桜下の天つ神

作者:洗井落雲

●桜の邂逅
 休日の散策に出ていたアシュレイ・クラウディ(白翼の騎士・e12781)は、その果てに、桜の並木道を発見した。
 美しく咲く、桜。まだ満開とは言わないが、少しずつ咲き始める花々に、一時、アシュレイは目を奪われた。
「美しいものですね。一人ではなく、皆と……彼女と、見たいものですが」
 大切な人たちの顔を思い浮かべながら、自然、微笑が浮かぶ。時期が時期だ。すぐに満開となるだろう。そうなったら、花見としゃれこんでもいいかもしれない。
 ゆっくりと並木道を行く。休日ではあったが、あたりに人影は見受けられなかった。些か静かすぎるを歩んでいたアシュレイは、ふと、足を止めた。
「――桜の下には、人の死体が埋まっている……と聞いた」
 それは、アシュレイの進む先、一本の桜の木にもたれかかるようにして立っていた、一人の人物より発せられた。
 その人物は、アシュレイの先に、ゆっくりと、立ちはだかる。手にした銃が、陽光を受けて輝いた。
「これだけの桜の花。どれだけの人が――その繋がりを絶たれ、命を落としたのだろうね」
 些か悲し気な笑みを浮かべ、その人物はゆっくりと、手にした銃を、アシュレイへと向ける。
「……デウスエクス……!」
 思わず叫ぶアシュレイ。しかし返されたのは、言葉ではなく銃声であった――。

●縁
「集まってもらって感謝する。緊急の案件だ」
 そう言って、アーサー・カトール(ウェアライダーのヘリオライダー・en0240)は、集まったケルベロス達へと、事件の内容を告げた。
 曰く、単独行動中のアシュレイがデウスエクスに襲撃される、という予知がなされたのだという。連絡を取ろうとしたものの、どうしても連絡がつながらない。
「と、なれば、直接予知された襲撃現場に赴き、襲撃を受けたアシュレイを助けるしか他に手はない。すまないが、急ぎ、アシュレイの救援に向かってほしい」
 敵は『天神夜斗』と名乗る死神であるという。配下の姿は見受けられず、単独で襲撃を仕掛けてきたようだ。
「つまり、相応の実力者、という事なのだろう。くれぐれも気を付けてくれ」
 襲撃場所は、敵の手によって人払いがされているのか、他に人の姿は見受けられない。敵の迎撃、そしてアシュレイの救助に、専念できるだろう。
「あまり時間がない。すまないが、すぐに現場に向かってほしい。皆の無事と、作戦の成功を祈っている」
 そう言って、アーサーはケルベロス達を送り出した。


参加者
ゼノ・フィーニス(夜告・e01129)
ミント・ハーバルガーデン(眠れる薔薇姫・e05471)
アトリ・カシュタール(空忘れの旅鳥・e11587)
アシュレイ・クラウディ(白翼の騎士・e12781)
キリン・ホウ(双宿双飛・e16357)
天神・優桜(鬼道の紫姫巫女・e22811)

■リプレイ

●桜下にて
 響き渡る銃声。放たれる銃弾を、アシュレイ・クラウディ(白翼の騎士・e12781)は大きく翼をはばたかせて、跳躍することで回避した。アシュレイを捕らえ損ねた銃弾は地を抉り、それによって巻き起こった風が、開花したばかりの桜の花びらをいくつか、散らせた。
 相対する相手を見て、アシュレイは息を呑む。それは、突然の敵襲に対する驚きと、もう一つ。
「夜斗……!」
 声をあげるアシュレイへ、天神夜斗と名乗る死神は、どこか哀し気な笑みを返した。
「さて……そんな名前だったかな」
 挑発するような色を載せて、天神夜斗はアシュレイへ、銃口を突きつける。
(「彼が……夜斗が……生きているはずがない。……私をかばったばかりにあの時……!」)
 胸中で、アシュレイは想いを振り払う。だが、アシュレイの胸の内に浮かんだそれは、じわり、じわりと、アシュレイの思考に染みを広げていった。
 にじむ希望という名の病が、確かにこの時、アシュレイの内を犯していった。
「次は外さないよ、ケルベロス」
 天神夜斗はしかし冷たく、そう告げた。明確な殺意が、アシュレイへと叩きつけられていた。
 先ほどの一撃は、ただの挨拶――攻撃とは言えぬ、遊びにも等しい一撃であったのだろう。故に、アシュレイがその一撃を回避することは、容易かった。
(「ですが、ここよりは、違う……その意識の一切を戦う事に向けなければ、次に地に倒れ伏すのは間違いなく私――!」)
 だが、とアシュレイは自問する。
(「できる……のでしょうか? 私に、彼を――夜斗を、倒す、ことが……!」)
 動揺は少しずつ、意識を食い散らかしていく。相手は間違いなく、強敵である。ほんの一瞬の油断が命取りになるであろう戦いに、しかしアシュレイの心は、いくつものさざ波に揺れていく。
 戦わなければならないのか。
 戦ったとして――勝てるのか。
 答えは見えず、思考は揺れ続ける。しかし敵は、待ってはくれないだろう。
 張り詰める、空気。
 三月末の風が、ひどく冷たく感じた。
「――おとう……さ……」
 だが、その空気を引き裂いたものは、戦いの始まりを告げるものではなく、天神・優桜(鬼道の紫姫巫女・e22811)の、呆然としたような声であった。
「ユラ……?」
 その姿を認めたアシュレイが、呟く。一方で天神夜斗は、哀し気な笑みを浮かべながら、
「すまないが――誰だったかな?」
 その言葉に、優桜は一瞬、その身体を震わせると、力強く食いしばって、天神夜斗を睨みつける。
「これ以上……その姿でっ! 誰かを傷つけさせたり、させないっ!」
「君に許可をもらう必要性を感じないが――」
 天神夜斗は肩をすくめつつ、
「どうやらお友達の到着という事のようだね。出来れば、速やかにかたをつけたかった」
「そうですか。その気持ちは、私も同じくするところですよ」
 ふわり、とその衣装をひるがえして、アシュレイを庇うように立つのは、ミント・ハーバルガーデン(眠れる薔薇姫・e05471)である。
「アシュレイさん……そして、優桜さん。お二人がこれ以上、傷つく前に。あなたの凶行は、止めなければなりません」
「無事なようだな。間に合ってよかった」
 続けるようにアシュレイへと声をかけるのは、ゼノ・フィーニス(夜告・e01129)だ。その傍らには、キリン・ホウ(双宿双飛・e16357)がアシュレイの無事を喜ぶとともに、しかしゼノへ対して、心配げな表情も浮かべていた。
「ゼノ殿……」
 呟くキリン。ゼノは、そんなキリンへと頷きつつ、
「大丈夫だ、キリン……それよりも、お前自身も気を付けるんだ」
 優し気にそう告げてから、アシュレイへと向き直った。
「やれるか、アシュレイ」
 静かに尋ねるゼノへ、しかしアシュレイは、即座に返事を、返せなかった。ゆっくりと、自らの手へと視線をおとせば、わずかながらの震えが、見て取れた。
 それは、恐怖か、悔恨か。
 だが、その手を優しく――ふわり、と、温かな手が、包み込んだ。
「アシュレイ。貴方はいつも……どんな時でも、私の手を取って……私を守って、くれた」
 手の主が――アトリ・カシュタール(空忘れの旅鳥・e11587)が、微笑んだ。
「だから今度は……ううん、これからも、ずっと……私だって、貴方を守りたい。貴方が私の手を取ってくれたから、私も貴方の手を取って、貴方を守るの。だから」
 その笑顔は優しく、暖かく。しかしその瞳には確固たる決意を秘めて。
「健やかなる時も、病める時も。この命ある限り、いつでも貴方の側にいたいんです」
 ああ、そうだ。
 そうだとも。
「……そうですね。私には、こんなにも――」
 アシュレイは、笑った。包まれていた手を、今度は逆に、自らの手で包み込んだ。アトリが、きょとんとした顔を見せるのへ、アシュレイは、頷いた。
「ありがとうございます、アトリ……それに、ゼノ。みんなも……」
 アシュレイが、ゆっくりと、天神夜斗へと、向き直った。
「いいよ、続けてもらっても」
 天神夜斗が、言った。
「君たちの言う絆……それが強く、わかる。そう言ったものを断ち切ることに、私は強く、喜びを感じるんだ」
 いつもの、どこか哀し気な、笑みを浮かべた。
「あなたがこれ以上、誰かの絆を断ち切ることは、ありません」
 アシュレイが返した。ゆっくりと、その手を、『朧夜』へと伸ばした。
「あなたが、それを、望むはずがない。私に絆を教えてくれた……あなたが」
 戸惑いは、ある。
 心は、悲鳴をあげている。
 でも、迷いはない。
「あなたを止めます……大切な人たちと共に」
 アシュレイは『朧夜』を抜き放った。合わせるように、仲間たちも、各々武器へと手を伸ばす。
「――結構」
 天神夜斗が、言った。
「ステキな絆だ。ではそれを、断たせてもらうよ」
 それを合図に――。
 桜下の決闘の、幕が上がった。

●断つもの、紡ぐもの
 戦いの幕開け、それと同時に放たれた天神夜斗の銃弾は、うなりをあげてアシュレイへと迫る。
「――エメ!」
 ゼノが叫ぶ。主の命を受けたボクスドラゴン『エメ』は、その白き翼をはばたかせ、アシュレイの前へと立ちはだかった。
 着弾。衝撃がエメの身体を揺らし、エメはわずかにうめき声の如き鳴き声をあげた。しかし、その瞳が輝きを失うことは無く、再び力強く、その翼をはばたかせる。
「この一撃で、痺れてしまいなさい!」
 ミントの足、魔力の茨にて彩られた『Thorn』が、鋭き蹴りの一撃を、天神夜斗へと見舞う。天神夜斗は、その手をかざし、とっさにガード。
「なるほど、痺れる一撃という奴だね」
 痛みに顔をしかめつつ、しかしその言葉から余裕の色は消えない。
「あなたの得手は遠距離攻撃と見ました。距離を詰めて、封じさせてもらいます」
 静かに――しかりきっぱりと言い放つミント。
「分析は良し……でも、そう簡単に事が運ぶとは思わないでほしいな!」
 ミントを振り払うように、天神夜斗はその腕を振るう。ミントは後方へ跳躍。
「確かに。私一人では、それも困難かもしれません。ですが――」
 その背後を、翡翠色の鳥が飛ぶ。
 旅人たちを守護するその鳥は、鮮やかに、力強く羽ばたき、自らに託された祈りを、友の下へ届けるのだという。
「私たちは、一人じゃない……!」
 アトリの想いと祈りをのせて、翡翠色の鳥は、その力を仲間たちへと分け与える。
「アシュレイ、やるぞ……!」
 ゼノの言葉に、アシュレイは頷く。二人は己が翼をはためかせ、戦場を跳び、駆け抜ける。
「俺たちの絆、断ちきれるものなら断ち切って見せろ!」
 上空より放たれる、ゼノの蹴撃。重く、鋭いそいの一撃を、天神夜斗は左腕で受け止め、
「夜斗……お願いですから、銃口を向けないでください……!」
 続くアシュレイの斬撃を、右手の銃にて受け止める。二者の攻撃を受け止めてなお揺るがぬ膂力は、彼が確かな実力者であることの証左である。
「今更命乞いか何かかい……!?」
 あざ笑かのような天神夜斗の言葉へ、アシュレイはしかし、頭を振った。
「いいえ……人との繋がりを教えてくれたあなたが、その絆を引き裂くなど……そんなことは望んでいない! ならば銃口を向けることで、苦しんでいるのはあなたのハズです……!」
「ごちゃごちゃと……ッ!」
 その言葉に顔をしかめつつ、天神夜斗はその身体を振るい、二人を振り払った。
(「ゼノ殿……アシュレイ殿も、優桜殿も……つらく、苦しい戦いのはず」)
 一方で、キリンは想う。
「それでも、わたくしにできる事は……皆の手助けをすることだけ、なのですね……」
 キリンはひとつ、息を吸い込むや、そのままたおやかに、優雅に、舞を踊る。揺れ落ちる花弁の如き、はかなくも美しき舞は、濃縮した快楽エネルギーを広範囲に放出し、仲間の援護とするものである。
「どうか……どうか、皆様、想いを遂げられますよう。春梅、あなたも、皆の力となって」
 ビハインド『春梅』は、主の言葉に静かに、頷いた。春梅が念を込めると、舞い散った桜の花びらがポルターガイストのように動き回り、天神夜斗へと襲い掛かった。美しくも、しかし確かな威力を持った花弁に、天神夜斗はたまらず、足を止める。そこへ飛び掛かったのは、優桜だった。
「『夜桜ノ嘆キ』……私に力を貸してっ! 私たちで……あの人を、とめるの!」
 優桜は己が攻性植物へと言葉をかけた。応じるかのように、その花を咲かせ、敵を飲み込む捕食形態へと姿を変化させる。
 優桜が腕を振るうと、『夜桜ノ嘆キ』は鞭のようにしなりながら天神夜斗へと襲い掛かった。そのツタが、天神夜斗の腕へと絡みつく。ぎしり、と、ツタが音を立てた。
「……ユラ」
 不意に、哀し気な笑みを浮かべた天神夜斗が、声をあげた。ぎくり、と、優桜がその身体を震わせる。
「という名前なのかな? 君は。いや、気もそぞろで戦いに臨むのはよくないね」
 天神夜斗は強引に拘束を逃れると、一気に優桜から距離をとる。
「ああ、君たちの絆、充分楽しませてもらったよ。では、ここからそれを全部、切り取らせてもらう」
 天神夜斗が哀し気な笑みを浮かべると、その周囲に無数の黒い桜の花びらが舞い踊った。それは嵐のように踊り狂うと、確かな打撃となって、ケルベロスたちへと襲い掛かったのだった。

(「あなたのおかげで人の温かさを知りました。大切な人を守ることの尊さを知ることができました」)
 黒い桜の花びらが、その身を傷つける。
 無数の悪意が、絆を断たんと襲い来る。
(「命を懸けて守りたい人が私にもできました……今、私は、とても幸せです」)
 しかしてその暴風が、彼らを打ち倒すことは無い。
 絆は、断たれない。
「だから……今度は、私が、あなたを救う番です!」
 アシュレイが叫んだ。その身体を、足元に描かれた鎖の魔法陣より放たれた光が、包み込んだ。
 描かれた魔法陣は、香坂・雪斗のものである。
 直接的な手助けはできずとも、想いは確かに、共にあるのだと。
「……倒れない、のか」
 天神夜斗が、うめくように、言った。
「ええ。私は……皆と共に生きるために、ここで倒れるわけには、行きません」
 アシュレイは、一人ひとり、仲間たちへと視線をやった。
「力を……貸してください」
「もちろん、ですよ」
 ミントが、
「道は作ろう」
 ゼノが、
「その想い……届けてほしいですわ」
 キリンが、
「任せて、アシュ。今度は絶対に、離したりなんてしない」
 優桜が、
「行こう、アシュレイさん」
 アトリが、言った。
 想いは、一つである。
 アシュレイは、頷いた。
「彼を……救います! 私たちの手で!」
 アシュレイの言葉と同時に、ケルベロス達は一斉に動いた! まず接敵したのはミントだ! 地を滑るように蹴りだされる『Thorn』、その茨が炎を纏い、焔の刃と化して駆け上るように打ち振るわれる。上昇する炎が、天神夜斗の身体を打ち据え――。
「炎よ、高く昇りなさい! そして……!」
「あなたの紡いだ物語を、私たちは受け継いでいく……雷よ、彼を縫い留めて!」
 アトリの放つ、迸る雷が、天神夜斗の身体へと着弾した。雷は体中を走り、痺れさせていく。
「く……う……っ!?」
 天神夜斗がうめく。間髪を入れず、ゼノと、キリンが跳躍。
「縫い……ッ!」
「付けますわッ!」
 二人が、ほぼ同時に放つ、流星の如き跳び蹴り。シューティングスターは天神夜斗の身体を貫いて、地へと縫い留めた。おまけとばかりに、エメと春梅がブレスと、ポルターガイストによる追撃を放つ。
「もう一度……今度は迷わない! 力を貸して、『夜桜ノ嘆キ』ッ!」
 優桜が、再び『夜桜ノ嘆キ』を放つべく、その腕を振るった。
 天神夜斗と、優桜の、目が合う。
(「私の憧れの人。どんな小さな的も撃ち抜いちゃう、銃の使い手……ねぇ、少しくらい、近づけたかな」)
 胸中で呟き、放つ。今度は、離さぬように。逃さぬように。強く、抱きしめるように。
「アシュ! 決めて!」
 優桜が叫んだ。アシュレイは、その翼を広げて、高く、高く、跳んだ。
「……あなたの悪夢……その終焉の時がきました。どうか、どうかあなたに、永久の安らぎを……」
 途端、光を帯びた翼より、無数の光の矢が放たれた。
 それは、浄化の光。
 絆断つ悪夢を終わらせる、最後の審判の光。
 ふと、アシュレイの頬に、涙が伝った。
 無数の光の矢は、天神夜斗の身体を、次々と貫いていく。
 光に包まれながら、天神夜斗は、その命を、手放そうとしていた。
 その末期の顔は――。
「微笑ん、で……?」
 優桜が、そう呟いた。
 だが、その顔は、光の奔流に紛れ、確認することはできない。
 ただ、すべてを飲み込まんばかりの光が消え去った後には、静かに横たわる、天神夜斗の亡骸だけが残されていた。

●願わくば、桜の下で
「終わった……のか」
 ゼノが、静かに、そう呟いた。
「ええ……想いは、遂げられたのですわ……」
 キリンは、ゼノのそばに寄り添って、その手を強く、強く、握りしめた。
「皆……ゼノ殿も、ご無事で……」
 そう言うキリンに、ゼノはゆっくりと、頷いて、その手を握り返す。
 断てぬ絆は、確かにここにもあるのだ。
「桜、か……ずいぶんと、荒らしてしまったな。少しでも、ヒールしておいた方がいいかもしれない、な……」
「そう言う事でしたら、私もお手伝いいたします」
 ゼノの言葉へ、ミントがゆっくりと、頷いていった。
「アシュレイさんの無事も確認できましたし、一声かけて……と思ったのですが、しばらくは、積もる話もあるでしょう。お邪魔虫、と言われてしまうのは、嫌です」
 小首をかしげるミントへ、ゼノとキリンは、微笑んだ。
「では、最後のお仕事とまいりましょう」
 キリンの言葉に、ゼノとミントはは頷くのであった。

(「私、私、こんなにおっきくなったよ。お父さんが心配していたアシュは、たくさんの仲間に囲まれて幸せそうだし、大切な人もできたんだよ」)
 優桜は胸中で、今は亡き父へと告げる。
 瞳は開けなかった。瞳を開けば、あふれる涙を止めることができなくて。
 瞳は開けなかった。瞼の裏に映る、父の笑顔が、消えてしまいそうで。
(「ちょっと寂しいけど、お父さんが見守っていたんだから、私も幸せを願えたらって思ってるんだよっ……お父さん、お父さん……私、いっぱい、いっぱい、話したいことが……あったんだ……」)
 もう言葉を交わすことはできない。
 だが、その想いはきっと、父へと届いているのだろうと。
 そう信じて、優桜はしばし、父を想い続けた。

 アシュレイは、ただ物思いにふけるように、静かに、静かに、佇んでいた。
 だからアトリは、精一杯に両手を広げて、アシュレイを抱きしめていた。
「彼は――」
 ふと、アシュレイが、声をあげた。
「私に、大切なことを、教えてくれた人でした」
「うん」
 やさしく、アトリは頷いた。
「彼との日々は……暖かくて……私と、ユラの、成長した姿を……見せたかった……」
「……うん」
「きっと……もっと、生きたかった……生きたかったはずなのに……!」
 アシュレイは、アトリを強く、強く抱きしめた。アシュレイは、まだ心の中で戦っているのだろう、とアトリは思った。だから、アトリも強く、アシュレイを抱きしめた。
 そうすることで、力になれればいい、と思った。
「いつか……挨拶に、行こうね。私たち……こんなに幸せなんだよ、って」
「……はい」
 今度はアシュレイが、頷く番だった。

 三月末の風は温かく、早咲きの桜が穏やかな香りを放って、すべての絆を祝福するようだった。
 愛してくれてありがとう、と、アシュレイは呟いた。
 それは、誰に向けての言葉だったか。
 ただ、その言葉を聞いたものは、きっと微笑むはずだった。

作者:洗井落雲 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2019年4月1日
難度:普通
参加:6人
結果:成功!
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