まりの陽光を集めたような、陽だまりのごとく暖かなテラスの一角へスプーキーが皆を招けばウィリアムが破顔して、
「あっあっ、待ってクラリスちゃんも十二月生まれ組!」
「えっ。私もいいの!?」
「十二月生まれの皆さんの御祝いということなら、賑やかにいきましょうか」
 桃花がちゃっかりクラリスを捕獲、傍らのヨハンもほくほく顔で頷いたなら、
 ――乾杯!!
 硝子のチューリップめいたシングルモルト用のウイスキーグラスや、珈琲や紅茶が揺れる白磁のカップ。皆で華やかに杯の音を響かせたなら、ティアンは余韻の波紋が広がる紅茶へミルクコンフィチュールを落とした。
 優しく蕩けるミルクティー色から昇る甘いミルクとウイスキーの香り、大人気分で口へと運び、煙る燻香の裡に潮の香を見出したなら、ダークチョコレートも一齧り。甘くも豊かな苦味の中から咲く仄かな塩気と燻香、胡桃の甘さ。それらが海辺生まれのシングルモルトと当たり前のように添って、互いの風味をいっそう豊かに膨らませ。
 ウイスキーのために創られたショコラ。
 君のためにありたかった己。
 胸によぎるものはあれど、今のティアンは『彼』の為でなく自分の為の生だと薄々ながら気づいていて、それを歓んでくれるひとがいる嬉しさも識っているから。
 今年もお誕生日おめでとうだよと忘れず桃花に告げて、リリエッタもコンフィチュールを落とした紅茶の杯から昇る香りで胸を満たす。甘くも不思議な香り、大人達のグラスに煌く金や琥珀色も不思議で秘密めいて見えた。
 だって蒸留されたばかりのお酒は無色透明だったのに、あんなに綺麗な色になるなんて。
「リリもいつか、秘密の味を美味しく飲める日が来るのかな……?」
 来ますとも~と桃花が請け合って。
「その日まで天使さんがリリエッタちゃんの分を預かってるんじゃないかしら~?」
 エンジェルズシェア――天使の分け前。
 樽で眠るウイスキーが熟成期間中にゆっくり蒸散して減っていく様を天使が飲んでいると表現するのは、先程の蒸留所見学でリリエッタも聴いたところ。やはり紅茶の杯を手にするアラタとティアンの瞳が、
「うん、天使の分け前だな」
「そうか、天使が持っていくんだな」
 自然と向いた先で、ふわり天使の翼を広げたアイヴォリーが胸を張る。
「ええ。ティーンエイジャー達が成人の暁には、わたくしが至高の杯を用意しますとも!」
「その時は極上のつまみも忘れずにね? 食道楽の天使殿」
 ――けれど、今日探し出す最高のマリアージュは。
 眼差しだけで意を交わし、天使と夜が探索に向かうは硝子杯の森。
 幾つもの小さなテイスティンググラスが夏の陽光めく金色から夜明けの珈琲を思わす深い琥珀色までグラデーションを描く森、魔法の秘薬を扱う心地でひとつひとつ試し、月光めく淡い琥珀に煌く命の水を味わえば。
 雪深い、冬には霧氷の花咲く森。
 星々が降るような夜空を仰げる蒸留所が見えた気がして、恋人達は瞳を見合わせた。
 このウイスキーと契りを結ぶショコラは――。

●コンコルディア
 夏陽と夕陽のきらめきが出逢うようだった。
 乾杯して味わう金の滴。森を思わす香りは瑞々しくて、酒気は強くて清ら、透明感のある青林檎めいた風味が膨らんだなら、命の水とは言い得て妙だと眠堂の笑みが綻んだ。林檎を秘めたショコラとの相性は言わずもがな。食めば蕩けるミルクガナッシュと干し柿の濃厚な甘味が後引く余韻に赤味がかった琥珀の滴を重ねれば、ショコラの余韻もウイスキーの甘いバニラ香や果実香もいっそう円熟みを増してシィラの裡で咲き誇る。
 美酒と甘味の競演に花唇から零れる至福の吐息。
 そういや好物とか訊いたことなかったなと眠堂が水を向け、
「何でも美味しく頂けますよ? 特に好きと言えば……タルトレットかな」
「ああ、可愛らしいとこがシィに似合いだよな。俺は和菓子や和食が好き」
 美味い店を見つけたらお前を誘おうか、なんて命の水に潤されるまま紡ぐから、シィラは是非一緒に! と飛びきりの潤いで笑みを咲かせた。潤うひととき。未来に咲く花。
 けれど花咲く前に、
「あとでショップに寄りませんか? 家で楽しむ為のウイスキーが欲しいのです」
「俺も一品、見繕いてえな。出来ればシィが飲んでたウイスキーを」
 硝子杯の煌きを傾けるたびに、このひとときが鮮やかに甦る命の水を。ウイスキーは銘柄次第で和食や和菓子にも合わせられると聴く。
 干し柿に合うなら、和菓子とも相性が好いに違いない。
「ルル、すっかりお酒の味を覚えたの!」
「そう? でも今日は……紅茶にミルクコンフィチュールでどうだい?」
 得意げなリュシエンヌは大層愛らしかったが、彼女が晩秋に初めて臨んだ酒、赤ワインと同じ心持ちでストレートのウイスキーを呑めば、強い酒精に火照るよりも先に喉を灼かれて咽せ返ってしまうはず。
 添加せずとも樽熟成の段階で蜂蜜めいた香りや風味を秘めるウイスキーも数多く、濃厚な蜂蜜に似た色合いのウイスキーを選んだウリルは、同じ命の水のミルクコンフィチュールと紅茶を愛しいひとへ。それなら、と蜂蜜漬けのダークチェリーを更にダークチョコレートで包んだショコラを彼女が選びとる。
 これなら一緒に食べられるかなとはにかめば、蜂蜜めく琥珀越しに彼の青い瞳が煌いて。
「ウイスキーとショコラのマリアージュ……俺とルルみたいだね?」
「う、うりるさんったら……」
 ショコラよりも甘い熱が、可憐な若妻の頬に燈った。
 明るい琥珀と赤味がかった琥珀色が陽射しを透かして煌く様は、宛ら陽光が夕刻へと向け色づいていくかのよう。蒸留で磨かれた透明な酒が綺麗な彩を孕むのが不思議で、大人達と乾杯したルイーゼは夜を思わす珈琲を一口。
 深く澄んだ苦味を識ってから、ミルクコンフィチュールで夜闇を融かした。
「子供だけだと気後れしてしまってな、お付き合いに感謝するのだ」
「俺は大人というよりは歳を食った子供だが……ふむ、エトヴァが引率の先生かな」
「デハ、先生らしク――さテ、命の水の風味ハ、いかがでしょうカ?」
 大人げにも洋酒にも縁が薄い己を千梨がそう茶化したなら、茶目っ気に乗ったエトヴァが微笑みで二人を促し、自身も明るい琥珀色を一口含む。途端に満ちるは濃厚な燻煙の香り、潮風を感じれば黄昏の波の煌きが見えた気がして、ドライでありながら甘味も感じる奥深い風味にダークチョコレートと燻製胡桃の深みを重ねれば、より豊かに世界が広がる心地。
 暖かな色に蕩けた珈琲を味わえば、ルイーゼの裡には不思議な高揚がふわりと広がった。知らない世界の扉が開いたよう。ホワイトチョコレートと林檎のコンフィの風味が口の中に融ければ、甘い花の芯から更なる花が咲く気がして。
 口融けの優しいミルクガナッシュが秘めた干し柿の懐かしさに導かれれば、馴染みのない酒も千梨の裡に慕わしく染みる。芳醇な熟成感が素直に美味だと思えて、深い霧越しに見る紅葉が胸に浮かべば、このシングルモルトと、異星生まれの友人達が重なった。
 旅をして来たんだな、そんな言葉が、柔く零れて。
 ダモクレスであった頃の記憶は忘却の彼方、それゆえか、エトヴァにとって地球で重ねる記憶のひとつひとつが鮮やかで、
「俺もマダ、この星ではひよっこなのだと思わせマス」
「せんぱいがひよっこなら、わたしはもっとぴよぴよじゃないか?」
 金の角戴くルイーゼの過去も真白でまっさら、不死であった頃の記憶はなくとも後七年で大人になるという事実もピンと来ない。だけど、
「二人ともまた一つ歳を重ねたわけだしな、雛でなくなる日などすぐだろう」
 千梨はそう請け合って、二人とともに改めて、祝福の杯を掲げた。

●ロクス・ソルス
 純白の珠を食めば愛しく後引く甘さと切ないほどの甘酸っぱさ。
 瑞々しく森香る金の滴をショコラの余韻に重ねれば、酒精の香気がクラリスの裡でふわり青林檎と赤林檎の風味を咲かせ、酒精の熱も淡麗なキレの良さに浚われる心地。
「う、わ……! 美味しい! 初めてがこんなに贅沢でいいの?」
「勿論いいですとも! そうそう、水はこまめに飲みましょうね」
 森育ちな彼女の初めての酒は森育ちの蒸留酒、さらりチェイサーを勧めるヨハンの導きが奏功して、この幕開けが幸せな記憶となることは間違いなし。
 無色透明の蒸留酒は、樽のゆりかごに抱かれて彩を得る。
 樽から樹の香気を、風味を、樽の呼吸からその地の息吹を己へ染ませ、未熟さ刺々しさを緩やかに蒸散させ、ゆうるり円熟して、艶やかな美酒になる。
 私もそんな大人に。
「……なれるかな」
「……きっとなれますよ」
 燻香くゆる琥珀色の滴は舌に熱く重く、酒精を覚えてまだ半年のヨハンに複雑な味わいの全ては判らずとも、確かな旨さを伝えてくれる。薫香似合う大人を夢見るのは彼女も自分も同じと思えば、足並み揃えて歩む楽しさが胸に浮かんだ。
 ハロウィンで結んだワインの約束は、クリスマスに。
 約束を結び直せば、彼女に燈る林檎色、彼に萌す優しい熱。
 若人達を微笑ましく見守る態勢――に思わず入っていた夫婦は、お互いの面倒見の良さを面白がるよう笑み交わし、改めて夫婦水入らずのひとときに心を委ねた。
 自分の、伴侶の好みのマリアージュを探るような時間はゆったりとしていながら濃密で、瞳李は牡丹色の瞳に柔い熱を燈す。惹かれたのは蕩けるミルクガナッシュと甘いバニラ香を孕む酒のマリアージュ。ひときわ深く豊かに後引く甘さと熱の余韻が、
「何だろう、癖になると言うか……ああ、似てるからか」
「癖になる、ねぇ」
 妻と眼差しが重なれば、意を掬ったアッシュが含み笑いを洩らした。
 片手には燻香豊かにくゆる杯、もう片手は食後にゃこれがいいなと林檎入りのショコラを転がして、その後ゆっくり呑むならこっちか、と燻した胡桃を秘めたダークチョコレートを摘まみとる。
 偶にはとことん甘いのもどうだ? と妻が推しショコラを差し出すから、
「トーリ、酔ってないか?」
「酔ってなんて……いや、うん、酔ってるな」
 その頬だけでなく指先にも燈る牡丹色を擽るよう、夫は笑って甘いショコラを食んだ。
 美しい自然と澄んだ湧き水に恵まれたこの地の、命の水。
 麗しの緑硝子を彩るボトルラベルと同じ意匠のショッピングバッグにおみやげという名のお宝を思い残すことなく詰め込んで、準備万端整えて酒席に臨むミレッタの勇姿を酒飲みの鑑と雨祈が讃えたなら、心ゆくまで飲み明かす至福のひとときが幕を開ける。
 最初の一杯に悩める彼女も楽しそうだと眺め、まずはこの地の命の水かと思えば、
「うん、まずは海辺から旅をスタートするわ!」
「っと、そう来たか」
 金色でなく明るい琥珀色の杯がその手に収まる様に男は破顔した。
 釣られて綻ぶ口許に杯を寄せれば押し寄せる燻煙の香り、含めば溢れる燻香に潮の香りも感じて、力強く癖も強いのに何処か優雅な命の水に潤される。ダークチョコレートを齧れば燻製の胡桃が弾け、
「――……!! これって無限ループじゃない?」
「ループでイイんじゃないの、どうせ全部呑むし」
 極上のマリアージュに一瞬意識を飛ばしたらしいミレッタの様子に弾けるように笑って、雨祈は金色の命の水で己を潤した。瑞々しい緑の香、山と森に磨かれた水の酒だと解る強く清らな酒気、青林檎めいたフルーティー感は決して甘くはなくて、ホワイトチョコレートの官能的なコクと林檎のコンフィの甘酸っぱさを際立たせ。
 さあ、閉店までに何処まで行けるか、と笑い合う。
 胃袋の限界はあれど酔いつぶれることはないなんて、お互いとっくに把握済み。

●アクア・ヴィテ
 樽で長き眠りを経るウイスキーは時の贈り物で。
 唯ひとつの蒸留所の原酒のみを合わせるシングルモルトはその地の自然の賜物で。
 ゆえに金色の滴を味わえば、春のアンティークミュージアムに、夏のブーランジュリー、それらの想い出ごと心に染みていく気がして、蜂は普段にも増してほろ酔い幸せ気分。
「そうだ、今日は桃花ちゃんのお願いなんでもきいちゃいますよ」
「ああん、それじゃはっちーをぎゅーしたい! です!!」
 友を甘やかせばまっすぐぎゅうっと抱きしめられ、ほっぺちゅーとおねだりの追撃が。
 ――後で、ブーランジュリーに連れてって!
 そうか桃花はまだ行ってなかったかと明るく笑って、めいっぱい堪能してくるといいぞと声を弾ませた少女シェフもショコラティエの技術と感性の結晶を心ゆくまで堪能中。
 期待していたケーキに出逢えなかったリリエッタの瞳を輝かせた宝石みたいなショコラ、風味豊かなバタークッキーのクラムを包んだルビーチョコレートも、
「俺はさ、自分が好きなもんより、連れ合いの好きなもんのほうが詳しいくらいでしてね」
 己は何を食べるのが好きかなんて考えるようになったのも最近のこと、と軽やかに笑って迷ってウィリアムが手を伸ばした林檎入りの白も蕩けるミルクガナッシュも、勿論アラタはミルクコンフィチュール香る紅茶で確り堪能したけれど、
「ショコラの余韻が残ってるところにウイスキー傾けるのが、さ・い・こ・う・なの~♪」
 春色尻尾を弾ませる真なるマリアージュ、ショコラのカカオバターがアルコールに融けて華やかに香味を咲かせる様を実体験できないのがもどかしい。けれど、期待を育む時間をも宝物にしてみせる。
「桃花の欲張りさんなとこ。豊かな楽しみを、生に見出しているとこをな」
 ――アラタは尊敬しているのだ。
 尊敬という言葉に尻尾ぴこぴこてれてれしつつ、そこには日々磨きをかけてますなの~と嬉しそうに笑う桃花の様子にスプーキーはいっそう目許を和ませた。海の風と燻煙の香り、傾ける杯に感じるそれらは昔からの馴染みで、けれども燻製胡桃のショコラと重なり奏でるハーモニーが未知なる歓びをくれる。
 音楽と食と、旧きものと新たに生まれ来るもの。
 煌きを取り戻した己の世界で一番輝いて見える相手を手招いて。
「真の楽園となったその先に、冒険の海路を君と無限に拓いていきたいから」
 ――僕の生涯の総てを、君に贈る。
 ウイスキー樽の鏡板で作られた箱を開けば、封じられていた印章指輪が煌いた。
 歓んで受け取りますとも~、と迷いなく笑みを咲かせた彼女が、彼の両の眦へ大切に唇で触れる。ウイスキー樽の寿命は五十年とも六十年とも聴くけれど、
「もっと長い航路をいくための、おまじないなの~」
「それじゃあ、桃花にはティアンからおまじないだ」
 ――幾つものことを今は識っているから、彼女の生誕の日を歓ぶのも当然のこと。
 誕生日おめでとう。この一年を、そのさきを、また飛び立っていくために、と合歓の花の旅路で彼女に教わったとおり頬へおまじないを贈れば、勿論返るほっぺちゅー。
 夜とアイヴォリーが微笑み合った。
 彼女が見初めた命の水。ホワイトオーク樽で深い眠りを経て、カルヴァドス樽の微睡みで仕上げられた原酒が基調のシングルモルトと訊けば、夜は新たな運命の物語を紐解く心地。
 彼が唇に含ませてくれ、アイヴォリーが至福のハーモニーに天使の翼を震わせた甘露は、ホワイトとミルクチョコレートがフリーズドライの苺を彩るショコラ。
 天に舞う翼のごとく甘さが融け、さくりほどける甘酸っぱさを、凛冽な香気と芯の通った酒気、星の瞬きめく仄かな甘みが包む至福のマリアージュを、二人は大切な友と想う相手、心潤す『いのちの水』をくれる相手へと贈る。
 心渇いても、ただ一滴の幸せが、世界は美しいとめざめさせてくれることを。
「――幾度も教えてくれた、桃花、貴女に」
「今日からまた新たに始まる日々のめざめに、祝福を」
 ありがとうと応える娘に、輝く歓喜が咲いた。
 この恋人達をぎゅうっとしたいなんて思ったのは、至福を贈られた彼女だけの秘密。

作者:藍鳶カナン 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2019年12月20日
難度:易しい
参加:23人
結果:成功!
得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 8/キャラが大事にされていた 2
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