成就

作者:藍鳶カナン

●成就
 全てが生まれ変わったような朝だった。
 少なくとも、真白な雪に覆われた神社の参道を駆ける娘の顔には、そう感じていることがありありと解る歓喜の笑みが咲いていた。深夜の雪は夜明け前にはもうやんでいたけれど、澄みきった早朝の大気は痛いほど凍てついて、なのに彼女の頬は寒さよりも溢れんばかりの歓喜と幸福ゆえに紅潮する。
「一位様……!」
 まっさらな新雪に飛ぶような足跡残し、雪化粧を施された手水舎にも拝殿にも目もくれず彼女が抱きついたのは、常盤の緑に雪を冠り、眩い陽色の実をつけた橘の大木。
 冬には雪に覆われるこの地に不思議と根付いて、威風堂々たる大樹となったこの橘の木は御神木として崇められ、奈良時代に正一位を授かった橘諸兄にちなんだと伝わる『一位様』という呼名で親しまれていた。願掛けの御神木――傍らの立て札には木の由緒とともにそう綴られている。
「願いを叶えてくれてありがとう一位様! 彼が目を覚ましたの、私を見て、『橘花』って呼んでくれたの! もう、もう二度と聴けないかと思った……!!」
 事故に遭い生死の境を彷徨っていた婚約者。
 御神木に『その願いに縁深い大切なもの』を捧げれば願いが叶うと聞いていたから、
「彼から贈られた指輪を一位様の洞に捧げたって言ったら怒られるかもしれないけれど……でも、彼の命には代えられないもの」
 ありがとうともう一度紡ぎ、彼女――橘花は、指輪を捧げたのだろう、橘の幹にぽっかり空いた洞の縁を撫でた。そのとき、謎の胞子が橘の梢に舞い降りたことに橘花が気づく由もない。ざわりと梢が鳴ったのが、風のせいではないことも。
 突如、手が洞に呑まれた。
 瞬く間に腕が呑まれ、橘花の身体も、御神木の幹にずぶりと沈むよう呑み込まれていく。けれど、彼女の眼が驚きに瞠られたのも一瞬だけ。
「……そっか。指輪じゃ足りなかったんだね、一位様。私の命も必要なら……」
 もらってください。そう微笑んで、橘花は全てをゆだねるよう目蓋を閉じた。
 ――彼が生きていてくれるなら、それでいいもの。

●神木
「御神木は……元の一位様は、彼女の、橘花の命を望んじゃいないと思うのさね」
「勿論。橘花さんを襲ったのは元の一位様の意志なんかじゃなく、謎の胞子にとりつかれて攻性植物に変化させられたせいだからね。断じて、元々の御神木の望みじゃない」
 今しがた聴いたばかりの予知に眉を寄せたダンテ・アリギエーリ(世世の鎖・e03154)の言葉に、天堂・遥夏(ブルーヘリオライダー・en0232)が力強く頷いた。
 非時香菓(ときじくのかぐのみ)と呼ばれる不老不死の霊薬、それは橘の実であると日本書紀に記されているが、その橘の大木が不死たるデウスエクスになってしまったというのも皮肉な話。だが、その不死もケルベロスの前では永遠たりえない。
 そして、
「ダンテさんが神社の御神木を気にかけてくれてたおかげで、早々に予知が叶ったからね。御神木は元に戻せないけれど、今すぐ急行すれば橘花さんを救える『可能性』がある」
 遥夏が言う可能性は、長く厳しい道程の果てにようやく掴める光。
 橘の大木の奥深くへと取り込まれた橘花は攻性植物と一体化しており、普通に攻性植物を倒せばそのまま一緒に死を迎えてしまう。
 だが相手に攻撃してはヒールで回復し、ヒールが効かないダメージを根気強く積み重ねて攻性植物を撃破することで、橘花を死なせることなく救出できる可能性が生まれるのだ。
 決して楽な戦いではない。
 長期戦は必至で、慎重なダメージコントロールも必須。それも戦いが終盤になるほどより慎重さが必要になる。相手を癒しつつ『ヒールで癒えない傷』を積み重ねる戦いなのだ。
 心得ているさね、とダンテが言を継ぐ。
「無傷の状態なら余裕で耐えられたのと同じ威力の攻撃でも、傷だらけの状態じゃあっさり致命打になりかねない――当然のことさね」
「そういうこと。ヒールが効かないダメージを充分に蓄積できてないうちに倒しちゃうと、敵ごと橘花さんも死なせちゃうから気をつけて。この攻性植物は護りが固いからね、比較的ダメージコントロールは容易だろうけど、戦いそのものが楽になるわけじゃない」
 敵は永遠を思わす果実の香りで麻痺を、白い花の吹雪で催眠を齎し、常盤緑の葉の波濤で此方を縛めにかかるだろう。全て範囲攻撃であることを吉と見るか凶と見るか。
 橘花を見殺しにして彼女ごと攻性植物を倒すのは、あくまで最後の手段にしたいところ。
 御神木であった一位様はもういない。いるのは橘の木の攻性植物だけ。
「けどさ、折角満願成就したわけだしね。一位様だって、橘花が生きて、幸せになることを望んでいるはずだから……是非とも救出してやりたいところさね」
 己が心を明かしてダンテが見渡せば、仲間達の瞳にも同じ決意が燈っていた。
 たとえどれだけ幽かな光でも――それを掴み取るのを決して、諦めはしない。


参加者
ダンテ・アリギエーリ(世世の鎖・e03154)
リコリス・セレスティア(凍月花・e03248)
シルヴェストル・メルシエ(白百合卿・e03781)
鷹野・慶(蝙蝠・e08354)
ムジカ・レヴリス(花舞・e12997)
ティスキィ・イェル(ひとひら・e17392)
斑鳩・朝樹(時つ鳥・e23026)
櫟・千梨(踊る狛鼠・e23597)

■リプレイ

●神坐
 凛と透きとおる曙光。清らな光に煌く真白。
 新雪に覆われた早朝の神域をめざし、天空から降下し凍てる朝風をひといきに突き抜けた斑鳩・朝樹(時つ鳥・e23026)は、本来ならば限りなく清浄であるはずの気に穢れを感じて曙光の瞳を翳らせた。
 穢れの源は勿論、先程までは御神木であった――橘の木の攻性植物。
「最早直接には叶わんが、最期の縁を結ばせてくれ、一位様」
 ――繰る糸は、糸桜か糸薄。或いは哀しき、業の糸。
 言葉のみならず音律にも言霊は宿るもの。真白な雪に降り立つと同時に誰よりも速く術を織り上げたのは櫟・千梨(踊る狛鼠・e23597)、『いちい』の家名を冠する巫術士の血脈に生まれた彼が紡いだ透ける糸は橘に触れた刹那、唐紅に輝き大樹のすべてを絡めとる。
「叶えてえ願い……いや、俺は仕事しに来ただけだ。いくぜユキ!」
 金の眼差しに切望がよぎったのも一瞬のこと、狙い澄ました鷹野・慶(蝙蝠・e08354)が恐鳥の戦槌を咆哮させるのに併せ雪色のウイングキャットがリングを放てば、威風堂々たる大樹の枝葉が大きく震えた。
 常盤の緑に暖かなあかりのごとく実る果実、その合間に純白が覗いた瞬間、
「花が来ます! 狙いは――前衛!!」
 中衛から鋭く声を張った朝樹はその言葉通り前衛を呑む白き花吹雪を突き抜け、竜砲弾の直撃で砕けた橘の根元へ深い癒しの共鳴を呼ぶショック打撃を撃ち込み、魔力で縫合する。一位様の命を再び燈すことは叶わずとも、その裡に眠る乙女の命を繋ぎとめるため。
 幸せの定義はひとそれぞれ、
「だけどさ、橘花が満足して自己完結するには早いさよね、ムジカ!!」
「ありがとダンテちゃん! アタシも同感、終わらせやしないんだカラ!!」
 瞳も心も眩ます白花の吹雪からダンテ・アリギエーリ(世世の鎖・e03154)に護られて、彼女の肩越しに宙へと舞ったのはムジカ・レヴリス(花舞・e12997)。あなたと縁深い名を持つ彼女を護って、此方へ返して、と一位様へ祈る心地で攻性植物へ見舞う旋刃脚、続けて砲身をめぐらせたダンテが主砲の斉射でムジカに続くが、命中率七割と五割の蹴撃と砲撃は辛うじての命中といったところ。
「分かってはいたが、やはり彼方が格上か。前衛の回復は任せてくれ」
「はい。お任せ致しますね、シルヴェストル様」
 花吹雪の余韻を祓いて押し返すのは、シルヴェストル・メルシエ(白百合卿・e03781)が癒し手の浄化を乗せて解き放つ紙兵の吹雪、リコリス・セレスティア(凍月花・e03248)が揮う星辰の剣は、彼女を含む中衛陣の足元へ三重に星の聖域を描きだす。
 雪上に燈る星の光、
「必ず助けるからね、橘花さん! 命を諦めないで、婚約者さんと幸せになって!」
 朝の神域に煌く星芒の裡から駆けて、ティスキィ・イェル(ひとひら・e17392)は裂けた樹皮を魔術切開、惜しみなく癒しを注いで橘の傷を塞いだ。絶対に、過ちは繰り返さない。
 傷つけては癒し、また傷つけては癒す、決して短くはない戦いの幕開け。
 けれど誰もがとうに、揺るがぬ覚悟を決めている。
 だが、艶やかな緑葉の波濤が襲い来るさなかで、雪上を馳せんとしたダンテの脚が唐突に強張った。砲撃に織り交ぜるはずだったキャバリアランページは今この身に無く、代わりに備わる御霊殲滅砲では見切られる。
 ならば、
「攻守交替を頼むさね。あたいが紙兵を撒くから、ユキは攻撃に回っておくれさね!」
「了解、そのほうが効率も良さそうだな。攻めろ、ユキ!!」
 縛霊手から一気に紙兵を溢れさせたダンテに頷き、指輪から咲かせた光の剣を揮った慶に続いて、鋭く閃いた翼猫の爪が橘の樹皮を裂いた。練度に優れる分ダンテより翼猫のほうが確実な命中を見込め、慶と力を分かつ翼猫の羽ばたきより、ダンテが展開する加護のほうが高い確率で仲間に燈る。
「問題あるまい。この程度、俺達であればいくらでもリカバリが利くのではないかね?」
「――はい! 細心の注意を払って状況を見極め共有して、皆で力を尽くして、必ず!」
 仲間に射した微かな焦燥を察し、シルヴェストルが紙兵を舞わせつつ悠然と語りかければ知らず詰めていたティスキィの息がほどけた。
 幾つもの綻びが重なり、月下美人に呑まれた命を救えなかった秋の黄昏。不意に去来したあの日の痛みが胸を刺したけれど、紅緋の瞳でまっすぐ前を見据えた少女は指に医の魔法を燈して橘の懐へ跳び込んで。結び合った皆の心と決意を信じて、癒しを揮う。
 癒しては傷つけ、また癒しては傷つけて。
 堂々めぐりのごとき攻防を繰り返す。けれど確かに階を登っていく。ひとつ、ひとつ。
「御神木は貴女の命を望んではいないワ! そして彼が目を覚ましたのはきっと」
 貴女がいてくれたカラ、とまっすぐ声にして、雪の早朝に南国の花が舞った。春花が風に連れられ空の鳥を穿つようなムジカの一蹴が橘の枝を断ち折り、間髪を容れず撃ち込まれた朝樹の治癒魔法が常盤の梢を瑞々しく震わせ魔法手術が枝を修復する。
 攻性植物と一体化しているなら、橘花にも痛みや苦しみは伝わっているだろう。
 だがそれは、もういない一位様が。
「神なる橘が、愛しき護り子を共に連れ去らねばならぬ苦しみです」
 一位様は貴女と婚約者に生きる道を拓いたのではありませんか、そう橘花へと呼びかける朝樹の言葉をリコリスが継いだ。橘花様、と声を張り、奔らせる御業。
「あなたの命を奪おうとしているのは、一位様の意志ではなく、デウスエクスです」
 凛と声が響き、透ける御業が幾重にも橘の大樹を鷲掴みにした、そのとき。
 ――……一位様じゃ、ない、の……?
 樹の裡から、あえかな声が聴こえた。
 微かな声。恐らくは意識的にでなく、無意識に零れたうわごと。
 橘花の意識は大樹に呑まれた時に失われたままだろう。けれど、確かにリコリスの言葉が彼女の心に響いたと皆が感じたのと同時、攻性植物自身がそれを証するよう、中衛を狙って濃密な芳香の奔流を溢れさせた。
 刹那、リコリスの眼前に狩衣のごとき袖が翻る。

●結縁
 常盤――あるいは永遠、悠久、遼遠。
 神ならぬ身には過ぎたるもの、遥けき時の流れが一気に押し寄せた心地がした。
 凍てる朝風とともに襲い来た空恐ろしいほどに芳しき橘の香り、これぞ不老不死の霊薬、非時香菓の香りかと思えば、咄嗟にリコリスを庇って香りに呑まれた千梨を総毛立つような畏怖が貫いた。身動きがままならぬのは畏怖ゆえか、遥けき時の流れに呑まれてか。
 御神木であった一位様はもういない。いるのは橘の木の攻性植物だけ。
 だが、デウスエクスもまた神のごとき存在なのだと痛感する。
 ――然れど。
「橘花、祈る神を間違えてはいけない」
 仲間の紙兵の加護で克服する。言の葉を紡ぎ、如意棒を双節棍に変えて。
「橘花の願いを叶えた一位様はもういないが、最期に俺達ケルベロスを遣わした」
 御神木が攻性植物に変えられ、御神木に願いを掛けた娘を呑んだ――それはまるで、この地の神が異星の神のごとき侵略者に屈したかに思えるけれど、この地の神も決して無力ではないのだと、だからこそ彼らを滅せる自分達に縁が繋がったのだと、
「その意は、橘花に生きろということだと――信じ、此処に来た」
 信じる。
 容易く口にはできぬ言葉。然れど、意を決して千梨は己が声に言霊を乗せ、狩衣を模した外套を朝風に躍らせると同時、威風堂々たる侵略者めがけて双節棍を撃ち込んだ。
 護りに長けた攻性植物に盛大な亀裂が奔る。
 裂けた幹の奥深くに、ひとの姿が覗く。他の誰であるはずもない。
 橘花だ。
 ――私、命を捧げなくても……いい、の?
 彼女の唇がそう紡いだ気がして、
「いいに決まってる! 決まってるよ、橘花さん!!」
「そうとも。君と同じ想いを恋人にさせても良いのかね、橘花!!」
 瞳の奥から込みあげてきた熱のままに叫んだティスキィが、三重に共鳴する癒しで大樹も大気も震わせながら手術を施し、橘花の姿は縫合された幹の奥に消えるも、それでも言葉は届くと確信して、シルヴェストルも鎖を奔らせつつ朗と声を張る。
 少女の代わりに受けた香りを彼の守護魔法陣が孕む癒し手の浄化に祓われながら、
「死が二人を分かつのなんか早すぎる、そんなもんはぶっ飛ばすさね。あたいらが!!」
「貴女と同じ、彼にだって貴女が生きる糧で、希望のはずヨ! それを奪わないデ!!」
 己が砲撃の轟きさえ貫く声でダンテが断言する。きっと橘花ももう、一位様が自分の命を欲したわけではないと意識の奥底で理解している。ならば彼女に寄生する侵略者を倒して、確実に橘花を掬いだすために、戦舞靴に流星を燈して跳んだムジカ自身が希望の星となって降り落ちる。
「さあ。成し遂げましょうか、私達の『仕事』を」
「ああ、攻性植物を刈り取って橘花を連れ戻す。それが俺らの『仕事』だからな」
 流れるような魔術切開と縫合で橘に治療を施す朝樹、その穏やかな声音と強大なる癒しの気配に慶は笑み返し、敵群の機動力を鈍らす鮮やかな色彩のスプラッシュ、範囲攻撃ゆえに威力の浅いそちらに切り替えるべきか否かを過たず見極め。鮮やかに朝風を裂いた戦槌で、轟竜砲を撃ち込んだ。
 斯くて縁は結ばれる。
 悪縁ではなく、良縁として。
 大樹に千梨が舞わせた絡繰レ無――唐紅の赤味を帯びた透ける糸が、橘を絡めとり麻痺を紡げば、月光に浄められた懐中時計を持つ左手、その薬指に煌く白金の月を無意識に右手で包み込み、リコリスは愛するもののため命を捧げんとした娘に呼びかける。
「愛するひととこれからも共に居たくて、一位様に願いを掛けたのですよね、橘花様」
 だから。
 己の心が何に共鳴しているのかを識りつつも、白き彼岸花を咲かせる娘は凍てる悲しみを静謐なる旋律に変える。やがて躍る慟哭の響きは橘に刻まれた数多の縛めを幾重にも増幅し麻痺をも強め――。
 常盤の葉と燈火の実の間から咲き溢れんとした純白の花々を、霧散させた。
 貴女が願う路は一位様が拓いてくださいました、と朝樹が先の言葉に確信を乗せて紡ぐ。
「ならば次は、貴女が約束を叶える番です。それが誠の、一位様の喜びですよ」
「だよね。橘花さんの願いを叶えてくれた一位様なら、きっと」
 醜く裂けた傷を滑らかに調えるような朝樹の魔術切開、二人で共鳴させ合う癒しを注ぎ、傷を縫合したティスキィが流れ出る命を押し留める。それでも一位様は救えない。だから、
「代わりに一位様の願いを叶えるよ。だって、それは――!!」
 橘花の命を奪うことでも、喪うことでもなくて。
 橘花と婚約者が笑顔で幸せを紡いでいくことだと、思うから。

●成就
 願いを託された。
 御神木が最後の願いを自分達に託したのだと感じたこと。仲間の言葉を思えば千梨の胸に燈ったものも、錯覚ではない、本当のことだと思えたから。
 ひとの願いを護る御神木が託してくれた願いを叶えよう。
「それは俺達ケルベロスが、ひとが、叶えるべき願いだろうから」
「――そっか。いいな、その考え方」
 彼の言葉が耳に届けば思わず慶も破顔した。橘が願掛けの御神木のままであったなら、と己が胸奥の願いに想いを馳せて、橘花を眩しく感じもしたけれど。自分達の手で、御神木の願いを成就させる。
 そうして辿りつく、戦いの果て。
 一層の慎重さを要求される終盤の戦いは、濡れた薄紙をそっと剥がしていくようなもの。繰り返し、繰り返し、決して、一枚たりとも破れることのないように。
「幸せってのは満ち足りるものじゃないんだよ。もっと貪欲に求めていいのさね、橘花」
 幸せの定義はひとそれぞれ。
 だけど、己だけで完結する幸せではなく、愛するひとと分かち合って共に積み上げていく幸せを橘花に味わってほしいのさねとダンテは笑みと声音で語りかける。大樹に揮う拳には慈悲を、手加減を乗せて。
 彼と末永く歩んでいく人生で。
 それこそ――病める時も、健やかなる時も。
 最後の魔法手術を終えて、いけます、と確たる声音でティスキィが告げたなら。
 佳い夢を。
 端的ながら何処か優雅なシルヴェストルの詠唱が成ると同時、小夜曲を綴る数多の楽譜が羽ばたくように舞った。願掛けの橘の大樹を仰いだ青玉の双眸が細められる。その胸の裡に燈る幸福の女神の面影が、忌々しくも懐かしくて。
 だが、この橘は彼女とは違う。ひとびとに慕われてきた神木に贈る言葉は。
「長い間、お疲れ様であった。――おやすみ」
 幻想の音色に抱かれ、大樹のすべてが薄れて消えていく。宙に取り残された橘花が、この地の重力に抱かれて落ちるその先へ、朝樹が手を伸べる。抱きとめる。
 息は有り、傷は無い。
「良かった、御無事ですね、橘花さん。そして……」
「――大丈夫、見つけた。斑鳩も気づいてたか。攻性植物は消えても、こいつは残るよな」
 安堵の息を洩らし、次いで辺りへ廻らせた朝樹の眼差しの先、千梨が小さな小さな宝石の煌きを掌に受けとめた。誰のために作られたものかなんて、一目で識れた。
 五片のバロックパールの花弁と、極小のカナリーダイヤの花芯。
 橘の花を咲かせる、指輪。

 温かな茶の香りが朝の風に溶けた。
 魔法瓶からリコリスが杯に注いだそれで人心地ついたらしい橘花にこの事件のあらましが語られる。その様を遠目に見守りつつ、慶は翼猫を抱きあげた。
 両親への思慕は届かずとも、今の己には――。
「一位様に笑顔を贈ってあげて。きっとどこかで喜んでくれるよ」
 ケルベロス達への感謝と一位様を悼む想い。綯い交ぜの感情のままに泣きじゃくる橘花の涙を拭いつつティスキィが微笑みかければ、やがて橘花にも笑顔が戻ったから。
 これは橘花の望むままに、と彼女の掌に千梨が指輪を乗せる。
 大きく瞠られた瞳は、すぐに緩んで。
「一度持ち帰って彼に話して、そして二人で改めて納めに来るね――じゃない、来ますね」
「そうネ、アタシもそれがいいと思うワ」
 そんなに畏まらなくていいのヨ、と片目を瞑るムジカの華やぐ声。
 彼女達の声を耳にすれば、知らずリコリスの眼差しは、
 ――私も、あのひとの命を。
 元の一位様が在った場所へ向くけれど、その雪の下から朝樹が拾い上げた暖かなあかりの彩に強く惹きつけられた。夜の雪で一位様から落ちたようですね、と彼が微笑む。
 攻性植物に変化する前に橘から落ちた実、二つ。
 ゆえにその果実は、一位様の落とし子のままだ。
「一つは社へお返ししましょう。もう一つは、橘花さんへ」
 どうぞ『代々』続く御家庭を、末永く築きあげてくださいね。
 橘の実とともに橘花へと贈られた言祝ぎにダンテも破顔した。
「成程、橘も『橙』だしね。上手いこと言うさよね、朝樹」
 噛みしめるように『だいだい』という言の葉を口にして、皆と橘花に更なる幸福な笑みを呼び込んで。やがて朝樹が奏上する祝詞が響けば。
 朝の神域は、澄んだ清らかさを取り戻す。

作者:藍鳶カナン 重傷:なし
死亡:なし
暴走:なし
種類:
公開:2019年2月27日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
得票:格好よかった 1/感動した 0/素敵だった 4/キャラが大事にされていた 0
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